第十四話 語られざる過去
「……べルージュ産の22年ものの赤だ。程よい熟成で今が最も美味い時期だろう」
バートリー家のサロンで、自ら赤ワインの栓を開け、ワイングラスに無駄のない洗練された動きでワインを注ぐヴィクトール。その仕草一つ一つがやたら上品でどこか艶めいており、クリストファーはただでさえ緊張する義父と義息子の関係なのにより表情を硬くさせた。
「……そう畏まらないでくれ。君達夫婦がなかなか立ち寄ってくれないお陰で、一人寂しい想いをしていたのだ。今日は是非付き合ってくれたまえ」
「……は、はい、是非……」
やや上ずった声でクリストファーは答えた。
ヴィクトールの言う通り、クリストファーとヴィヴィアンは年に数回、季節の挨拶くらいでしかバートリー家を訪れていない。クリストファー自身が敬遠していた訳では決してないが、ヴィヴィアン自身があまり自分の生家のことを話題に出さず、里帰りを希望することもなかったため、つい足が遠のいてしまいがちだった。
あまりにもヴィヴィアンから父親の話が出ないため、薄々あまり仲が良くないのではないかと心配していたクリストファーだったが、ヴィクトールの言動から察するにヴィクトールの方はヴィヴィアンに対して気にしている印象はあった。やはり父親と娘では異性と言う事もあり距離感が難しいのかもしれない。
「……そ、そう言えば今日は驚きました。僕自身王宮内にはめったに入らないのですが、お義父上がルキウス殿下と交流があったことなんて聞いたことも無かったものですから……」
言葉を慎重に選びつつ、クリストファーは気になっていたことを口にした。
ただでさえその経歴から成り上がり、野心家のイメージの強いヴィクトールだ。あまり身内に政治色の強い人間がいるのは、クリストファーにとって好ましいことではない。
「……ああ、それか。何、心配はいらない。殿下は最近医療や薬学に興味を示されたらしい、私が元々薬品を主に商う商人だからと専門家と考えられてお呼びがかかったようだ。お会いしたのも今日と、その前に2回程度のことだ」
「……そうですか。あの、殿下が薬学に興味……?」
クリストファーは相槌を打ちながら、眉をひそめた。以前ある地方の小さな村で深刻な流行り病が蔓延し、それがより大きな都市にも影響が及ぶか、ということがあった時ルキウスは平然と村を焼き払え、と命じたことがあった。その時にはゼノンが秘密裏に自前で用意した大量の治療薬と王都の優秀な医療チームを連れ村に入り、集中的な隔離治療を実施させ何とか村を犠牲にもせずに被害拡大を防いだのだった。
大した対策も考えず村を焼き払えと命じたルキウスが、人助けや将来の国の統治のために医学など学ぼうとする訳もない。
これはあまり知られていないことだが、かつて、ルキウスは乗馬訓練を受けた時に自らの腕が上達しないことをその馬のせいにし、わざわざ彼のために用意された最高血統の名馬を『処罰』したことがある。
考えが浅いだけでなく、癇癪もちで時折ゾッとするような残虐性も持ち合わせている人物なのだ。
(まさか……本格的にゼノンを暗殺しようと考えているんじゃないだろうな……?)
