プロローグ
新シリーズになります。どうかお付き合い頂ければ幸いです。
―――忘れもしない、それは麗らかな春の、暖かな午後の事だった。
子供心にも、もう駄目なのかも、と思っていた不仲な両親が、その日は珍しく二人そろって午後のお茶を楽しんでいた。ほんの数年前までは当たり前だった、和やかに会話する二人の姿。とりまく柔らかな空気。
胸が期待に膨らむのを、クスクス込み上げそうになる笑い声を抑えるのに必死だった。
ヴィヴィ、まだ駄目よ、お父様とお母様を驚かせなくちゃ。二人が一番機嫌がいいところを見計らって、じゃーん、と登場するの。タイミングが肝心よ、じゃないとお母様からまたお仕事をしている使用人の皆を巻き込んでかくれんぼしてるのね、ってお小言をもらってしまうわ。せっかく二人が仲良くしてるんだから、お母様を怒らせてしまったらいい雰囲気が台無しよ。
私はさっきから潜んでいるクローゼットの戸の隙間から、息を凝らして両親の姿を覗き込んでいる。
あ、お母様が手ずからとっておきのローズティーを淹れたわ。あれは本当に特別な時のためのお茶だって言ってらしたもの。今日はとっても気分が宜しいのね。香りづけの香油まで入れて。
お父様もいつになく嬉しそうな瞳をしてらっしゃるし、お茶を淹れているお母様の腰に手を添えたりなんてして……きゃーっ駄目よ、娘の前なのよ、あんまり過激なことはなさらないでね!
私はドキドキしながら、でも顔に当てた両手の指をしっかり目の部分は開いて、声にならない悲鳴を上げた。
お母様が、淹れたばかりのお茶のカップを、ソーサーと一緒にお父様に手渡しする。そしてご自分も繊細な陶器のカップを持ち上げて、二人は一度微笑み合う。同時にカップに口を着ける、そう、今じゃない?私が出るべきタイミングは!
そう思って、私が内側からクローゼットの戸を開けようと、手を伸ばした瞬間―――。
―――ガチャン、と音を立てて父の持っていたカップが床に落ち、中身をぶちまけながら砕け散った。
ぐぅっ……!?と父が胸を押さえて、片膝を床に着いた。
「グ、グレース……お前!?」
父が驚愕の表情を母に向けた。しかし、その表情は次の瞬間さらに大きく驚きに歪められた。
母が、血を吐きながら大きく体を曲げ、床に崩れ落ちたからだ。
倒れ込んだ母は、ひどく咳込み、ヒューヒューと細かい風音をさせながら息をしていた。その背中は大きくブルブルと震え、クローゼットの戸の隙間からもはっきりと見えるくらい、ドレスから露出している母の首元や腕の肌の色が赤茶色く変色していく様が分かった。
「グレース!!毒を盛ったのか!!!」
激昂しながら父が叫んだ。普段は母に不実を責められていてもほとんど表情を崩さない冷静な父の、これほど声を荒げた姿を見るのはこれが初めてだった。
私はすっかり恐怖と驚きに身が竦み、クローゼットの中で一人声も出せず震えていた。
父よりはるかに多い量の毒を含んだのか、明らかに母の方が苦しんでいる。
見る見るうちに母の荒い息遣いが、さらに酷くなっていく。
「……最期まで憎らしい方。せめて、共に逝って下さったら良かったのに」
地獄の底から響くような声音で、母が呪いの言葉を吐いた。
「神の御前で夫婦の誓いをしたのですもの、苦しみを分かち合わなければ、約束を違えますでしょう?」
「貴様……!!」
「でもあなたの誓いは、偽りだったのですね。……こんな平凡な女、本当はひとかけらの愛情も持ち合わせてはいなかったのでしょう?」
もがき、苦しみながらも母は悪態を吐き、かすかに笑った。
「嘘はもうたくさん……もう、私を自由にして」
「グレース……!!許さん、許さんぞ!!お前にはまだ役立ってもらわなければならぬ!!何のためにお前には子を産ませたと思っているのだ!!!」
父はそう言うと、何を思ったのか割れたソーサーの破片を自分の腕に突き立てた。鮮血が飛び散り、腕から手の甲、指と血が滴り落ちるそれを、あろうことか激痛に歪んでいる母の口元に押し付けた。
私は、その異様な光景に凍り付き、瞬きも出来ず凝視した。
父は、一体、こんな時に何を……―――!?
「やめてっ触らないでっ、汚らわしいっ!!」
すでに土気色に染まった母が、ギラギラと憎しみの籠る瞳で父を睨み付け、渾身の力で父の腕を振り払った。
「グレースっっ!!このっ裏切り者がっっ!!!私を置いて逝くのか!!!!」
すっかり取り乱した父が、母の胸倉をつかみ、締め上げるように持ち上げた。母は激しく咳込みながら懸命に顔を背けている。その表情は苦悶に歪み、溢れ出した涙が頬を顎を次々と伝って落ちる。
「貴様を選んだ私が愚かだったわ、使えぬ女め!!!例え地獄へ逃げ込んでも、必ず引きずり出してやるぞ!!!!」
「あな……た……!!!」
すでに息も絶え絶えに、力を失いされるがまま締め上げられている母が、かすかに父を呼んだ。もうその目は光を失いかけていた。
「グレース!!!!」
「さよう……なら……」
そう、小さく呟くと、母の体は糸の切れたマリオネットのように不自然に傾いた。
「グレースっっ……グレースゥゥッ」
父の絶叫が響いた。
私は、必死に両手で口元を押さえていた。息を止め、身体の震えを制止し、湧き上がって来る激しい感情を抑え込むように。
目の前の光景が、悪い夢なのだと、否定するように。
―――それからどうやって、自分の部屋に戻ったのかは、覚えていない。突然のことにサロンを多くの使用人と、父が急いで呼びつけた医師や看護師が行き交い、既にこと切れていた母の亡骸はあっという間にどこかに持ち去られた。父は母が運び出されるよりも先に、自らの治療を受けることも無くいずこかに立ち去っていた。
母が亡くなったことを、父から知らされたのはその3日後だった。
父は私に、母は急な心臓発作で亡くなったのだと告げた。
その姿はいつも通り、私の前では冷静で優しく、そして愛妻を喪ったばかりでいかにも悲嘆にくれた父親像そのものだった。
死に化粧を施され、生前と違わぬ美しく整えられた母の前で、私は子供らしく泣いた。
すでに感情らしい感情は枯れ果ててしまっていたけれど、ここで泣かなければ父に不審がられると思ったのだ。
―――あなたが良い父親の演技を続けるならば、私もその舞台に立ち続けてあげる。
そう、その時私の胸には、父への強い憎しみが満ちていた。
父が母を殺したのだ。実際には母が無理心中を図り自ら服毒自殺したのだとしても、その原因を作ったのは他ならぬ父だ。
以前から父は外に何人も愛人を作り、母に暴力を振るっていた。その恨みつらみを、母は幼い私にも聞かせていたのだ。
そして、苦しみのたうちながら死にゆく母を、父は罵倒し、締め上げ、そしてこと切れたその体をまるでゴミでも扱うかのように、使用人に片付けさせたのだ。
―――最愛の父が、母を殺した瞬間、私を取り巻く世界は全て、偽りになった。それは、私が8歳になったばかりの、麗らかな春の日の出来事だった。