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第十六話

 健吾とクルルと計画を始動しておよそ一か月後。

 季節は春から夏に向かっていて、気温が高くなり始めるのに合わせて世の中が活気づき、商会の仕事も忙しくなっていた。


 健吾と酒場で会う機会もめっきり減って、魔石の加工研究に参加できていないことを申し訳なく思いながら、久しぶりにバックス商会との魔石取引の機会が巡ってきた。これで証書にサインをもらうため、昼から堂々とイーリアたちの屋敷に行く口実ができる。

 クルルから進捗が聞けるのを楽しみにしながら屋敷に向かうと、入り口前でいつもたむろしている詐欺師の一人から珍しく声を掛けられた。


「なあ、なにがあったんだ?」

「え?」


 彼らは目つきが悪く、いつもけだるそうにしているが、その不穏な雰囲気に反し、身に着けている仕立ての良い服がいかにも詐欺師らしさを際立たせている。

 そんな青年たちのうちの一人が、相変わらず淀んだ目つきながら、仲間と視線を交わしてからもう一度こちらを見た。


「ここ数日、クルルちゃんの元気がないんだよ」


 驚いたのは二点。詐欺師の青年たちからもクルルちゃんと呼ばれていたことと、それからもちろん、元気がないということだった。


「いっつも地獄の悪魔みたいな剣幕で、真面目に働けってうるさかったのに、ここ最近それがないんだよ」

「……」


 なんとなくその様子は想像できるが、意外だったのは、この詐欺師たちがクルルを馬鹿にしている感じでもなかったから。


「また町の年寄りどもにいじめられたのかと思ったんだけど、そうでもなさそうでさ」

「やっぱさ、イーリアちゃんと喧嘩したんじゃないのか? そんな声が聞こえただろ?」


 詐欺師同士そんなことを話しているが、彼らなりにクルルを心配しているらしい。


「お前、ノドン商会の奴だろ? なんか知らないか?」


 彼らは哀れなおのぼりさんを騙し、イーリアやクルルに案内して手数料を取るという詐欺に手を染めているから、イーリアたちとはもちろん顔見知りなわけだ。

 褒められた仕事ではないと思うが、根っからの悪人というわけでもなさそうだった。


「自分も睨まれてばっかりですよ。正直、ノドン様はイーリア様たちに嫌われてますから」

「はは。でも俺たちよりましだろ。箒で何度叩かれたことか」


 詐欺師の青年が楽しげに笑っていた。


「なにかわかったら、教えます」

「ああ。頼むよ」


 そう言った時の顔はとても真剣だった。


 そうして屋敷の中に入ると、詐欺師たちの話を聞いた後だからか、妙に空気が冷え冷えと感じられた。いや実際に石造りなので涼しいのだろうが、それでもなにか妙な気はした。

 その予感は、中庭に出て確信に変わる。


 イーリアが一人、ハンモックではなく中庭に置きっぱなしになっている粗末な椅子に腰かけ、手には酒が入っていると思しき木のジョッキを持っていたのだから。


「あら、もうそんな時期だっけ」


 常にけだるげなイーリアだが、楽しそうな酒かどうかくらい自分にもわかる。

 髪の毛はどうにかまとめられているがぼさぼさだし、顔色もあまりよくない。きちんとご飯を食べていないように見えた。

 手厳しい家庭教師のようだったクルルが、イーリアのこんな格好を許すはずがないが、そのクルルの姿が見えない。


「署名するから、ちょうだい」


 今まではクルルにどやされるまで署名しなかったイーリアが、自ら手を伸ばしてくる。

 その無表情を通り越したような、張り付いたような薄い笑顔に怯んだが、ひとまず言われたとおりに魔石取引の書類を渡す。

 落ち着かなげにイーリアが書類に目を通すのを待っている間、どうやってクルルのことを切り出そうかと迷っていた。


 そうこうする間にイーリアは羽ペンを手に取り、インクにペン先をつけた。


「クルルと妙なこと企んでたのね」


 ぎくり、という擬音は、本当にそういう音がするのだと思ったくらい、体が硬直した。


「全部聞いたわ」


 イーリアはインク壺に羽ペンの先を浸し、手元の紙を見つめたまま、口を動かすだけで体を動かさない。


 それからゆっくりとこちらを見た目には、はっきりと怒りが含まれていた。


「クルルをたぶらかさないで。優しい子なのよ」


 魔石取引を持ち掛けた、悪徳商会の手先。

 イーリアはそんなふうに自分を見ている。


 それは違うと言い訳したかったが、イーリアはクルルとの話を正確に把握しているようだった。


「私を助けようとしたんでしょ。でも、そういう目的のことを言ってるんじゃないの。私はね」


 言葉こそ落ち着いていたが、その感情が手に現れていた。

 手が震え、羽ペンが揺れ、インクが飛び散っていた。

 分厚いかさぶたが剥がれ、どす黒い血が溢れるかのように。


「あの子にありもしない希望を見せたことを怒っているの。それも、よりによって魔石取引とはね」


 イーリアは怒鳴りそうになるのをこらえるように、大きく息を吸っていた。


「あの子が懸命に魔法使いであることを隠していて、それに気がつかない振りをしていた私がどんな気持ちだったかわかる?」

「えっ」


 イーリアの目は笑っていないが、口元だけが笑っている。

 怒りと悲しみは、いびつな笑顔によって、最も強く表現されるのだ。


「この世で一番辛いことはね、絶望じゃないの。絶望は風のない海みたいなもの。前にも後ろにも進めないしどこにも行けないけど、その場に静かにたたずむことはできる。この世で一番辛いことはね」