嫌な推測しか浮かばない。
まるでクリストファーの心配を読み取ったように、ヴィクトールが薄く笑い、優雅な仕草でワインを口にした。その紅にも見える眼が怪しく光る。
「……案ずることは無い。素人にたやすく毒物のことなど教えるほど私もうかつではないよ」
「……あっ……申し訳ありません、そういう意味では……!」
考えを読まれ、クリストファーは赤面する。さすがはヴィヴィアンの父親で、王国随一の商売人だ。勘が鋭い。
「……義父上は、どのようにして薬学を学ばれたのですか?聞くところによると、あなたが今のクリムゾン商会の前身である商会を養父から引き継いだのはまだあなたが10代の頃と聞きます。しかしクリムゾン商会は設立されてすぐにその主な商材を薬品や加工前の薬草などに変えられた。しかもその多くがそれまでブランの常識では未知のものばかりで、お義父上には元々結構な知識があったものとお見受けします。失礼ですが、当時のあなたの準貴族の身分ではそんな専門知識を学ぶ機会はそうそうなかったと思うのですが……」
かなり踏み込んだ、個人的なことを聞いている自覚はあった。しかし、本来の考察好きで好奇心旺盛なクリストファーの知識欲が、つい遠慮や気遣いよりも勝ったのだった。しかし、クリストファーの予想に反しヴィクトールは感心したように、ほう、と息を吐き目を瞬かせた。
「……なかなか鋭いね、クリストファー君。いい目の付け所だ。そうだな……蛇の道は蛇、とでも言いたいところだが一つヒントをあげよう。……実は私は亡ノワール共和国と縁のある孤児だったのだよ」
「ノワール共和国の!?」
クリストファーは思わず驚愕の声を上げた。ヴィクトールは静かに頷き、続けた。
「……ノワールはブランよりも土地が痩せていてね、普通の麦や穀物などは育ちにくい土地だったが逆に薬草や毒草は固有種が豊富にありそれを扱った医学・薬学も非常に進んでいた。私の知識というのはノワールで育ったものなら、ごく当たり前に持っていたものだ。その知識がこれまでブランに伝わっていなかったのは、両国の長きにわたる対立の歴史と……これ以上は言わずともわかるだろう」
「……ブランが、ノワールを攻め滅ぼしその存在を地上から消したからですね。人も、物も……土地も」
神妙な表情でクリストファーが問うと、ヴィクトールは一瞬冷たく目を細め、やがて頷いた。
淡々と語るヴィクトールの顔は無表情で、紅い瞳だけがどこか虚空を睨み付けているように鋭い。そこに籠る感情のせいだろうか、その色は二人が呑むワインよりもよほど濃い。
クリストファーは無意識に唾を飲み込む。背筋にぞくっ、と寒気が走った気がした。
「……そうだ。私は幸運にも生き延び、レンブラントという商人に拾われその後も運を味方につけ現在の地位を築いた。だが、ほとんどの同胞はもう生きながらえてもおらず、ノワールの民はその血を途絶えてしまっただろうな」
「……そんな過去が、義父上にはあったんですね」
クリストファーはどこか、罪悪感めいたものを感じながら、苦々しく呟いた。
ブラン聖王国がノワール共和国を攻め滅ぼしたのは、クリストファーが産まれるずっと前だ。クリストファーにとってはあくまで歴史学上の出来事、しかし、目の前の人物にとっては実際に自分が体験した話になる、しかも今のクリストファーよりも若い年齢の時に。
戦争孤児になっていたということは、かなり凄惨な場面を見ることも、自分自身過酷な経験をしたこともあるに違いない。故郷を攻め滅ぼした敵国で今生活していることについてヴィクトール自身どう考えているのだろう。
(まさか、ブランを恨んでいるのだろうか……?)
急に不安が湧き出でて、クリストファーの表情は曇った。クリストファーのその様子を見て、ヴィクトールは面白そうにふっと笑った。
「そうだな……だから、私は君達がノワールの血を繋いでくれることをとても期待している」
ヴィクトールのこの発言で、ピリリとしていたその場の空気が一変した。一瞬で穏やかな空気に変わり、ヴィクトールの瞳の色もただの赤みのある茶色に戻っていた。クリストファーは錯覚でも見ているのだろうか、と目をパチパチとさせた。
