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第十二話 違和感


 クロイツ家の若き後継夫婦の共同名義で立ち上げられた、主に女性用衛生用品と妊婦・新生児用品を扱うヴィオレット商会は、創設されてわずか1年半で急成長し、ブラン聖王国史上類を見ない速度で業績を伸ばした。


 初めは一部の貴族女性に口コミで広がっていたものが、クロイツ家というしっかりとした後ろ盾があることから妻や娘の気を引きたい貴族男性からの注文も入るようになり、さらに華美さを抑え実用性のみ注力された安価版が販売開始されると一般の女性らの購買にも浸透し始めたのだ。元々これまでには存在しえなかった市場であり、男性経営者には扱いにくいことや、女性が単独で会社を立ち上げことが出来ないブランの法律の壁の問題もあり、やすやすと新規に参入できないその性質から、まさにヴィオレット商会の独壇場であった。


 すべてはヴィヴィアンの狙い通り、いやそれ以上だった。


 こうして、まだ規模としては一流の大企業とまではいかないものの、経済界にヴィオレット商会と国内初の女性経営者ヴィヴィアン・クロイツの名はブラン聖王国の経済界に鮮烈なインパクトを与えたのだった。





 「……おかしい」


 クリストファーはむっつりと呟いた。


 「何がだ、友よ」


 何か笑いを堪えるような声音で、ゼノンは相槌を打った。


 二人は王立図書館の一部関係者のみに利用を許されているカフェテラスで午後のお茶を嗜んでいた。


 「最近夫婦の時間が全然取れていないんだ……!家に帰って夕食を一緒に食べたらヴィヴィアンはすぐに会社の仕事で奥に引っ込んでしまうし!」

 「おーそれはそれはご愁傷様。じゃあ会社の仕事を取り上げてしまえばいいんじゃないか?」


 クリストファーの不機嫌な声に、ゼノンは事も無げに答えた。


 「僕は会社経営については素人だ!それに女性の目線でやってるから上手く業績を伸ばしているんだろうし……生き生きと仕事をしている彼女の邪魔をしたい訳じゃない」

 「じゃあ自業自得だろ。諦めろ」


 悲痛なクリストファーの表情に比べて、面白くて仕方ないという感じのゼノンは上機嫌でお茶を啜る。


 「分かってる!!……ただ、僕はワークライフバランスを考えてもっと家族の時間も彼女に割いてほしいだけなんだっ!!」


 ガチャンッ


 と、クリストファーが勢いよくテーブルに拳をぶつけた瞬間、高級茶器が振動した。


 「家族の時間ねぇ……ま、このままじゃお前の昔からの夢である一男一女の親はいつまでたっても実現しないよなぁ。だーから最初から俺が言ってただろ、変なやせ我慢せずちゃっちゃとヤッちまえばよかったのに。子供さえこさえちまえばこっちのもんだろ」

 「げ、下品な言い方はしないでくれ!僕は心の繋がりを重視した一生の思い出に残る初夜を彼女と迎えたくて―――」


 クリストファーの訴えに、ゼノンはにやり、と口の端を上げた。


 「―――迎えたくて、タイミングを逸してしまったんだよな?」


 容赦ない親友の指摘に、クリストファーはがくん、と肩を大きく落とした。


 「………そうだよ」


 ―――そう、結婚3年目を迎えてもクリストファーとヴィヴィアンは床を共にしていなかった。


 出逢った時より、結婚当初よりもはるかに今は夫婦の絆が出来て来ているとクリストファーは実感している。事実行ってらっしゃいとおかえりなさいのキスは頬や額ではなく自然と唇にするようにはなった。


 以前、ヴィオレット商会を立ち上げて数ヶ月でその噂を耳にしたクリストファーの父ルドルフが息子夫婦を呼びつけ、女子供の衛生用品を扱う会社を経営するなどクロイツ家の名が汚れる、女に会社を経営させること自体何事だ、と口汚く罵ったことがあった。そしてさらにそんな恥知らずな嫁など離縁してしまえ、とまで詰った。


