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第十五話 胸騒ぎ 


 「おいお前、まーた地味なカウンター業務なんかしてんのか」


 ドカッと無遠慮にカウンターに腰をかけた大柄な人物のせいで、それまで書いていた文書が皺になりクリストファーは思いっきり渋い顔をした。


 「業務妨害はやめて下さい」


 棘のある口調でそう言うと、大柄な人物の尻から避けるように書類とインクをどけた。今日は一般職員に欠員が2名も出てクリストファーは朝からカウンターで図書の貸し出し業務を行っていたのだ。その合間に最近読んだ学術書について研究論文を執筆していた。


 好きな作業を邪魔されてクリストファーはご機嫌ナナメである。


 「だーからそんなチマチマした仕事より俺の部下になれよ。お前になら最初から1部隊と言わず5部隊くらい任せてやるぞ?」

 「期待の押し売りはやめて下さい」


 つっけんどんに言った後、クリストファーはそれで、と続けた。


 「今日はどんなご用事ですか。ユング団長?」


 クリストファーが顔を向けた時、すでに騎士団長の表情は真顔に戻っていた。そして連れて来ていた背後に控える自分の副官の騎士と一度目配せをし、神妙に頷いた。


 「……ああ。お前に聞かせておきたいことがある。顔を貸せ」



 建物の影と影が重なる、中庭の一角にクリストファーとユング、そしてユングの副官の騎士は移動して来た。


 「一昨年から調べてる例の件あんだろ?」

 「……ああ、第一王子ルキウス殿の側近ばかり麻薬に手を染める人間が次々に現れた話ですね」

 

 ユングは大きく頷いた。


 王国騎士団は有事の際の王国の武力であると同時に平時においては国の治安維持や警察業務を担っている。


 「俺らが調査に乗り出して、一旦は売人の奴らも警戒したのか被害の拡大は止まったんだよな。どんだけ間に仲介屋を噛ませてやがるのか、大元の販売人にはいくら調査しても辿り着けなかった。だがな、半年くらい前からじわじわと別のところからまた使用者が増え始めたんだよ」

 「別のところ?」


 眉をひそめたクリストファーに、ユングは顎で副官の騎士に指示を出す。騎士は調査資料のようなものをクリストファーに渡し、クリストファーは無言でそれを捲った。


 「……これは、女性?」

 「中央官僚の嫁や娘達だよ」

 「……なんですって?」


 驚いて目を見開いたクリストファーに、ユングは神妙な様子で顎髭を撫でた。


 「しかもその女達は自分達がやべー薬に手を出している自覚も、そんなものを買った身に覚えもなかった。何人か持ち物を検めさせてもらって浮上したのが、あの、なんつったけな匂いのする霧吹きっつーか」

 「オードトワレですか?」

 「そうそう、そういうやつ。とにかくそれに混ざってたんだよ。日常的に使うことで、少しずつ知らない内に中毒になっていくんだよな。しかも気化して空気に溶けちまうから使ってる本人以外にも影響がある」

 「……なるほど、それは巧妙な手口ですね」


 ユングはクリストファーから調査書を受け取り、続けた。


 「回りくどいやり方だが、前の麻薬の販売人と首謀者が同じだとしたら金稼ぎより政治の混乱を狙っているように見える。そんで今回の2つの件を照らし合わせた時に、どうも怪しいやつがいるんだよな」

 「……誰です?」


 クリストファーの問いかけに、一瞬ユングはためらうように押し黙り、低い声で告げた。


 「……ヴィクトール・バートリー。国内有数の貿易商であり、由緒正しい伯爵家の当主。そして、お前の義父だ」

 「……!」


 クリストファーは小さく息を呑み込んだ。


 「まだ決定的な証拠がある訳じゃねぇ。最初のルキウスの取り巻きどもの家に出入りする商人が皆ヴィクトールのクリムゾン商会と取引があったことや、そのオードトワレっつー化粧品を扱っている販売ルートにヴィクトールの社交界での交友関係があったとか、そんくらいだ。ただ、何が怪しいってヴィクトールの身元がはっきりしねぇことなんだよな」

 「……それは……」


 かつて思いがけなくヴィクトールからバートリー家に寄るように誘われたクリストファーは、知られざる過去をヴィクトール本人から耳にしたことがある。


 彼が、今は亡きノワールの生き残りであることを。

 

 ヴィクトールの口ぶりでは、一人娘のヴィヴィアンですらそのことを知らないようだった。あの親子の関係は、娘を妻にもらったクリストファー自身未だに謎のままだ。


 今回の違法薬物取引の容疑者にヴィクトールが挙げられているなら、クリストファーは調査に協力してヴィクトールの情報を提供すべきなのだろう。だが、クリストファー自身義父であり、愛妻の父であるヴィクトールが悪事に手を染めているとは考えたくない。