ヴィクトーは少しいたずらっ子のような表情を浮かべ、それで―――、と続けた。
「―――初孫にはいつ頃会えそうかね?」
「……いいっ!?ま、孫ですか!?」
突然茶目っ気たっぷりに話題を変えたヴィクトールに、クリストファーは慌てふためいた。その反応に、ヴィクトールは明らかに落胆の色を見せた。
「……なんだ、その様子だとまだまだのようだな。結婚してもう3年になろうとしているだろう、私の娘は妻の役目も果たさず何をしているのかな?最近は誰に似たのか、女だてらに商売に夢中になっていると噂に聞くが」
「あっ、い、いや!ヴィ、ヴィヴィアンのせいではありません!!ぼ、僕の不徳の致すところでして……!!!」
眉根を寄せたヴィクトールに、クリストファーは慌てて釈明するも、語尾がどうしても歯切れ悪くごにょごにょと濁してしまう。
元々今の清い関係が続いているのは、クリストファーの理想主義から小さなプライドに拘ったせいでタイミングを逸してしまったことが主な原因だ。ヴィヴィアンが不名誉な非難を受けるのは忍びない。
「……ふむ?それは今後に期待しても良いということかね?私としてはやはり娘に似た女児が産まれることを楽しみにしている。もちろん、将来的にはクロイツ家の跡取りになる男児も産んでもらう必要はあるだろうが、女の子は可愛いぞ」
「しょ、精進します……!」
義理の父に向かって子作りを頑張ります、などと表明するのはいかがなものだろうか、と恥ずかしさを覚えつつ、クリストファーはその場を濁した。
―――やがてワインも尽き、日も暮れたためクリストファーはバートリー家を辞することにした。
ヴィクトールに見送られ、バートリー家の玄関ロビーに来た時、入り口脇に大きな油絵が飾られているのを見つけた。それは若い頃のヴィクトールと、今は亡きその妻でヴィヴィアンの母親グレース、そして、幼いヴィヴィアンの家族絵であった。
思わずクリストファーはその絵に見入ってしまった。
ヴィヴァンは5つか6つくらいだろうか。大人になった今は滅多に見せない無邪気な笑顔を浮かべている。だがその美少女ぶりはこの頃から良く表れている。
ヴィクトールは今よりもだいぶ若く、この絵を見るとよりヴィヴィアンとの血のつながりがはっきりと感じられる程、今のヴィヴィアンはこの絵の中のヴィクトールによく似ている。特に、翳のある表情が生き写しだとクリストファーは思った。
そして……。
クリストファーは、まじまじとその女性の姿を見た。
ヴィヴィアンの母親が、彼女が僅か8歳の時に亡くなっていたと言う事実を、この時まで忘れていた。ヴィヴィアンは父親のこともそうだが、母親の死のことすら一切話題に出したことはない。思い出話の一つですら聞いたことは無かった。
悲しい過去だからかもしれないが、この絵の中の3人の幸せそうな表情を見る限り、当時は仲睦まじい家族であったに違いない。昔を懐かしむ瞬間も、ヴィヴィアンには無かったのだろうか、とクリストファーは何故か寂しく感じた。
グレースのことは、噂でそれほど美しい女性ではないと聞いていた。確かにこの絵を見ると、不美人でもないが決して美人ではない。だが、どこか見る者を心安らかにさせるような慈愛や、親しみやすさを感じる女性だと思った。その造形の美しさではグレースだけがこの絵では見劣りしてしまうものの、ちゃんと家族らしい温かな調和を感じた。それに、ヴィヴィアンと同じ菫の瞳と亜麻色の髪が、やはりクリストファーにとっては魅力的に映った。
「……古い絵だよ。まだ妻が健在だった頃の、唯一の家族絵だ。この後、妻は精神を病んでしまい、我が娘が8歳の時に自ら毒を飲んで死んでしまった」
「……毒を!?」
クリストファーはふいにかけられたヴィクトールの言葉に、思わず驚愕の声を上げた。噂で伝え聞くグレースの死因は心臓発作だったはずだ。
