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ハープル湿原の戦い

…………………


 ──ハープル湿原の戦い



 東部商業連合の南西部には湿地帯がある。


 ハープル湿原と呼ばれる場所で、とても自然豊かな場所だが、軍隊の行進には向いていない。湿地が足を取り、軍隊の動きはどうしても鈍る。


 ニルナール帝国軍もこの湿原には悩まされていた。兵士たちはスワーム対策のために重装歩兵がほとんどで、その重みで足が湿原にのめりこむ。ここを突破するのはどこまでも困難なことのように思われた。


「なあ、俺たちはこんなに前線を広げてどうしようっていうんだ?」

「俺が知るかよ。そういうことはお偉いさんに聞け」


 ニルナール帝国軍の一般兵たちは何故、自分たちがここまで拡張政策を取るのかを疑問に感じていた。旧マルーク王国領を奪い、今なシュトラウト公国に攻め込んでいる。加えてフランツ教皇国に侵攻し、その次は東部商業連合。


 明らかに戦争のやりすぎだ。ニルナール帝国が軍事強国だとしても限度がある。


「しかし、この湿原は歩きにくくてたまらないな」

「象たちも同じ感想みたいだぞ」


 ニルナール帝国には戦象部隊がいる。硬い鎧で全身を覆い、無敵の存在として前進する動物たちだ。その象たちも、この湿原に足を取られて上手く前進できていない。


「ああ。早く戦争なんて終わってくれればな」

「国に帰りたい。いつまでもよく分からない異国の地にいるのはうんざりだ」


 ニルナール帝国の兵士たちはそう愚痴りながらも上官の命令に応じて前進する。


「おい。何か音がしなかったか?」

「気のせいだろう。俺には何も──」


 兵士のひとりが耳を澄ませ、もう一方の兵士が首を横に振った時、弓矢の嵐が湿原に吹き荒れた。無数の弓矢が降り注ぎ、ニルナール帝国軍の兵士たちを射抜いていく。重装歩兵でも高速で飛来する弓矢からは完全には守られない。


「怯むな! 進め! 敵は近いぞ!」


 そんな中で指揮官が号令を下し、ニルナール帝国軍の歩兵部隊は進軍する。


 だが。歩兵も戦象も湿原に足を取られて上手く進めない。弓矢だけがニルナール帝国軍に降り注ぎ、歩兵が倒れ、戦象が苦痛から暴れる。その戦象に踏みつぶされるニルナール帝国軍の歩兵もおり、まさに大混乱だ。


「何をしとるか! 前進しろ! 前進だ!」


 指揮官は必死に前進を命じるも、その命令は虚しく響くだけである。


「前進、前進!」


 辛うじて盾を構えて弓矢から身を守った重装歩兵の一団が湿原を突破する。


 だが、彼らを出迎えるのはスワームではなかった。


「隻眼の黒狼団! 突撃!」


 傭兵団だ。軽装歩兵からなるハルバードで武装した集団が待ち構えていた。


 彼らは隊列を組み、ニルナール帝国軍に向けて前進する。


「応戦しろ!」

「敵はただの傭兵団だ! アラクネアではない! 叩きのめせ!」


 ニルナール帝国軍は相手がスワームではないと知って安堵した。


 しかし、その安堵は間違いだった。


「ニルナール帝国の連中に俺たちの恐ろしさを思い知らせてやれ! かかれ!」


 団長のコンラードが命じると、ハルバードがニルナール帝国の重装歩兵に突き出された。重装歩兵と言えども、この鋼鉄の塊による攻撃を完全に防ぐことはできず、肉を切られた兵士たちが血を流す。


「何をのろのろしている! 敵は眼前だぞ!」

「しかし、指揮官殿! この鎧の重さでは!」


 指揮官が叫ぶのに重装歩兵が叫び返す。


 そうなのだ。重装歩兵はリッパースワームを封じ込めるのに必要なユニットであるが、通常の対歩兵戦闘では重すぎ、動きを制限するだけなのだ。彼らは満足に動けず、コンラードの傭兵団によって次々に切り倒されていく。


「クロスボウ兵! 弓矢を浴びせかけてやれ!」


 続いてコンラードの傭兵団のクロスボウ兵が素早くハルバード兵の背後に展開し、クロスボウの狙いをニルナール帝国の傭兵団に向ける。


「放て!」


 コンラードの号令でクロスボウ兵が一斉に弓矢を放ち、放たれた弓矢がニルナール帝国軍に降り注ぐ。


「ぐあっ……!」

「この! こちらの弓兵は何をしている!」


 これまでリッパースワームやジェノサイドスワームなどを屠ってきたクロスボウの威力は重装歩兵を仕留めるにも十分だ。クロスボウで頭を射抜かれた兵士が痙攣しながら地面に崩れ落ち、胸に弓矢を受けた兵士が気泡の混じった血を吐きながら倒れる。


「こちらの弓兵はまだ後方です! 湿地帯に足を取られています!」

「急がせろ! このままでは全滅だぞ!」


 部下の報告に指揮官がいら立ちを露わにする。


「さあ、そろそろ時間だ。騎兵突撃!」


 コンラードは高らかとそう叫び、馬の嘶きが響く。


「騎兵だと! たかが傭兵団が騎兵を有しているというのか!?」


 ニルナール帝国軍の指揮官がうろたえたようにニルナール帝国軍の隊列に向かって騎兵が突撃を始めていた。簡易な装具だけの軽装槍騎兵で、蹄の音を鳴り響かせながら、湿地帯を出たばかりのニルナール帝国軍に突撃していった。


