第十一話 古傷
「―――クリストファー。何故女性だけの集まりに、あなたも参加しているのです」
不信感一杯のエレノアの声が、円卓を運び簡易の会議室に変貌した小ホールに響いた。
「いけませんか?僕も一応、この会社の責任者になるので商品開発会議に出席するのが筋かと思うのですが」
実母のやや尖った声音にも動じた様子もなく、クリストファーはにっこりと笑って返した。
ぎこちないやり取りと、若干の緊張感をはらみつつも、ある日を境に親子は普通に会話するようになっていた。周囲はハラハラしつつも、改善の兆しを見せた親子関係を遠巻きに見守っている。ちなみに異常なほどベタベタとしたスキンシップを見せつけていたクリストファーの妻ヴィヴィアンも、時を同じくして普通の貴族夫人の振る舞いに戻っている。
「まあ良いではありませんの。確かにクリストファー様もこのヴィオレット商会の経営者でいらっしゃいますし、男性の意見も必要ですわ」
落ち着き払った様子で、この会の主催であり幹事のヴィヴィアンは微笑んだ。
依頼していたリネンと木綿の布地が製布工場から届けられ、この日ダンデノン城では新設ヴィオレット商会の商品開発会議が執り行われていた。
もとはヴィヴィアンと、ダンデノン城や工場で働く女性従業員、そしてダンデノンの街に住む婦人会の女性らを招いてのサンプル作成と意見交換会の予定であったが、ヴィヴィアンがクリストファーと共同名義で立ち上げた会社の話を耳にしたエレノアが自分も手伝わせて欲しいと名乗りを上げたのだ。
ヴィヴィアンも予測していなかったことだが、早々に子育てから離れたエレノアはほとんどの余暇を刺繍をして過ごしていたため、持ち前の手先の器用さとセンスの良さも相まって国内有数の裁縫技術の持ち主だった。ヴィヴィアンも一般の貴族令嬢の平均よりは上の腕前を持っていると自負しているが、エレノアの協力はありがたく、二つ返事で受け入れたのだ。
まだエレノアのヴィヴィアンへの皮肉な態度に完全に心を許していないクリストファーも女性だらけの会議と知りつつ参加を表明し、開催となった訳であるが……。
「そもそもクリストファー、あなた裁縫などやったことあるのですか?」
「ありませんが、これから覚えます!」
「何を言ってるの、クロイツ家の次期当主として覚えるべきことは他に山ほどあるでしょう。せっかく領地に来ているのだから、領地経営の方を学んでほしいわね。この地の名士の方々への挨拶回りは終わっているの?」
「そ、それはまた別の日でもいいでしょう!」
「ご静粛に!さ、皆様、会議を始めますわよ!」
微笑ましい親子喧嘩を見守りながら、ヴィヴィアンは苦笑いで早速本題を開始するために議長の小槌を叩いた。
男性のクリストファーの存在にも全く気を遣わない地元の婦人達を集めた商品開発会議は白熱し、女性の生理や新生児に適した衛生的な商品作りについて活発な意見が飛び交い、実際にいくつかのサンプルがその場で作成された。忌憚ない女性の性事情の話題に時に同席していたクリストファーが顔を赤くしたり青ざめさせたりしているのを、ヴィヴィアンは自主参加だからと特にフォローすることはなく、自身も赤裸々な意見を述べ、会議を仕切った。
朝早くからスタートし、日が暮れるまで開催された会議は2週間に渡り、その中でヴィヴィアンはいくつかの価格帯と品質の異なる商品を選定し、また商品製造の流れとしてダンデノンの工場にてある程度必要な布地をまとめて生産・加工し、王都まで輸送した後に王都に住むお針子として請け負ってくれる女性達に仕上げを発注するということを取り決めた。
メインの顧客は当面貴族や一定の富裕層の夫人、令嬢になるだろうが、針子を請け負ってくれた女性には一般流通価格の半値で提供し、そこから被支配階級の一般家庭の女性らにも広めて行くねらいだ。
―――かくして、1ヶ月というダンデノンでの滞在の日々は、ヴィヴィアンの予想よりもはるかに充実して流れて行った。
シェルナに手伝ってもらいながら王都への帰り支度を進めていたヴィヴィアンは、さっきまで室内で読書をしていたはずの夫の姿がないことに気付いた。
辺りを見回すと、テラスに続く掃き出し窓が少し開いており、そこから入り込んで来る夜風が薄いカーテンを揺らしている。
残りの荷造りをシェルナに任せ、ヴィヴィアンはストールを羽織り、テラスを覗き込む。すると、手すりに頬杖をつきながら遠くを眺めるクリストファーの姿を見つけた。いつもはきちんと一つでくくっているえりあしの長い黄金の金髪が風にふわりと煽られている。
「クリストファー様?」
呼びかけても、何かに気を取られているのか返事がない。その瞳が物憂げに揺れている。
