忍び込む毒
…………………
──忍び込む毒
シュトラウト公国が崩壊してから、多くの住民が難民としてフランツ教皇国に押し寄せてきた。国境からはスワームたちが城壁を作り出したことで追い払われ、教皇ベネディクトゥス3世の命もあって、難民たちはフランツ教皇国に受け入れられた。
だが、そこで難民たちを待っていたのは地獄であった。
そこら中を徘徊する異端審問官たち。少しでも光の神の教義に逆らえば処刑される。そんな異端者狩りの国へと難民たちは迷い込んでしまったのだ。
娼婦は真っ先に火炙りにされた。それから乞食が。それから商人たちが。そして、無差別に火炙りにされていった。
シュトラウト公国の難民たちは異端審問を恐れて東部商業連合などに逃げ出そうとするが、異端審問官たちが出入国を監視しており、光の神の教えを守っていなければ逃げることもできない。
そんな中、ひとつだけ異端審問官の影響を受けていない不浄な地があった。
それはフランツ教皇国首都サーニアの郊外にある4階建ての家屋。
「お待ちしていましたわ、司祭様」
そう告げるのは露出の多いドレスを身に纏った若い女性だ。
「ああ。いつものように頼むよ。ワインもいつものを」
「畏まりました」
ここは娼館だ。
娼婦たちは真っ先に光の神の教えに背くとして火炙りになったが、聖職者たちを相手にする娼婦たちは、聖職者たちが手回ししたおかげで生き残った。彼女たちは表向きは聖光教会のシスターとなっている。なんとも酷い話だが、世界とはそういうものだ。
元々フランツ教皇国は聖職者が貴族のような国家だ。下っ端ならともかく、上位の聖職者となるとその地位は東部商業連合の議員レベルか、ニルナール帝国の高位貴族並みのものとなる。
そんな彼らが快楽を手放すはずもなく、彼らは民衆に光の神の教えを説きながら、自分たちは娼館で楽しんでいた。
「準備ができました、ジャケッタ司祭。こちらへどうぞ」
暫くして、また先ほどの女性が戻ってきて、司祭を呼ぶ。司祭は玄関広間の椅子から立ち上がると胸を躍らせて、女性の案内するままに部屋へと付いていく。
「さあ、どうぞごゆっくり……」
女性は司祭を部屋まで案内すると怪しげな笑みを浮かべると去っていった。
「デイジー。今日は君に贈り物があるんだ」
司祭はそう告げて部屋に入る。
「あら、プレゼント? 嬉しいわね」
部屋の中では下着姿の女性が司祭を待っていた。月夜の光に太ももが輝き、透けたキャミソールからは上半身が透けて見えている。どこまでも煽情的なその姿に、司祭が息を飲むのが分かった。
「これだよ。最近は海賊が多くて物流が滞っているが、陸路で取り寄せた。ナーブリッジ群島の黒真珠だ。ネックレスにしてある。受け取ってくれ」
「まあ、嬉しい、ジャンニ! ナーブリッジの黒真珠だなんてめったに手に入るものじゃないのに!」
ナーブリッジ群島とは東部商業連合の沖合にある群島だ。かつては東部商業連合の一部だったが独立し、今は交易国家として栄えている。
そこの黒真珠は有名なもので、貴婦人たちは社交界にでるのにナーブリッジ群島の黒真珠を買い求め、意図的に流通量を操作しているナーブリッジ群島の商人たちから高値で購入するのだ。
司祭は“清貧たれ”という光の神の教えなど知ったことではないというように大金を支払い、この富の象徴ともいえるナーブリッジ群島の黒真珠を手に入れていた。
「実は私も今日はジャンニに贈り物があるの。目を閉じていてくれる?」
「ああ。いいとも」
どんなプレゼントだろうかと下衆な想像をしながら司祭は目を閉じる。
「口を開けて」
娼婦がそう告げてキスをするのにジャンニは言わるがままに口を開く。
その次の瞬間だ。口の中に何かが入り込んでくる感触がしたのは。
「──!」
司祭は目を見開いてそれを吐き出そうとするが遅すぎた。
それ──パラサイトスワームはしっかりと喉に定着し、喉から触手を伸ばして司祭の体を支配した。司祭は虚ろな目を浮かべると、ぐるりと一回りしてゆらゆらした動きで部屋から出ていった。
「お帰りですか、司祭様」
「ああ。今日は、帰る」
司祭はそう告げると、娼館から去っていく。
「ご苦労様」
司祭が去ってからすぐに少女の声が響いた。
「これで10人目だ。それも半分は政治中枢に食い込んでいる。まさに見事な仕事だ。感服するよ、マダム・アメリア」
