07.もう一人家族がいた
私がニアになって二ヵ月が過ぎた。
両親の見送りと、天気のいい日は庭の散歩。まあ今日は雨なので散歩はなかったが。
そんな日課が安定してきた昨今、体調はかなり良い。
最近は咳もそんなに出ず熟睡できるようになったし、食事量も普通の子供くらいは食べられるようになったと思う。
ちなみにいつからか食事の量は増えなくなった。たぶん今が適量なのだろう。
病気に関しては、彼奴はもう瀕死という感じだ。
イメージ的には、もうすぐ忌々しい病魔の奴めの喉笛を掴めそうだ。
決して油断することなく、じっくりたっぷり時間を掛けて、ねぶるように最後まで削ってやろうと思う。
「お嬢様、今日はニール様がお帰りになるそうです」
うん? ニール?
「誰でしたっけ?」
「あなたのお兄様ですね。ニール・リストン様です」
最近色々と、リノキス自身のことも含めて、本来忘れないはずの常識的なことを質問してきたせいだろうか。
「兄の名前を知らない」という不自然極まりない疑惑にも、彼女は戸惑うことも躊躇うことも迷うこともなく、するっと応えてくれた。
正直、そんなにゆるゆるでいいのかとこっちが心配になるくらいだ。まあ面倒がなくていいか。
「私に兄がいたの?」
「その質問はさすがにダメです」
これはダメだったらしい。
仕方ないだろう。本当に知らないんだから。……ゆるゆるすぎるわけでもないのかな。簡単そうに見えて意外と掴みづらい侍女だ。
「アルトワール学院の小学部一年生で、夏休みなので寮からお帰りになるのです」
ほう。
「私との関係は良好だったのかしら?」
「私が知る限りでは、接点はほぼなかったと思います」
リノキスは半年前にリストン家にやってきた、倒れたニアに付けられた専属の侍女である。
つまり、彼女はリストン家について、半年前からしか知らないのだ。
兄ニールは、約五ヵ月ほど前にアルトワール学院に入学した。そして寮に入り、入学してからは帰ってきていなかった。
だからリノキスもあまり面識がないそうだ。
五ヵ月前はニアも病床にいたので、家族らしい接点もほとんどなかった。
そんな兄が、長期の休み……いわゆる夏季休暇に入るので里帰りしてくると。そういうことだそうだ。
まあ、しょせん四歳の女児に、兄ニールは六歳の男児だ。
しつこい油染みの汚れのような。
または心の柔らかなところにどす黒く染みついた血痕のような。
二人の間にどうしても拭いきれないような、真っ黒な思い出があるとも思えない。
兄は兄で帰ってくればいいだろう。
そんなことより、私は病を治すことに専念せねば。
まだ病との勝負は終わっていないのだから。油断せずに行こう。
と、思っていたのだが。
「ああ、帰ってきたようですね」
私の散歩が始まった頃に植えた虎無の花は、鉢の中で毎日少しずつ大きくなっていく。
庭師の一人が、あるいはリノキスが気を利かせたのか、私の花としてわざわざ用意してくれたものだ。そんなに気を遣わなくてもいいのに。
なんとはなしに成長を眺めているところ、リノキスが空を指差した。
見れば、どこか懐かしい
「木造の飛行船ね。古いものなの?」
「外側だけですよ。中身は最新型です」
「へえ。お兄様の趣味?」
「ええ。アルトワール学院の入学のお祝いに、旦那様と奥様から送られたものです。デザインはニール様の好みで決めたそうです」
ふうん。
どんな兄なのかは知らないが、趣味は悪くないな。
ここから見える範囲でだが、最近の飛行船は、剥き出しの金属質なものばかりだ。
あんな金属の塊が空を飛ぶなど考えられないだろうに。
そして両親は毎日、飛ぶはずのない金属の塊に乗って、どこぞへと仕事へ向かうのだ。ご苦労なことである。
なぜ金属の塊が空を飛ぶのか。まったく恐ろしい時代だ。
冗談は拳打を飛ばす程度にしてほしい。
まあ、これはできるが。
私はとっとと部屋に戻りたかったが、リノキスは「いいタイミングですから」と帰るのを拒否し、そのまま兄ニールを待つことになった。
隅々まで手を入れ綺麗に整えられた庭をゆっくり回り、池に住んでいる水色鳥が今日も肥え太っているのを確認し、玄関前へ向かう。
と。
小綺麗な服を着た少年と見慣れない侍女が、老執事ジェイズと話をしていた。
あれが今し方帰ってきた兄ニールと、兄の護衛兼使用人として同行している専属侍女だろう。
「――ニア!?」
何事か話をしていた少年が、キコキコとかすかな音を立てて押される、車いすに乗った私に気づき、走ってきた。
「元気になったとは聞いてたけど、もういいのか?」
「お帰りなさい、お兄様。体調はまずまずといったところです」
感心したように大きく頷き、弱りしなびて痩せ細った私を上から下から眺める兄。単純に驚いている、という感じだ。
兄が寮に入る前のニアは、子供の目から見ても、死相が見えていたのかもしれない。
実際、相当危なかった。
……というか本物のニアは無事ではなかったので、厳密に言うと「危なかった」というより「半分しか助からなかった」と言った方が正しいかもしれない。
「船旅でお疲れでしょう? 早くお部屋で着替えられてはいかが?」
「お、あ、うん。そうしよう」
驚きが収まる前にそう告げると、やや戸惑いながらも兄ニールは「あとでゆっくり話そう」と言い残して行ってしまった。ジェイズと兄専属侍女が荷物を持って追いかける。
「……ふむ」
去り行く兄専属侍女の動きに目が留まる。
あれもなかなか強い。
リノキスよりはできるようだ。
まあ、枝毛の処理より簡単な相手でしかないが。
「気になりますか? リネットのこと」
私の視線を追ったリノキスが、そんなことを訊いてくる。
「リネットとはあの侍女のこと?」
「ええ。リネットと私は同じ学年で、アルトワール学院中学部を一緒に卒業したんです。冒険科では時々パーティーを組んでいたんですよ」
なるほど、二人はそれなりに面識があるのか。
……なるほど、パーティーをねぇ。
…………
ダメか。
リノキスとリネット二人、雁首を揃えた上についでに老紳士ジェイズを添えても、車いすに乗ったまま左手一つで勝ててしまう。
こうなってくると最早あれだ。
自分の強さが悪いのかもしれない。
手頃な強者が欲しいものだ。