06.獏
~獏~
夢、特に悪夢を食べるとされている生き物。
グルメな獏は夢の味にもこだわるらしい。そして夢を美味しく食べるには下ごしらえが大切なのである。
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夜8時30分、帰宅。最近、妙に仕事が早く片付くようになったので、帰宅が早くなった。
……同時に、家に早く帰る意味ができたからかもしれない。
そう。甲斐甲斐しく俺の世話を焼く奇妙な生き物との同居が続いているので。
例の、俺の幻覚かと思われた謎の生き物……茶色っぽい、身長30㎝程の、女の子のマスコット人形めいた謎の生き物についてだが、俺はあれを『ブラウニー』と仮称することにした。
俺は頭がおかしくなったのだと思うが、頭がおかしくなったなりに調べてみたのである。そうして畢竟、それらしい情報を手に入れた。
それが、『ブラウニー』なる妖精もとい妖怪の伝承である。
人間の家に住み着き、家事や手工業を手伝う。そしてその代価としてパンやミルクの欠片を持っていく。そういうものだ。
……俺の家に住み着くことになった例の謎の生き物が『ブラウニー』なのかどうかは分からないが、他に発見報告が見られたわけでも、それらしい情報があるでもなかったのである。
ならば仕方あるまい。俺はあれのことを『ブラウニー』と呼ぶことにした。そういうことである。
今日も、俺が帰宅すると食事が用意されており、部屋の中は綺麗に片付いて、埃が取り払われていた。
溜まっていた洗濯物はいつの間にか洗われて干されて、アイロンが掛けられていた。
ついでに風呂が沸いていて、いつでも入れるようになっていた。(なんとなく罪悪感と羞恥心があるので、初日のあれきり、背中を流してもらうことはしていない。)
……こんな調子で、とても心地の良い日々を過ごしている訳なのだが、1週間程過ごした頃、俺は自由に使える金が少なくなってきたので、ブラウニーに契約の解消を申し出たことがある。
『来てもらって悪いが、明日の分はもう金が無いんだ』と正直に申し出たところ、ブラウニーは驚いたような顔をして……スカートの中から(スカートの中から!)千円札をばらばらと出して、俺に差し出してきたのであった。
更に奇妙な生き物がスカートをふりふりと振ると、やはりばらばらと、小銭が少々出てきてそこに加わった。
俺は毎回3000円をこのブラウニーに支払っていたが、その大半が戻ってきたわけだ。
勿論、俺はそれを断った。俺は彼女に彼女の労働への正当な報酬を払っているつもりだったので。
……しかし、その旨を伝えたところ、今度はスカートの中からレシートが出てきた。
近所のスーパーマーケットのレシート、業務スーパーのレシート、見た事もない店のレシート。明らかに人類の言語じゃない何かで記されたレシートのような何か。文字が書かれた葉っぱ。謎の石板。後半はもう意味が分からないが俺は考えるのをやめた。
……まあ、読めて、かつ理解できる範囲で見てみれば、それぞれのレシートには食料品の名前がつらつらと並んでいた。
それから俺は、この喋らない奇妙な生き物にYES/NOで答えられる質問を根気よく幾つも投げかけ、彼女の認識を確かめた。
……その結果、どうやら彼女は、俺が渡した報酬を『次回の食事や家事のための費用』だと考えていたらしい、という事が分かった。
食費を預けられ、それで飯を作っている気でいたらしいブラウニーは、俺の認識を知るや否や、ぷくーっ、とその頬を膨らませた。怒っているらしい。(こいつのデフォルメされたマスコットらしさあふれる顔には目こそあるものの、口らしい口が見えないのだが、何所で何をどうやって膨らませているというのだろうか)
なので改めて俺は、『衣食住、家事に関わる費用として金を預けるから、また飯を作りに来てくれ』とお願いした。ブラウニーは嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねて何度も頷いてくれた。
……そして、それ以来、ブラウニーは俺の家に住み着いている。
そう。住み着いている。
「お前は普段どこに寝泊りしているんだ?」と聞いてみた時には、流しの下の収納の中にティッシュペーパーが数枚敷かれているのを見せられてしまい、凄まじい罪悪感に襲われた。
俺はてっきり、昼間にどこかで(きっと公園の木の上とか、何所ぞの花壇の花の中とか、雲の上だとか、そういうメルヘンな寝床で)寝ていて、ここには通っているものだとばかり思っていたのだが、この奇妙な生き物はすっかり俺の家に住み込みで働いているらしかった!