 その時クリストファーは毅然とルドルフに意見し、夫婦二人で話し合って決めたことだ、外野は黙っていてくれときっぱりと突っぱねた。


 思えばあの時が二人の感情の盛り上がりのピークだったかもしれない。夫婦で晩餐時に祝杯をあげ、熱いキスを何度も交わしたと思う。しかし普段めったに酒に呑まれないクリストファーはその日に限って意識をなくし、気付いた時には翌朝、自室のベッドの上だった。もちろん一人きりで。


 酒の勢いで大事に守って来た初めてを致してしまわなくて良かったと思う反面、あの時が千載一遇のタイミングだったのではないかと後々何度も後悔した。


 ゼノンにも事あるごとに痛い所を突かれ、ロマンチストが過ぎる、と馬鹿にされた。


 その後、会社経営を本格的に始めたヴィヴィアンは想定以上に忙しく、会社経営の指南役である古くからの友人というベンジャミンという別会社の経営者に会いに行ったり、布地の加工元であるクロイツ家領地ダンデノンと王都を頻繁に往復したり、最終加工の委託先である女性らとミーティングを日々重ねており、疲れている彼女にとても夫婦の時間の話など切り出すタイミングはない。


 もちろん彼女一人で全ての業務をこなすことは難しいので、いつの間にか取締役に名を連ねていたクリストファーの実母エレノアとも上手くやっているようだし、何人か優秀な従業員を直属の部下として雇い入れ着々と会社組織の基盤を作り上げて行っている。それが全て上手く機能し出せば今後夫婦の時間を捻出も出来るだろうが……。


 問題は、ヴィヴィアン自身が並々ならぬ情熱で仕事に打ち込んでいることである。


 大した出世欲もなく、真面目に粛々と与えられた業務をこなすタイプのクリストファーからしたら全く頭の下がる旺盛さだ。もしかしたら、自分達夫婦は役割が逆なのかもしれない。


 「……僕、専業主夫になろうかな」

 「なーにが専業主夫だ。何十人も使用人のいる大貴族のお前がやる家事なんてないだろ。というかお前のその能力をそのまま持ち腐れさせるなんて俺が許さんぞ」


 ゼノンのいつもの冗談口調の中に僅かに本気の怒りが含まれていることを感じて、クリストファーはきまり悪そうに口をへの字に曲げた。


 「……あなたに言われたくありませんよ。自分は無用な争いを避けるために身を引いているくせに」


 一瞬、剣呑な空気が二人を包んだ。


 「……まぁ、いい」


 沈黙を破ったのはゼノンの方だ。すでにその瞳の色は暖かな金色に戻っている。


 「……王宮の星読みによると今週末はいい天気らしいぞ。どうだ、奥方を外に連れ出してみろ。お前心配していただろう、数か月ごとに彼女が体調崩すのを。仕事ばかりで太陽の光も十分に浴びていないのが原因に違いない。新鮮な空気に触れ、明るい日差しの下なら夫婦腹を割って話せるだろうよ」

 「ゼノン……そうだね。ありがとう」


 クリストファーは神妙な様子でうなずいた。



 ―――王都の一角に、貴族や一般市民に広く公開されている植物公園がある。エリアごとに異なるテーマで色とりどり、多様な植物や樹木が植えられ、公的に雇われた庭師らが絶えず手入れをして一年中季節の花を楽しめるようになっている。また、至る所にテーブルやベンチが置かれ、軽食を扱う屋台もあることからブラン聖王国でも指折りの家族連れやカップルに人気のスポットである。


 「……良かったです。急な誘いにもかかわらず、貴女が時間を作って下さって」


 近くに出店していた菓子屋から調達したマドレーヌやドーナツを簡易テーブルに並べながら、クリストファーははにかんだ。


 「……まぁ、とんでもありませんわ。私こそ、ずっと妻らしいことを出来ていませんでしたもの。私の方がクリストファー様をお誘いしなければなりませんでしたのに」


 シェルナと二人でお茶の用意をしながらヴィヴィアンはクリストファーに申し訳なさそう返した。


 ゼノンの助言の通りに週末、クリストファーがヴィヴィアンを公園に誘い、スケジュールの都合をつけたヴィヴィアンがそれに応じたのだ。出来る限り自然体な夫婦の時間を過ごしたい、というクリストファーのたっての希望通り、入り口に馬車と従者を残したった一人シェルナだけを供として連れていた。小一時間ほどぽかぽかな陽気の下公園を散策した後、空いているテーブルとベンチを見つけたクリストファーがそこで休もう、と提案したと同時に人数分の焼き菓子を買いに自ら走ったのだ。


