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第十三話 疑惑


 自室で新作の生理用品の試作をチェックしながらヴィヴィアンは壁に掛けてある振り子時計を見つめた。もうじき夜の8時になろうとしている。


 「……おかしいわね。クリストファー様がこんなに遅くまで帰って来られないなんて」


 クリストファーの仕事の定時は午後4時だ。残務処理などをして、40分ほどかけて馬車で帰宅したとして、遅くとも午後6時過ぎにはいつも帰って来ている。


 夫婦揃っての夕食を好むクリストファーのために、ヴィヴィアンは体調が優れない時以外は彼を待っている。そのために規則的な彼の帰宅時間をほとんど把握しているのだ。


 そう言えば、特に命じることもないからと早々に下がらせていた侍女シェルナが様子見に来る気配もない。いつもなら2時間と空けずに顔を出すのに。


 嫌な胸騒ぎがした。


 その時、遠くに複数の馬の蹄が土を蹴る音がした。




 「―――クリストファー様っ!?」


 玄関ロビーに駆け付けたヴィヴィアンが見たのは、クロイツ家の衛兵に肩を貸すクリストファーの姿だった。衛兵は負傷しているのかぐったりとしており、支えているクリストファーも外傷はなさそうだが、身に着けている礼服が泥だらけになっている。


 「どうなさったの!?」


 慌ててクリストファーに走り寄ったヴィヴィアンを、クリストファーは手で制止し、心配いらないというように首を振った。


 「大したことはありません。どうやら物取りに襲われたようですが、大きな被害はありません。僕は彼をサロンまで連れて行き、医師を呼びますから、ヴィヴィアン、まだ食事を済ませていないのならお先にどうぞ」

 「大したことはないって……でも、クリストファー様も怪我をなさっていますわ」


 ヴィヴィアンの言葉に、クリストファーはしまった、と彼女の前に差し出していた手を引っ込めようとして、先手を打ったヴィヴィアンにしっかり手のひらを掴まれ覗き込まれてしまった。


 「鋭い傷……!なにで傷つけられたんですの?」

 「こ、これは……おそらく、大ぶりの針のようなものだと思います。大丈夫、毒などは塗ってありませんでしたから、貴女が心配するようなことはないんですよ」

 「……」


 まだ疑わし気なヴィヴィアンの視線に苦笑いをしつつ、クリストファーはとりあえず衛兵の手当てを優先し、自分も身を清めてから食堂に行くと告げた。


 クリストファーがサロンに入って行ったのを見届けると、ヴィヴィアンは食堂に向かわず真っ直ぐに自室へ戻った。


 そして、戸棚を探り、丸められた布袋を取り出した。テーブルまで持って行き、止めている紐をほどき広げる。そこには布袋に収納された裁縫道具の数々。一見普通のニットを編むためのかぎ針のように見えるそれは、貴族令嬢であるヴィヴィアンが持っていても不審がられない彼女の護身用の武器だった。通常、先が丸くつぶされてフックのような形状をしているはずなのに、そこに並んでいる物はどれも鋭利に尖っている。


 「……一つ、足りない」


 縫い留められているはずの針が一つ、消えていた。


 ヴィヴィアンは反射的に呼び鈴を大きく鳴らした。


 いつもなら数秒で反応があるはずの返事がない。


 「シェルナ!シェルナ、どこにいるの!?」

 「……お嬢様、お呼びですか?」


 いつもより数分遅れで、しかしいつもどおり音もたてず、無表情でその侍女は現れた。


 「言いなさい、この2時間、お前はどこで何をしていた?」

 「ご用命がないとのことでしたので、自室で休んでおりました」


 顔色一つ変えず、落ち着いた口調で返事をした侍女にヴィヴィアンは面食らう。このシェルナの表情は、長年の付き合いであるヴィヴィアンにも読めない。


 実際自分も退出を命じて今まで一度もシェルナを呼びつけていない。普段から存在感を消しているシェルナが彼女の部屋にいたかいなかったかは誰も確かめようがない。


 悔し気に下唇を噛みしめ、これ以上の追及はしようがない、とヴィヴィアンが諦めようとした時、ふと下げた目線に妙なものが映った。間髪入れずシェルナに近寄ったヴィヴィアンは、彼女の着ているメイド服の右手首の袖を大きくまくった。


