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03.ブラウニー

 ~ブラウニー~

 人間の家に入り込んで、勝手に家事や繕い物などを済ませていく。その見返りとして食料を貰っていく。

 靴屋に住み着いたブラウニーが作りかけの靴を一晩で仕上げる見返りにパンやクッキー、ミルクなどを貰っていく話はあまりにも有名。

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 夜11時。20連勤から疲れ切って帰宅。尚、明日も出社である。

 飯か風呂かどちらか一方を捨ててでも、兎角眠らねば体が持たん、と思いながら、玄関の鍵を開け、ドアを開けた。


 そこで俺は、奇妙なものを見た。


 身長は30cmくらい。

 チョコレート色の丈の長いワンピースにクリーム色のエプロン。同じくクリーム色の三角巾を付けた頭は、こげ茶のセミロング。

 そして、くりん、としたこげ茶の目が俺を見つめていた。

 2.5頭身ぐらいにデフォルメされた女の子のマスコット人形の如き『生き物』が、そこには居たのだ。




 疲れ切った帰宅からの怪異。

 これは怪物か。化け物か。それとも俺の幻覚か。

 ああそうか。畢竟これは幻覚だろう。こんな生物が居る訳は無い。

「寝よう」

 幻覚を見るまでに疲れ切っているなら、もう寝るしかあるまい。もう俺は寝る。俺は寝るぞ。

 飯も風呂も明日の朝済ませることにして眠ろう。

 何にせよ、どちらももう仕度する気力が無い。

 これからまた外に出てコンビニに向かう気力など無いし、インスタントの飯ですら作る気力は無いし、風呂を沸かそうものなら風呂が沸くまでの間に眠ってしまってそのまま朝が来るに違いない。

 そしてこの奇妙な生き物。

 さっきから俺の視界の端でぴょこぴょこ跳ねながら俺に何かを訴えようとしているらしい奇妙な生き物。

 おそらくこれは、俺が眠って起きたら消えているだろう。消えていると思う。消えていてほしい。消えていてくれ。

 ……であるからして、俺は玄関へ踏み入った。

 当然である。俺が辿りつかねばならないベッドはこの安アパートの一室の奥にあるからして、俺はこの奇妙な生き物の幻覚を踏み越えて奥へ進まねばならない。

 重い足を持ち上げて、奇妙な生き物を乗り越え、部屋の奥に進み……そこで俺は、またしても奇妙なものを見つけた。


 食事である。

 それは、食事の幻覚であった。

 テーブルの上に積み上げられたままになっていたはずのコンビニ弁当やカップラーメンの容器はきれいさっぱり消え失せ、代わりにそこにあったのは、食事。

 ほっこりと湯気を立てる鶏雑炊。横には小さな蒸籠。そして奥には、果物まで見える。

 ……頬を抓ったが、幻覚は依然としてそこにあった。

 それどころか、美味そうな匂いすらしてきた。

 ついつい、とふくらはぎのあたりをつつかれたような気がして下を見れば、さっきの奇妙な生き物が俺をつつきながら、『食え』とばかりにテーブルの上を指していた。

 その表情はどこか自慢げですらある。

 ……嗚呼。

 どうしてこうなったのだ。

 俺はこんな、匂い付きの幻覚すら見るまでに疲れ切っていたというのか。実際疲れている。寝たい。ねむい。

 だが、俺の疲れた頭は疲れているが故に幻覚を見て、そして……疲れているが故に、判断力が鈍ってもいた。




 気づけば、俺はテーブルの上に用意されていた飯を食っていた。

 ……美味かった。俺の幻覚は最早、味すら再現するまでに進化しているらしい。最近の幻覚ってすごい。

 鶏雑炊を一口食べれば、鶏の旨味が生姜や葱の香味、そして米の甘味と共に溶け合う至極の味わいであった。胃に落ちた雑炊は、ほこほこと体を温めてくれる。そうしている内に、更に食う気力が湧いてくる。

 小さな蒸籠の蓋が開かれれば、ほわり、と湯気が立ち上る。中で柔らかく蒸しあげられたものは、人参に蕪に蓮根に里芋、といった根菜類と白身魚であるらしい。添えられていた胡麻ドレッシングを掛けて食べれば、野菜の優しい甘味やみずみずしい食感、それに魚の淡泊な旨味が胡麻の香りとまろやかさでまとめ上げられ、これまたなんとも美味かった。

 俺は食った。

 夢中になって食った。

 自分の部屋で食べる、久しぶりの暖かな食事。

 誰かが用意してくれた(自分が用意しなくてもできている)食事。

 そして、美味い。

 疲れた脳は考えることをやめ、ひたすら、食った。俺は食う事だけに生きる力の全てを注ぎ、食った。


 ……そうして気がつけば、俺はデザートに用意されていた果物に至るまで、一かけらも残さずに奇妙な食事を完食していたのである。

 後には旨味の余韻と、満腹感から来る幸福感が残されていた。

 ……幻覚を食って腹が膨れた。

 その恐るべき感覚の是非を考える力は、俺にはもう無かった。




 それからまたしても俺は、奇妙な生き物につつかれた。

「ああ、どうした」

 最早俺の脳は、疲れと幸福感によって幻覚に篭絡されていた。

 幻覚であるはずの、奇妙な生き物に機嫌よく返事をしてしまう程に。

 俺をつついた奇妙な生き物は、俺が返事をしたことが余程嬉しかったらしい。嬉し気に飛び跳ねながら俺のズボンの裾を引っ張り、玄関の方を示す。

 ふらふらと玄関へ向かえば、また途中でズボンの裾を引っ張られる。

 ……引っ張られた方を向けば、そこは、風呂場であった。(このアパートはごく一般的な一人暮らし向けのアパートなので、玄関の傍にトイレと風呂場と洗面所がある作りをしている。)

