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ニルナール帝国の内情

…………………


 ──ニルナール帝国の内情



「東部商業連合を相手に敗北とは」


 皇帝マクシミリアンは報告書を見て鼻で笑った。


「我が軍は相当腰抜けになったようだな。本来ならばフロース川というだけではなく、東部商業連合を支配下におさめて軍資金を得る計画だったのだが。これでは賠償金は請求されても軍資金は得られそうにない」


「全く以て遺憾です、陛下。軍人たちは楽な戦いに慣れすぎていたのでしょう」


 マクシミリアンが告げるのに、皇帝果房長官のベルトルトがそう返す。


「そうだな。これまでの戦争は楽だった。ワイバーンを飛び回らせていれば、子供でも勝てるほどの戦争だった。だが、今回は相手がまるで異なるということを、将軍たちは理解していない」


 南部統一戦争ではワイバーンが主力となり、敵の野戦軍を焼き尽くし、それによって勝利してきた。ワイバーンこそニルナール帝国の勝利の象徴であり、それが崩れることは決してないと思われていた。


 だが、事態は変わった。


 アラクネアはワイバーンに抵抗できる戦力を有し、ワイバーンに対抗してきている。今までのようにワイバーンを飛ばしているだけで勝利が得られるほど簡単なことではなくなっているのだ。


「かといってリントヴルムを投入しても相手は勝利してきた。あのリントヴルムを相手にどう戦ったのか実に興味があるな。あの怪物は何人にも止められるものではないと思っていたのだが」


 リントヴルム。ニルナール帝国の秘密兵器。それは華々しく登場して勝利をもぎ取ろうとしたが、それもまたアラクネアに防がれた。アラクネアはワイバーンのみならず、リントヴルムにも対抗できるというわけだ。


「軍の方はどうなさいますか?」


「フランツ教皇国に攻め入った部隊は撤収させろ。戦略を根底から練り直す必要がある。我々がやるべきは第一に本土防衛、第二に大陸の統一だ。いずれ南から死者たちがやってくる。それまでには大陸を統一しておきたいところだ」


 南からの死者とはなんだろうか?


「フランツ教皇国から撤収させた部隊は本土防衛に充てる。防衛線はフロース川に沿った線で配置される。野戦陣地と攻城兵器、竜たちの配置を忘れるな。我々も怪物を使役しているが、相手もまた怪物を使役しているのだ」


 マクシミリアンは存外あっさりとフランツ教皇国からの撤収を決めた。今やフランツ教皇国とニルナール帝国を繋ぐのはハープル湿原かエルフの森しかないと考えるならば、これは妥当な判断であるだろう。


「攻撃の主力はシュトラウト公国に向けられる、ただし、あの忌々しい山道は通らない形でだ。理解できるな?」

「はっ。理解しております」


 マクシミリアンが告げるのに、ベルトルトが頷く。


「それから……アラクネアの女王と呼ばれる指導者は子供だそうだな。なんでも14歳程度の少女だそうではないか」


「皇帝官房第3部はそう報告しておりますが、正直なところ私には信じられません。なんらかの擬態ではないでしょうか?」


 マクシミリアンが不意に話題を変えるのにベルトルトが渋い表情を浮かべる。


「同じ大陸のビッグプレイヤー同士、話してみたいことがある。連れてこい」

「陛下。相手は化け物の群れに守られているのです。我々が女王を拉致したり、暗殺したりすることは事実上不可能です」


 マクシミリアンの無茶な要求にベルトルトが冷や汗を流しながらそう告げる。


「我々にはその化け物を殺す化け物がいるはずだ。それを使え。こういう時にこそ役に立ってもらわなければな」

「まさか“ゲオルギウス”を? あの化け物を覚醒させるのですか?」


 ゲオルギウス。これまで名前だけが語られてきた正体不明の存在。


「そうだ。そろそろあ奴にも起きて、仕事をしてもらわないとな。化け物を殺す。そのためのゲオルギウスだ。我らがニルナール帝国にして、グレゴリアの英雄。その真価を見せてもらおうではないか」