これはいけない、ということで、俺はブラウニーに肌触りの良いタオルを3枚程と、何かの景品で貰ったものの使っていない、ふわふわしたブランケットを1枚与えた。
ついでに、流しの下ではなく、食器棚の一番下の開き戸の棚を丸ごと明け渡した。
久々にとれた休日に食器棚の改造を行って、より部屋らしい様子に整え、LEDのランプを設置して食器棚の中も明るくできるようにした。
ブラウニーは大層喜び、それ以来、そこで寝ている。
一度、夜中に起きてしまった時に覗き見たが、丸くなってタオルに包まり、穏やかに寝ている様子は益々マスコットめいて、なんとも愛らしかった。
……まあ、この安普請に似つかわしくないことに、こうして住み込みのメイドさんのような奇妙なものがいる我が家であるが、家事をひたすらこなしてくれるブラウニーがいると、人間は健康になる。
まず、食が改善されたことか、とにかく健康になった。
慢性的な頭痛や、ぼんやりとした思考は随分とマシになったし、立ち眩みのようなものも無くなった。日々のだるさはすっかり無縁である。
続いて、毎日入浴するようになって、これまた健康になった。
やはり人間は、毎日湯に浸かると血行が良くなるとかなんとか、とにかく体にいいのだろう。肩こりが減ったし、脚がつらなくなった。ついでにブラウニーが寝る前にマッサージしてくれるのだが、それもものすごく効いている。ありがとう、謎の生き物。相変わらず謎だが。
それから、洗濯やアイロンがけをやってもらえると人間は健康になるらしい。
まあ、つまり、家事にかかわる時間と労力がどれほど人間を苦しめるか、ということがよく分かる、というか。うっかりアイロンを掛けながら寝てしまってシャツを焦がすことも無い。快適である。
ということで、俺は大分、健康になった。健康になったからか、仕事の効率は大分上がった。おかげで残業も減ったし、休日出勤はかなり消えた。
ブラウニーを観察する、という趣味ができたこともあって、日々が楽しい。職場では『何かあったのか……?』『こいつ、急に健康になってきたぞ……』と逆に心配されているが、俺は楽しいので気にしないことにしている。
……だが、健康になりきらない部分は未だにある。
まあ、これはどうしようもない部分であるし、健康になって、日々が楽しくなっていけば徐々に減っていくのだろう、とぼんやり思ってもいるのだが……。
「……っ、と、ああ、夢か……」
……俺は、夢見が悪い。すこぶる悪い。そういうことである。
結局、明け方に悪夢で起きてしまってから寝付けずにごろごろしていたところ、6時に謎の生き物が食器棚の中からもそもそ出てきて、俺のことを起こしに来る。
「ああ、おはよう」
寝ていないので起こされるまでもなく起きていた俺だが、そんな俺を見てブラウニーは首を傾げている。『なぜ起きているのか』と不審に思っているのかもしれない。
まあ、結局すぐ朝の支度が始まってしまうので、ブラウニーの疑問に答えることは無いが。……夢見が悪くて目が覚める、という話を彼女にするのもなんとなく躊躇われることだ。忙しさにかまけて、結局そのまま流してしまえるのはまあ、丁度いい。
顔を洗って髭を剃って髪に櫛を通して、シャツに腕を通してボタンを留めて……とやっている間に、台所からは、じゅう、と音が聞こえてくる。これはブラウニーがベーコンエッグを焼いている音だろう。大抵、朝はトーストとコーヒーと卵料理なのだが、ベーコンエッグのことが多いのだ。
案の定、着替えて戻ってみればそこには丁度出来上がったベーコンエッグとトーストの皿があった。そして、謎の生き物が少々気取ってドリップしているコーヒーが、なんともいい香りである。
……ところで、俺はコーヒーは割と好きだが、自分でドリップして淹れるほどではなかった。んだが、何故か今、うちにはコーヒーを淹れるための器具がある。これはどこから調達してきたんだろうか。犯罪紛いのことはしていないだろうな。
まあ多分、俺には読めない謎のレシート類のどれかにコーヒー用の器具が書いてあるのだろうな、そうであってくれ、と思うことにして、俺は朝食を食べ、その横でブラウニーが自分用にパンと牛乳を用意しているのを見守る。
どうも、このブラウニーは自分の取り分として、食料を持っていっている。以前、明らかにこっそりとやろうとしているのだろうな、と思われる様子で牛乳を小さなカップに注いでいるのを見つけた際、俺が『そうしてくれても全く構わない』と告げたところ、それ以来は堂々と食料を持っていくようになった。
