プロローグ
高橋頼信は異世界転生した。
そんなふうに書き出したまま、筆が止まる。
ゲーム製作が夢で、大学時代にはサークルを率いて製作を試みたこともあった。
まあ、その時は学生にありがちな前のめり感と、いざ作業になったら面倒くさい仕事の押し付け合いや、作業が進まないことの言い訳合戦となって、ものすごく後味の悪い結末となったのだが。
30歳になろうかという今でもたまに夢に見るくらいに揉めた。はっきりいってトラウマだ。
ただ、ゲーム製作そのものは、社会人になってからも諦め悪く、構想だけは練り続けていた。
もちろん実作業に移ることはなかったし、その構想さえ完成したことがない。
日々の忙しさにかまけて、時間ばかりが過ぎていった。
それに構想を書けば書くほど、自分の才能のなさを実感した。
構築できる世界観と、書けるシナリオと言えば、どこかで見たような何番煎じかもわからないような代物ばかり。
けれど、今ならば、もっとすごいものが作れるのではないか。
なにせ今、自分の目の前には、曇った日の雪山のような不思議な銀髪をした少女がいて、頭の上の獣の耳と、腰から生えたすらりとした尻尾を、機嫌よさそうにふわふわさせているのだから。
「計画は順調だそうだ」
その少女は、開け放たれた木窓の外を見ながらそう言った。
木窓の外には広大な作業場が広がっていて、ものすごい数の人が働いている。
いや、正確には人以外も働いているのだが、ある者は大きな石や粘土板を運び、ある者はノミとタガネを手にして、石にかんかんと打ちつけている。
少し離れたところでは、古代の学者然とした者たちが、ローブの裾をはためかせながら、ああでもないこうでもないと、複雑な図形について議論していた。
今、そこでは、この世界で最も複雑な概念を形にするべく、大勢が奮闘していた。
曰く、伝説の魔法陣。
あるいは、世界を滅ぼす大災厄ともいえるものを。
魔法とは、かつて神と目された誰かがこの世界の住人に授けた特別な力であり、この世界の歴史を形作ってきた神秘の奥義だ。
ある日この世界で目覚めた自分は、なんの特殊な力も、神の御加護もなかったが、ゲーム製作のために溜め込んだ無駄知識だけはあった。
それから、数奇な人の縁も。
「なんだ、お前、またこんなの書いてるのか」
木窓の外を感慨深げに眺めていた少女が、こちらの手元を見て、そんなことを言った。
「一度も書けた試しがないじゃないか」
呆れたように話すたび、少女の唇の下に、鋭い犬歯が見え隠れする。
出会ったばかりの頃は、この少女の目つきの悪さと、この牙に震えていたものだ。
「今度こそ書ける気がするんですよ」
この少女に、自分が前の世界で抱いていた夢を話したのは、いつのことだったか。
現代的なゲームという概念は、電気もないこの異世界ではうまく伝えられなかったが、自分たちで動かす大がかりな人形劇みたいなもの、と説明したらなんとなく理解はしてくれた。
「今までお前は、絶対に誰にもできないようなことをいくつも成し遂げてきたのに、どうしてこれだけはできないんだ?」
少女はむしろ不思議そうな顔をして、自分の書いた文字を指でなぞる。
日本語で書かれているのだが、あまりに同じ書き出しで何度も詰まっているので、異世界の少女もすっかり覚えてしまったらしい。
「書きたいことはたくさんあるんですけど……ありすぎるのかも……」
「ふん?」
この世界にやってきて、何年経っただろうか。
この少女との最初の出会いも、実にひどいものだった。
けれどその出会いがなければ今の自分はないし、もっというと、この世界そのもののありようもまた、今とは全然違うものになっていただろう。
なにせ自分たちは、この世界の誰も見たことのない光景を、見ようとしているのだから。
そしてだからこそ、ここまでに至る大冒険を記すだけで、ものすごいシナリオと世界設定になるはずだった。
なのに、自分の手はいつも、冒頭を書き出したところで止まってしまう。
「ほら、遊びの時間は終わりだ」
少女がこちらの手から羽ペンを抜き取り、ノートを乱暴に閉じる。
こんな様子を他の者が見たら、驚きに目を見開くかもしれない。
なにせ。
「お前にしかできない仕事がまだまだ山積みだからな。きびきび働いてくれよ、大宰相様」
少女は明らかに敬意の欠片もない口調で、大宰相様なんて言う。
自分がため息をつくと、少女はくつくつと肩を揺らして笑っていた。
確かに今の自分には、どういうわけか立場がある。
ここは豪奢な屋敷の一室で、木窓の外に広がる大勢が働く敷地のみならず、ぐるりと取り囲まれた壁の向こうの土地のほとんども、見渡す限り自分の自由にできる。
自分は立ち上がり、少女の後について部屋から出ようとして、ふと気が付く。
高橋頼信は異世界転生した。
その続きを書けない理由に、ふと、思い至ったから。
「どうした?」
少女がきょとんとする。
自分は苦笑いをしながら、首を横に振った。
続きを書けないのは、どうしてここまでこれたのか、自分自身にもわからないからだ。
大勢の人との協力と、命がけの努力と、かなりの幸運があった。
それらは決して、容易に書き記せるようなものではない。
「なんでもありません。さあ、いきましょう」
少女はこちらを訝しそうに見つめ、またいつもの奇行だろうと勝手に納得したらしい。
屋敷の長い廊下を歩く。
すると少女は、そっとこちらの手を握ってきた。
自分たちはこうして歩いてきた。
そしてもっと先まで、歩みを進めるのだ。
異世界で、最も複雑な魔法陣を作るために。