燻る炎
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──燻る炎
フランツ教皇国首都サーニア。
「つまりマルーク王国は陥落した、と……?」
その驚くべき知らせを執務室で聞くのは、フランツ教皇国の主にして聖光教会教皇であるベネディクトゥス3世である。
「はっ。先ほど入った情報によりますと、3週間前にマルーク王国に入ろうとした隊商が国境の検問で未知の生き物に襲撃されて逃げ帰ったとのこと。それから冒険者たちが雇われてマルーク王国の貿易都市リーンの街を調査したころ完全にその生物に支配されていたとのことです」
教皇の右腕である枢機卿のパリス・パンフィリが報告する。
「首都シグリアはどうなっているのだ? 陥落しているのか?」
「それは分かりませんが、絶望的かと。既に大使からの連絡も途絶えていますし、リーンの街のような重要な地点が占領されているのにそれを解放する意図もない点から考えますと……」
ベネディクトゥス3世が続けて尋ねるのに、パリスがそう告げて返す。
「これならばもっと早く救援隊を準備するべきであった。我々は魔獣の氾濫ぐらいでマルーク王国のような強国が陥落するはずがはないと高をくくっていた。それが間違いだったのだ」
フランツ教皇国はマルーク王国からの救援要請を受けて軍を準備していた。傭兵たちを招集し、兵站の準備を整え、出陣前の祈りを捧げ、救援隊出発までの準備を着々と進めていた。
だが、それは無駄になった。マルーク王国はフランツ教皇国がのろのろと出陣準備を行っている間に陥落してしまったのだ。
「これからどう動くべきだろうか……」
ベネディクトゥス3世はマルーク王国の陥落という衝撃に考え込む。
「まずはマルーク王国が実際にどうなったのかを把握するべきかと。敵──マルーク王国を襲った未知の怪物について把握せずして、遠征軍を送り込むのは危険が多すぎます。まずは冒険者たちにマルーク王国を調査させましょう」
「そうだな。マルーク王国の生き残りなどもいるかもしれん。冒険者には謝礼をはずむからマルーク王国を隅々まで調査させ、マルーク王国に何が起きたのか。マルーク王国を襲った敵は何者なのかを調べさせるべきだ」
冒険者たちはこの世界に暮らす半傭兵のような存在だ。傭兵と違って大きなグループは作らず最大でも16名程度。サバイバルのスペシャリストであり、彼らは傭兵でも行動できない場所の調査などを行うことができる。
そして、魔獣退治も彼らの仕事だ。魔獣退治は冒険者ギルトが独占する事業であり、傭兵などは魔獣退治には手を出せない。
「それから大陸諸国会議を招集しましょう。マルーク王国を襲ったのが何者かは現段階では依然として不明ですが、マルーク王国を滅ぼすほどの戦力。我らがフランツ教皇国だけで立ち向かうのは些か無謀」
「そうではあるが、ニルナール帝国が首を縦に振るかが分からんな。あの国は我々の再三の和平交渉の仲介を無視して戦争を進め、南部一帯を征服しおった。そのような国を大陸諸国会議に招いても、場を乱すだけではなかろうか……」
ニルナール帝国も光の神を崇める大陸の主流派だ。だが、彼らはその中心に立つ教皇を無視している節がある。教皇はニルナール帝国が戦争を起こすたびに和平仲介を申し出て戦争を穏便に終わらせようとしたのだが、ニルナール帝国はそれを黙殺して相手国を完全に征服し、併合している。
「ニルナール帝国はマルーク王国と国境を接しております。彼らとて隣国が得体のしれぬものたちに占拠されたとなれば、腰を上げ、我々の戦列に加わるでしょう。そうでなければ、ニルナール帝国が怪物の侵略を受けても我々は無視すると告げればいいのです」
「そうだな。彼らには少しばかり我々の教権というものを思い出してもらわねば」
ニルナール帝国が共同歩調を取るかどうかが大陸諸国会議の留意点だ。彼らは大陸で最大の軍事力を有している。南部一帯を支配した軍事力は今も健在で、今でも虎視眈々と北進することを目論んでいるとすら言われている。
「そういえばエルフたちについてはどうなっている? 怪物は西のエルフの街から現れたと聞いているが」
「エルフたちについては未だに蛮族です。奴らは依然として光の神を崇めず、野蛮な森の神を崇めています。森の神とやらに生贄を捧げているのです。奴らを教化することは不可能でしょう」
フランツ教皇国もエルフたちを蛮族だと見做している。エルフに関する不確かな噂を流したのはそもそものところフランツ教皇国なのだ。彼らがエルフは野蛮だと宣伝して回り、光の神こそが正しい神だと告げているのだ。
もちろん、全ての国がそれを信じているわけではない。
ニルナール帝国にはエルフが普通に交易を行っているし、シュトラウト公国は最下層民に位置付けながらも一応の権利を与えている。
「大陸諸国会議はいつ頃開くべきだと思うかね?」
「ニルナール帝国への根回しが済んでからにするべきでしょう。ニルナール帝国が会議を乱さないように、根回しをしておかなければ。些か袖の下も必要となるでしょうが、ご許可をいただけますか?」
