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22.付喪神

 ~付喪神~

 あらゆる道具は100年経つと付喪神になるという。厳密には、100年きっかりで妖怪になるのではなく『道具も草木も人間も動物も、長い年月を経るごとに霊性を得ていく。それが大体100年』という話らしい。100年生きた猫が猫又になる、という話もある種、これ。

 ところで、1920年代のものはそろそろ付喪神になる頃だが、つまるところ、複葉機や銃、ラジオや映写機や自動車やレコード、果ては世界で一番金を稼いでいる某ネズミのグッズなどの付喪神もが既に存在している可能性があるのだ!

 ついでに、あと40年もすれば人間が宇宙へ行けるレベルの宇宙船関連の付喪神が生まれ始める。これで妖怪の宇宙進出が始まっていくことであろう。夢と歴史は広がっていくのだ!


 ~~~~~~~~~


 走り回った。そういう日に限って、何も食べられない。

 上手くいかなかった。そういう日に限って、電車が止まる。

 傘を持っていなかった。そういう日に限って、雨が降る。

 私の本日は概ね、こんなものだった。




 空腹のまま退勤してきたが、更に電車が人身事故で止まったとアナウンスが流れ始めた。

 運転再開の見通しが1時間後だというから、なら近くの書店に寄ろうか、と考えて、駅の改札を出る。

 だが書店は棚卸のために臨時休業だった。更に、そんな書店の前でどうしようかと考えていたら、雨が降ってくる始末だ。まったく、嫌になる。

 労力を割いた割りに何もかもが上手くいかないこんな日は、空も自分を嘲笑っているように思える。本当に碌でもない日だ。


 雨が降ってきてしまった以上、このまま濡れながら駅に戻って電車の運転再開を待つか、どこかで時間を潰すか、そのどちらかしか私には道が残されていない。

 ……なので、私は後者を選ぶことにした。秋の終わりを思わせる雨の日に濡れたままで居たら、体調を崩すことは間違いないだろうから。

 しかし、目当てにしていた書店がある通りには、然程店が無い。あっても、華やいだ店から他人の笑い声が聞こえてくるばかりで、私が入ったら場違いだろうと思われた。

 だから……いよいよ雨足が強まってきた、という頃に見つけた店に、私は飛び込むことにした。

 駆け込んだのは、小さなカフェ。こじんまりとして古めかしい建物に、ほわり、と温かなオレンジ色の電球が灯っていて……まあ、ここなら私の滞在が許されそうな、そんな気がしたから。


 店のドアを開ければ、ころん、ころん、と快いベルの音がした。ドアに取り付けられているドアベルは、花の形をしている。成程、このベルから鳴るに相応しい音だな、と思った。

「ああ、いらっしゃいませ。珍しいなあ、お客さんなんて」

 そうしていると、カウンターからこのカフェのマスターと思しき人物が声を掛けてくれる。

 ……客が珍しい、というのはどういうことか、と思って見回してみれば、成程。確かに、他に客が居ない。がらん、とした店内に、私とカフェのマスターだけだ。

「いやあ、中々繁盛しない店でね。見ての通り、お席は全部空いてるんですよ。なのでどうぞ、お好きな席へ。おススメは向こうの窓際です」

 まあ、夜だから客が居ないのかもしれない。……昼からずっとこの調子なら、この店が潰れていない理由が分からない。流石に『客が珍しい』飲食店なんて無いだろうと思いたい。

 ……何か問題のある店なんだろうか、と一瞬不安になったが、丁度、背後のドアの向こうから、ざっ、と激しい雨の音が聞こえてくるようになる。

 いよいよ、外には出られなくなった。……仕方がないので、マスターに勧められた通り、奥の窓際の席に座る。

 席に置かれていたメニューを開けば、飲み物の他に食事の記載もあった。ありがたい。……『客が珍しいカフェ』の食事がどんなものかは、少々不安だが。

 結局、少し考えてから、ミルクティーとドリアを注文した。……ドリアのところに、『好評!』と書いてあったので、一縷の望みを掛けて。


 マスターに注文を伝えたら、そのまま少しばかり待つ。調理しているのであろう音と気配を遠くに感じながら、ぼんやり窓の外を眺めた。

