シュトラウトの衝撃
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──シュトラウトの衝撃
シュトラウト公国のアラクネアによる陥落は大陸全土に響き渡った。
フランツ教皇国首都サーニアにおいてもその知らせは届いていた。
「シュトラウト公国は陥落。予定通り、か」
教皇ベネディクトゥス3世は力なくそう呟く。
「あの国は一度神の裁きを受けるべきだったのです。金ばかりを盲信し、信仰を忘れた愚か者たちは、神の裁きによって真に大事なものが何かを知るべきだったのです。これであの国も浄化されたでしょう」
そう告げるのは枢機卿のパリス・パンフィリだ。シュトラウト公国を見捨てるのを決定したのは、このパリスであった。
「神の裁きというが、実際は怪物による蹂躙ではないか。こんなものを神の裁きというのは我らが光の神への冒涜ではないか。このようなものは神の裁きではなく、悪魔の洪水のように感じられる……」
「いいえ。これは神の裁きです。この世の全ては神がもたらされること。蟲の大軍であろうとも、それは光の神がからもたらされたものです。少なくともそれが背信者を裁くものである限りは間違いなく」
起きたのは神の裁きなどではない。シュトラウト公国はアラクネアに侵略されたて蹂躙されたのだ。それが事実だ。これを神の裁きと呼ぶのは神に対しても、アラクネアに対しても侮辱に等しい。
「確かにシュトラウト公国は金、金、金と光の神ではなく金ばかりを信仰していた。だが、それよりももうシュトラウト公国の銀行家に取り立てられなくて安堵するものたちの方が多いことを褒めたたえるべきだろうか?」
「解釈はご自由に。ですが、これが光の神による裁きであることは変わりありません」
このベネディクトゥス3世も教皇に当選するのに、シュトラウト公国の銀行家から多大な融資を受けて、未だに返済できていない。ニルナール帝国でも、東部商業連合でも、同じようにシュトラウト公国の銀行家に借金があるものがいる。
そのものたちにとってシュトラウト公国の陥落は朗報だろう。
「ですが、これが神の裁きと言えども我らが敵が悪魔であることに変わりはありません。エルフ、ドワーフなどの亜人が信仰する悪魔たちの軍勢です。一度このフランツ教皇国に攻め込むつもりであるならば、光の神の御威光を輝かせましょう」
「うむ。だが、敵はマルーク王国に続いてシュトラウト公国すらも陥落させた。ニルナール帝国抜きの連合軍で本当に太刀打ちできる相手だろうか?」
連合軍は未だにニルナール帝国が離脱したままだ。ニルナール帝国は再三の要求も無視して、連合軍には加わらないという姿勢を明確にしている。連合軍は大陸最大のプレイヤーであるニルナール帝国抜きで進行せざるをえない。
「我々には光の神のご加護があります。勝利は確実でしょう。それに──」
パリスが二ッと笑ってみせる。
「いざとなれば我々には光の神への真の信仰をもたらしてくださった“マリアンヌ”の遺産を使うという手があります。そう“熾天使メタトロン”を呼び覚まし、背信者たちを灰燼と化してやろうではないですか」
「そうならないことを願いたいだけだ。あれは何が起きるのか想像もできん」
パリスの笑いにベネディクトゥス3世は渋い表情でそう返したのだった。
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フランツ教皇国の沖合に列島がある。
列島というには小さく、島というには大きい。
そこが海賊たちの楽園アトランティカだった。
ここでは各地で商船を襲い、港町を襲い、略奪して築かれた富が積みあげられている。血塗れの富で、このアトランティカの外に出してしまえば、悪霊たちに呪われてしまうとすら言われていた。
「シュトラウト公国が滅んだってえ?」
今のこのアトランティカの頭領は右目に眼帯をした大男アキーレ・アレッサンドリという人物だった。彼は見た目に反して政治的で、交渉によって前頭領から今の頭領の座を譲り受けていた。