「許可しよう。交渉ごとに金貨はつきものだ」
ニルナール帝国への根回しは言葉だけでは成功しないだろう。この手の物事には時として多数の金貨が必要となる。ニルナール帝国の大使が会議を台無しにしてしまわないように、大使が少なくも会議の進行に同意するだけの準備はしておかなければ。
「では、早速」
「待ちたまえ。冒険者に任せるのも結構だが、我々独自での調査も必要ではなか?」
パリスが動こうとするのに、ベネディクトゥス3世がそう告げた。
「となると、神秘調査局4課を?」
「そうだ。ニルナール帝国の動向を探るのにも、エルフを調べるにも、マルーク王国を調べるのにも」
フランツ教皇国には諜報を担当とする部署として神秘調査局という部署が存在する。それらは各セクションに分かれ、4課は極秘調査を担当する部署だった。時折、暗殺なども実行する。
「分かりました。神秘調査局には秘密裏に命じておきます」
「任せたぞ」
かくて、フランツ教皇国は秘かに動き出した。
その頃、大陸の各地でも動きがあった。
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シュトラウト公国首都ドリス。
この交易と金鉱山で栄えた国家にもマルーク王国の凶報は響いていた。
「マルーク王国が壊滅した可能性だって?」
セザール・ド・シャロン第13代シュトラウト公爵は驚きの表情を浮かべた。
「はい、陛下。マルーク王国は謎の生物の攻撃を受けて王都シグリアまでもが陥落した模様です。現在、あの国に入ることはできません。国境線にはその謎の生き物がうろついており、侵入者を攻撃するのです」
宰相のカロン・コルベール枢機卿がそのように報告する。
「参ったな。まさかよく分からない理由でマルーク王国を失うだなんて。彼らはニルナール帝国への抑止力としてきて機能することを期待していたのに……」
「我が国の軍隊はお飾りレベルでどうしようもありませんからな。マルーク王国に引っ付いていればニルナール帝国も我々を攻めないと思っていたのですが」
セザールが呻くのに、カロンが肩を竦める。
「全くだよ。我が国がいくらマルーク王国に貢いだと思ってるんだい。我が国は今は金満国家だが、いつ落ち目が来るか分からない。突如として金の価格が暴落するかもしれないし、ニルナール帝国が攻めてくるかもしれない。そうなったときのためになあ……」
シュトラウト公国は交易と金鉱山で栄えてきた国家であった。経済的には非常に豊かな国家であり、いくつもの商業ギルドが連合を組んで、それが国家を形成している。
国のトップは選挙で選ばれるものであり、セザールも選挙で当選して、シュトラウト公爵の地位を手にしていた。位こそ公爵であるが、その富と権力はニルナール帝国皇帝に匹敵するものである。
そんなシュトラウト公国にも問題はあった。軍隊が弱いのだ。
商業ギルドの幹部たちは軍隊という金食い虫に出資するより、より見返りが見込める交易に出資することに熱心だった。そのためシュトラウト公国の陸軍はないも同然とすら言われる始末であった。
もちろん実際はそこまで酷いものではない。
シュトラウト公国軍はシュトラウト公国の山がちな地形を生かして国家を防衛する山岳猟兵部隊が充実しており、それに金さえあるならばよそから強力な傭兵団を引っ張ってこれる。
だが、それはいざ戦時になった場合の話。
平時から多大な軍隊を維持することはギルド長たちや銀行家が反対する。しかし、ニルナール帝国に奇襲攻撃でも受けた場合には、その身を守るのは少数精鋭の山岳猟兵部隊しか存在しないのだ。
そこでシュトラウト公国はマルーク王国と友好関係を築き、軍事同盟を締結することを狙っていた。マルーク王国軍は大陸でも有数の規模であり、マルーク王国と同盟していれば、ニルナール帝国が迂闊にもシュトラウト公国に手を出すはずはないという考えからであった。
これはセザールが推し進めた政策で、彼は大量の金貨でマルーク王国を誘惑し、あと一歩で軍事同盟が結べるところまで来ていた。
だが、それがマルーク王国に謎の怪物が侵攻したことでおじゃんになった。
恐らくギルド長たちと銀行家たちはセザールを非難するだろう。彼のシュトラウト公爵としての地位も終わりかもしれない。
「……マルーク王国の代わりにフランツ教皇国をパートナーにするのはむりかな?」
「宗教色が随分と強くなる恐れがありますが。金儲けには興味があっても、神には興味がないギルド長たちは反対されるでしょう」
セザールが呟くように告げるのに、カロンがそう告げた。
「何をやっても反対するよ、彼らは。とにかく、我々には同盟国が必要だ。我々だけでは抑止力となりえる軍隊を作れない。それに……」
「それにマルーク王国を襲った未知の怪物たちが我が国に攻め込んでこないともかぎらない、ですね」
そうなのだ。マルーク王国は隣国だ。隣国が謎の怪物に襲われれば、次に自分たちの国が襲われることを恐れるのは施政者として当然のことである。
