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第六十四話

 すっかりイーリアの屋敷にも慣れてきたせいか、入り口から入ってすぐに、嗅ぎなれぬ匂いに気がついた。

 正確には、おしろいのような化粧品臭さ。

 イーリアやクルルのそれとは違う、人工的な甘い匂いだ。


「ヨリノブ」


 中庭の椅子に座り、書類だらけの机に頬杖をついて浮かない顔だったイーリアが、こちらを見た。


「仕立て職人たちを締め上げるにはどうしたらいいかしら」

「なにか……ありましたか?」


 フリルが大流行したのをいいことに独占商売をしているらしいが、どうしてそれでイーリアが彼らを締め上げようというのか。


「ふりるの販売特権は仕立て職人にありと吹聴して、糊もあわせて連中が販売を独占してるのよ。おかげで連中は大儲け。まあ、こちらは徴税で搾り取れるだろうから構わないんだけど」


 嗅ぎなれない化粧臭さが薄れるにつれ、炊事場のほうからパンの焼ける匂いがしてくる。

 クルルが食事を作っているらしい。


「締め上げるというのは、徴税以外でってことですか?」


 なにをするつもりなのかわからないし、相変わらずその怒りの理由がわからない。


「特権を盾にして、仕立て職人たちがフリルや糊を売る相手を選んでいるのよ。そのせいで、苦しんでいる人たちがいるからね」


 今日の食事はなんだろうかとよそみをしていたところ、その言葉で視線がイーリアに向いた。


「苦しむ……ですか」


 フリルはあくまで装飾品。

 それにまだ今のところ、糊の作り過ぎで町から麦が消えたという話も聞かない。

 するとイーリアは唇をひん曲げてため息をつくと、手招きしてきた。


 近寄って顔を寄せれば、ものすごく嫌そうな顔でこう言われた。


「ノドンの奴の置き土産よ」

「……」


 楽しい話ではないと直感したが、続けられたイーリアの言葉に、この世界の世知辛さを甘く見ていたと思い知らされる。


「あいつが手を出してきた女の子たちが、飽きて放り出された後、どうなったか知ってる?」


 肉欲にまみれた暴君だったノドン。

 今は魔石の工房になっている中庭では、毎日酒池肉林の宴が繰り広げられていたらしい。


 そして、そうだ。そのことを忘れていた。


 ノドンに借金を背負わされ、不当な取引を飲まされていた職人や商人たちは、ノドンがいなくなった途端に様々な嘆願をしにやってきた。

 けれどその手の人たちは顔を見せなかった。


 つまり、ノドンの毒牙にかかった娘たち。


 さきほどのおしろいの粉のようなにおいと、屋敷に出入りしていた見慣れぬ娘たちがようやくつながった。


「身寄りのない孤児院上がりの娘たちはもちろん、普通の職人の家に生まれたのに、ノドンのお手付きになったせいで身を落とさざるを得なかったような子たちが、たくさんいるのよ」

「……」

「そういう子たちは、ノドンに飽きられたり捨てられたりしたら、裏町で働くほかなかった。特に悲惨なのは町の職人の娘たちよ。彼女たちは名誉を失った身分だから、市民の家にはいられず、実家を追い出されてしまったの」


 また名誉。

 辟易するが、ここは前の世界でいえば中世か近代の入りかけ。


 いわゆる家父長的な男性優位の世界で、特に面倒な名誉観念などが、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。


「当たり前だけど、そういう女の子たちの生活は大変だってマークスから聞いた。挙句に、ノドンが追放されたら他のクソッたれな人たちも行動をいくらか改めたせいで、余計に状況が悪化したわけ」

「え?」


 行動を改めたせいで?