……いや、まあ、食事風景は見られないんだが。食料は全部、謎の生き物の部屋である食器棚の中に運び込まれてそこで飲み食いされているようなので、俺が彼女の食事風景を見ることは無いんだが。
そうしている内に俺は出社し、そしてブラウニーが見送ってくれる。『行ってきます』と『ただいま』を言える相手が居るというのは、まあ、悪くない。犬や猫を飼う同僚の気持ちが少々分からないでもない。
早く目が覚めてしまったせいで多少眠かったが、まあ、健康の範囲内だろう。少なくとも、あのブラウニーがうちに来る前よりはずっと健康である。
という訳で、俺は今日も労働に身を窶すことになったわけであるが……。
「ただい……」
ま、を言う前に、俺の思考が停止した。
というのも、俺を出迎えに来てくれた謎の生き物が、更に謎の生き物を連れていたからである。
増えた謎の生き物は、さながら、イノシシの子供……瓜坊、のようであった。体長30㎝程度で、まあ、子豚か子イノシシか、というような風貌だ。
体高は20㎝かそこら。体長は30㎝かそこら。小さい。
そして牙の類は無い。また、鼻がちょっと長い。象ほどではないが、長い。
そして色合いは、まるでパンダのようであった。
上半身は黒く、しかし下半身は白い。尻のあたりだとか、後ろ足だとかは真っ白なのだが、腹のあたりで丁度綺麗にすっぱりと色合いが切り替わって、頭の方は真っ黒なのである。見事なツートンカラーだ。
「……こいつは一体」
ブラウニーに謎の瓜坊のことを聞いてみるのだが、ブラウニーはどこか自慢げに胸を張っているばかりである。なんだろうか。狩りの成果か?だがその割に、この瓜坊もどきは生きていて、落ち着いた様子である。これからこいつを捕食しよう、というわけでもなさそうだ。
……まあ、来客があった。そういうことなのだろう。俺はそこまでで考えるのをやめた。
その日の夕食は、鮭の塩焼きにいんげんの白和え、人参のポタージュスープ、そして煮物、といった内容であった。食後には瑞々しい葡萄が供された。今日も大変、美味かった。
……そして、そんな俺の足元、食卓の下では、謎の瓜坊もどきがウロウロしている。時々、俺の足にじゃれついてきたり、ブラウニーにたしなめられたり、まあ、見ていて飽きない。
なので食後もしばらく、その謎の瓜坊を観察していたかったのだが……。
「あ、ああ、風呂か。分かった。入る」
今日は、ブラウニーが俺に早めの入浴を促してくる。ぐいぐい、とふくらはぎのあたりを押されて、俺は風呂場へ向かった。このブラウニーには世話になっているので、彼女の言うことは聞くことにしている。
……だが、このように力強く押してくることは、普段、あまり無い。
普段は持ち帰ってきた仕事を風呂の前に片付けたり、食器を洗おうとしてブラウニーに台所を防衛されたり、買ってきたすこしいいジュースをブラウニーのカップに注いでみて、ブラウニーが嬉しそうにカップを持ってくるくる回るのを眺めつつ、俺もジュースなぞ飲んでみたり……と、食後はのんびり過ごすことが多いのだが。
風呂には、ハーブのようなものが入っていた。薬湯、ということだろうか。まあ、香りは良い。効能は知らん。だがまあ、悪いものではないのだろう、と諦めているので、特に気にせず入浴する。
しっかり入浴して風呂から出ると、ブラウニーがやってきて俺の髪を乾かし始める。自分でやるよ、と言ったことはあるのだが、どうも、このブラウニーは俺の髪を乾かすのが好きらしい。毎度、乾かし終わった髪を、ふかふかふか、と撫でてくるのだが、それが楽しいのだろう。犬か何かはこういう気分だろうか。
「もう就寝か?」
だが、今日は髪を乾かし終わるとすぐ、ブラウニーは俺をベッドへ押し込もうとしてくる。何かあったんだろうか。
まあ、起きていても特にやることがあるでもない。折角、謎の瓜坊もどきが居ることだし、それの観察をさせてもらいたい気もしたが、ブラウニーが俺を寝かしつけたいならさっさと寝てやるべきだろう。彼女には世話になっている分、せめて聞き分けの良い家主でありたい。
「じゃあ、おやすみ」
ベッドに入ると、すぐにブラウニーがやってきて、もふもふ、とてとて、と俺の肩や背中を揉み解し始める。毎度、こうして体を揉み解されていると心地よくなってきて、すぐ眠ってしまうのだ。
……だが、今日はまた少し、趣向が異なるようである。
「お前もやってくれるのか……」
ブラウニーと一緒にベッドへやってきた瓜坊もどきが、俺の腰のあたりに陣取って、てくてくと歩いている。……まあ、揉み解してくれているのかもしれない。だがくすぐったい。くすぐったいんだが、落とすわけにもいかないからな。俺は耐えるしかない。