「なんでも大陸は蟲の大軍が現れて大荒れらしい。あのマルーク王国が滅んで、シュトラウト公国が滅んで、次はどこが滅びるのかが賭けのネタになっている」
「本命は?」
「フランツ教皇国だ」
アキーレが尋ねる相手は右頬に深い刀傷が刻まれた人物。ブラスコ・バルトリである。彼はアキーレの右腕であると同時に、残忍な性格で知られ、これまで逆らってきた部下や身代金の払えない人質を何人もサメの餌に変えている。
「なら、シュトラウト公国を襲うのは控えた方がいいな。碌なことがないだろう。大陸の2強国を屠った怪物を相手にしたって、大したものはとれやしない。リスクとリターンが釣り合わないってもんだ」
海賊は野蛮だと思われがちだが、彼らも考えて行動する。
下手に強国を刺激して、討伐部隊を出されないギリギリの範囲で略奪と殺人を繰り返す。そして、海賊の法に逆らうものは容赦なく処刑し、アトランティカの治安を維持するのだ。
「あたしは今こそシュトラウト公国を狙うべきだと思うけれどね」
そう告げるのはアキーレとは反対の左目が潰れ、眼帯で覆っているとても大柄な女性だった。彼女は頭領であるアキーレの意見に真っ向から反対してみせる。度胸があるとはこのことだろう。
「何故、今シュトラウト公国を襲うのがいいんだ、イザベル?」
「何故なら連中の国が滅んだなら連中の海軍も滅んだってことだからだよ。今港町を襲えば奪い放題で、逃げるのも楽ちんだ。これ以上にシュトラウト公国を襲撃しない理由があるか?」
この女性はイザベル・イスマエル。ここ最近頭角を現してきた海賊だ。
「確かにその点は考えられる。蟲は海には出れないだろう」
「それが出れるらしい。首都ドリスを覚えてるか? あの海の上に浮かんだ島だ。蟲どもはそこを船で攻めて陥落させたらしいぞ」
どういうわけか既にアラクネアが首都ドリスを陥落させた方法は出回っていた。
「そうはいっても所詮は蟲だ。セイレーンでもシーサーペントでもない。あたしは怖くないね。あんたらが怖がるならあたしだけ行って、あたしだけがっぽり儲けてくるさ」
イザベルはそう告げると席を立ち、ナイフをクルクルと回しながら去っていった。
「気に入らない新入りだな」
「どうせ今に破滅する。ああいうタイプの奴は、自分に驕ってとんでもない失態をしでかすんだ。あんたのところに泣きついてきた日には、あの体を堪能してやるといい」
アキーレがそう告げ、ブラスコがそう返す。
大陸が動く中、島も動いていた。
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東部商業連合。
巨大帝国ニルナール帝国と信仰の中心地フランツ教皇国の狭間にその国はある。
「静粛に! 静粛に!」
どんどんと木槌の音が打ち鳴らされるのは、大陸でもっとも愉快な場所と謳われる快楽都市ハルハである。ハルハにいけばどんな快楽でも得られるというのが、大陸で広く知られていることであった。
そして、それを証明するようにハルハの街には娼館が軒を連ねる。店の前では下着姿の女性が道行く男性を誘惑し、あるいは下着姿の男性が逞しい肉体で女性を引き付けている。もちろん女性の方に女性が釣れたり、男性の方に男性が釣れたりすることもあるが。
何はともあれども、快楽都市ハルハは自由と快楽の都市だ。大陸の各国では規制されている薬物も自由に使用できるし、あちこちの地下闘技場では本物の殺人ゲームを観戦することができる。
フランツ教皇国はハルハを堕落した神の炎で焼かれるべき都市だと宣言し、南部統一を目指すニルナール帝国は内心邪魔だと感じている。
そんなハルハの位置する東部商業連合はその名の通り、商人たちの国だ。商業ギルドがいくつも合わさって国家を形成し、冒険者ギルドや傭兵ギルドといった軍事力で国を守っている。
そんな商人の国が、今揺れていた。
「蟲の大軍で国が壊滅するなどありえるはずがない!」
「そうだ! 連合軍というが事実上はフランツ教皇国の軍隊だろう!」
快楽都市ハルハの中心部には東部商業連合の中枢である連合議事堂が位置する。
連合議事堂では今、シュトラウト公国が陥落した件と、これからどう動くべきかを話し合う会議が行われていた。
