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第十話 お気に入りのあなた


 「……わざわざ休暇を取って頂かなくても宜しかったのに」


 と、同じ馬車の車内で向かいの座席に座っているクリストファーに、ヴィヴィアンが申し訳なさそうに告げると、彼はにこっと笑って片手を振った。


 「いいんですよ。自由な社風だけが唯一取り柄の職場ですからね。誰が出仕してもしなくても、業務に支障はありません」


 それで組織として成り立っているんだろうか?ヴィヴィアンは笑顔で聞きつつ内心疑問に思った。


 たしかに、クリストファーは基本的に毎日真面目に出仕しているが同僚の中には月に数度しか顔を出さない人間もいると聞いたことがある。そして特に締め切りの存在しない仕事であるがゆえに、進捗のスピードが速くても遅くても誰も気にしないそうだ。


 ただ在籍しているだけで、平民の一般家庭では10年働いても稼げない額の給金を毎月貰っている……何とも不平等な世の中である。


 「それに……僕自身、領地に足を運ぶのは数年ぶりですから」


と、クリストファーは視線を車窓の景色に移した。


 新会社の登記が済み、正式に商売が認められ早2ヶ月―――ヴィヴィアンは夫クリストファーと共にクロイツ家の所領の一つであるダンデノンに向かっていた。


 ダンデノンには広大な農業地帯として知られており、リネン地と木綿を大量に生産する工場があった。本格的な商品開発のため、その農地と工場の見学をしたいとヴィヴィアンが申し出た時に、クリストファーが自分も同行すると申し出たのだ。ダンデノンで隠遁生活を続けるクリストファーの実母、エレノアにヴィヴィアンを紹介するからと。


 当初は適当な旅籠にでも滞在しようと考えていたヴィヴィアンであったが、たしかに未来のクロイツ公爵夫人の立場で訪れるなら現公爵夫人エレノアの存在を無視する訳にはいかない。


 クリストファーと結婚して約8ヶ月、正式な婚約から数えて1年以上経っても、ヴィヴィアンはエレノアに会ったことは無い。なぜなら、エレノア自身が領地であるダンデノンから決して王都に出てくることがないからだ。実の息子であるクリストファーですら顔を合わせるのは数年に一度だと言う。


 その経緯はヴィヴィアンもクリストファーから聞いていた。


 現クロイツ公であるクリストファーの父、ルドルフとの深い確執のためだ。ルドルフはエレノアを跡継ぎを産む道具としか考えておらず、結婚当初中々身籠ることの出来ないエレノアによそで作った愛人との娘を実子とするように強要したと聞いている。そういった話自体は、貴族社会において珍しくはない。しかし、クロイツ家に匹敵する由緒正しい高貴な家の出であったエレノアには耐えがたい屈辱だっただろう。


 結果的に、エレノアは息子クリストファーを産んで乳離れが済むと自分の役目は済んだと言わんばかりに領地に引っ込み、中央社交界とも交流を絶ち隠遁生活をしているという。


 「あの気位の高く気難しい母に、貴女が嫌味でも言われたらたまりませんから」


 何か気合の入った様子で鼻息荒く息巻くクリストファーに、ヴィヴィアンは一瞬目をぱちぱちとさせたあと、小さく噴き出した。


 「なっなんですか……!?僕は真剣に言っているんですよ!?」


 ヴィヴィアンに笑われ、頬をうっすら染めたクリストファーにヴィヴィアンはふふ、と笑いを零しわざと座席をクリストファーの横に移動した。そしてコトリ、と夫の肩に頭を傾ける。


 「ええ……頼りにしていますわ、旦那様」


 

 ……本当に、そんな家庭環境でよくもこんな心のきれいな男の子が育ったものだ。


 もっと違う出逢い方をしていれば……いいえ、出逢ったのが自分でなければ、彼はきっと幸せになれるのに。


 ざらざらとした思いを押し込めて、ヴィヴィアンは体を預けたまま目を閉じた。


 そのヴィヴィアンの様子を、馬車の端っこで控えているシェルナが無言で見つめていた。



 クロイツ家の所有する居城に到着する前に農場と工場を視察したヴィヴィアンは、生産されているリネンと木綿の布地の予想以上の品質にとても満足した。自領地で生産出来ているために、比較的安定的に安価で仕入れることが出来る。これもクリストファーと結婚した予想外のメリットだった。


