葛藤
…………………
──葛藤
「──陛下! 女王陛下!」
私を呼ぶ声がする。
いや、私は女王だなんて大層な立場だったか?
私はただのゲーマーだ。ひとつのゲームを心から愛するゲーマーだ。女王陛下だなんて大層な立場じゃない。
ああ。豚肉のケチャップ炒めをレンジで温めないと。今日の晩御飯はまだじゃないか。サラダ用のドレッシングはちゃんと残しておいてあるよな。なら、今日の晩御飯は豚肉のケチャップ炒めを温めるだけででき上がりだ。
「女王陛下。お願いです。目を覚ましてください……」
泣くような嗚咽が混じった声に私は目を開いた。
目を開いた先は私の住み慣れた部屋じゃなかった。
異国情緒のある作りの部屋で、私はベッドの上に横になっていた。照明などはなく、窓ガラスから差し込む光だけが光源となっている古臭い部屋だった。
そして、私の胸元には私の胸に顔を埋めているひとりの女性。
「セリニ、アン?」
私は何故かその女性が誰かを知っていた。
「女王陛下! お目覚めになったのですね!」
私の一言で嗚咽は止み、女性がパアッとした明るい表情で私の顔を見つめてきた。
「私は……私はどうしたんだ?」
状況が分からない。
私は先ほどまであの自分の部屋にいて、あのゲームをプレイしていたはずだ。それなのに何故こんな場所にいるんだ?
私の頭は混乱していた。
「女王陛下。お体はもう痛みませんか?」
「私は女王陛下なんかじゃないよ」
セリニアンと私が呼んだ女性が尋ねるのに、私は首を横に振る。
「まさか、女王陛下はこれまでの記憶を失われたのですか? 記憶の病なのですか?」
「少なくとも君の言っていることは分からない」
私は平凡なゲーマーだ、ただアラクネアを使うのが少し上手いだけの。
……アラクネア? そういえば私はアラクネアで最近プレイしていなかった?
「ライサ! 女王陛下が目を覚まされたが、様子がおかしい! 来てくれ!」
ライサ? それも聞いたことがある。新たバージョンアップされたゲームでプレイアブルになっていたキャラクターだ。私の陣営にはいつの間にか加わっていて、セリニアンと共に騎兵の突撃を……。
「女王陛下!」
私がそんなことを考えていたとき、そのライサが姿を見せた。
ゲームで見たときと同じ背中から蟲の脚を生やし、手には長弓を持った子だ。彼女は背に弓を背負うと私の傍に駆け寄ってきた。
「女王陛下。ご気分等は大丈夫ですか?」
「少し混乱している」
何故私はゲームのキャラクターと会話してるんだ。私がプレイしていたゲームはリアルタイムストラテジーであってRPGじゃないんだぞ。それなのに全てがリアルだ。セリニアンの柔らかそうな頬も、ライサの細い腕も触れば心地いい感触が得られそうだった。
「こ、心地いいいですか。女王陛下が望まれるならば」
「!?」
私が思った言葉が伝わった。
まさか、そうなのか。私は、もしかすると──。
「セリニアン。私の立場を教えてくれ」
私は迷いもなくそう尋ねる。
「我らが女王陛下です。我らを勝利へと導くことを約束されたアラクネアの女王。それがあなたの立場です、陛下」
ああ。ああ。そうなのか。
私は記憶を取り戻した。ここはアラクネアが異物として入り込んだ世界。私たちはシュトラウト公国でクーデターが発生したために、フランツ教皇国が攻め込んでくる前に、シュトラウト公国を実力で支配するために兵力を進めていたのだった。
──ですが、いずれあなたの魂を救ってみせます。あなたが悪魔の描いた檻の中に閉じ込められてしまう前に。
これは檻なのか。あの少女は何を言っていたのだろう。
「思い出したよ、セリニアン、ライサ。私は君たちの女王だった。そんな重要なことを忘れていたなんて、私はどうかしていたよ。私は君たちを勝利に向けて導かなければならないというのに」
私は一息つくと、そう告げてセリニアンとライサを見渡した。
「女王陛下っ!」
すると、セリニアンが私に抱き着き、胸に顔を埋めてわんわんと泣く。まるで子供みたいに、彼女は泣きじゃくった。
「泣かない、泣かない。セリニアンは騎士じゃないか。騎士はもっとしゃんとしていなければいけないんだよ?」
「ですが、ですが、女王陛下が我々のことを全て忘れられてしまっていたらどうしようかと……! それに女王陛下が目を覚まさなかったらどうしようかと……!」
私がセリニアンをそっと抱きしめて告げるのに、セリニアンがぐずぐずとそう告げて、涙でいっぱいの顔を上げた。
「もう涙がいっぱいだ。ごめんね、セリニアン。心配をかけてしまって。だけれど、私は大丈夫。私はもうどこにも行かないよ。君たちを勝利に導くまではどこにもね。私は約束したのだから」
私はそう告げて服の裾でセリニアンの涙を拭う。
「それで私はどれくらい意識を失っていたんだい?」
「2、3日というところです。毒消しの薬を定期的に投与していたらなんとか」
私が尋ねるのに、ライサが安堵した表情で答える。
「2、3日か。その間に動きは?」
「ありません。敵は戦力の集中に腐心しているようです」
私が尋ねるのに、セリニアンがそう返す。
「そうか。では、やられた分はやり返さないといけないな。私を死の罠にかけようとした報いは受けてもらおう。死には死をだ」
──決して人の心を忘れないでください。
忘れないとも。だけれど、私たちはやらなければいけない。私たちは報復しなければいけない。マリーンの街で虐殺を繰り広げた連中を相手に、その他の都市で虐殺と略奪を繰り広げた敵を相手に。
私たちは同じように虐殺を繰り返す。それが人間の営みじゃないか。