「シュトラウト公国が陥落したことは紛れもない事実だ。それは情報ギルドのマコーリー記者も確認している。今は難民たちがフランツ教皇国に逃げ込んでいるそうだ。誰もマコーリー記者の情報は疑うまい?」
議長が尋ねるのに、議事堂がいったんは静かになる。
「だからと言ってフランツ教皇国なんぞと手を組むのは願い下げだ! あの国はこの素晴らしいハルハのことを光の神の炎で焼かれるべきだと13回も繰り返したのだぞ! そんな国と同盟できるか!」
「いいや。言ったのは15回だ。こないだの演説でもハルハは神の裁きが下るだろうといっている」
だが、再び議事堂は騒がしさに包まれた。
「静粛に! 静粛に!」
再び議長の木槌が鳴らされる。
「連合軍から脱退するのも手のひとつだ。それはフランツ教皇国との関係悪化を招くことは言うまでもないが。だが、いざ蟲がフランツ教皇国を征服すれば、誰がこの国を守るというのだ?」
議長は列席者たちにそう尋ねる。
「それは冒険者ギルドよ!」
「そうとも! 魔獣退治なら冒険者ギルドに任せろ!」
そう意気揚々と声を上げるのは冒険者ギルドのギルド長たちだった。
「それならばまず敵の正体を掴んできてもらいたい。蟲という情報だけしかないのでは対策を取るにも取れん。誰か蟲の蠢く敵地に潜入できる凄腕冒険者はいるか?」
「うちのギルドにならいるぞ!」
議長が尋ねるのに、ある冒険者ギルドのギルド長が手を挙げた。
「なら、任せる。敵の正体を探り、できれば弱点を探ってもらいたい。それから……交渉することができるのかも」
「交渉? あんたは魔獣が出たら魔獣と交渉するのか?」
議長の言葉に列席者たちからは呆れた声が上がる。
「可能性を探るだけだ! あらゆる可能性を模索していかねばならん! 以上だ!」
こうして騒がしい会議は終わった。
東部商業連合という大国に挟まれた国家がどう動くのか知るものは少ない。
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ニルナール帝国帝都ヴェジア。
シュトラウト公国が陥落した今、敵と接することになったこの国には緊迫した雰囲気が形成されている。帝都では憲兵隊が軍靴を鳴らして警備に当たり、閲兵式は数え切れないほど行われている。
まさに戦争前夜だ。
それに加えてニルナール帝国独自のものも我が物顔で帝都に存在していた。
ワイバーンだ。
ワイバーンの編隊が空を飛び去り、炎を吐くと、観客たちからは歓声が上がり、ワイバーンは急速旋回して空の上に軌跡を描いて飛びまわっていた。
このワイバーンたちこそがニルナール帝国が南部一帯を支配する強国と化した要因のひとつである。ワイバーンがなければ、今頃はニルナール帝国は南部のただの一か国に過ぎなかっただろう。
「皇帝陛下」
「どうした、ベルトルト?」
ワイバーン飛行隊の飛行を閲兵していた皇帝マクシミリアンの耳元に皇帝官房長官のベルトルトが声をかける。
「シュトラウト公国が陥落しました。首都ドリスは壊滅。連合軍は未だに動く気配を見せません。モグラの情報ではフランツ教皇国は今回の事件を利用して勢力拡大を狙っているとのことです」
「フランツ教皇国の生臭坊主たちの考えそうなことではあるな」
ベルトルトの報告にマクシミリアンが小さく笑う。
「だが、我が国抜きの連合軍など背骨のない人間と同じこと。その場で脆くも崩れ落ちるのは目に見えておる。肝心なのはいつ連合軍が愚かにも怪物たちを攻撃し、瓦解への道を辿るかだ」
マクシミリアンはそう告げて曲芸飛行を披露してみせるワイバーンに拍手を送る。
「では、“偽装動員計画”は予定通り?」
「予定通りだ。よきにはからえ」
ベルトルトが何かを確認するのにマクシミリアンはそう告げて鋭い視線をベルトルトに向けた。
「失敗は許されんぞ、ベルトルト。情報を集めて細心の注意を払って実行せよ」
「畏まりました、陛下」
ワイバーン飛行隊のアクロバット飛行が繰り返される下では、世界の命運を決定づける動きが動き始めていた。
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