 商品サンプルを作るため、後日ダンデノン城まで布地を届けてもらうことも話がついた。出だしとしてはかなり順調である。


 ただ、やはり最初の関門と言えば、しばらくの滞在先になる居城の女主人であるエレノアへの挨拶だろう。


 ダンデノン城の玄関ホールで多くの使用人を背後に引き連れた女主人は、訪問した息子夫婦に声を掛けるどころかにこりともせず、威圧的な姿勢で出迎えた。


 「お義母様、ご挨拶が遅れ申し訳ございません。お初お目にかかりますわ、バートリー家が娘、今はクリストファー様の妻ヴィヴィアンと申します」

 「……謝る必要はありませんよ。これまでも今後も私は特にあなた方と関わるつもりはありませんから」

 「……母上!そんな言い方はないでしょう、ヴィヴィアンに失礼だ!」


 ヴィヴィアンの正式な淑女の礼にも、表情一つ崩さず冷たく言い放った母親を見て、クリストファーはいきり立った。


 居城に到着し、広間で顔を合わせて開口一番これである。


 「……何です?クリストファー。今更でしょう。それとも私に何か期待しているのですか?」

 

 息子の抗議の声にも慈愛のかけらもない冷淡さで、エレノアは高圧的に問いかけた。


 未だ40手前のエレノアは、クリストファーの母親に相応しく品のある若々しい美女だ。しかしそのオーラは近寄りがたく、見る者を委縮させる空気を纏っていた。


 「……くっう……!」


 取り付く島もない実母の問いかけに、クリストファーは返す言葉を失ってしまう。


 この母親はいつもそうだ。こうやって、すげない言葉で、冷たい態度で相対する者を全身で拒むのだ。


 幼い時のトラウマが、クリストファーの体を凍り付かせる。


 すると―――すい、と後ろから近づいて来たヴィヴィアンがクリストファーの腕におもむろに自らのそれを絡ませた。


 「ッ!?」


 突然のことにびっくりした表情の夫にヴィヴィアンはにっこり笑った後、エレノアへ向き直った。 


 「……いいえ、とんでもありませんわ、お義母様。私達、ご迷惑をおかけするつもりも、お手を煩わすつもりもありませんのよ。ただ……ご存じの通り、私達新婚ですから、お目汚しになる場面もあるかもしれませんので、先にお詫び致しますわ」


 そしてふふっと実に小悪魔的な笑みを口元に浮かべた。


 ―――この城で働く使用人と、シェフを集めて下さる?とエレノアが広間を去った後に、ヴィヴィアンは夫へお願いをした。そして集まった彼らに告げた。自分達の滞在の間、クリストファーへの世話は不要だと。



 


 「―――ヴィ、ヴィヴィアン……後生です。もう許して下さい」


 憐れっぽいクリストファーの声が、食堂に響き渡った。


 「いけませんわ、クリストファー様。せっかく私が作った愛情たっぷりのミネストローネスープですのよ。それとも妻の手料理が食べられないと仰って?」

 「違います……!!料理はとても美味しいです……ですが……!」


 堪らずにクリストファーは叫んだ。



 「僕は大人ですから一人で食べられます!!!」


 

 クリストファー・ヴィヴィアン夫妻がダンデノンに着いたその日から、ヴィヴィアンはクリストファーの身の回りの一切の世話、それは食事の用意から衣服の用意、果ては食事の際に口に運ぶところまでを全て使用人にもクリストファー本人にもさせなかった。それはまるで乳幼児の子育てに勤しむ母親そのものであった。


 「いけませんクリストファー様。私の想いを受け取って下さらないんですの?愛する旦那様には、何ひとつ苦労させたくないんですわ。スプーンなんて重いものも持たせたくないんです」

 「いやそれおかしいですよね!?僕はスプーン一つ持てないひ弱な男ではありませんから!」


 ずいっと口元に差し出されたスープをすくったスプーンを体を反らして拒否しながら、クリストファーは恥ずかしそうに周囲に視線を向けた。ダンデノン城にある主人一族のための唯一の食堂では、給仕のために控えている何人もの使用人達が、若夫婦に苦笑いを浮かべながら生温かい視線を送っている。


