第六十五話
ノドンの商会を手に入れて経済力をいくらか取り戻し、竜を討伐したことで権威もある程度回復した。
けれどイーリアはまだまだ領主としての力が弱く、あまり強引なことをするには時期尚早。
特に警察力がないので、法を作っても取り締まることができないのが痛い。
禁令を出しても取り締まれなければ、破っていいのだと思われる。
すると権威に傷がつき、傷ついた権威者の言うことはますます皆が聞かなくなる、という悪循環を招いてしまう。
だから仕立て職人の居丈高な商いを安易に禁止するのは、ちょっと難しい。また自分たちの商会で端切れと糊を適正な値段で販売するという横槍も、誰の味方をしてそうしているかなんて町の人たちから見ればあまりに明らかなので、さらに難しい。
「学校のちょい理不尽な校則って、案外理に適ってたのかもな」
竜の解体もある程度終え、鉱山再開のための土木作業に移行し始めた健吾は、そのための器具を調達しがてら商会に顔を見せた。
そこでフリルのことを相談すれば、そんな返事だった。
「制服は元々、身分の差を隠すためのもの、みたいな話もあったしね」
「流行りはいつか落ち着くにしても、今禁止するのは混乱を起こすと俺も思う」
「だよね。となると、どうにかしてこっそり女の子たちを支援する?」
「……」
見た目に相応しく、なにかと即断即決の健吾が、口ごもる。
「……職業に貴賎なしとは俺も思いつつ……その手の仕事を領主様が後押しするようなことは、なにか間違ってる感じがあるよな。ましてや彼女たちのすべてが望んでやっている、というわけでもないだろうし」
倫理観というのは余りに厄介だった。
逃げても逃げてもずっとそこにいる、夜の月のようなものだ。
「やるなら、根本的に女の子たちを助けるべき方向で、だと思う」
健吾は唸るように言うが、ではその方法となると、なにか。
わずかの沈黙の後、健吾が詰めていた息を吐く。
「俺も、問題は知ってたんだが……」
そうなのか、と驚いた。
ならば言ってくれ、とも思ったのだが、健吾が口にしなかったのはイーリアと同じ理由だからではなかろうか。
あまりに問題の規模と闇が深すぎて、まだよちよち歩きの自分たちではどうにもならないと。
「彼女たちを大々的に助けだすには、いずれにせよカネが必要だろ。魔石の輸出をもっと拡大するしかないか? 工房の徒弟を増やしたって聞いたが、どうなんだ?」
「ああ、うん。竜騒ぎのおかげで、組合長を含めて、魔石加工職人の親方たちの態度も軟化したからね。孤児院とか、他にも奉公に出たい感じの子供たちを工房に招いてる。ただ、生産にはまだ寄与しない感じかな」
いくら単純作業とはいえ、まったくの素人が数日でできるようなことでもない。
工房を立ち上げた時は、徒弟とひとくちに言っても、すでにひととおりの徒弟修業の辛さに耐えてきた者たちばかりだったから、すぐに戦力になったのだ。新しく招いた者たちの中で、一体何人が黙々と仕事をすることを受け入れられるのかは、まだまったくわからない。
「それに名誉ってのは……厄介だ。獣人も、飯に獣の毛が入るからって言われて厨房に立たせてもらえないとして、なら毛を剃ったら問題ないかって話だし」
身分と名誉。
目に見えず、手で触れられない曖昧なものだからこそ余計に厄介な、この呪いのような存在。
ノドンたちの毒牙にかかった娘たちの少なくない者が、家の借金の代わりとして差し出されたらしいのに、彼女たちはふしだらな存在として、名誉を失い、家にもいられなくなる。
「市民権を与えたらどうかって思ったんだけど」
それならばイーリアが書類に署名するだけで、特に費用もかからない。
この世界で市民と言えば町の名誉ある住人のことなので、力業で名誉を取り戻させるようなものだ。
「一瞬は解決するかもな。けど、仕事を得られなければ元の木阿弥」
そして元娼婦たちを喜んで雇ってくれる職場が、どれだけあるだろうか。
うちの商会で……とも思うが、人の数に対して仕事が無限にあるわけではない。
しかも彼女たちには、獣人のような腕力もない。
ならば、なにがあったら雇うことができるだろうか?
「文字の読み書きの教育」
「その方向だよな。時間はかかるが」
自分も文字の読み書きができるようになったおかげで、ノドン商会に雇われた。
問題は健吾の指摘したように、時間がかかること。それからもうひとつ。
「誰が教えるのか」
誰が担っても、あれこれ噂されそうだ。
ゲラリオみたいな冒険者なら気にしない気もするが、町の人間たちは生まれた頃から知り合いだらけの中、厄介な経歴の娘たちの教育係を引き受けるだろうか。
なんなら教える側の人間は、そのうちの何人かにこっそり世話になっている可能性だってある。想像するだけで気まずいし、また別の問題が起きそうな気がした。
と、なると。
「うーん……」
自分と健吾は唸っていたのだが、はっと同時に顔を上げた。
「いた」
「うん」
自分と健吾は顔を見合わせ、せーの、と呼吸を合わせた。
「教会」
「ゴーゴン」
「え?」
「あ?」
お前はなにを言っているんだ、という顔を健吾はしていたし、自分もしていたのだろう。
けれどお互いの驚きが収まると共に、おでんに味が染みるみたいに、相手の言い分が頭に染み込んでくる。
「そうか、ゴーゴンさんなら、確かに」
「教会ってのもそうか、そうだな。司祭の野郎が生臭すぎて全然頭になかったよ」
「そこは確かにちょっと不安なんだけど、補司祭のクローデルさんだっけ。あの人は生真面目な信徒って感じだから。でも、ゴーゴンさんも全然ありだね。人柄は信用できるし、すごく博識そうだし」
自分と健吾は互いの案を俎上に上げ、頭をひねる。
「頼むならどっちかだな」
健吾は言った。
「水と油だからね」
教会と獣人は、この世界の成り立ちからして対立する存在だ。
「ただまあ、ゴーゴンの爺さんだとあれか、獣人だもんな。そこで文字を習ってたなんてことになったら、問題に輪をかけちまうか」
健吾は獣人の世界にどっぷりだが、世間からどう見られるかの視点も忘れてはいない。
「それに仕事の問題もある。教会で世話になるなら、その後の仕事につながりやすそうだ」
付属の施療院や、それこそ孤児院の仕事など、女性に任されることの多い仕事だ。
薬草を育てたりするのは、修道院の仕事だったろうか?
