温泉へ(2)
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「ようこそベイティア・ホームへ。ご宿泊ですか? お食事ですか?」
密林を彷徨っていた私が集合意識でセリニアンたちに救難信号を発して、ようやく救助されてから30分。私たちはようやく温泉に隣接する宿屋の玄関を潜ることができた。ここまで来るのにどれほど苦労したものか……。
「泊りだ。2泊3日。頼めるか?」
「はい! では、お部屋にご案内します!」
あまり長い間休憩というわけにはいかないが2泊3日ぐらいは許してもらえるだろう。このところは戦いの連続で疲れたのだ。温泉に入ってゆっくりしたいところだ。
「では、どうぞごゆっくり!」
ホテルの従業員は私たちをホテルの1室に案内すると去っていった。
部屋はベッドは4つ。その他家具4人分。窓からは海が一望できる。まさに絶景だ。ひたすらに広大で工業汚染もない海というのはいいものじゃないかな。まあ、船に乗るのはもう勘弁したいところだが。
「女王陛下! 温泉に来ましょう! 温泉!」
「そうせかすな。私はグリフォンに小一時間遊覧飛行に付き合わされた挙句に遭難したんだ。少しゆっくりさせてくれ」
ライサが大興奮の様子だが、私はちょっと疲れた。
「じゃあ、待ちます!」
ライサはそう告げるとベッドに座り、じっと私の方を見る。かなり見る。
そう視線を浴びせられると休むに休めないのだが……。
「分かった、分かった。温泉でゆっくりしよう。温泉はどこにあるか聞いたのか?」
「はい! フロントで地図を貰ってます!」
待ってましたとばかりにライサが地図を取り出す。可愛い。
「では、行こうか。タオルは持った? 石鹸は? シャンプーは?」
「全部揃えてあります! 女王陛下は心配しすぎですよ?」
何事も確認が大事なのだけれどな。
「セリニアン、普段着は持ってきた?」
「はい。ハルハの街で買った奴を」
鎧のまま温泉に入るわけにはいかない。セリニアンはここで鎧を剥がしてから、普段着に着替え、それから温泉だ。
さて、私たちの格好だが、私は目立たない程度に装飾が施されたカジュアルドレス。ライサはボーイッシュに短パンとニーハイに黒いノースリーズのワイシャツだ。そして着替え終えたセリニアンが纏っていたのは、黒いロングスカートに白いワイシャツだった。
「セリニアン。何だができる女っぽいな。有能な秘書っぽいというか」
「え、え? そうですか? なるべく目立たないものをと思ったのですが」
そう告げてセリニアンが無造作にスカートをめくりあげる。
すると太もものところに短剣が……。目立たないってそういう意味なのか、君。
「ただスカートが長すぎるので動きにくいのがいけませんね。もう少し短いスカートを選ぶべきでした。あまり短いスカートは恥ずかしいですが……」
「セリニアンは常在戦場か。ちょっとは純粋にお洒落のことを考えてもいいんだよ。セリニアンはそのままでもとっても強いんだから」
セリニアンがロングスカートをつまんで告げるのに私がため息交じりに返す。
「いえ。陛下の身をお守りすることこそ私の存在意義。それなくして私はあり得ません。どうかこれからも陛下の身を守らせてください」
セリニアンは真剣な表情でそう告げてくる。
「当たり前だよ、セリニアン。私は君がいてくれるだけで心強いんだ。君からは勇気を貰ってる。これからもよろしく頼む」
「はい、陛下!」
やれやれ。服装の件からかなり脱線してしまった。
だが、セリニアンがいると安心するのは事実だ。セリニアンはいつも私を助けてくれる。危ない時はいつもセリニアン他のスワームと共にが助けてくれた。どこまでも信頼しているよ、セリニアン。
「さあ、じゃあそろそろ温泉に行こう。楽しみだ」
「楽しみです!」
私とライサはうきうきとした気分で部屋を出た。