瓜坊もどきのマッサージもどきは、怒れるブラウニーによってすぐさま排除された。ブラウニーにはブラウニーの流儀があるのだろう。多分。
そうして瓜坊もどきは俺の上から退けられ、ブラウニーが俺を揉む間、俺の枕元で丸くなっており……。
「……お前もここで寝るのか……」
そして、マッサージが終わった俺が仰向けになるようひっくり返され、そこに毛布が掛けられた後、俺の横に瓜坊もどきが押し込まれた。
ここまで全て、ブラウニーの段取りである。ならば何か意味があるのだろう。瓜坊もどきも、俺の隣に入れられてしまったというのに、特に抵抗する様子もない。この瓜坊もどきからしても、これは想定される出来事だったのだろうか。
……何にしても、考えるだけ無駄である。俺には、この聡明なるブラウニーが何を考えているのかなど分からん。この瓜坊もどきの正体すら分からん。
分からん以上は、どうしようもない。俺は考えるのをやめて、さっさと寝てしまうことにした。
……妙な夢を見た。
最初はいつもの如く、悪夢を見ていた。まあ、過去の失敗だとか、職場での叱責だとか、学生時代の模試の結果だとか、そういうものが寄り集まったいつも通りの夢だ。
だが……そんな夢の中に、ずしん、ずしん、と何かがやってきたのである。
それは、例の瓜坊もどき……が、巨大化したものであった。
俺は、夢の中でぽかんとしながらそれを見上げていた。俺の横では、夢の中の上司がまた、ぽかんとしながら巨大な瓜坊もどきを見上げていた。
……そうして、巨大なそれは、『ぷう』とよく分からない鳴き声を一つ上げると、途端、しゅごごごご、と、辺りのものを吸い込み始めたのである!
当然、俺も吸い込まれたが、俺は謎の瓜坊もどきが吸った後に吐き出した大きな雲の上に、ふわん、と吐き出されて着地した。
そうして俺がふかふかした雲の上、ふかふかと柔らかな触感を味わいながら倒れている間にも、瓜坊もどきは次々に、上司だの、嘘まみれのタイムカードだの、俺の模試の結果だの、バツ印があるテストだの、おさがりのダサいトレーナーだの、そういうものを吸い込んでいく。
吸い込まれたものは吐き出されると、もふん、と柔らかな雲になった。それらがぷかぷかと浮かぶ空は、蛋白石の如き柔らかな虹色。
俺はそんな空の中、『ぷう』と鳴く巨大な瓜坊もどきが適当な雲を捕まえてはもぐもぐと食べていくのを見守っていた。
……瓜坊もどきは、そうして悪夢のなれの果てをいくつか食べると、それで満足したようにころんと横になった。
そのまま、ぷう、ぷう、と寝息を立てながら寝てしまったのだが、愉快なことに鼻提灯が生産されている。
シャボン玉の如き鼻提灯が、ぷかり、ぷかり、と宙に浮かんでいくのを眺めていたら、俺も次第に眠くなってきた。
……そうして俺は、夢の中にして眠る、という奇妙な体験を経たのである。
翌朝、6時に起こされた。
ゆさゆさ、と優しく揺すられて目を覚ませば、ブラウニーのくりんとした目が俺を覗き込んでいた。
ブラウニーは俺を確認すると、ふに、ふに、と俺の頬を揉んだり、ふに、と瞼の様子を見たりして、それから、よし、と言うかのように大きく頷いた。
ブラウニーが台所に行ってしまったので、俺も体を起こす。と、そこで俺の横で未だに眠っている、例の瓜坊もどきを発見した。
「……太ったか?」
元々丸っこかった気がするが、更に丸っこくなっている。そして、腹いっぱい、という様子で寝転がっている様子を見ると、なんとも幸せそうであった。
……これを見て思い起こされるのは、見ていた気がする妙な夢のことである。
夢見が悪かったところに闖入してきたこの謎の瓜坊もどきが、悪夢を食っていったような、そんな夢だったようにも思えるが……。
「……さてはこいつ、獏か?」
獏、というものの伝説なら知っている。確か、獏とは夢を食らって生きるものだったはずだ。
もし、この生き物が獏なのだとしたら、まあ、辻褄は合う。俺の悪夢を食ってくれた、ということなのではないだろうか。
「まあ、食って腹いっぱいになってくれたんなら悪くはないか」
寝ている瓜坊もどき、獏かもしれないそいつを撫でてやる。ぷう、という鳴き声だか寝言だかよく分からない音を発して、推定獏は寝返りを打つのだった。
その日、帰宅すると推定獏は居なくなっていた。
あれはあれで可愛らしかったので、少々残念な気もする。だが……。
「……今日も来客か」
今日は胸を張るブラウニーの隣に、角が生えたウサギが居た。角が生えたウサギは、『どうも』とでも言うかのように、ぺこ、と頭を下げてきた。
……うちのブラウニーは、どうやら顔が広いようである。