 「こういう場所に来るのも、婚約時代以来ですね。すみません、僕は本当に朴念仁で結婚してからろくに夜会にも出席していないし、貴女に喜んでもらえるような場所にも全然連れて来ていなかった」

 「……まぁ。……くすくす、気にしていませんわ。それにむしろ、さっきも言いましたように最近は私の方がクリストファー様をほっぽってばかりでしたもの……こういう時間も新鮮ですわね」


 柔らかく笑うヴィヴィアンの様子に、クリストファーはホッと胸を撫でおろす。良かった、内心ヴィヴィアンが自分に対して関心がなくなったのではないか、もうどうでも良く思っているのではないかと心配していたのだ。


 「どうですか?会社の経営の方は。僕は名ばかりの共同経営者で、実務の方は貴女に任せきりですけど」

 「ええ、とても順調だと思いますわ。利益も十分すぎるほど出ていますし、いずれは計画通り救護院なども設立して行きたいですわね」

 「そうですか……また、ますます忙しくなりそうですね」


 相槌を打ちながら、クリストファーは思わずがっかりした声音を出してしまった。


 「……クリストファー様?」

 

 少し押し黙ってしまったクリストファーに、ヴィヴィアンは不思議そうな表情をする。美しい菫色の双眸がこちらに向けられている。クリストファーは落ち着きなくテーブルの下で組み合わせた両手の親指をぐるぐると回した。


 「……その、会社の業績が上がっていることも素晴らしいと思うし、貴女の仕事への情熱や志の高さは僕も常々見習わなければと思っています。実際、大変な社会貢献にもなっていると思うし……」

 「ええ、でも全て理解のある旦那様あってのことですわ。クリストファー様への感謝の気持ちは言葉には尽くせません」

 「ぼ、僕への感謝とかはそんなのいいんです。貴女が幸せで、僕の隣で笑っていて下さればそれで……た、ただ」


 歯切れ悪く言いよどむクリストファーに、ヴィヴィアンは小首を傾げ夫の顔を覗き込んだ。


 「……ただ?」

 「……たっ、ただ!将来の家族の計画と言いますか、未来を語りあうことも時には大事なことではないかと思いまして!」

 「……はい?」


 変な冷や汗と舌の奥が渇くような嫌な感覚がクリストファーを襲った。ああ、もう、何で自分はいつもこう大事な時に決まらないんだろう。


 その時、対角線上にある別のテーブル席で同じようにドーナツに舌鼓を打つ一つの家族が見えた。自分達よりも少し上の世代の夫婦に、3、4歳くらいの男女の子供たち。決して高位の貴族ではなさそうだが、幸せそうに家族団らんを楽しんでいた。


 「あ、あの人達を見て下さい!僕は、昔からあんな風に家族でピクニックをするのが夢で!もちろん子供の性別はどちらでも可愛いと思うんですけど、出来れば男の子女の子一人以上いたらいいなって思ってて……!それと動物との触れ合いも子供達への情操教育にはいいと思っていて、大型の犬なんかも飼っちゃったりして……あ!まだ犬種とかは決めてないんですけど、なるべく気性の優しい犬がいいかなぁ、なんて……!」