 「あっ」

 「……これは何かしら、シェルナ?」


 シェルナの右手首には強く掴まれたような人の指型の跡があった。


 ヴィヴィアンの菫の瞳が、褐色の光を射抜いた。そこには普段は滅多に表れない動揺の色があった。


 「……しばらくクリストファー様に接近することを禁じるわ」

 「……お嬢様!?」


 ヴィヴィアンの命令にシェルナは色めき立った。いつもは能面のような顔が、珍しくはっきりと怒りを表している。


 「なぜです、会社を興した今となっては、もうあの人間に利用価値などないでしょう。なぜそこまで肩入れをするのです」

 「利用価値がまだあるかどうかは私が決めるわ。お前にあの方の目の前をうろちょろされることで、私にまで変な疑いを向けられるようなことになっても困るわ」

 「……だったら!……だったらメイドではなく、もっと別の形でお嬢様の傍にいさせてください!お嬢様の身をお守りするのは私の……!」


 パシン、という乾いた音がヴィヴィアンの部屋に響き渡った。


 「……おだまりなさい。私に意見をすることは許さないわ。下僕に口はいらないのよ」

 「……くっ……。……承知、致しました」


 叩かれた頬を押さえ、シェルナは項垂れた。





 「……おお、久しぶりだね、ヴィヴィアン!どうしたことだ、君はますます美しくなっているじゃないか!いけない魔女の秘薬なんか使ってはいないだろうね?」


 ヴィヴィアンが客間に姿を現した瞬間、屋敷の主である痩せぎすの男が喜色満面で両手を広げた。


 「ご機嫌よう、ベンジャミンのおじ様。魔女の秘薬なんてものがあったら是非ご紹介頂きたいですわ」


 あまり体が密着しないように距離をとりつつ、ヴィヴィアンはベンジャミンの抱擁を受けた。ヴィヴィアンの背後にはいつも通り、黒子のような侍女シェルナが付き従っている。


 ベンジャミンはかつてヴィヴィアンの父ヴィクトールのビジネスパートナーだった男だ。自身もブラン聖王国の有数の大企業の経営者であり、数年前にヴィヴィアンと再会してからは彼女に経営のノウハウなどを指南して来た。ヴィヴィアンがヴィオレット商会を興してからも、彼の持つ経済界の人脈や販路を利用させてもらっているため、そしてヴィヴィアンが常飲している『薬』調達のために定期的に彼の元を訪れていた。


 「それにしても聞いたよ、ヴィヴィアン。君、再来月の有識者会議の参加が内定したんだって?おめでとう、全く羨ましいよ、私も貴族の地位をもっていればな」


 有識者会議とは、年に数回、王宮内で大蔵省の官僚と、国内のトップ企業の経営者を招いて今後の予算案や経済政策を話し合う会議だ。そこには必ず王侯貴族の誰かが立ち会うことになっているため、いくら大企業の経営者と言えど、出席は貴族以上にしか許されない。潤沢な資金で準貴族の地位を得ているベンジャミンと言えど、参加できるのはせいぜい貴族主宰の夜会や舞踏会まで。国の公式行事に参加することは出来ないのだ。


 「女経営者の参加と言うのも前代未聞だが、会社を立ち上げてわずか2年足らずで招かれるのも異例中の異例だ。まったく、君の才覚と幸運には恐れ入るな」

 「全ておじ様のご助力の賜物ですわ」


 ヴィヴィアンはソファに隣り合って座っているベンジャミンの怪しい手の動きをさりげなく制止しつつ、相槌を打った。


 「ヴィヴィアン、ついにその会議で奴を告発するのだろう?あやつめ、大臣達の前で目を剥くことになるぞ!」

 

 実に楽しそうにベンジャミンは体を反らし、笑い声を上げた。


 ベンジャミンの言う、『奴』とはヴィヴィアンの実父ヴィクトールのことに他ならない。


 この男は、ヴィクトールに提携解消されたことで、何度か経営が危なくなっていた。元々はヴィオレット商会と同じくヴィクトールの経営するクリムゾン商会はベンジャミンの会社に支援される形で大きくなったがいつの間にか子が親を食い、ヴィクトール方が経営者として大きく成功を収めていた。そのことをベンジャミンは逆恨みし、ヴィヴィアンの目的が実父への復讐だと分かると、彼女に全面的に協力を約束したのだ。下心も含めて。


 ベンジャミンには、ヴィオレット商会が最初に商品を販売するにあたってかなり口利きをしてもらったし、それ以外にもヴィヴィアンの欲する情報や商品の融通をしてもらっている。全てが成功した暁には協力の報酬として一度きりヴィヴィアン自身を自由にさせる約束までしていた。