 窓は、瀟洒な細工のアイアンフレームに波のような模様が入ったガラスが嵌め込まれたものだった。店の、古めかしくどこか温かい雰囲気に合っている。

 ……そして、窓に打ち付ける雨の音が、店内に小さくかかるBGMを掻き消していく。

 不快じゃない。窓の内側から眺める雨模様は、どちらかと言えば好きなものに分類される。……この後、この雨の中を駅まで帰らないといけないことを考えないようにするならば、まだ、ガラスの外側を流れていく雨と雨音、そしてガラスの歪みと雨に遮られ、ぼんやりとして見える街の光を楽しんでいられる。

「……ん?」

 ふと気づくと、机の上に盆が乗っていた。いつの間に運ばれたのだろうか。マスターはずっと調理をしていたように思ったのだが……。

 まあ、自分が窓の外を見てぼんやりしている間にマスターがそっと置いていったのだろう。随分とぼんやりしていたようだ。

 さて。

 盆は磨き込まれた銀色の、金属製のものだ。縁が透かし彫りのようになっていて、中々洒落ている。そして、古めかしい。それこそ、大正時代の喫茶店で使われていたと言われても納得するような。

 ……そして。

「あの、これ」

 ……何故か、そんな小洒落た盆の上に乗っているのは、急須であった。




 急須だ。急須が、盆の上にある。

 そして私が注文したものは、ミルクティーであったはずだ。

「ああ、中身は紅茶です!大丈夫ですよ!」

 ……が、マスターからそんな声と笑顔が飛んできた。そうか。急須だが、中身は紅茶だったのか。……急須で出てくる紅茶は初めて見たな。

 よく見れば、急須の横にはミルクピッチャーが置いてある。……ミルクピッチャーが添えられた急須も初めて見たな。

 まあ、そういうことなら仕方ない。紅茶を飲むにあたって、使われるものがティーポットではなく急須であっても、特に問題は無いだろう。まあ、厳密にはポットの形や材質の違いから紅茶の味に差が出ることもあるのかもしれないが、私はそこまで味にうるさい訳でもない。

 結局のところ、急須かティーポットかなど、どうでもいい問題だ。私は早速、添えられているティーカップに紅茶を注ぐべく、急須に手を伸ばし……。


「……いや、避けられても」

 急須が、さっ、と、避けた。

 ……急須に避けられるのも初めてだな……。




 いや、おかしい。犬や猫ならともかく、急須が人間の手から逃れようと逃げる、などということがあるだろうか。

 どうせ、何かの見間違いだったんだろう。自分の手と対象物の距離が掴めないくらいに疲労してしまっているのか。

 ……何はともあれ、急須が動いたなどと言って騒ぐのも馬鹿らしい。改めてもう一度、急須に手を……。

「……自分で淹れたいのか」

 ……今度はいよいよ、見間違えではない。幻覚を見ているのでもなければ。

 急須はぴょこ、と跳び上がると、そのままふわりと滞空し、そして、自分の体を傾けて、ティーカップに紅茶を注いだ。

 紅茶は赤みがかって透き通った、美しい紅茶色である。……急須だが、中身は紅茶であった。それは、間違いないようである。




 紅茶は紅茶だったが、急須は動いた。

 この事実にどうしたものかと考えていたら……。

「ああ、すみません。その急須、付喪神なもので……」

 どうぞ、と言いながらドリアとサラダを持ってきたマスターが、苦笑しつつそう教えてくれた。

「付喪神」

「あ、はい。物は100年くらい経つと付喪神になるんですよ。この店、どうにもそういうのが集まってきちゃって。ははは」

 マスターが何でもないことのように説明してくれるが、そんなことがあっていいのだろうか。急須が付喪神になっているので自分で茶を淹れる、など……。

「ちなみにそちらのミルクピッチャーも付喪神です」

「付喪神」

 ……マスターから紹介されたミルクピッチャーが、ぺこ、とお辞儀してきた。……なのでこちらもなんとなく、お辞儀し返してしまった。

 ミルクピッチャーは私とマスターが見守る中、よちよち、と少々不慣れな様子で歩き、そして、こて、と傾いて、ティーカップの中にミルクを注いだ。

 注ぎ終えて体勢を戻した後、少々自慢げにしているように見えたので、私はマスターと一緒に小さく拍手をすることになってしまった。

 まあ、頑張っていると思う。うん。……うん。

「ちなみにこちらのお盆も付喪神です」