「娘の将来を考え、本当の死因は隠すことにしたのだ。あの子にとっても母が自ら命を絶ったなどと知れば、心に傷を残しかねない。……だが、本当はあの子は知っているのかもしれないな。実は、同じ日に娘がその現場であったサロンのクローゼットで眠りこけていたのを私が発見したのだ。当時よくかくれんぼ遊びをしていた娘が隠れている場所でそのまま寝入ってしまうことはよくあったから、母が命を絶つ瞬間は見ていなかっただろうと思っている。もし、そんな現場を見たら幼い子供が泣き叫ぶこともなく眠ってしまうなんて、考えにくいからね。……しかし、何かしらの異変は感じ取っていたに違いない、あの時を境に娘はあまり感情を出さなくなり、お転婆な性格も大人しく貴族の娘らしい控えめなものに変わって行ったよ」
「……そんな悲劇が……家族に隠されていたなんて……すみません、あまりにも思いがけないことで、言葉にもなりません」
かける言葉が見つからず、クリストファーは絶句してしまう。あまりにも重たく、悲しいその壮絶な逸話にどうしていいか分からなかった。
「……君が娘の夫で安心したよ。……クリストファー君、今後も娘を頼む。……私が言えたことではないが、娘を幸せにしてやって欲しい」
ヴィクトールは彼には珍しい、非常に柔らかな表情で微かに笑った。
「……はい……必ず」
クリストファーは、自分の方が泣きそうな気持ちになりながら、鼓舞するように力強く言葉を噛みしめた。
―――書庫特有の湿度が高くかび臭い匂いの中、本のページを捲る微かな音だけが時折室内に響いている。
ヴィヴィアンは王立図書館の一角、立ち入り許可のいる、閲覧のみ許された書物が納められている部屋にいた。室内にいるのはヴィヴィアンと、入り口に見張りとして立たせているシェルナだけだ。
今日のヴィヴィアンは普段の公爵家夫人らしい上等で華美なドレスではなく、灰色と薄茶のごくごく簡素な衣装を身に纏い、頭には小さな帽子とヴェールを垂らしていた。一見すると喪服を身に着けているかのような地味な格好だった。
付き添いのシェルナにも男装をさせ、中流貴族の夫人が小姓を連れているように装っていた。
実はこれまでもヴィヴィアンは王立図書館を何度も利用しているが、今日の訪問はクリストファーに伝えていない。
つまり今日ヴィヴィアンは、自らの身分や素性を隠して図書館に来ているのだ。
王立図書館は名目上は準貴族以上の身分であれば女子供でも申請しさえすれば利用が出来る。名目上は、と前置きがつくのは女性の地位の低いブラン聖王国のほとんどの貴族の男は、自分の妻や娘が必要以上に学問をすることを嫌う為で、実質的な利用者はごく少数に限られるからだ。逆にそのごく少数に当てはまる父親や夫の許可を得られたか、もしくは秘密で利用をしている女性貴族が人目を気にして、今日のヴィヴィアンの装いの様に過度に地味に変装することも珍しくはなく、ヴィヴィアンの格好もそういう意味では周囲に溶け込んでいた。
もちろん、ヴィヴィアンの人目を気にする理由と言うのは周囲の奇異の目から、という意味合いではない。
本来なら図書館職員に利用を申し出て、必要な利用申請書を提出し入室の許可をもらわなければならない特別書庫に自分が来ていたという足跡を残さずに入り、人知れず調べものをしたいがためだ。
入室してかれこれ、すでに1時間半が経過していた。
「……お嬢様、何か収穫はありましたか?」
「……駄目ね。貴族以上は出生記録も系図もきちんと残されているけれど、平民以下となると難しいわ。母方のバートリー家は先祖を辿れても、父が一体どこの出身で、どういった血筋なのかさっぱり分からないわ」
シェルナの呼びかけに、ヴィヴィアンは深いため息を吐いた。
母と出逢った当時、父はある豪商の養子になっておりその養父の遺産を既に引き継いでいたと聞いた。養子になっていたと言う事はつまり、彼の本来の出自はまた別にあるということだ。
本当に、これまでいくら憎いからと言って父親の出身についてあまり興味を払って来なかったのはどういった訳だろう。そして驚いたことに、父自身から彼の本当の両親や故郷についてただの一度も耳にしたことがないのだ。結婚して家を出た後だけでなく、19年間一緒に暮らしていた間でさえ。
(お父様は、自分の出自を隠している……?)