 そして風呂場には、風呂が沸いていた。




 そして俺は、風呂に入らされていた。

 奇妙な生き物が俺の背中を流してくれているが、麻痺した脳は最早それに疑問を抱くことすらなく、只々漫然と風呂に入っていた。

 発泡入浴剤が入っているらしき湯船に肩まで浸かり、心地よい温さに目が閉じかければ、奇妙な生き物がべしべしと俺の頬を叩いて俺を起こした。

 慌てて起きても幻覚はそこにあり続けたので、多分俺はもう駄目なんだと思うが、そう思う脳ももう駄目になっているので何も問題はあるまい。




 風呂を出れば、奇妙な生き物が俺の寝間着をもってきた。

 俺は寝間着に着替え、奇妙な生き物が俺の髪を乾かすのを感じつつぼんやりし、髪が乾いたらぼんやりしたまま歯を磨かされ、そしてぼんやりしたままベッドに横たわり、奇妙な生き物が肩や背中をマッサージし、固まった筋肉が揉み解されていく心地よさを感じながら、目を閉じた。

 風呂場に居た時とは違い、奇妙な生き物は俺を起こすことは無かった。




 アラームは鳴らなかった。

 しかし、俺はいつも通り6時に目を覚ました。

 ゆさゆさ、と俺を揺さぶる感覚によって。

 ……最早諦めの境地に達しながら半身を起こしてみてみれば、そこには相変わらず茶色っぽいエプロンドレス姿の茶色っぽい奇妙な生き物が居たのであった。

 嗚呼!夢じゃなかった!




 夢ではなかったが、体の調子は良かった。

 いつもより明瞭に動く頭。軽い体。これらは真っ当な食事と風呂とマッサージのおかげなのだろうと思われた。昨日のあれが夢でも幻覚でも無かったのだとすれば。

 ……事態は依然として、奇妙奇天烈である。

 突如として現れた、奇妙な生き物。奇妙な生き物によって世話された俺。

 そして翌朝、元気に目覚めた俺と俺を起こした奇妙な生き物。

 ……奇妙である。現実であるとは到底思えない。だが、おそらくこれは現実なのだろう。認めざるを得ない。

 例えこれが現実ではなく、俺の見ている幻覚だったとしても、それならば俺はもう完全に幻覚にとりこまれてしまった、という事になる。そうでなければ、どうしてこんなに心も体も好調なのか。

 ……疲れはすっかりとれていたが、俺は、この事態を認めることにした。

 つまり、この奇妙な生き物も、奇妙な出来事も、全て現実なのだろう、と。

 そうでなかったとしても、俺はこの奇妙な全てを受け入れよう、と。




 そう納得した俺の寝間着の裾が引っ張られる。

 見れば、奇妙な生き物がテーブルを示していた。

 そこには、トーストとベーコンエッグ、そして最高に魅力的な香りを漂わせるコーヒーが用意されていたのだった。




 用意されていた朝食を摂り、用意されていた熱いおしぼりで寝癖を整えられ、いつの間にか綺麗にアイロンが掛けられていたシャツに袖を通し、いつも通りの時間に家を出る。

 ……が、その前に、1つ、いつも通りではないことをせねばなるまい。

「これ。少ないけど使ってくれ」

 財布から千円札を3枚出して、奇妙な生き物の前に差し出した。

 食事に風呂に、と諸々の世話を含めればこれでは足りないかもしれないが、請求されている訳ではないことをいいことに、これで済まさせてもらう事にした。そもそも、安月給の俺が出せる金はこの程度なのだ。

 奇妙な生き物は驚いたように目をまん丸くして千円札を見つめ、それから俺を見つめた。

「ありがとうな」

 余計か、とは思いつつも手を伸ばし、奇妙な生き物の頭部を撫でる。

 奇妙な生き物はやはり驚いたような様子だったが、なで、なで、と数度繰り返す内に、気持ちよさげに目を細めて嬉しそうにしていたので、恐らくこれで良かったのだろう。




 千円札をスカートの中に(スカートの中に!)しまった奇妙な生き物は、それでも俺の部屋から出ていこうとしなかった。

 玄関まで俺についてきて、じっと俺を見つめている。

 靴を履いて玄関のドアノブに手を掛けたところで振り返れば、昨夜と同じような光景であった。廊下に奇妙な生き物。なんとも妙な眺めである。違いは、俺の体調と気分くらいか。

「じゃあ、行ってきます」

 奇妙な生き物に声を掛ければ、嬉し気に手を振って見送ってくれた。

「また気が向いたらよろしく頼むよ」

 ドアを完全に閉める前にそういえば、ドアの内側で奇妙な生き物がぴょこん、と飛び跳ねる気配があった。




 そして、夜9時48分。

 疲れてはいるものの、幾分体調も良く21連勤から帰宅。

 たまにはインスタントではない食事を作るか、とか、そろそろ洗濯物が溜まっているから洗濯せねば、とか、そんなことを考えつつ玄関のドアを開けた。




 そこには、昨日同様、茶色っぽい奇妙な生き物がにこにこと俺を待っていたのであった。

「……ただいま?」

 奇妙な生き物はぴょこぴょこ、と飛び跳ねると、やはり昨日同様、俺を部屋の奥へと導く。

 ……そこには、大根おろしが添えられたハンバーグ、具沢山の味噌汁、ほうれん草とちりめんじゃこのお浸し……といった食事が湯気を立てていた。

 そして、奇妙な生き物はやはり昨日同様、少々自慢げに『食え』とばかりに俺を見つめているのであった。

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