 「……クリストファー様、あんまりわがままを仰ると―――」


 ヴィヴィアンの菫の瞳がすぅっと細められた。その剣呑な光に、ギクッとした様子でクリストファーが肩を跳ねさせる。


 「―――口移しで食べて頂くことになりますわよ?」 

 「ス、スプーンで食べますっ!!ヴィヴィアン、ありがとう!!」


 反射的にクリストファーは目の前のスプーンに食らいついた。


 

 ―――ガシャン、という大きな物音が、二人が食事をしているテーブルの奥で鳴り響いた。


 そこには非常に険しい表情で食事を摂るエレノアの姿があった。彼女の前には手から滑り落ちたと思われる銀食器が変な角度でテーブルに転がっていた。


 注目を集め決まりが悪かったのか、エレノアは、ゴホン、という咳払いをした。


 もちろん高貴な家の出であるエレノアも、食事を居室で摂る様なことはせずこの主人一族のための食堂を使う。


 ヴィヴィアンがいちいち食べさせるせいでクリストファーとヴィヴィアンの食事は通常の3倍は時間がかかる。当然、食事の時間が被ってしまうことも珍しくなかった。


 「あら?お義母様、どうされましたか?お加減でもお悪いのかしら」


 わざとらしく問いかけたヴィヴィアンに、エレノアはさも不愉快そうな表情で、口元をナフキンで拭った。


 「……いいえ、ただ、あなた達いくら新婚だからと時と場所を考えなさい」

 「まあ!」


 もう一度ヴィヴィアンは驚いたように小さく叫び、両手を頬に添えた。


 そして立ち上がりクリストファーのすぐ横に来るなり、その頭を自分の胸にぎゅうっと抱きしめた。豊かな双丘に顔を押しつぶされ、「いっ!?」とクリストファーのか細い悲鳴が上がる。


 「まあまあまあ、お義母様嫉妬してらっしゃるの?私達が深く愛し合っていることに?」

 「なっ……ばっ、馬鹿をおっしゃい、私は公爵家の跡取り夫妻に相応しい品位ある行動をなさいと言っているのです!」


 僅かに表情を変え、頬を赤らめたエレノアにヴィヴィアンは不敵に笑った。クリストファーは柔らかな感触に潰され耳まで赤くしながら逃れようとバタバタもがいている。もちろんヴィヴィアンはクリストファーをしっかりと捉えて離さない。


 「あら、私は先に申し上げましたわ。新婚ですもの、お見苦しい姿をお見せするかもしれませんって。だって……素直な愛情を示すことが出来ないなんて、不健康で不自然なことですわ」

 「何ですって……?」


 ハッと表情を険しくさせたエレノアに、ヴィヴィアンはもう一度いとも艶やかに微笑んだ。


 「さ、クリストファー様、お食事の続きですわ」

 「い、いやもう僕はお腹いっぱいで……」

 「いけません。妻の手料理ですのよ?」

 「いや……その……はい」


 再びいちゃいちゃと食事を再開させた息子夫婦に、エレノアは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ席を立った。


