89.シルヴァー家の次女、がんばる
「う、うそでしょ……」
「もう終わりでよろしいですか?」
「――も、もちろん続ける!」
シルヴァー家の三女リリミと私の侍女リノキスは、まだ立ち合い稽古を続けるようだ。
うーん。
決して悪くはないんだが、やはりリリミはまだまだかな。
涼しげな顔で相手をしているリノキスの実力に、リリミはかなり驚いている。
きっと、自分が把握している師範代代理より強いとわかったからだろう。
リリミは天破流の門下生で、今は学院の天破流師範代代理ガンドルフの下で腕を磨いている。
――でも、立場だけで言ってしまえばガンドルフは私の弟子に近い存在だ。何せ本人が師と呼びたいと言ったくらいだし。
そして、もっと言うとリノキスに次ぐ二番弟子になる。
二番目の弟子より一番目の弟子の方が強いというのは、特に珍しいことでもない。
そんなこんなで、シルヴァー家に厄介になって一週間が過ぎた。
できるだけ、と詰め込んだこちらでの撮影が落ち着いてきて、ようやく午前中は休みが取れるようになった。
なので、今日はリリミと兄ニールに混じって、庭先で朝の修行に付き合うことにした。
ちなみにレリアレッドも武の道を行っているが、まだまだ初心者である。
しかも今は兄ニールがいるので、兄の傍では浮かれて訓練にならないということで、違う場所で専属侍女に鍛えられている。
まあ他家の事情はさておき。
恐怖の三十七本撮りの影響と、慣れない地での仕事とあって、最近は己の修行はおろかリノキスの面倒もあまり見てやれなかった。
そろそろしっかり鍛えてやりたいところである。
――夏休みはだいたい一ヵ月半、四十日前後。
新学期の前日までに寮に戻る必要があるのだが、私は撮影の兼ね合いもあるので予定が未定となっている。
恐らく、二、三日は前後するだろうと思われる。
しかも、夏休み最終五日はヒルデトーラの計らいで、王族のプライベート島で過ごすことになっているが。
実は彼女も、撮影関係で、きちんとした日程が決まっていなかった。
五日の休みは取り、島に行くのは決定しているそうだが、正確な日程はまだ決まっていない。
私は、あと数日ほどシルヴァー家の厄介になり、それから王都へ行く予定だ。
今度はヒルデトーラの付き合いで、王都の放送局の撮影である。
そして最終五日の休日は、王都の仕事上がりから王族の浮島へ、ということになっている。
……というか、これから王都でも仕事か。
自分で言うのもなんだが、働きすぎじゃないだろうか。
「――ん?」
いくら
と。
「……」
サッと植え込みの裏に隠れる女がいた。
隠れる動作が遅すぎるせいでばっちり見えた上に、植え込みの端からドレスの裾がむきだしなんだが、あれは……隠れているつもりなのか? それともばれるのを前提で動いているのか? こちらから声を掛けた方がいいのか?
時々見かける彼女はなんなんだろう。
いや、なんとなく答えはわかる気はするが。
この家でドレスを着ていて見覚えのない女となれば、シルヴァー家の家族で会っていない誰かだとは思うが。
しかし、だとしても。
こちらがどう動けば正解なのかがわからないので、なかなか動きようがない。
子供だけで厄介になっている以上、何か無礼があっては尻拭いをしてくれる大人がいない。いくら立場が一番上でも兄に負わせるわけにもいかないし。
たとえヴィクソン・シルヴァーがこの程度では怒らない人であるとわかっていても、それとこれとは話が別である。
リストン家の者として、こういう時はどう動くのが正解なのか。
このまま待てばいいのか、それとも――
「ひぃ、ひぃ」
呼吸が荒い。足が震える。腰なんて最初から引けっぱなしだ。
「む、むりぃ、これいじょうはぁ」
シルヴァー家次女リクルビタァは、彼女なりにがんばっていた。
穢れた外道のくそったれの貧乳のでもそこが密かにチャームポイントだと思っているような下劣で卑屈で臭そうでいやらしい人間で最近は外にも出ていなかった太陽を憎む女だが、彼女なりにがんばっていた。
大ファンであるリストン家の子供、ニアとニールが来た。
片方だけでも嬉しいのに、二人揃って来たという、何に例えたらいいのかわからないレベルの幸運が訪れていた。
間違いなくここ数年で一番のビッグニュースである。
こんなに動悸や脈拍や汗の量や手のひらのしめり気が異常なことになっているのは、小学部で慣れない運動をしてぶっ倒れた時以来である。
――彼女らが来た初日から、リクルビタァはがんばってはいたのだ。
失礼がないよう長女がデザインしたトレンディな正装用ドレスを着て。
侍女に頼んで年相応のメイクをしてもらって。
もっさりした赤毛も結んで。
もちろん服を着る前に風呂にも入って。
かなりがんばって、がんばってがんばって、己が身体が秘めたる潜在能力以上の清潔感を、無理やり引き出している。
そんな格好を、一週間ずっと作り上げている。
――最後の一歩が出ないのだ。
初日は、朝から準備してそわそわしながら半日以上待って、いざニアたちが到着したと聞いて完全に腰が引けた。
二日目は、朝食の席に同席しようとして、謎の腹痛に襲われて諦めた。
三日目は……まあ以降も色々あって。
なんだかんだでもう一週間である。
この一週間、ニアとニールに挨拶をする機会を伺いつつ近くには来たものの、最後の一歩が出てくれない。
小さい頃から絵が好きで、人付き合いが下手で、慣れている家族と近しい侍女くらいしかちゃんと話せない。
そのせいで、人付き合いから逃げるように絵に没頭し、今に至る。
学院の中学部を卒業してからは、家にこもって絵ばかり描いてきた。
この生活はそれなりに幸せで、でも少しだけ退屈だった。
そんな日常にやってきた変化が、
家に居ながら遠くの景色を観ることができる、観劇ができる、有名人の話を聞くことができる。
ひきこもりのリクルビタァは、強く
病床から復帰したというニア・リストンと。
ヒルデトーラも好きだったが、初めて
それが始まりで、いつしか元気なニアの姿を観るのが、日々の楽しみになっていた。
そんなこんなでファンである。
同性なのでさすがになんだかんだ異性間でやるようなあんなことやこんなことをしたいとは思わないが、しかしヌードは描きたいと思っている。そんな下心はちゃんとある。しっかりある。それゆえに裸を妄想したりもするし、それはそれで興奮する。幼女の裸見たい。そんな芸術肌の女である。
――でも正直、ちょっと、もう生ニアと生ニールを結構近くで見られただけで、割と満足していたりする。
最後の一歩が出ないのも、もうすでに満足感があるからなのかもしれない。
「……今日も、がんばった」
これ以上は無理だ、動悸がヤバイ、心臓が破裂する、脇汗が心配すぎる。
もうけがれなき子供たちの前に出られる心理状態でも肉体でもなくなってしまったと判断し、今日も部屋に引き上げることにした。
――父や姉が言うように、シルヴァー家の者として挨拶くらいはしておきたい、という気持ちはあるのだが。
――でも、ひきこもりにはなかなか難しかった。
「こんにちは」
…………
引き返そうとした視線の先に、さっきまで熱心に見詰めていた白い髪の幼女がいた。
透き通った青い瞳が、穢れた女をじっと見ている。
「ヒッ」
「ひ?」
「ヒィィイィィィイィィイイイ!!!!」
引きつった悲鳴が、シルヴァー領の空へと響くのだった。