 マクシミリアンが愉快そうにそう告げるのに、ベルトルトは固まっている。


「では、命令を下す。フランツ教皇国に侵攻した部隊は撤収。フロース川で防衛線を構築せよ。攻撃主力はシュトラウト公国へ。そして、ゲオルギウスを覚醒させて、アラクネアの女王を俺の下に連れてこい」


「畏まりました、陛下。ご命令のままに」


 マクシミリアンの命令にベルトルトはただただ頷く。


 君主の命令であれば、どのようなものだろうと従うのが臣下の務め。


 ベルトルトは命令を伝達しに消え、執務室にはマクシミリアンだけが残った。


「さて、アラクネアの女王。いよいよ対面だ。お前がどのような野望を持ち、この大陸を侵略しているか聞かせてもらおうか。それが分かった時、初めて帝国は南の脅威に目を向けることができる」


 そう告げてマクシミリアンは大陸の地図を広げる。ふたつの大陸の地図を。


「南の脅威はいずれ北上する。神聖オーグスト帝国もポートリオ共和国も脆弱な壁。死者たちはそれを乗り越え、ひたすらに北を目指すだろう。そうなればこの大陸も無関係というわけにはいくまい」


 南。この大陸の南にはナーブリッジ群島を挟んで別の大陸が存在していた。ナーブリッジ群島からは距離があるが、それでもこの大陸と接しそうなほど近い。


「その時には大陸が団結していることを祈る限りだ。光の神ではなく、竜の神に」


 マクシミリアンはそう告げると、地図を仕舞い、再び執務へと戻ったのだった。


 アラクネアの女王との対面を夢見ながら。


…………………


…………………


「皇帝陛下は命じられた。軍の主力は北部に置くと。そして、またシュトラウト公国を攻める際には山道を使わないとも命じられている」


 命令を受けたベルトルトは陸軍参謀本部でそのように告げる。


「ですが、山道を通らなければシュトラウト公国への道は閉ざされたも同然です。皇帝陛下はどのようにせよ、と具体的にご命令なのですか?」


 軍の中でも若い将校がベルトルトにそう問い詰める。


「いいか。陛下は命じられたのだ。山道を通る方法ではなく、別の方法を探せ、と。それに逆らうつもりか? 軍は命じられた任務を全うできないと皇帝陛下に報告してもいいのか?」


「い、いえ。そのようなつもりは……。ただ、山道を通らないとなると……」


 ベルトルトが若い将校を睨むのに、若い将校はたじろいだ。


「早い話がここを利用せよと仰っているのでしょう?」


 将校の中でも大将の階級章を付けた男がひとつの線を地図上で描いてみせた。


「それが正しいかは分からない。だが、それならば山道を使わずにシュトラウト公国を攻めることができるだろう。皇帝陛下の命に沿った形だ」


「皇帝陛下も随分と言葉をはぐらかされる。率直に命じられればいいことを。このような命令を下すこと自体、さしたる時間もかからないでしょうに」


 ベルトルトが頷くのに、大将の階級章を付けた軍人が肩を竦める。


「皇帝陛下のご命令に異を挟むつもりか、ハッセル大将」

「いいえ。私は皇帝陛下に忠誠を誓っております故」


 ハッセル──ヘルムート・フォン・ハッセル大将は陸軍参謀本部の中でもっとも優れ、同時にもっとも疎まれている将軍であった。彼が皇帝マクシミリアンにする言葉を選ぶことを放棄しているがために。


「では、陸軍はそのように手配せよ」

「リントヴルムはどれほど動員していいと皇帝陛下は仰っているのです?」


 ベルトルトが命令を下そうとするのにハッセル大将が言葉を挟んだ。


「無制限だ。無制限に使用できる。このことは皇帝陛下からいつまでも勝利を得られない陸軍に対する温情だと思うように。陸軍が正攻法で勝利できていれば、我々は化け物の力に頼らずともいいのだからな」