 話しながら段々本題から外れて行っていることを自覚しながらも、一生懸命理想の家庭像を語るクリストファー。


 「も、もちろん子供が生まれたからと言って、妻を二の次にするようなことはしませんよ!?健全な夫婦関係があってこそ、円満な家庭だと思いますし……!!」

 「……素敵ですわね」


 真剣な様子で感想を漏らしたヴィヴィアンに、クリストファーのテンションはいよいよ舞い上がる。上ずった声のまま続けた。


 「そ、そう思います!?そ、それで、僕達もそろそろタイミング的にも頃合いじゃないかと思っていまして……その……つまり、こ、こんな昼間っから言うようなことじゃ……」

 「……いつか、叶うといいですわね」

 「……え?」


 ぽつりと落とされた、どこか無機質な声にクリストファーの動きが止まった。


 ―――いつか、叶うといいですわね。


 まるで、他人事であるかのような、突き放したような響き。


 思わずクリストファーは明後日の方向に向いていた視線をヴィヴィアンに向けた。ヴィヴィアンの視線は自分に向いておらず、クリストファーが見て下さいと示した家族に注がれていた。その瞳はどこか虚ろで、とても素敵だと思っているような温かみを感じさせない。


 「ヴィ……ヴィヴィアン?」


 ふと、クリストファーは不安になった。


 自分の声は、隣に座る美しい妻に届いているのだろうか。


 こんなに近くにいるのに、まるで何か薄い壁のようなものが二人を隔てているような感覚。


 「……え?」


 一拍ずれて返事をしたヴィヴィアンが自分に振り返ろうとした、その時―――ゴホゴホッとヴィヴィアンが急にむせて口元を両手で押さえた。


 「ヴィヴィアン!?」

 「触れてはいけません!!」


 驚いてヴィヴィアンの背中に手を添えようとしたクリストファーを鋭い声が制止した。


 「なっ何!?」

 「旦那様、申し訳ありません。ですが、流行性の病であるといけませんので、ここは私が」


 有無を言わさぬ口調で二人の間に入って来たのは、それまで黒子の様に存在感なく控えていたヴィヴィアンの一番の侍女シェルナだった。シェルナはヴィヴィアンの肩を支えると、素早くハンカチを差し出す。


 一瞬目が合った彼女の褐色の瞳は、驚くほど冷たく、それでいてその奥に何かほの暗い炎が灯っているようだった。


 

 ―――女性は誰しも麗しい花であり、秘めたる蜜と毒がある。


 それは社交界で数々の伝説的なロマンスを残したかつての先人が遺した言葉だ。


 公園での会話から数日経ったある日の職場からの帰宅の馬車内で、クリストファーはいつか大衆向けの詩集を読んだ時に見つけたその言葉を思い出していた。


 この言葉がピンと来たことはこれまでのクリストファーの人生においてはなかった。


 女性を謎めいた存在と決めつけることで、その美しい佇まいだけを強要し初めから理解する努力を放棄しているようにも思えて、正直あまり好きでもなかった。しっかりと対話を重ね、互いの考えをすり合わせていきさえすれば男とか女とか関係なく理解し合えるはずで、そこに疑いなどなくなるはずだ。


 ……そう、思っていたことが、初めて揺らぎそうになっている。


 クリストファーは、ヴィヴィアンとは結婚以来お互いに真心をもって信頼を積み重ね、少しずつ距離を縮めていると思っていた。その中には日々の習慣とか考え方の癖だとかそういった些細なことから、男女としての恋愛感情ももちろん含まれていると信じていた。


 出逢った瞬間こそ彼女の容姿に心を奪われたクリストファーも、婚約、結婚と時間を経るごとにその美貌以上に彼女の内面―――普段は穏やかで優しい気性なのに時々驚くほど芯の強い部分や、決断力を見せるところに改めて強く惹かれた。年の功か上手く手玉に取られているな、と感じる時もあったけどそれも決して不快ではなく、楽しんでいる自分さえいた。


 「……気持ちが通じ合って来ていると感じていたのは、僕の方だけだったのだろうか」


 ふと、口にした声が自分でも弱気に感じて、クリストファーは浅く苦笑いをした。


 ヴィヴィアンは美しく、聡明で機知にも富んでいて非の打ち所がない女性だ。でもそう言った評価じゃ彼女のごく表面の薄い部分を言い表しているだけで、まだまだ足りない気がする。


 まだ、彼女を理解しきれていない。未だ彼女の内側に秘められた、クリストファーが到達していない本当の彼女がいる気がする。それが、先人の言う甘い蜜なのか、苦い毒なのかは今はまだ分からないけれど。