ファンタジー系の話を作るために読んだ、中世の文化のことを思い出していたところに、健吾が言った。
「それと、教会なら名誉の問題も解決できそうだし」
「名誉の?」
自分はそこに思い至っていなかった。
「教会で学んだのなら、それくらい真面目な人間だって教会のお墨付きを得られるだろ。とってつけたような市民権よりよっぽどか効果があるはずだ」
「まあ、確かに……」
中世の物語にもそんな話がちょくちょくある。要は禊みたいなものだ。
「だとしたら、いっそ修道会とか?」
「修道会?」
静謐と祈りの神の家。
「あ~……修道女か。マグダラのマリアだな」
敬虔な修道女という身分は、名誉ある市民として還俗させるのに十分な資格だろう。
「ただ……」
と、健吾は顔を曇らせる。
「問題は、修道会みたいなのになると、カネがかかるってことだよな。あの生臭司祭は、そんなことに銅貨の一枚だって出してくれなさそうだし」
もしかしたらイーリア自身、この可能性を考えたかもしれない。
けれどノドンを追放した商会がその後どうなるかなんて未知数だったし、魔石工房も軌道に乗るかわからなかった。
領主としてまだまだ財政も安定せず、修道会を立ち上げて運営まで抱えるなんてことは、とてもできないと目に見えていた。だから細々と食料などを届けることしかできなかったのでは……。
しかし。
「前の世界の修道会だと、色々物販してるところもあったけど」
薬草や糸紡ぎ。蝋燭造りや、養蜂なんかもあった気がする。
その収入だけで運営ができていたとは思えないが、こっちの世界はまだ宗教的権威がものすごく強い。
だとすれば、修道女たちの手作り製品というのはそれなりに売れるのではないか。
そのことを伝えると、健吾も確かにと唸る。
「黒字ならもちろんいいけど、赤字をある程度補ってくれるなら、支えられるんじゃないかな。それに修道会で手に職をつけられれば、還俗した後の仕事の問題も解決しそうだし。というか教会の後ろ盾があれば、ちょっと悪い手段もとれると思うんだよね」
「悪い手段?」
訝し気な健吾に、日本語で言った。
「教会って、港では当たり前みたいに密輸してるところだよ。教会は俗世の権力体系とはまたちょっと別の存在だから、商人や職人たちの組合に関する規則も迂回できるでしょ」
パンはパン屋だけが、肉は肉屋だけが販売できる、というのが組合の権利。
けれど教会が貧しい者たち向けにパンを振る舞ってもパン屋は怒らないし、貧しい者たちを宿泊させても宿屋の組合は怒らない。
というか怒れないのだ。
「それならどんな商いでもできるな。俺としては、パン屋なんかいかにも人気が出そうだと思うけど――」
とまで健吾が言った、まさにその瞬間だった。
自分の頭の中に、矢が突き刺さった
「あっ!」
健吾が驚いて、目を丸くしてこちらを見ている。
「え~っと……え~……」
目を閉じ、眉間に指を当て、考える。
今、確かに頭の中で、なにかがつながった。
次から次に降ってくる重量級の問題が、パズルゲームの大連鎖みたいに消えた気がした。
運命に翻弄された娘たちを匿う修道会と、その先に見えたのは……。
獣人だ。
「ねえ、健吾」
「なんだ?」
自分は飲み会でこの手の話になるとスマホをいじるタイプだったのだが、こう聞いた。
「そういう女の子たちと遊んだことってある?」
健吾は目を軽く見開いてから、ばつが悪そうに顔を背ける。
「あ、いや、マークスさんに聞けばいいのか?」
顔を背けていた健吾は、嫌そうに目を細めて横目にこちらを見やる。
「なんの話だよ、頼信」
「ああ、うん、えっと」
気を抜いたらばらばらになりそうな巨大な問題ふたつを、どうにか頭の中でつなぎ合わせる。
ただ、あくまで理屈の話で、当事者たちがどう思うかわからない。どうしても想像の域を出ない。
だから下調べは必要だが、見過ごすにはあまりにもったいない可能性が、ひとつだけあった。
「どうにか、なるかも」
自分が計画を説明すると、健吾はしばらく怪訝そうだったが、ほどなく納得してくれた。
けれど最後まで話を聞くと突然不機嫌になって、こちらの頭を軽く叩いてくる。
そしてずいっと前のめりになると、健吾にしては怖い顔でこう言った。
「クルルちゃんとイーリアちゃんには、内緒にしてくれるんだろうな」
裏町で女の子と遊んだこと。
別にクルルたちならあまり気にしなさそうだが、自分は健吾の必死さにやや気圧され、前の世界の仲間の名誉を重んじることにしたのだった。