「空を飛んだ……」

「はい。急須の次ぐらいには古株なので」

 ……盆は、ひゅっ、と飛んでいくと、盆の上にフォークとスプーンを乗せて戻ってきた。マスターが運んできたドリアには、確かにカトラリーが付いていなかった。マスターは『ああ、いつもありがとう。助かるよ』と盆に礼を言って、盆はくるくる、と得意げに回ってテーブルに着地した。

「ではごゆっくり」

「あ、はい……」

 ……そうして私は、去っていくマスターの背を見送って……『めしあがれ!』とばかりにもそもそ動いている急須とミルクピッチャーと盆とを眺めて……仕方がない。ドリアを食べるべく、盆が運んできてくれたスプーンを手に取ることにした。




 ドリアはとても美味しかった。

 まろやかなホワイトソースの味なんて、いつぶりに感じただろう。ほわり、と湯気を立てるホワイトソースとミートソース、とろけたチーズ、そして人参や玉ねぎやピーマンといった野菜の微塵切りと炒め合わせてあるご飯……温かくて美味しい食事というものは、多少、一日をマシにしてくれる。

 ……それに、ミルクティーもまあ、悪くない。生憎、紅茶の味が分かるほどの教養があるわけでもないのだが、美味しいな、とは思った。

 急須とミルクピッチャーが盆の上でじゃれ合っている様子を見ながら飲むミルクティーというものも、まあ、中々悪くない……。


 胃が温まってくると、少し、店内を見回す余裕が出てきた。

 そして店内をよくよく見てみると、ディスプレイされている古い品の中には、恐らく付喪神なのだろうな、と思われるようなものがいくつか混じっている。

 古い燭台のようなものはもそもそ動いていたし、よく見たらマスターの横ではティーカップがティーカップを磨いていた。絵画だと思われた壁掛け鏡には、どうやらここではないどこかの景色が映し出されているようだ。……どう見ても、普通ではない。

 普通ではない店だが……不思議と、居心地は悪くない。少なくとも、何もかもが上手くいかない日に『こういう変な店がある』ということを知れたのは、まあ、今日のただ1つの成果として価値あることだと思う。




「お客さん、全然動じませんねえ」

 それから少しして、ドリアを食べ終え、ミルクティーを急須からもう一杯、と考えたところで、ことり、と小さな皿が置かれた。

 皿の上には、アップルパイが乗っている。艶々したパイの表面も、断面からとろりとして見える林檎も、さくさくと何層もの断面を見せるパイ生地も……全てが何とも美味しそうに見える。勿論、私はアップルパイの注文はしていないのだが……。

「こちら、付喪神を嫌がらずにいてくださるお客様へのサービスです。どうぞ」

 マスターの言葉に少し驚かされたが、テーブルの上では急須とミルクピッチャーと盆が、喜ぶようにぴょこぴょこと軽快なダンスを踊っていた。

 ……まあ、マスターも、この付喪神達も喜んでくれているなら、ここに来た甲斐はあったということだろう。

 ついでに、その報酬としてアップルパイを頂けるというのも、悪くない。


「あ、そっちにも配達頼むよ」

 ……かと思えば、マスターはまた別の動く盆にアップルパイとミルクティーのカップを乗せて、その盆が壁掛け鏡に飛んでいき、鏡の中へ吸い込まれていくのを笑って見送っていた。

 なんとも……なんとも奇妙なカフェである。




 アップルパイを食べ終える頃には、雨が止んでいた。到底止むとは思えなかった勢いの雨が止んでしまったので少々驚いたが……これももしかすると、このカフェの付喪神の力か何かなのかもしれない。


 駅に着いたら、もう電車は運転再開していた。想定より早かったらしい。珍しいな。

 そして混んだ車内ではあったが、何とも不思議なことに2駅目で人がさっと降りていき、席に座ることができた。

 ……奇妙な一日だった。碌でもない一日だったが、最後の最後に、随分と妙で不思議な出来事が起こってしまったのだから。

 まあ、いい気分だ。全てはあのカフェのおかげ、ということかもしれない。


 ……何とも妙なカフェだったが、また行ってみようかな、と思う。

 次は、雨が降っている訳でも、電車が止まった訳でもない時にでも。


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