そっとしておくべきだろうか。
ほんの少しのためらいののち、ヴィヴィアンはクリストファーの隣に歩み寄った。
「ヴィヴィアン……」
ようやく妻の存在に気付いたクリストファーがびっくりした様子で振り返った。
「……名残惜しい?」
小さく問うと、クリストファーは驚いて目を見開き、戸惑ったように俯いた。
「……別に、そういう訳では……」
「………」
目を逸らして誤魔化すクリストファーをヴィヴィアンがじっと見つめると、やがて観念したように一度口を真横に結んだあと、ためらいがちに語り始めた。
「……ただ、あの人とは今までまともに会話をしたことも、食事を共にしたことも無かったから、この1ヶ月の変化に気持ちが追い付いていないんです。幼い時は、あの人の冷たい表情が、ただただ苦手だった。まるで自分の存在を責められているような気になって、身が竦んでしまった。そのために、母に会いに来ることもずっと避けていた。でも……」
そこで言葉を区切ると、クリストファーは何か瞑想するかのように目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。
「今なら、母も僕との接し方がわからなくて緊張していたんだって理解出来る。お互いにただ不器用なだけだったのだと。……どうしてもっと早く、歩み寄ることが出来なかったんだろう。どうして……相手の気持ちを想像だけで決めつけて、最初から諦めてしまっていたんだろうと……自分が恥ずかしくなりました」
自嘲気味に呟いたクリストファーは、また誤魔化すように乾いた笑いを漏らした。
「……自分を責めないで」
ヴィヴィアンは掠れた声で囁くと、クリストファーの両頬を抱え込むように両手で包んだ。
「自分を責めてはいけませんわ。幼い子供にとって、親という存在がどれだけ心を占めるのか、どれだけ……気持ちを縛り付けるのか分かります。それでも、クリストファー様は完全に心を閉ざしてしまわれなかった……私は、あなたのその心の強さを尊敬致しますわ」
「……ッ……」
すぐ間近でこの上なく優しく、聖母のような表情で微笑んだヴィヴィアンに、クリストファーは一瞬息を吸うのも忘れて見入った。
「……ッ……ヴィヴィアン…………!!」
―――気持ちが、溢れた。
気付いた時には、彼女を強く抱きしめていた。
思いがけない強さで引き寄せられ、ヴィヴィアンは抵抗する間もなくその懐に入り込む。
ぎゅうっと息も苦しくなるほど強い力で回された両腕が、ヴィヴィアンに彼の細かな震えを伝えて来る。直に伝わって来る心音が、ヴィヴィアン自身の鼓動も早くさせた。
「……あ……すみません、僕、思わず……」
数秒たった後、クリストファーは恥ずかしそうに力を緩めた。二人の体の間に隙間が出来、ヴィヴィアンの呼吸は楽になる。しかしヴィヴィアンは、クリストファーを少し恨めし気に睨み付けた。
「……もう、本当に女心の分からない方ね。こんな時は謝るものじゃないですわ。……普通、キスの一つでもするものじゃないの?」
ヴィヴィアンの拗ねたような声に、一気にクリストファーの顔が朱に染まる。
「え……っ……あ、すみま……」
「もう黙って」
朴念仁にこれ以上言葉で言っても、埒が明かない。ヴィヴィアンは構わずにクリストファーのシャツを強めに引っ張り、少し顔を上に傾けた。
強引に重ね合わせた唇の感触は、婚礼の時に儀礼上行った誓いの口づけとは全然違った。触れ合った先から、僅かに電気が全身に走るような、胸の奥がちりり、と焼けるような不思議な感覚。
長いような、刹那のような口づけを交わし、そっとヴィヴィアンが離れようとした時、再び背中をぐっと押された。
さっきよりも深く繋がった唇は、時についばむように、時に口内を探るように離れては何度も重なり合う。
ヴィヴィアンの甘い唇を味わいながら、クリストファーは目頭に込み上げてくる熱いものを必死で抑えていた。
……本当は、君を守るのが夫である僕の役目なのに。
心の中でクリストファーは呟いた。
情けないところを見せているにもかかわらず、ヴィヴィアンはクリストファーを拒むどころか、自分自身さえ忘れていた古い傷に触れ、温かく包み込んでくれる。
彼女の優しさが泣きそうなほど嬉しくてその温もりがどうしようもなく愛しくて、何よりも尊いものに思えた。
自分はまだ未熟で、理想としている彼女に相応しい男には程遠い。それでも、今、自分達は確かに、互いの心に『触れて』いる……そう、思えた―――。
「………」
影が一つに重なり合う男女を、シェルナは物陰からガラス玉のような瞳で静かに見つめる。
その口元が僅かにちっ、と舌打ちした―――。