ぱちぱちと乾いた拍手を送るのはアラクネアの女王だ。
「約束は果たしているのだから、対価はいただくわよ」
「もちろんだとも。君たちにも気前よく略奪品を分けよう」
娼館の主であるアメリアという女性が告げるのに、アラクネアの女王はパチンと指を鳴らした。すると奥から木箱を持った男が現れ、ドンと床にそれを置いた。そして、バールを使ってそれを抉じ開けて見せる。
中に入っているのは輝かしい宝石類だ。ルビー、サファイア、ダイヤモンド。様々な宝石が詰まった箱を前に、アメリアが息を飲む。
「これ、全部いいのかい?」
「その代わりこれからも協力してもらうよ。さもなければ君にも死んでもらうだけだ」
そうアラクネアの女王が告げるのに、箱を運んできた男の顔が割れ、そこから鋭い牙を持った昆虫が顔を出す。そのことにアメリアはひっと小さな悲鳴を上げ、後ろに下がる。アメリアはこの怪物が前の娼館の主を食い殺すさまを見ているのだ。
そう、前の娼館の主は食い殺された。マスカレードスワームによって。
話が始まるはこれから2ヶ月前のこと。
ある日、このアラクネアの女王を名乗る少女と下男の姿をしたマスカレードスワームが娼館を訪れた。元の娼館の主に自分たちに何も言わずに協力すれば、多大な富を与えようと告げて。
元の娼館の主はそれを断った。
自分たちには独自の稼ぎがある。聖職者たちに秘かに女を売って、儲けるという仕事がある。よく分からない相手と危険な橋を渡るつもりは毛頭ないとすげなく返した。
それからすぐに元の娼館の主はマスカレードスワームに食い殺された。頭を牙で裂かれ、砕かれ、そのまま肉の塊に変えられた。
その様子を見ていたのがアメリアだ。アメリアは元の娼館の主に使われていた娼婦のひとりで、接客のためにその場にいたところをおぞましいものを目にする羽目になってしまった。人の姿をした蟲が、人を食い殺す光景を。
「ねえ。君はこの人と仲が良かったかい?」
「い、いいえ。この男は娼婦の使い方が荒くて、どんな変態にも娼婦を売るんです。皆から嫌われていましたよ」
アラクネアの女王がのんびりとした口調で尋ねるのに、アメリアがそう返す。
「ならば、君に頼もう。君が娼館を引き継ぎ、私たちと取引してくれないかな? それなり以上の報酬は約束するつもりだよ」
そう言われ、マスカレードスワームの牙が向けられればイエスというより他に方法はなく、アメリアはアラクネアの女王と秘かに手を組んだ。
アメリアは娼館の主となり、アラクネアの女王は陰でそれを操る。時折、娼婦に気味の悪い蟲──パラサイトスワームを渡しては、それを高位の聖職者に飲み込ませることを要求していた。今回のように。
アメリアがこの取引で得をしたかどうかは分からない。これで膨大な富を手にすることはできたが、同時に異端審問官に探られれば不味い点もできた。失敗すれば常に娼館にいるマスカレードスワームに食い殺されるか、異端審問官に火炙りにされる。
「異端審問官のことは心配する必要はないよ。異端審問官たちの幹部は既にここに来て、私たちの支配下に入った。異端審問官がここに押し入ってくることはない。君がこの宝石の山の使い道を間違わない限り、だけれどね」
アメリアの心を読んだかのようにアラクネアの女王はそう告げる。
「どのみち、今のフランツ教皇国では金の使い道なんてないだろうけど。高級店は異端審問官に清貧の教えに反すると言って店主ごと焼かれ、一般の店でも金を使いすぎるものは処刑される。ほとんど配給制のようになってる」
フランツ教皇国の状態はアラクネアの女王が告げたようになっていた。
高級服、宝石、レストランなどの高価な商品を提供する店は光の神が定める“清貧の教え”に反するとして店主を中に閉じ込めたまま焼き払われた。
一般の店では物品統制が行われており、人々は僅かな物資しか手に入れることができない。余剰の食料品などはフランツ教皇国がアラクネアと戦うために準備した兵士に配布されている。
「早くこんな時代は終わっちまうといいんだけどね」
「すぐに終わるさ。何もかも、ね」
まるで性質の悪い社会主義国家になったかのようなフランツ教皇国の現状を愚痴る娼館の主アメリアに、アラクネアの女王はそうとだけ告げた。
終わる。何もかも。
この言葉の意味をアメリアは理解していなかった。
本当に何もかも終わってしまうということを。
…………………