 ヴィヴィアンにとっての成功―――つまり、ヴィクトールの破滅だ。


 (でもこの男は私の目的の全ては知らない。父の地位と名誉を失墜させた後、さらに私が何を望んでいるかまでは……)


 心の中でヴィヴィアンは呟いた。


 「それにしてもヴィクトールと私が知り合ってすでに30年は経つのか。思えば長い因縁だったな」


 随分上機嫌なのか、いつも以上に舌の滑りがいいベンジャミン。


 「そう言えば、初めて会った時、あやつは老人のような真っ白な髪をしていたな。んん?それともあれは銀髪と言うべきか。この国にはない目立つ色だからな、あやつずっと髪を染めておるのだろう。色男を気取りおって!元は奴隷あがりの卑しい異教徒めが!!」


 (お父様の髪色が銀色……!?)


 ベンジャミンの言葉に、ヴィヴィアンは色めき立った。


 ヴィクトールの髪の色が銀髪だったことや、彼が奴隷であったことはヴィヴィアンも初耳だった。シェルナも、彼女のには珍しく褐色の瞳を見開き、ベンジャミンの言葉に耳を傾けていた。


 ヴィヴィアンの記憶にある限り、昔からヴィクトールの髪の色は夜のような漆黒だった。もし彼が染めていたのだとしたら、家族にも気付かれないほど頻繁に染め直していたと言うことだ。


 ……そう言えば、母方の祖父母のことは聞いたことがあっても、ヴィクトールの出自についてヴィヴィアンも詳しく知らない。


 考えてみると、彼の持つ時に紅にも見える茶色の瞳もこの国では珍しい。自身や母の持つ菫色の瞳もあまりない色合いであったため、ヴィクトールの瞳の色を疑問に思ったこともなかったが……。


 銀髪に、紅の瞳。


 それはまるで、神話に登場する双子の兄、アゼルのような―――。





 ―――平常時、王宮敷地内にある王立図書館に勤務しているクリストファーは、王宮内部を訪れることは滅多にない。この日はたまたま王立図書館を管轄する文化省の官僚に呼ばれ、指示された図書を運ぶために足を踏み入れていた。


 用事を終え、この日はそのまま帰宅しようと王宮内の回廊を歩いていると、ふいに呼び止める声があった。


 「クリストファーではないか、珍しいなそなたが王宮内にいるのは」

 「……これはルキウス殿下……と、義父上!?」


 振り返った先に立っていたのは、何人かの従者を連れた、ブラン聖王国の第一王子ルキウス・ファラ・ブランシュと、ヴィヴィアンの実父でクリストファーにとっても義理の父親に当たるヴィクトール・バートリーだった。


 かつてこの二人が一緒に行動を共にしているところを見たことのないクリストファーは、驚きのあまりその場に立ち止まった。


 「おお、そうかお前の妻はこのヴィクトールの娘だったな。不思議そうな顔をしているな、それほど俺がこのヴィクトールを従えているのが気になるか」

 「あ……いえ、そういう訳では」


 クリストファーは自分が挨拶をするのも忘れていたことに気付き、慌てて頭を下げた。ルキウスにしてもヴィクトールにしてもそれほど普段の生活上の接点はないものの、礼儀を欠くわけにはいかない間柄だ。


 「よい、なんてことはない。ヴィクトールは我が国でも随一の商人だ。王国内外の地理や風土に詳しく、実際に足を運んでいる場所も多いと聞く。いずれ俺が治める国のことを学んでおくのも王族たる勤めだろう。道楽の弟とは違って俺にはいちいち自ら視察に行く暇はないのでな、最近はヴィクトールから話を聞いておるのだ」

 「な、なるほど、そうでしたか」


 返事をしながら、クリストファーはまたか、と内心呆れていた。


 この第一王子は自ら努力したり調べたりすることが嫌いで、いつも自分にとって都合のいい方、楽なやり方ばかり選びがちだ。ろくな調査もせず、取り巻きの貴族や自ら選んだ『専門家』から得た情報を鵜呑みにし、その上自分にとって聞こえのいい部分だけをやたら吸収し、あまり興味のないことや自分にとって都合の悪いことを見て見ぬふりをする。


 そのおかげで彼の周囲にはいつもおべんちゃらの貴族ばかり集まり、実力があり物事を冷静に分析している本当の意味でのブラン聖王国の忠臣達は密かに第二王子ゼノン派を結成する事態になっているのだ。いくらゼノンが自分は王位継承権を放棄しているとパフォーマンスをしてもこれでは効果がない。