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温泉は見事なものだった。
海を一望できる露天風呂も素晴らしいが、ゆったり寝ながら入れる寝湯があるのが嬉しい。私はここで暖まりながらのんびりと時間を過ごすのは最高なのだ。早速かけ湯をしたら、まずは露天風呂を堪能して、それから寝湯でゆっくり過ごそう。
「うわあ! とっても広いお風呂です! こんなに広いお風呂初めて見ました! 湖みたいですよ、お嬢様!」
ライサは温泉を見たときから大興奮だ。この子はエルフの森から出てきたばっかりだから見るもの全てが目新しいんだろう。私としては見慣れた温泉の光景も、ライサには未知のものなのだ。可愛い奴め。
「その、お嬢様? どこを見ておられるのですか?」
そういう私も未知のものを見ている。セリニアンの胸だ。
大きい。私の同学年にもこんなに大きな胸を持った奴はいなかった。万年中学生ボディと呼ばれてきた私には手に入らなかったたわわな胸だ。どういう風に過ごしたらこんなナイスバディになれるというのか。妬ましい……。
「お、お嬢様! お嬢様もお綺麗だと思いますよ!」
「そんな胸をして言われても説得力がないぞ、セリニアン」
私はセリニアンの胸を凝視する。じーっ。
「あの、お嬢様? お風呂入らないんですか?」
「ああ。入るよ、ライサ。このたわわな果実が水に浮くのか見てみたい」
ライサが私とセリニアンの様子を眺めて怪訝そうに尋ねてくるのに、私はセリニアンの胸を見つめながらそう告げる。じーっ。
「ふう。やはり温泉はいいな」
温かいお湯につかると嫉妬心も僅かに溶けた。
「見晴らしがいいのが素晴らしいですね」
「ああ。これだけ綺麗な海を眺めながら温泉に入れるとは。最高だよ」
セリニアンが告げるのに私がそう告げて返す。
「しかし、人が少ないな?」
これだけ立派な温泉旅館なのに温泉につかっているのは私たちと若い女性がひとりだけだ。他の客は見当たらない。まるで貸し切りの状態だ。
「ああ。これですか。戦争の影響ですよ」
私の疑問に答えてくれたのは若い女性だった。
「戦争の影響か」
「ええ。この島は無防備ですし、船はほとんど海軍に徴用されていて。だから、よほど暇のある人が、まだ海軍に徴用されてない小舟でやってくるだけなんです。まあ、それが私なんですけどね」
なるほど。船は海軍に徴用されている上に、島自体は城壁も何もない無防備状態だ。戦争が起きていることを考えれば、うかうかと島にやってこようとする人間はいないわけだな。もったいない。
「それと変な噂があってですね」
「変な噂?」
若い女性が告げるのに、私が尋ねる。
「何でも南から怪物が迫ってるって話で。新大陸のポートリオ共和国なんかが必死に抑え込んでいるそうですか、いつ敗れるかわからないと。怪物は南の大陸を蹂躙したら、島々を渡って北に来ると噂されてるんです」
南から怪物が来る。
私はそれを聞いた覚えがあった。確かナーブリッジ群島での革命の際に誰かがそのようなことを言ってはいなかっただろうか。
「まあ、ただの噂話。実際はこの戦乱の時代にはどこにもお金がなくて、島まで行ってバカンスっていうわけんにはいかないってところです。私は有名な銀行家の娘だから、こうして自由に旅行できているけれど」
そう告げてその若い女性は笑った。
「そういうものか……」
この戦乱の時代にのんびりバカンスができるのは限られた人間だけ。なんとも悲しい話ではなかろうか。
私は露天風呂から静かに海のなだらかな様子を眺めると、寝湯に向かった。
そこで横になって考える。この先のことを。
「お嬢様。何かお考えですか?」
「ちょっと、ね。私たちはどこまで進むべきかとか」
セリニアンが尋ねるのに私がそう告げて返す。
本当にこの戦争はどこまで進めればいいのだろうか。
ニルナール帝国を征服したらそれでお終い?