「そういうことだ。怪物を食うのはいいが、怪物に食われ死ぬなんてのはごめんだぞ。早急にマルーク王国との国境の警備を固めて、警戒態勢を取らせておかなければ」
セザールはそう告げて、マルーク王国との国境警備に関する書類を手に取る。
「ギルド長たちにも事態が深刻だということを理解してもらわねばなりませんな」
「ああ。いざとなればエルフだって動員する気持ちでいかなければ」
セザールとカロンはそう言葉を交わし合い、シュトラウト公国の進路を決めた。
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ニルナール帝国帝都ヴェジア。
帝都ヴェジアは今や大陸最強の国家の帝都として君臨するに相応しく整備されていた。大通りはどこまでも広く、城壁は大陸最大級で、そこら中に帝国の象徴である剣を携えた赤い竜の旗が翻っている。
この大陸最大のプレイヤーにも、マルーク王国の情報は聞こえていた。
「皇帝官房第3部から上がった情報ですと、化け物たちはマルーク王国を完全に征服したようです。王都シグリアの大使館からの連絡も途絶えており、他の都市を見ても全て怪物に覆い尽くされている、と」
そう告げるのは30代ごろの男で、名をベルトルト・フォン・ビューロウという。皇帝の執務全体を管理する皇帝官房長官の地位にある男性だ。
「なるほど。マルーク王国は怪物なぞに屠られたか。惨めな国だ。かの国の軍備は見掛け倒しだったようだな。こうなるならば我々が先にマルーク王国に攻め入っておくべきであったぞ」
ベルトルトの言葉にそう応じるのは壮年の男──マクシミリアン・フォン・ロイヒテンベルク。ニルナール帝国による南部統一を成し遂げ、世界から恐れられる国家に変えたひとりの男だ。
「いえ、陛下。情報によりますと怪物たちは恐るべき力を持っているとのことです。我々の偵察隊が国境付近で怪物と交戦したところ、こちらの攻撃はほぼ効果がなく、敵のあまりの速度に我々の軍は撤退に追い込まれています」
「ふうむ。敵も馬鹿にならんということか。たかが怪物とあなどることなかれ、と」
ベルトルトが報告するのに、マクシミリアンが顎を摩った。
「怪物についての具体的な情報が欲しい。今、集まっただけの情報を分析し、更に新たな情報を獲得せよ。どの国にも先駆けて我が国が、怪物の情報を手にしておく必要がある。この怪物は大陸の情勢を揺るがしそうだからな」
マクシミリアンは直感からこれがただの怪物騒ぎではなくなりそうだという予感がしていた。大陸全土を巻き込む騒動に発展しそうであると。
「畏まりました、皇帝官房第3部には怪物の情報収集を命じておきます」
「それからフランツ教皇国の情報についてもな。奴らはこれを機会に光の神とやらの名の下に団結せよと言い出すぞ。その狙いは奴らが大陸の軍事的な盟主となることに他ならん。そんなことを許すつもりはない」
ベルトルトが頷くのに、マクシミリアンがそう付け加えた。
彼は既にフランツ教皇国が大陸諸国会議を招集しようとしていることを悟っているようだ。そして、その場で軍の指揮権をフランツ教皇国に委ねさせ、彼らが大陸の軍事的な盟主となろうとしているのではないかとも疑っていた。
「フランツ教皇国からまだ連絡はありませんが、陛下はフランツ教皇国が何かしらの動きに出るとお考えなのですね?」
「そうだ。我々の南部統一の何度も文句を言ってきた連中だぞ。この怪物騒ぎの際に黙ってみているとは思えん。光の神、光の神と騒いで、自分たちにとって都合がいいようにことを動かすだろう」
実際にフランツ教皇国は大陸諸国会議を招集するつもりであった。それがマクシミリアンが思っているように大陸の軍事的主導権を握るためかは不明であるが。
「そして、恐らくフランツ教皇国は我が国の外交官どもを買収するはずだ。買収を受けたものは吊るし首にすると宣言しておけ」
「畏まりました、布告を出しておきます」
どうやらフランツ教皇国による買収工作もお見通しのようだ。
「シュトラウト公国についていかがなさりますか?」
「そうだな。軍事的な援助を申し出てやれ。断るようならば、貴国が怪物の脅威に晒されても我が国は静観すると付け加えてな。怪物がマルーク王国を屠るほどに強大ならば、あの国は今頃怯えて大陸から逃げ出す準備を始めているぞ」
この場合の軍事的援助を受けた場合、そのまま軍の駐留が常態化することだろう。事実上の軍事占領だ。
「いずれにせよ、まずはフランツ教皇国と踊らねばならん。上手く踊れるといいがな」
まずは大陸諸国会議において自国の主張を貫き通す。
「それから“ゲオルギウス”はどうなっている?」
「今も休眠状態です。覚醒を?」
不意にマクシミリアンが奇妙な話題を振るのにベルトルトがそう返した。
「場合によっては覚醒させなければなるまい。この竜の国──ニルナール帝国にして、グレゴリアの英雄なのだからな」
マクシミリアンはそう告げると椅子の背もたれに背をもたらせた。
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