 実際、とクリストファーは心の中で呟いた。


 ゼノンは本当の意味でブラン聖王国の王位継承を拒否している訳ではないと思っている。なぜなら一見遊び歩いて放浪癖のあるだらしない王子を気取っているものの、ゼノンはいつもなにかしらの目的をもって各地方を訪れている。地方役人の税金の横領調査、治安維持を役目として派遣している騎士らの監督、または流行り病や農作物の不作に見舞われた地域への援助のための前調査など。


 なんでも自らの目で見て、自らの耳で聞くを好むゼノンは決してまた聞きの情報だけに頼らない。そしていい加減に見えて、常に客観的な視点を忘れない慎重さも持ち合わせているのだ。


 ……ただ、先に生まれたというだけで自らの王位継承を疑わない、おめでたいルキウスとは大違いだ。


 「殿下、民について学ぶ意欲があると言うのはとても結構なことかと思います。私も王立図書館の末席にいる者として殿下の勉学を『応援』させて頂きます。お望みなら、お役に立てそうな学術書や研究論文を私の方で見繕い、殿下の元にお持ち致しますからご用命下さい」


 読書嫌いで有名なルキウスに、あえてクリストファーは嫌味を込めて提案した。彼が読む本などは官僚が要約し平易な言葉に書き直した『調査報告書』がせいぜいで、専門用語や学術用語のならぶ文章なら3ページすらもたないだろう。


 「……んん?そ、そうだな、まあ、それには及ばん。俺は専門家の意見をその者の口から直接聞く方が良いからな、質問もすぐに出来るし。本を読む時間もないほど忙しいからな。また必要であれば頼もう。お前もあのような出自の卑しい庶子など……ん、んん!ゴホゴホッ……間違えた。……愚弟のことなど相手にせず、俺に仕えることを考えてくれ。悪いようにはせぬぞ」

 「……私は政治には関わらない一介の機密文書保管官ですから。職務上の立場で私がお役に立てることがございましたら、その時はお呼びください」


 冷静にそう返すと、クリストファーは丁寧に頭を下げた。冷笑を隠しながら。


 ―――やはりこの第一王子は、馬鹿だ。こんな自分の取り巻きの貴族も近くに立っていて、誰が何を聞いているか分からない場で今の王室『最大のタブー』を簡単に口にしてしまうなんて。


 第二王子ゼノンが、国王の正妃の子ではなく、戯れに手をつけた侍女の一人が産んだ庶子であることはブラン聖王国の王宮内では公然の秘密だ。曲がりなりにも国教の頂点に立ち、また自ら聖人ルカの末裔であるはずの国王に婚外子など絶対に許されない。産まれる前にその命を抹殺され、記録にも残らないことが多い中、ゼノンは『奇跡的』にこの世に生を受けた。そして、悪しき慣習の下、自分を産んだ母親である侍女はその存在を消され、生物学上では母ではない正妃が公的には産みの親とされている。


 ルキウスがゼノンを疎ましく思い、ゼノンが自ら王位継承を遠慮しているのはそう言った背景もある。


 しかし、ルキウスは個人的にいくら複雑な感情を抱いていたとしても、その立場から王室の、実の父親の『過ち』を口にするべきではない。そういったことすらも判断の出来ない男がどうして、何十、何百万の民のいるこの国を統べることが出来るのであろうか。


 クリストファーが顔を上げると、ルキウスの取り巻きである貴族ですら自分達の主君に見えない位置で失笑を浮かべていた。


 このままだと、本当にこの国の将来が危ぶまれるな、とクリストファーは独り言ちた。


 見ると少し離れた位置でヴィクトールは興味深そうに自分とルキウスを見比べていた。その表情がなぜか、妻ヴィヴィアンに重なった。


 「……そ、そうか。まあ、良い。それでは、クリストファー達者でな。……ヴィクトールも、また使いの者をやるから顔を見せよ」

 「……はっ」

 「……承知致しました」


 どこかバツの悪そうにしたルキウスはそう言うと、取り巻きの貴族らを従えて王宮の奥深くに消えて行った。


 その姿が見えなくなるまで、一応はその場で畏まっていたクリストファーに、思いがけない声がかかった。


 「クリストファー君、丁度良い機会だ。我が屋敷に良いワインがある。今日は男二人で語ろうではないか」


 これまで二人きりで長時間会話を交わしたことの無い義父からの、予想外の誘いであった。


 

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