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第九話 家族の記憶


 「……お久しぶりです、お父様」


 ヴィヴィアンは、久方ぶりにお行儀のいい従順な一人娘の仮面をつけた。父に向かって優雅な仕草で淑女の礼をする。父も落ち着き払った仕草で、満足そうに頷いた。


 「……ああ、お前の婚礼以来か。里帰りをするならば、事前に言ってくれれば良いものを。今日はたまたま帰宅が間に合ったが、あやうく愛する娘の顔を見損ねるところだったぞ」

 「あら、それは申し訳ございません。いつも忙しくされているお父様ですもの、お知らせしていてもタイミングが合うか分からないと思ったのですわ」


 表面的な和やかなあいさつを交わしながら、ヴィヴィアンは半年ぶりに会う父親に微笑みを向けた。


 今二人が会話をしているのは、例のサロンだ。


 母が命を絶った場所、忌まわしい記憶の現場。


 「……まあいい。それで、クリストファー君とは仲良くやっているのかね?彼はお前よりだいぶ年下だ、侮るような態度をとってはいまいな?」


 まるで一般的な父親が嫁いだ娘にかけるような言葉を、ヴィクトールは口にする。穏やかな色を湛えた赤みのある茶色の瞳が、向かいのソファに座るヴィヴィアンに向けられた。


 「嫌ですわ……当たり前です。つつがなく過ごしておりますわ」

 「……そうか。ならば孫の顔を見ることが出来るのもそう遠くはなさそうだな」

 「……何ですって?」


 それまでヴィクトールの言葉を鉄壁の笑顔で聞いていたヴィヴィアンは、ほんの微かに片眉を上げた。


 「……当然だろう。ブラン聖王国屈指の名家に嫁いだのだ、跡継ぎを産むことは最大の役目だろう。……まあ、妻亡きあと一人娘を育てた父親の個人的な意見で言わせてもらうなら男児よりも女児の方が嬉しいがな」


 

 ―――この男は、一体何を言っているのだ?


 

 表情を崩さないまま、ヴィヴィアンは心の中で悪態を吐いた。


 

 ―――まるであたかも、自分が良い父親であるかの様に。娘を愛する、平均的な親であるかのように。



 お前が母を裏切らなければ。お前が母を、利用しなければ。



 私達親子3人は今も、絵に描いたような平和な家族ごっこをしていられただろうに―――。



 「……まぁ、気が早いですわ」


 出かかったあらゆる呪いの言葉を喉の奥に奥に押し込めながら、ヴィヴィアンはかろうじて平静に返した。胸のむかつきで、今朝食べたものを戻してしまいそうだ。


 バートリー家の召使が用意してくれたお茶でどす黒い感情を流し込みながら、ヴィヴィアンは新たな憎しみを募らせた。


 「―――そう言えば、今日はシェルナは一緒じゃないのかね?いつも行動を共にしているあれが珍しいな」


 いつの間にか話題が移り、ヴィヴィアンはハッと目を瞬いた。


 「えっ……ええ、彼女にはもう帰り支度をしておくように命じましたの。夫には内緒で来てしまったので、泊まることが出来ないんですわ」

 「そうか、それは残念だ。だがクリストファー君を心配させてはいけないな、今度は二人で来なさい。前もって知らせることも忘れないように」

 「え、ええ。それではお父様、お暇致しますわ。ごきげんよう」


 タイミングよく会話を切り上げ、ヴィヴィアンが立ち上がり一礼をして体を上げた時―――いつの間にか、父が目と鼻の先に立っていた。驚くほど冷たい、秀麗な微笑を浮かべている。


 「……ヴィヴィアン……ベンジャミンと関わるのはおやめ。あの男と何を企んでいるかは知らないが……高貴なお前の目に触れさせるような人間ではない。よく覚えておきなさい。お前はこの地上で最も尊く気高き存在……『その血』を、みだりに下賤の者に分けてやるなよ」


 低いテノールの声が、耳元に響いた。


 音もなく、気配も感じさせず至近距離に来た父親の、ゾッとするような優しい声音にヴィヴィアンは得も言われぬ恐怖心を抱いた。


 ベンジャミンと交流を再開していたことは、父には知らせていない。ベンジャミンからもヴィクトールにコンタクトをとることは有り得ない。


 それなのに……まるでヴィヴィアンとベンジャミンの間の秘密の取引を見透かしているような、そしてヴィヴィアンがこれから何をしようとしているかも予知しているかのようなヴィクトールの言葉。


 間近で見つめた父の瞳は、血のように赤く、それでいてワインのように蠱惑的な色をしていた。


 「おとう……さま……?」


 僅かに声が震えるのを、隠しきれなかった。


 ヴィクトールは、数々の商取引で相手を懐柔した人当たりのいい微笑みを浮かべた。


 「もし娘が産まれたら、しっかりと教育を怠らないように。……将来の妃候補に選ばれることもあるかもしれないからね」


 彼がいつもの優しい父親の笑顔に戻った後も、ヴィヴィアンは竦みあがる体と早鐘を打つ鼓動を抑えられなかった。




 ―――懐かしい夢を見た。


 まだ、母が存命だった頃の、ヴィヴィアンが5つくらい両親の仲も極めて良好だった時代。


 自分達親子3人は、バートリー家の領地で春の束の間の休暇を楽しんでいた。


 ヴィヴィアンがひらひらと優雅に宙を舞う蝶を目で追っていると、母が野原の上に広げた大きな敷布の上で付き添いの侍女と一緒にアフタヌーンティーの準備をしていた。焼き菓子を入れたバスケットからは、ヴィヴィアンの大好きなアップルパイの甘い香りが漂って来る。