 難しい表情で押し黙ったクリストファーに、ユングは気まずそうに後ろ頭を掻いた。


 「ま、まだ疑惑でしかない。ただ容疑者の一人として浮上した以上、本格的に身辺を洗わないといけねぇ。そうしたらお前にもどうしても影響は出て来るだろう。今日呼び出したのは、先にお前の耳に入れておこうと思ったまでだ」

 「……そうですか。……分かりました、ご配慮ありがとうございます」


 すでに王国騎士団としてヴィクトールの調査をするということであれば、部外者であるクリストファーには止める手立てはない。ただ状況の推移を見守るだけだ。


 だがもし実父が犯罪者として逮捕されたら、ヴィヴィアンはどう思うだろうか。それに、体裁を気にするクリストファーの父ルドルフが何を言って来るか……。


 調査の結果、ヴィクトールの疑いが晴れれば一番だが……。


 わずか数秒のうちにクリストファーの頭はめまぐるしく切り替わる。そうやって意識が囚われていた時。


 「……そう言えば、数日前……一昨日だっけな、特別書庫のある棟からお前の嫁さんが出て来るのを見たぜ」

 「……え?」


 クリストファーは驚いて俯けていた顔を上げた。寝耳に水だった。


 「……確かですか?妻はそんなこと言っていませんでした」

 「いや、人違いっつーこともあるだろうけどな。俺もその時一緒にいた俺の部下も、実際にお前の嫁さんとは面識はない訳だし。ただ、顔を覆うヴェールが翻った時に見えたのがすごい美人だったんだよ。魔性の色気っつーか……いや、そんな目で見るなよ、分かってるって美人なだけじゃ証拠にならないっつーんだろ?」

 「………」


 だんだん目が据わって来るクリストファーに、ユングの口調は怪しくなる。


 「んーと……そ、そうだ!目の色だな!菫色の瞳と亜麻色の髪。この組み合わせは珍しいだろ?だから直感的にお前の嫁さんだと思ったんだよ。いやー、あれはゾクゾクしたなぁ。あれほどのべっぴんそうそういないぜ」

 「……その女性が本当に僕の妻か、そのお話だけでは分かりませんが、もし本当にヴィヴィアンだったなら人の妻をいやらしい目でみないで頂きたい」


 さっきまでとはまた別の意味で真剣な、凄みさえある表情でクリストファーは言うと、仕事に戻ります、と身を翻した。


 その様子に、王国一の武人であるはずのユングも一瞬圧倒され、愛想笑いを浮かべたままその動きを止めた。


 豪胆な人物で知られる彼には珍しく、冷や汗をかいている。


 「……ク、クリストファー殿は非常に穏やかな御仁と噂に聞いていましたが……結構威圧感が」

 

 クリストファーの姿が見えなくなるのをユングと共に見送っていた副官の騎士が、緊張が解けたのか思わず本音を漏らした。


 「馬鹿言ってんじゃねーよ。分かっちゃいねぇなお前は」


 同じく脱力したらしいユングが、頭に手をやりながら吐き出した。



 

 「普段温厚な奴ほど、切れた時一番やべーって」





 ―――何かおかしい。


 何かが想定と違って来ている。


 確かに彼女に向かって歩いているはずなのに、その距離が一向に縮まっている実感がない。


 いつの間にか、彼女の姿さえ見失ってしまっている。


 (まるで、近づけば近づくほど濃くなる靄の中にいるような……)


 何とも言い表せない焦燥感をクリストファーは感じていた。自分の足がぬかるみに嵌っているように重くて、思うように歩けない。


 足だけじゃない。全身がだるく、まとわりつく嫌な感触が付きまとう。


 (……ヴィヴィアン?)


 ようやく彼女の姿を捉えたと思った。美しい亜麻色の波を表す髪が視界に入り、手を伸ばした。指ですくって、口づけたい。


 でも彼女に近づく前に、その傍らに別の影があることに気付いた。


 (……誰だ?)


 影が男だと言う事は直感で分かった。だがその顔は見えず、誰かは分からない。知り合いなのか、全くの見知らぬ他人なのか。


 その男は、ごく当然のようにヴィヴィアンの腰に手を回し、彼女を引き寄せた。ヴィヴィアンも抵抗する様子もなくごく当たり前のようにその男に身を預けた。


 カッと怒りがこみ上げ、顔に熱が集まっていくのを実感した。


 人の妻に、何をしている!