「それはまた。我々が化け物を戦場に送り出すのは、敵も化け物だからでしょう。その点を勘違いしてもらっては困りますな。我々はただただ自分のできる範囲で任務を行っています。その中に重装鎧をかみ砕く化け物や、人間を一瞬で溶かす怪物への対処は含まれていないのです。それは人間の戦いではないために」


 ベルトルトが告げるのをハッセル大将は鼻で笑ってそう返した。


「皇帝陛下のご意志に反するつもりか、ハッセル大将」

「いえ。私は世の不条理を嘆いただけであります」


 ベルトルトが睨み、ハッセル大将は肩を竦める。


「ならば、皇帝陛下の命令を全うせよ」

「それなのですが、北東部にいる兵力の撤収にはフリース川は使えないのですか? あのハープル湿原を進むとなると落伍者が出かねませんが」


 ハープル湿原は天然の要害だ。重装歩兵は沼地に足を取られ、リントヴルムも速力が落ちる。できることならばここを通過したくはないというのが、軍の将校たちの一般的な見解であった。


「フロース川は封鎖した。もう使えん。だが、代案があるならば聞いておこう」


「フロース川の上流がハープル湿原なわけだが、そこから若干下ったところを渡ればいい。流れは急だがリントヴルムが渡るには問題ないし、工兵隊が橋を架ければ少数の兵力を少しずつ対岸に渡せる」


 フロース川の水源はハープル湿原だ。そこから若干下に下ると、流れは急なものの川幅も狭く、架橋可能な場所がある。リントヴルムならば橋などなくとも対岸に渡れるし、重装歩兵たちは橋を使って対岸に渡ることができる。


「よかろう。好きにすればいい。だが、失敗した場合は分かっているな」

「そうやって将兵の責任ばかりを問うていると将兵は消極的になり、結果として敗北を招きますぞ。私が言うことではないかと思いますが」


 ベルトルトが告げるのにハッセル大将が首を横に振ってみせた。


「ハッセル大将。あまり皇帝陛下に挑戦せぬことだな。寿命を縮めるぞ」

「そういう返答ですか」


 ベルトルトはあくまでマクシミリアンを至上の存在とし、ハッセル大将の意見は聞かなかった。


「では、陸軍参謀本部はただちに作戦の策定にかかれ。我らが皇帝陛下は諸君らが勝利をもたらすものだと確信している。その期待に背かないことだ」


 ベルトルトは最後にそう告げて、陸軍参謀本部を去った。


「どう思われますか、ハンマーシュタイン元帥。今更攻撃の矛先をシュトラウト公国のあの攻略ラインに定めるなどとは。いくら何でも方針転換が急すぎます。今も東部商業連合攻略部隊がフロース川の付近に待機しているのに」


「だが、しょうがあるまい。皇帝陛下のご命令だ。軍を速やかに機動させ、シュトラウト公国の攻略に向けるしかない。ただし、敵には悟られぬように。念には念を入れ、北東部の部隊の撤退は可能な限り遅らせ、兵力の増援を派遣するように見せかけて、シュトラウト公国の攻略部隊を編成する」


 ベルトルトが去ってからハッソウ大将がハンマーシュタイ元帥と呼ばれた軍人に話しかけた。ハンマーシュタイン、ホレス・フォン・ハンマーシュタイン元帥。帝国陸軍でも古参の軍人である。


「ともかく我々はやれることをやるだけだ。帝国軍人は皇帝陛下に従うのみ」

「それで勝利が得られればいいのですがね」


 陸軍参謀本部ではそれからも将軍たちによる軍議が続き、徐々に新たな戦場へと向けて動き出そうとしていた。


 それは新たな流血と惨劇の始まりである。


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