 そして同じ日の夕方。


 「―――ヴィヴィアン、本当に頼むから、湯あみの手伝いだけは……やめて下さい!僕は男として何か大切なものを失う気がして……!!」

 「まーあクリストファー様、愛する旦那様のお体を労わり、優しく洗うのも妻の務めですわ。もちろん全身のマッサージも致しますわよ?」

 「い、いや、本当に結構。僕はそんなサービスには興味ありませんし、なによりあなたにそんな商売女的なことをさせたくない」

 「……商売女?商売女ってどういう意味ですの?私全く存じませんわ。説明して下さる?」

 「あ、えっと、な、何だったかな~?……あ!もちろん僕はそんなの利用したことはありませんよ!?」


 廊下での小1時間ほどの攻防の末、クリストファーの断固とした抵抗にヴィヴィアンは折れた。


 「……仕方ありませんわね、諦めますわ」


 不承不承、といった様子ながら意見を引っ込めたヴィヴィアンにクリストファーは明らかにホッと胸を撫でおろした。


 「ご理解頂けて良かったです。……ねぇ、ヴィヴィアン」

 「……はい?」


 呼び掛けたものの、一瞬ためらう様子を見せたのち、クリストファーはぎこちない仕草でヴィヴィアンを抱きしめた。


 「……ありがとう、ヴィヴィアン。僕は君がいてくれればそれでいい。僕に気を遣わないで……大丈夫だから」

 「クリストファー様……意味が分かりません」


 クリストファーの背中に手を回し、その服を握りしめながらヴィヴィアンは呟いた。


 「うん……そういう事にしておくよ。君に弱いところは見せたくない、でもとても感謝してる」

 「クリストファー様……」


 ヴィヴィアンに優しく微笑むと、クリストファーはそっとヴィヴィアンの額にキスを落した。


 「……じゃ、行ってくるね」

 「……はい、行ってらっしゃいませ」


 軽くお辞儀をして居城内の湯殿に向かうクリストファーを見送り、彼の姿が見えなくなるとヴィヴィアンはすっと背後に意識を向けた。


 「……何でしょう?クリストファー様が湯殿からお戻りになるまでならお相手致しますけど?」


 振り返った先には、複雑な表情を浮かべたエレノアの姿があった。


 「別に、貴女と話す事などありません」

 「そうですね。本来ならあなたがお話しする相手は私ではなく、クリストファー様ですから」


 ヴィヴィアンは意地の悪い笑みを浮かべて、肩にかかる亜麻色の巻き髪を背中に流した。


 「……」


 無言のエレノアの側まで歩み寄り、真横まで来たヴィヴィアンは背筋を伸ばして立った。


 「……ご存じなかったでしょう?あなたの息子が、どんな食べ物を好んで、どんな顔で笑って、どんな考え方をするのか。彼が16年という歳月で、どんな風に成長して来たのか」

 「……っ」


 エレノアは小さく息を呑むが、お互いに真正面を向いているためにその表情は窺い知れない。


 「……同じですか?あなたが嫌った夫と、彼は?あなたが恐れて思い描いていた姿に、彼はなっていましたか?」

 「……それは……!」


 僅かに滲んだ苦渋の色を、ヴィヴィアンは見逃さなかった。


 「……全部、あなたが15年前にしたかったことですよ。食事を食べさせ、服を着替えさせ、眠りにつくまで見守り、思い切り抱きしめてあげる。もう彼は大人です、誰の助けもいりません。あなたは、彼に愛情をかけてあげられるかけがえのない時間を、自分で手放してしまったんです」

 「……」


 今度は正面から覗き込んで来たヴィヴィアンに、エレノアは目を逸らすことが出来ず、言葉を失っている。その目には動揺がありありと浮かんでいた。


 「彼はたくさん傷ついて来ました。でも、あなたの嫌う夫のようにはならなかった。自分で考え、学び、成長したんです。その彼を認めて上げることは出来ませんか?」

 「……あなたの言う通りだわ。……私は、15年前、あの子自身を見もせずに勝手にルドルフの影を投影してあの子を遠ざけた。幼い頃に私を訪ねて来たあの子も、頭から拒絶して抱きしめ返してあげることが出来なかった。そうして多くのやり直すチャンスを失って来たんだわ」


 深いため息とともに、懺悔するように吐き出したエレノアに、ヴィヴィアンは真顔で首を振った。


 「またそうやって諦めるのですか?確かにもうすでに失われた時間は戻りません。でも、機会をこれから作ることは出来ます。要は、それをやるかやらないかです」


 そして、冷たい笑みを浮かべた。


 「閉じていると思われた扉は、案外簡単に開くかもしれませんわね?」


 そう捨て台詞を放つと、ヴィヴィアンは現在夫婦の寝室にしている客室に入って行った。



 「……お嬢様もお人が悪い」

 「……そうかしら?」


 僅かに呆れを含んだシェルナの言葉に、ヴィヴィアンは微かに笑った。


 「やり方がえげつないですよ。今回ばかりはクリストファー様に同情します」

 「そう?……人づてに聞くだけより、自分の目で見た方がより手っ取り早いでしょう?」


 幾分楽しそうにしている主人に、シェルナはいつもの仏頂面で褐色の目だけを細めた。


 「……だって、彼らはお互いに嫌われていると思い込んでいるだけでしょう。私とお父様とは違うわ。絡まった糸は、気付いた時に解いておくべきだと思うわ」

 「……」


 ―――その日クリストファーが入浴から戻って来るのは、いつもよりも2時間以上も遅かった。




クリストファーにとっては巻き込まれ羞恥プレイですね。(いや、役得かも?)ヴィヴィアンのSっ気のある行動を書くのはとても楽しいです(笑)

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