「宴会の機会が減って、女の子にお金を使う人が激減したからね。それで私は、こっそり食べ物やらを分けてたんだけど……」


 そうだったのか、と驚いたのが顔に出たのだろう。

 イーリアは心苦しそうな、いや、ちょっと面倒くさそうな顔をして、こちらを見た。


「あなたに言わなかったのは、そういう顔をするってわかってたからよ。あなたの責任じゃないのに」


 イーリアはこちらを気遣ってくれているらしい。


「それに私も、根本的な解決方法がわからなかった。いつか山ほどの税金が入ってきたら、なんて思っていたけど……」


 イーリアが領主をやるには、心優しすぎるのがネックかも、と前から感じていた。

 知恵が回り、たまに悪知恵も働かせられるので、なんでもそつなくこなすように思えるが、情が薄いわけではないのだ。


「とにかく、ただでさえぎりぎりの生活だったあの子たちが、ふりるのせいですごく困ってるみたいなの」


 不運な娘たちの境遇はわかったが、相変わらずフリルとの話がつながらないでいると、イーリアははっきり眉間にしわを寄せる。


「だから服の仕立て職人たちのせいだってば。あいつら、ふりると糊を可能な限り高く売るために、権威付けしようとしてるの。つまり、名誉のない女たちには売らないって」

「ああ~……」


 お洒落として突如流行したフリル。富裕な女性たちに高値で売りたければ、商品の格というものを維持しなければならない。

 その一方で、見た目で勝負しなければならない商いに身を投じている娘たちは、流行のフリルをつけないと商売あがったり。


 それでようやく、司祭の語った奇妙な話も理解ができた。


「じゃあ、端切れがまともな布より高くなっているって話、本当なんですか?」


 その問いに、イーリアが心底嫌そうな顔をして、うなずいた。

 商会主の自分が知らず、イーリアが知っているというのが、この話の闇の深さを示している。


「一枚で銀貨五枚の布があるとするでしょ? それを十等分した端切れを、銀貨一枚で売るわけ。すると売り上げは銀貨十枚」


 つまりバラバラにして売ると、価格が倍になる。


「貧しい子たちは銀貨五枚なんて払えないけど、銀貨一枚なら払えるからね。ものすごく割高だとわかっていても端切れを買うみたい。糊もおんなじ。名誉のない女の子たちのことを嗅ぎつけた悪い連中が、仕立て職人から正規の値段で糊と布を買いつけて、転売してるのよ。なんなら――」

「なんなら仕立て職人が手引きして、利益を抜いている」


 自分が言葉を挟むと、イーリアは不服そうに肩をすくめていた。


「女の子たちの中には現金が無くて、食べるための麦を糊にして、なけなしの敷布を割いてふりるにしてる子もいるみたい」


 よかれと思ってやったことが、思いもよらない結果を引き起こす。

 カオス理論などというものがあるが、その意味をまざまざと理解する。


「さっきまでその陳情に女の子たちが来てたのよ。だから服の仕立て職人に、売る相手を選ぶなと強制してもいいかしら」


 イーリアは領主であり、強権を発動できる。

 自分は賛成しかけたが、ううむと唸った。


「……外聞が、悪くない、ですかね」


 他に言いようもなくて、そう言った。


 イーリアが仕立て職人たちにお達しを出せば、彼らは聞かざるを得ないだろう。

 けれどそれは傍から見たら、娼婦たちが着飾ることを、領主のイーリアが奨励しているようにも見えてしまう。


 確かにノドンのような連中のせいで運命を狂わされた娘たちがいるにせよ、彼女たちのやや後ろ暗い仕事のため、フリル販売について為政者が口を挟むのは、正しい振る舞いなのかどうか。

 それならいっそ、フリルの販売禁止のほうがましな気もする。


 ただ、それはそれでまた別の問題を起こすのではないか。


 禁酒法のようなマフィアを巻き込んだ話とまではいかずとも、奢侈禁止令は大体いつの時代も失敗するか、民衆からのものすごい反感を買う羽目になっている。


「ヨリノブ……どうしたらいいのかしら」


 クルルに甘え放題で、自堕落に見えるイーリアだが、その実は芯が強くて、根っこのところで人を寄せ付けない雰囲気がある。

 そのイーリアが、こんなにはっきり頼ってくる。


 力になりたいと思うし、ノドンの商会を引き継いだ身としても、その後始末には責任を負わなければならないとも思う。


 それがたとえ、イーリアがあなたの責任ではないと言ってくれることだとしても。


「……どうにか、します」


 安請け合いは信用を落とすかもしれないが、それでもこう言うしかない。

 それについこの間も似たような言葉をドドルの前で言って、あまり信用されていなかったなと思う。

 そしてあの時もまた、獣人の用意した肉を人間が食べるかという、身分や名誉観がちらつく話だった。


 解決するより早く、多くの問題が降ってくる。


 魔石商売をしながらのんびりゲーム製作……なんていうのは、まだずいぶん遠くの理想郷らしかった。



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