 匂いに誘われるようにヴィヴィアンが敷布のところまで戻ると、母がヴィヴィアンに微笑みかけ、そして手元のティーポットに視線を移した。


 『ねぇねぇ、お母様。お父様はどこ?』

 『そうねぇ……どこへ行ってしまわれたのかしら?すぐに戻ると仰っていたけど』


 馬車を降りるときは一緒だったのに、いつの間にか姿を消している父に、ヴィヴィアンが大きなつぶらな瞳をくりくりと動かした。


 しかしすぐにその関心は母の手元に対象を変える。


 『お母様、この香り、ローズティーね?お母様とっておきの』

 『そうよ、とっておきのローズティー。愛する旦那様と可愛い娘のためにね』


 お行儀悪くヴィヴィアンは敷布に寝転がり、両肘を床についてその腕を支えに顔を固定させる。いつもはヴィヴィアンのそんな態度にお小言を忘れない母も今日は相当機嫌がいいのか、にっこりと頷いた。


 そして、いい?ヴィヴィアン、と呼びかけた。


 『お母様はね、大好きな人のためにお茶を注ぐこの瞬間が何よりも幸せなの。お父様に出逢って、女の喜びを知ったのよ』

 『女の喜び?』


 ヴィヴィアンは首を傾げる。


 『……やだ、ヴィヴィアンにはまだ早かったわよね。もう、私ったら娘になんて話を聞かせてるのかしら』


 急に両頬に手を当て、恥ずかしそうに顔を赤くした母。その仕草はまるでまだ10代半ばの少女のようにも見える。


 『……何が早いのかな?』


 その時、テノールの、それでいてどこか甘い響きのある声が後ろから降って来た。


 『……お父様!』


 ヴィヴィアンは反射的に満面の笑みを浮かべ振り返った。


 そこには、穏やかに微笑みながら妻と娘に視線を送る大好きな父の姿があった。その手には、まだ摘んだばかりの瑞々しい白い花の束が握られている。

 

 『まぁ、あなた、おかえりなさい……そのお花は?』

 『ここに戻る途中で見つけたんだ。グレース、君に相応しい美しい菫の花だ』

 

 母は父からその花束を受け取りきょとん、と小首を傾げた。


 『まぁ、ありがとう。白い菫を摘んで下さったのね?』


 母グレースも、その母から瞳の色を受け継いだヴィヴィアンもその珍しく絶妙な色合いを『菫のような』と形容されることがある。通常菫色とは美しい紫色を指す。父ヴィクトールが母に相応しいと持って来た菫が白色だったことにグレースもヴィヴィアンもクエスチョンマークを浮かべた。


 その時、普段めったに取り乱すことはなく、また弁舌巧みな父には極めて珍しいことに照れたように視線を逸らし、一瞬口ごもった。


 『ああ……その花は、〝純潔″を意味するから。白い菫こそ、君に似合うと思ったんだ。無垢で清らかな君に……』

 『あなた……!』


 その後の二人の熱々ぶりと言ったら、正直娘のヴィヴィアンでも見ていられなかった。


 子供心にも両親の舞い上がり具合に恥ずかしくなり、その場にいないふりを決め込んだものだ。


 それは、あまりにも平和で幸せな春休みの、優しい家族の思い出。ずっと忘れかけていた遠い記憶。


 あの時の、父の表情、仕草、母へかけた言葉―――。


 胸やけがしそうなほど、甘ったるいあの空気ですらも。


 結局は、全て、演技だったと言う訳か。


 

 今、自分自身がクリストファーにしているのと同じように―――。


 

 ―――ハッ、とそこでヴィヴィアンは引き戻されたように目を覚ました。


 懐かしい記憶と、それに絡みつく自分の複雑な感情がヴィヴィアンの体をまだ蝕んでいるようだった。ドク、ドク、という心臓の早鐘だけがいやに大きく響く。


 (……夢……)


 ヴィヴィアンは身体を起こし、かけ布を胸に引き寄せた。背筋に冷たいものが伝った。


 なぜ今、あんな過去の出来事を思い出したのだろう。


 (きっと、あの絵を見たせいね……)


 昨日、バートリー家を出る際に玄関ホールに昔と変わらずに一枚の油絵が飾られているのを見つけた。


 唯一残る、家族絵だ。


 自分の姿を記録に残させるのを嫌うヴィクトールがめったに許可しなかったそれを、グレースが何度も頼み込み、たった一度だけ実現したものだった。


 何故肖像画嫌いの父が自分も含めた家族三人が描かれているあの絵を、未だに飾ったままでいるのだろう。


 妻が死に、娘も結婚して出て行った自分しかいない屋敷で。もはや誰にも、偽りの家族愛をあえてアピールする必要はないのに。


 この期に及んでも、良い父親の演技をあくまで続けていくということか。


 ヴィヴィアンは、新たな黒い感情がふつふつと自分の中に湧き上がるのを感じ、目元を押さえた―――。



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