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…………………
「全く以て理解できない!」
そう声が上がるのはシュトラウト公国の諸侯軍の陣営であった。
「我々は勝利のために集ったはずだ! それが何故ここで待ち草臥れなければならないというのだ! 今こそ敵との決戦を求めて突き進むべきではないのか! そうではないか、諸君!」
声を上げているのはアドリアン・ド・アルデンヌ侯爵であった。
彼は自分の率いる軍5万名を引き連れて、まるで動こうとしないシュトラウト公国第14代公爵レオポルド・ド・ロレーヌとその取り巻きたちを非難していた。
「今は押さえるべきときです、閣下。今動いては敵の思う壺。今、フランツ教皇国の軍が動いたとの情報が入っています。我々はそれらと合流し、戦力を固めてから敵に向かって突撃するべきです」
そう告げるのはレオポルドの弟であるローラン・ド・ロレーヌだ。彼はこの諸侯軍を指揮する権限が与えられていた。
「そうですぞ、アルデンヌ候。ロレーヌ公は敵対者を片っ端から絞首刑にしていますからな。あなたも吊るされたくなければ、ロレーヌ公には逆らわないことです」
「全く。ロレーヌ公などに権力を与えるべきではなかった。シャロン公の時にはこのような悲劇には見舞われなかったというのに。シャロン公を弾劾したのは大きな間違いであったな」
諸侯たちの多くはレオポルドの施政に不満を抱いている。彼が彼に反発的な諸侯を虐殺したことや、彼の無能が原因で西からアラクネアが攻め込んできたことに大きな不満を抱いていた。
「そう仰られず。兄はちゃんとフランツ教皇国との同盟に成功しました。これからはニルナール帝国にも、アラクネアにも怯える必要はなくなります」
ローランはそのように告げて、諸侯たちをなだめようとする。
「それで、次はフランツ教皇国の生臭坊主どもの言いなりになるのですか。ニルナール帝国に仕えた方がマシだったと思わないといいのですがね」
「フランツ教皇国も所詮は傲慢な大国だ。自分たちこそが神の教えを受けた唯一の国家だと思っている。教皇に大金を支払わなければ、罪が許されぬとは。光の神とはそこまで懐の狭いものだっただろうか」
ローランの説得も虚しく、諸侯たちは不満を露わにする。
「フランツ教皇国はいい同盟国になりますよ。間違いありません」
ローランはそう告げていたが、彼自身でもその問題のフランツ教皇国がどこまで信用できるかは謎であった。
フランツ教皇国はこれまで信仰を口実に様々な負担をシュトラウト公国に求めてきた。やれ教皇の就任式典の金を出せや、やれ宗教の式典を開くから金を出せや。あらゆる口実を付けてはシュトラウト公国に金銭的な負担を強いていた。
そのような国を同盟国にして本当にどうにかなるのだろうか。フランツ教皇国もニルナール帝国同様に傲慢な大国そのものではないのだろうか。
「ローラン卿。正直にお話しください。フランツ教皇国との同盟は正解だったのですか? あなたの兄上は間違った方向に向かわれてはおられぬのですね?」
諸侯のひとりが真剣な表情でローランにそう尋ねた。
「今は判断できない。僕としてはシャロン公を弾劾したのは失敗だったと思っている。この国難の時期において指導者がすげ代わるのは大きな問題だと思っている。兄さん──ロレーヌ公がシャロン公のような指導力を発揮できるかどうかわからないというのに」
ローランはセザールを弾劾するのには反対だった。彼はこの国難の時期において指導者が代わるのは大きな問題だと思っていた。
それに西に存在するアラクネア。彼らはまことに獰猛な侵略を成し遂げつつある。それを押しとどめる手段はないのではないかと思えるほどの侵略を行っている。
セザールの言う通りにアラクネアと同盟していれば今頃はこんな戦いを繰り広げる必要もなかったのかもしれない。
「やれやれ。とはいえど、我々はロレーヌ公の船に乗ってしまった。乗ってしまった以上、船が沈まないようにするしかない」
ローランの告白を聞きながら、諸侯のひとりがため息を吐く。
「そうだ。我々の手は真っ赤に染まっている。ロレーヌ公に反発する貴族を始末し、その領地を焦土とするのに我々の手は真っ赤に染まってしまった。こればかりは祈ってもどうにもならないだろう」
ここいる諸侯軍もレオポルドの命令で反抗する貴族を処刑してきたグループだった。シュトラウト公国の団結のためと銘打って、彼らは反抗する諸侯たちを絞首刑にし、領地を焦土に変えてきた。
「報告! 報告!」
諸侯たちが話し合っているときに、伝令の兵士が馬で駆けこんできた。
「敵の怪物を捕捉しました! 数は50! 西に向かって逃走!」
「来たか! 腕の見せ所だな!」
伝令の兵士が叫ぶのに、諸侯たちが立ち上がった。
「待ってくれ。罠かもしれないではないか」
「ここで戦わずしていつ戦うというのか。フランツ教皇国が如何に同盟国と言えども我らが国土を守るのは我々だ。我々が戦い、己の国土を守ってみせてこそ、フランツ教皇国も我らの独立に敬意を示せるというもの!」
ローランが引き留めるがそれは無駄だった。
血の気が多い諸侯たちはこれまでの報復とばかりに兵を率いて西に向かっていった。騎兵が1600、歩兵が15万の諸侯軍は西へと消え、誰も戻ってこなかった。
ローランが諸侯軍が壊滅したとの報告を受けたのは2日後のことで、彼は東へと向かって生き残った諸侯軍を率いて逃走した。
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