 「……いつか、彼女は完全に僕に心を開いてくれるだろうか」


 切なくそう、呟いた時―――ガクンッ、と馬車が大きく振動した。


 「なっなんだ!?」


 職場である王立図書館を出てまだ20分足らず、自邸まではあと少なくとも15分以上はかかるはずだ。今いるのは王城から貴族の住宅地までの間の人気のない雑木林。窓の外はすでに日も傾き寂し気な薄暗闇が広がっているが―――。


 「うっうわあぁああ!?」


 馬車の外側で、御者の悲鳴が聞こえた。瞬間的にクリストファーは馬車の外に飛び出した。


 走る馬車から受け身を取りながら地面に転がるように着地し、クリストファーは瞬時に態勢を整え周囲に視線をやった。そこには、普段クリストファーがどこかに移動する時に常に付き添っているクロイツ家付きの衛兵が倒れていた。突然のことに馬も歩みを止め、ゆっくりと速度を落とし止まろうとしている馬車の上で御者と別の黒い影がもみ合っていた。


 「やめろ!」


 クリストファーはとっさに馬車に駆け寄り、車輪を足場にして御者台に飛び乗った。そして御者が佩いている細剣を流れる動きで抜き取るとその黒い影を一閃した。黒い影は俊敏な動きで自身の持っていた短剣でクリストファーの攻撃を受け止めた。鋭い金属音が暗闇に鳴った。御者は腰を抜かして呂律の回らない声でわめいている。


 「何が目的だ!金か?それとも僕の命か!!」


 馬車から飛び降りた黒い影を追い、自らも地面に着地したクリストファーは曲者を捉えようとさらに切り込んだ。


 「……っち、温室育ちと思って甘く見たか……!!」


 クリストファーの剣を受けながら黒い影が憎々し気に呟いた。その声はくぐもっていて、男の声か女の声か分からない。


 流れる動きで低い体勢からクリストファーの懐に飛び込んで来た相手に、クリストファーは瞬間的に体を翻し躱す。その勢いで影が短剣を持つ腕を掴み、捻り上げた。


 「……くっ!……」


 利き手を捻り上げられ、影が苦悶の声を上げた。


 「言え、貴様の狙いは何だ!!」


 鋭く問うクリストファーに、影は答えない。構わずにクリストファーは相手が体全体を覆うように纏っている布をはぎ取ろうと、手首を掴んでいる側とは反対の手を伸ばそうとした。その時、びりっと伸ばした手の平に痛みが走った。


 「……っ!?」


 鋭い針のようなもので傷つけられたのだ。


 (くそっ、短剣以外にも獲物を持っているのか!!)


 随分用意周到な刺客である。こんな至近距離で心臓でも狙われては堪らない。クリストファーは一度距離をとろうと相手の手首を離し、地面に落としていた細剣を拾い、同じように落ちていた短剣を蹴り遠ざけた。


 体が離れる刹那、影の被る布の隙間からガラス玉のような、それでいて鋭い光を放つ目と視線が交差した。暗闇のせいでその色までは分からない。


 影はクリストファーから距離が出来たと思った瞬間、まるで野生動物のような俊敏な動きで身を翻し瞬く間に夜の闇に消えて行った。


 「待てっ!!」


 咄嗟に追おうとクリストファーが走りだそうとした瞬間、背後で倒れているクロイツ家付きの衛兵の苦しそうなうめき声が聞こえた。まだ、息がある―――彼を介抱してやるのが先だ。


 一つため息を吐き、クリストファーは構えていた細剣を降ろした。


 「……何だったんだ、今のは。物取りにしては単独犯のようだし、動きもかなり訓練されていた。やはり狙いは僕自身か……?それともクロイツ家?厄介なことにならないといいが……」


 襲って来た刺客は、男か女かも分からない。布で体形も隠されていたものの、身長は今のクリストファーとあまり変わらないだろう。だが掴んだ腕は恐ろしく華奢で、それでいてしっかりとした骨の感触もあった。


 あの、ガラス玉のような瞳を、どこかで見たことがある様な気はするが―――。



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