「対騎兵防御! 対騎兵防御だ! 円陣を組め!」


 ニルナール帝国軍の指揮官は必死になって叫び、歩兵たちが動く。


 だが、既にハルバード兵とクロスボウ兵でズタズタにされたニルナール帝国軍の歩兵部隊では騎兵から完全に身を守ることは不可能であった。


「突撃ぃ!」

「フラアアアア!」


 騎兵は雄叫びを上げて、ニルナール帝国軍の歩兵部隊に突入する。


 騎兵の槍でニルナール帝国軍の歩兵が串刺しにされ、血飛沫が舞い散る。盾を構えていた兵士も騎兵の衝突を前にしては虚しく盾を弾かれ、後方から迫った騎兵に串刺しにされた。そして、倒れた死体は騎兵に踏みにじられていく。


「指揮官殿、弓兵が到着しました」

「もう遅い。遅すぎる……!」


 ニルナール帝国軍の弓兵が到着したときには前衛の重装歩兵は全滅していた。


「せめて戦象を出せ! あれがあればこの連中に一矢報いることができる!」


 ニルナール帝国軍の戦象はこの混乱の中で何頭かが逃走したが、未だに100頭あまりの数が残っている。それを敵の隊列に突っ込ませれば、蹂躙してやれるはずだ。戦象の突撃はハルバード兵などで防げるものではない。


「弓兵、撃ち方始め! 戦象、前へ!」


 ニルナール帝国軍の指揮官の命令で弓兵が射撃を始め、その前方を戦象が突き進む。戦象のその巨体を前に傭兵団は圧殺されてしまうかのように思われた。


 だが──。


「総員、回避!」


 ハルバード兵はギリギリでステップを踏んで横に飛び、戦象の突撃をかわした。


「なんだと! 回避しただと!」


 戦象の弱点は騎兵と違って小回りが利かないことだ。一度突撃を始めると、その方向にのみ進むことになってしまう。そんな向きの決まりきった突撃を回避するのは実に容易なことなのだ。


「わき腹を突け! 象どもを仕留めろ!」


 コンラードが命じるのに戦象の脇に立ったハルバード兵が戦象のわき腹を刺す。


 戦象は苦痛に悲鳴を上げると、暴れながら地面に倒れていった。


「戦象との戦いはニルナール帝国とさんざんやり合ったから知ってるんだよ。さあ、新しい手を打てよ、ニルナールのクソ野郎ども。次は何だ?」


 重装歩兵は壊滅し、戦象部隊も全滅し、残るは弓兵だけとなったニルナール帝国軍にもはやできることはない。


「クソ! 撤退だ! 迂回路を探すぞ!」

「了解!」


 そして、とうとうニルナール帝国軍は撤退を始めた。弓兵が足止めのために弓矢を放ちそれから再び湿地帯に向けて撤退していく。


「逃がすな! 追え! ニルナール帝国に目にもの見せてやれ!」


 重装歩兵で足取りが重かったニルナール帝国と比べてコンラードの傭兵団は軽装で足が速い。彼らは駆け足前進し、ニルナール帝国軍の弓兵を追撃する。再び湿地帯に入って足を取られたニルナール帝国軍の命運は絶望的なものだと思われた。


 だが、そう簡単にはいかなかった。


 上空から雄叫びがこだまし、何かが急降下してくる。


「クソ! ワイバーンだ! 対空防御! 対空防御!」


 そう、ニルナール帝国軍が誇るワイバーン部隊がコンラードの傭兵団に向けて急降下してきた。そのことにコンラードは歩兵たちに盾を構えさせ、間違いなくやってくる空からの攻撃に備える。


 そして、衝撃。


 ワイバーン12頭が一斉に火炎放射を放ち、コンラードの傭兵団を焼く。


 ワイバーンの炎は盾を構えていても防御できるものではない。炎は地上を舐めるように広がっていき、ハルバード兵やクロスボウ兵を火あぶりにする。


「クロスボウ兵! 反撃だ!」


 ワイバーンが急降下攻撃を追えて上昇していくのに、クロスボウ兵が弓矢を放つ。何発かの弓矢は命中し、ワイバーンが悲鳴を上げ、騎手が傷を負って振り落とされる。


 だが、与えられたダメージは微々たるもの。ワイバーンは勝ち誇ったように飛び去っていき、ニルナール帝国軍の弓兵部隊も装備を捨てて逃げ出してしまっていた。


「クソ。忌々しいワイバーンめ。あれをどうにかしないとこの戦争は負けだぞ」

「ワイバーンをどうにかすればいいのか?」


 コンラードが愚痴るのに応じるものがいた。


「ああ。ワイバーンさえいなければ互角に戦えるはずだ。だが、ワイバーンを撃ち落とすのにはバリスタでも持ってこないと無理だ。バリスタを野戦でいちいち組み立てるのも無理に近い」


「ならば、我々の出番だな」


 コンラードの言葉にアラクネアの女王グレビレアは小さく笑ったのだった。


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