 そう、叫んだつもりなのに、その言葉は声にならなかった。


 声が出せないなら、力づくで引き離してやる!そう、息巻いて二人に近づこうとするのに、やはりまた距離が縮まらない。焦り、苛立ち、困惑、不安、失望、様々な感情が浮かんでは次に呑まれて行く。


 何度も彼女の名を叫んだ。必死で喉から振り絞っているのに、肝心の声が出て来ない。


 愛する妻は目の前で、男と戯れている。それも、最初の男だけではない。次々にまた別の男が彼女に近づいては、甘い言葉を囁き、彼女に触れ、彼女もそれに応じて行く。


 目の前で奔放に男を惑わしていくヴィヴィアンは、それでも悔しいくらい美しくて、悲しいほどクリストファーの心をかき乱していく。


 (やめてくれ……!こんな映像を見せないでくれ!胸が張り裂けそうだ!!)


 クリストファーの内側、奥底からどす黒くまとわりつくような嫉妬の炎が、全身にゆらゆらと震えながら燃え広がって行く。


 (違う……ヴィヴィアンはそんな人間じゃない。僕を裏切るような卑劣な人じゃない。これは僕の心の弱さが見せる幻だ……!)


 凶暴な闇に呑まれそうになりながら、クリストファーは必死で目の前の光景を否定した。


 だって、自分達は神の名の下に誓いを交わした。お互いを生涯のただ一人の人にすると。


 神の前で偽りを口にすることは、許されない。


 でも、もし、彼女が自分を裏切っているとしたら?


 自分に見せている姿がまやかしで、本性を隠しているのだとしたら……?



 その時は……。



 その時は………―――。




 ―――ハッと目が覚めた時、全身から嫌な汗が吹き出し、シーツがぐっしょりと濡れていた。


 (……夢!)


 まだ夜が明けたばかりなのだろうか、弱々しい白い光が窓を覆うカーテンの隙間から室内に漏れている。


 クリストファーは体中に気だるさと筋肉痛のような痛みを感じながら、上半身を起こした。


 起き上がった途端、頭に鈍い痛みが走り思わず目元を押さえた。吐き気まで覚える。気分はまさに最低、最悪だ。


 (……嫌な夢を見た)


 今でもその残像が脳裏に過ぎり、胸騒ぎが治まらない。


 あんな夢に囚われた原因は分かっている。このところずっと、ヴィヴィアンと上手くコミュニケーションを取れていないからだ。


 別にはっきりとした何か諍いが二人の間にある訳ではない。自分が彼女へ向ける愛情や、彼女から伝わって来る気遣いが変質した訳でもない。

 

 でも、何か手ごたえのない、言葉に出来ない何かが二人の関係を噛み合わなくさせている。それは結婚当初から常に二人の間に存在していて、夫婦になってから3年が経とうとしているのに未だに居座っている。


 (駄目だ……そんな曖昧な認識じゃ。具体的に何が問題で、どう対処すべきなのか考えなくちゃ)


 得体の知れない不安に囚われて、物事を色眼鏡で見るのはよそう。何事も冷静に、俯瞰で見なければ。


 クリストファーは気持ちを落ち着けようと、長い息を吐き呼吸を整えた。


 まず、自分とヴィヴィアンがすれ違っている原因は、ヴィヴィアンがヴィオレット商会の仕事で多忙を極めて、ゆっくりと会話が出来ていないのが一つ。これはヴィヴィアンの方の問題だろう。

 

 そして、結婚してからまだ一度も身体的な意味で自分達が結ばれていないことが一つ。これは理想を追求するあまり過度に慎重になってしまった、自分のちっぽけなプライドの問題。


 きちんとお互いの気持ちを言葉で示し理解し合い、肌でも感じ合うことが出来ればこんなくだらない悩みなんて霧散するはずだ。


 今度こそ回りくどい言い方をせず、ヴィヴィアンとこれらの問題を話し合おう。夫婦なのだから、共に歩み寄る努力をしなければ。


 そうだ、ヴィヴィアンが仕事を抜けられないのならば、出世も責任も何もない職場だ、自分が休職したっていい。


 そこまで思い至って、ようやくクリストファーは少し気持ちが落ち着いた。


 目が覚めてから、どれくらいの時間鬱々としていたのだろうか。いつの間にか窓の外では小鳥のさえずりも聞こえ、廊下からは使用人らが仕事を開始したように活動的な気配が感じられた。


 「……そう言えば、ヴィヴィアンに朝が弱いのをからかわれることも最近はないな」


 みっともないところを見せるのは嫌だが、そんな時決まってくすくすと楽しそうに笑う彼女の表情が今は懐かしく、恋しかった。


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