血を分けた、実の娘にも。
ヴィヴィアンの中で父親への不信感がさらに増幅していく。一体、あの男はどこの誰で、何者なのだろう。何の『目的』があって、母に近づいたんだろう。
ベンジャミンはヴィクトールのことを『奴隷上がりの異教徒』と詰っていた。それはただ、憎い商売仇を蔑んで言っただけかもしれないが……。
「……以前、旦那様の隠し書庫に入った時にはやけにノワール共和国に関する書物が多かったですね……」
シェルナがぽそりと呟いた。
偶然にもヴィヴィアンもまた、その時のことを思い出していた。
あの日、シェルナにも内緒で持ち帰った古い紙片があった。かなり黄ばんでよれよれになっていたものの、存外丈夫な羊皮紙であったそれに書かれていた文章をヴィヴィアンは読み解こうと試みた。しかし、同じ言語で書かれているはずのそれは、相当年代が古いものなのか文法も単語の綴りも現代とまったく違っていて、かろうじて読み取れたのは固有名詞『セレニス』『アゼル』『ルカ』という人物名のみだった。
その名前から察するに、建国神話に関わる文章には間違いないだろうが……。
「お嬢様、ちょっと視点を変えてノワール共和国の年代記について調べてみますか?」
シェルナの呼びかけに、物思いに耽っていたヴィヴィアンはハッと我に返った。
「え、ええ、そうね。お父様はノワール共和国に縁があるのかもしれないし……」
一般的に伝え聞く歴史上は、ヴィヴィアンが生まれる前、今から三十数年前に国境問題で衝突したブラン聖王国とノワール共和国の間に戦争が勃発し圧倒的な軍事力の差からブラン聖王国の王国軍がノワール共和国の中枢まで攻め落した。その時、その元首一族から一般市民に至るまで国民のほとんどを殺害し跡地に塩をまき、廃墟へと変えたとされている。
もしかして、ヴィクトールはその数少ない生き残りなのであろうか―――?
ノワール共和国関連の本が置いてある書棚の前に立ち、ヴィヴィアンはごくり、と唾を飲み込んだ。
―――閉館より一時間ほど前にヴィヴィアンは特別書庫を出て、辻馬車を拾うためにシェルナと王立図書館から馬車停留所までの長い渡り廊下を歩いていた。
奥に見える図書館の前庭はよく手入れをされた庭園になっており、色とりどりの花々が咲き乱れ、噴水の近くでは小さな貴族の子供が遊んでいた。その脇に母親だろうか、上品な装いをした女性とその侍女らしき若い娘が温かい視線を子供に投げかけている。
『あ、あの人達を見て下さい!僕は、昔からあんな風に家族でピクニックをするのが夢で……!』
『そ、それで、僕達もそろそろタイミング的にも頃合いじゃないかと思っていまして……』
いつかの植物公園で、クリストファーがしどろもどろになりながらヴィヴィアンに言った言葉がふいに思い出された。
彼の言わんとすることを、汲み取ることが出来ないヴィヴィアンではない。
クリストファーは自分との間に子供を望んでいるのだ。
分かっていて、ヴィヴィアンはその彼の気持ちに気付かぬふりをした。あれ以降も、クリストファーが無理にそういった行為に自分を誘ってくることもない。未だ自分達は清い関係のままだ。
―――クリストファーとそうなることが嫌な訳ではない。
むしろ、彼がそういったことに興味を持ち始めたのなら、さらに彼をヴィヴィアンの意のままに篭絡するいいチャンスと言えよう。
結婚以来、避妊薬を飲み続けているヴィヴィアンがクリストファーの子供を身籠ることは無い。絶対に自分の血を分けた子供をこの世に産み落としたくないヴィヴィアンに抜かりはない。
だから、あのうぶで純情な若者の身も心も掌握し、手玉に取って思うように操ってしまえば、今よりももっと簡単に情報を得やすくなるのに……。
(私は、この汚れた手で、彼に触れたくないんだわ……)
ヴィヴィアンは自らの手のひらをじっと見つめ、そしてそのまま胸元に手を置いた。
この身は汚れている。
物理的な意味ではなく、心情的な意味でヴィヴィアンは自分のことを汚らしいもののように感じていた。純潔を保っていても、この身体に誰も触れさせてこなかった訳ではない。しかし、それは敢えて自ら選んで来た道だ。
ヴィヴィアンにとって、この美貌は武器であり、道具だ。
父に生き写しの自分が、時に耐えがたい程憎らしく、時に無情なほど無価値に思える。母が絶命した、あの時から。
だから、道具としてでも活かさなければ、自分が自分であることに耐えられない。
こんな卑しい自分が、あの純真で心優しいクリストファーに触れるのは躊躇われた。そして、彼の目にこの裸身を晒すことも……。
物憂げに視線を遠くへやった時、強い風が渡り廊下を突き抜け、ヴィヴィアンのドレスの裾を大きくあおりその顔を覆っていたヴェールは宙に翻った。