そうは思えない。
南にはなんらかの脅威が存在する。その脅威に対処してこそアラクネアの勝利と言えるのではんかろうか。だが、海を渡って新大陸に行きつき、そこで戦争を行うことなど可能なのだろうか。
そもそも私たちはニルナール帝国に勝てるのだろうか。ニルナール帝国に勝てなければ、新大陸のことを考える余裕もない。まずはニルナール帝国に勝利しなければ。その勝利がいかに難しいものであったとしても。
ニルナール帝国は次にどんな手を打ってくるだろうか。
フロース川を再渡河して東部商業連合に攻め込む。あり得ることだ。
あるいは攻撃の主軸をシュトラウト公国に移す。あり得ることだ。
あるいは防御を固めたまま動かない。これはあり得ないな。
様々な戦況が想像できる。様々な戦いが想像できる。様々な犠牲者が想像できる。
これ以上の戦争はやりたくはないな。けれど、やらなければスワームたちに約束した勝利は得られないし、アラクネアとその同盟者が危険に晒される。それはアラクネアの女王として許されないことだ。
戦い続けなければならない。それが今の私には少し辛い。
「お嬢様。お疲れですか?」
「少し、な」
セリニアンが隣に寝そべって尋ねるのに、私はため息交じりにそう告げて返した。
「ニルナール帝国は手強い相手だ。どう動くのかは分からない。もしかするととんでもないことをしてくるかもしれない。そう考えると戦い続けるのがつらくなる。戦いは裏の読み合いだからな」
そう、戦争は裏の読み合いだ。
相手は勝利するためにこちらが思ってもみないことをする。そして私たちも勝利するために相手の思ってもみないことをしなければならない。
「正直、相手の悪意を読み続けるのは疲れるよ。私は善意に囲まれて過ごしたいものだ。命を狙われたり、戦争を戦ったりすることなく、平穏に過ごしたい。私は自分の世界に帰りたい」
こう愚痴るのは何度目だろうか。
「その、自分の世界とは以前にもお嬢様が言っていましたが、こことは別の場所にあるのですか? 私たちがそこに行くのは本当に不可能なのですか?」
「無理だよ、セリニアン。私たちはいずれお別れだ。そのお別れの日までは共に過ごそう。君たちを過ごすのはきっといいものになると私は思っているよ」
そもそもこの世界は何なのだろうか。
ゲームの世界とは異なっている。ゲームの重装歩兵はもっと頑丈だった。ゲームのバリスタはもっと強力だった。ゲームの指導者はもっと単純だった。
それがここでは全てが違う。重装歩兵はリッパースワームに屠られるものがいる始末だし、バリスタでワイバーンを狙うことは難しく、ゲームの指導者と違ってこっちの指導者は悪辣だ。
「果たして私は生きて元の世界に戻れるんだろうか……」
──私は必ずあなたの魂を救います。
──あなたが殺したんですよ。自分の母親を。
頭痛がする。
私は、私は、本当に元の世界に戻れるのか?
サンダルフォンやサマエルの告げる言葉はまるで私が既に──。
「お嬢様?」
私は知らぬあいだに苦悶の表情を浮かべていた。それにつ気付いたセリニアンが私を気にして話しかけてきていた。本当に私のことを心配しているのは集合意識からも強く伝わってくる。
「大丈夫だ、セリニアン。私は平気だ。少し湯につかりすぎたみたいだ。ちょっと上がって、のんびりしてくるよ。また戻ってくるからライサと一緒に待っていてくれ」
「畏まりました、お嬢様。ですがお気を付けを。今日のお嬢様は……いつもより弱って見えました」
弱って見えた、か。
確かに弱っているのかもしれない。
ニルナール帝国との終わりの見えない戦争と私が本来の世界に帰れるかどうか。
このふたつがはっきりせずに私は弱り切っているのかもしれない。
だが、これまでだって分からないながらに戦い抜いてきたじゃないか。これからだってやっていけるとも。いや、やっていかなければならないんだ。私のことを信頼してくれているスワームたちのために。
私は少し熱を冷ますと、再び温泉に戻り、今度は楽しいことだけを考えた。セリニアンとの会話やライサとの会話。
セリニアンとはゲームでは何度も会っていたが現実で出会うのは初めてだ。私はゲーム中にセリニアンをうっかり死なせてしまった話をして、セリニアンは青ざめて冷や汗を垂らしていた。
ライサとは貴重な出会いだ。日本で暮らしてたらエルフにお目にかかることはない。彼らのおかげで初期の食生活が支えられ、彼らに起きたことで私のするべきことが決まった。彼女との出会いも重要なことだ。
この世界にも楽しいことや知らないことはいっぱいあるんだろう。
だけれど、私は家に帰りたいよ。
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