 イーリアの目に、はっきりと怒りの炎がともった。


「叶いもしない希望を見せること。どうにかなるかもしれないと思わせること。それは執着を生んで、傷つかなくていいことに傷つき、苦しまなくていいことに苦しむの。あなたたちに妙なことを吹き込まれたクルルは、しばらくはそれはそれは楽しそうだったわ。私にそのことを隠せてると思っているクルルを見るのは、正直可愛くて仕方なかったし、クルルが明るく楽しそうにしてくれていたら、私はそれだけで嬉しくなれたのも事実」


 だがそう語るイーリアの目は、自分に詰め寄る時のクルルよりも、もっとどろついた感情を秘めていた。それは憎しみの色だ。


「魔石の加工をやっていたんでしょ」


 そしてイーリアは、不意に怒りも憎しみも悲しみも全部消して、凪のような無表情になった。

 それは未来に一切期待しない、イーリアのいつもの顔だ。


「あの子はまじめだし、熱中しやすい性格で、私なんかよりよっぽどか諦めが悪い。だから懸命に努力し続けていたみたいだけど、魔石の加工がうまくいかず、あの子はどんどん自分を追い詰めていった。一度、刻み込んだ魔法陣を削り取るクルルの様子を覗き見たことがある。この屋敷内なら、子猫がこっそり潜り込んだって気が付くような子が、扉の隙間から盗み見られてもまったく気が付いてなかった。目を見開いて、まばたきも忘れて、自分の体を削るように、魔石を削っていた。後で聞いたけど、まったく新しい魔石の加工法を見つけて、大儲けしようとしたんだってね」


 イーリアはゆっくり深呼吸をして、放り出していた羽ペンを取り直し、優雅な手つきでインクをつけ直すと、滑らかに署名を始めた。


「あの子を苛んだのは、魔石をふたつ無駄にするという金銭的な話より、見えたはずの光が見えなくなっていくその過程よ。律義な子だから、あなたたちとの約束を守れないことも気にかかっていたんでしょうけれど、まあとにかく」


 署名を終えて、書かれた文字をしげしげと見つめてから、イーリアはこちらを見る。


「もうこれ以上見てられなくなって問い詰めたら、白状した。ろくに寝てなかったし食べてなかったから、今は休んでる。ごめんなさい、ごめんなさいってずっとうわごとのように謝ってた。私はあの子が金貨を持ってきたり、これまで関わってきたくそったれたちの鼻を明かしてくれなくても、お姉ちゃんみたいに叱ってくれたりしてるだけでよかったのに」


 署名を面倒くさいと言ったイーリアの頭を、クルルは書類の束で叩いていた。

 けれど鉱山発見のお祝いの式典で、イーリアとクルルは嘲笑の嵐の中、二人で寄り添ってたたずんでいた。

 隣に相手がいさえすれば、どんなことにも耐えられるといった顔で。


「だから、この話は、これでおしまい」


 イーリアは書類をテーブルの上に置き、こちらにずいと突き出してくる。

 そして筆記用具のしまってあった箱の中から、なにかを取り出した。


「これも返しておくわ」


 書類の上に置かれたのは、表面を何度も削られ、薄い板のようになったふたつの魔石だった。

 そこには最後の最後まで魔法陣を試行錯誤していたのがわかるように、削り切れなかった模様がまだ残っていた。


「元がどれくらいだったかわからないけど、これはあの子のすり減った心だってこと、忘れないでね」


 イーリアの顔いっぱいに浮かべられた笑顔は、クルルのどんな目つきよりも怖かった。


「じゃあ、またね」


 イーリアはそう言って、電池が切れたように顔から表情を無くし、手元の酒を覗きこむようにうつむいてしまった。

 そこには言い訳の機会も、質問の機会すらも与えられなかった。

 自分の無邪気さが人を傷つけていたことを知って、どうしたらいいのかわからなかった。


 のろのろと書類を受け取り、ぺらぺらになった魔石を二枚、受け取った。

 イーリアを見やり、機械的にお辞儀をして、その場を後にした。そうするしかなかった。

 なにも考えられず、詐欺師たちの声も聞こえなかった。


 ただ手の中でこすれる魔石の音だけが、いやに耳についたのだった。



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