19.蟒蛇
~蟒蛇~
でかい蛇のこと。また、でかい蛇の妖怪。
でかい蛇はお酒が好き。古事記にもそう書いてある。
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社会人になってから、酒を飲む機会は度々あった。だが、自ら進んで飲むことはあまり無かったように思う。
理由は簡単だ。金が無かった。ついでに、激務に追われる中で酒を一度飲み始めたなら、いよいよ酒に溺れて駄目になりそうな気がしたからだ。
……なので、俺の家には酒は置いていない。置いていなかった。
だが、金曜日。明日は休日だ、というその日……。
「……デカい酒があるな」
帰宅すると玄関に大量の酒が置いてあった。
正確に言うと、巨大な瓢箪が置いてあり、そこに取り付けられた蛇口を捻って、ブラウニーが盃に液体を注いでいた。多分酒なのだろう。そして、この巨大な瓢箪いっぱいに酒が入っているのならば、大量の酒が玄関にある、という事になる。
これをうちのブラウニーが買ってきたのだろうか。一体どこで、どうやって。
少々不思議に思いつつ、玄関を抜けて部屋に入ると……。
「……デカい蛇も居るな」
……決して広くないワンルームに、もっちりみっちりと収まるデカい白蛇が居た。
「まあ……どうぞ、ごゆっくり」
なので俺は、大蛇に挨拶して、適当に着替えることにした。まあ、こういうのは気にしないに限る。家に妙なものが居るのはいつものことだしな。
スーツを脱いだところで、ブラウニーがぴょこぴょこと動いて、卓の上に夕食を用意してくれた。どうもありがとう。いつも助かる。
今日の献立は、鰤の照り焼きとだし巻き卵、大根おろしとなめこの和え物、それに具沢山の味噌汁、といった具合だ。
早速頂く。鰤は照り焼きのタレを纏って何とも艶めかしい。そして脂ののった鰤は照り焼きのタレにも負けない力強い味わいで、俺の舌を篭絡した。
だし巻き卵からあふれ出る出汁もまた、力強い味わいだ。たっぷりと贅沢な旨味がふんわりと優しい卵の中に閉じ込められ、これがメインでも十分にいけるだろうという味わいである。
大根おろしとなめこの和え物は、あっさりとした味わいであった。スダチかカボスかの香りがふわりと漂い、何とも贅沢だ。……尚、俺はスダチとカボスの見分けはつかない。青柚子が入ったら益々駄目である自信がある。
そしてブラウニーがよく作る味噌汁は、とにかく沢山の野菜の旨味が溶けだしていて、これがまた美味いのだ。今日のは、玉ねぎとキャベツに人参、ゴボウのささがき……そして、生姜が少々、といった具合だ。少し寒くなってきた今日この頃、ほんの少々の生姜が味噌汁に加えられることが増えたのだが、これが体を温めてくれて中々良い。
……さて。
俺がこのようにして夕食を堪能している横で、例の白い大蛇は酒を飲んでいる。
大蛇はかなりデカい。だが、特に暴れる様子もなく、大人しく、しかし、もっちりみっちりと部屋を半分程度圧迫しつつ収まっている。
……確か、日本の神話ではヤマタノオロチが大酒呑みなんだったか。酒を飲まされて眠ってしまったところを討ち取られていたような記憶がある。
この蛇もその類なのか、ちぴちぴ、と酒を飲んでは何とも幸せそうな顔をしている。
つぶらな瞳は中々愛嬌があるし、むにゅり、と曲線を描く口はなんともご機嫌な様子に見える。何より、舌を盃に伸ばして酒をちぴちぴとやっては、如何にも満足気に尻尾の先をぴたぴたとやる様子が、可愛らしい。
……蛇を可愛らしいと思ったのは初めてかもしれない。
蛇の横で俺は夕食を食い終わった。すると、ブラウニーが小さな器に何かを入れて俺のところに持ってきた。
……デカいどんぐりの実を削って作ったような可愛らしい器は、恐らく酒器であろう。お猪口、と言うに相応しい大きさと形状である。そして、並々と湛えられた液体は、澄み渡りつつも豊潤な香りを漂わせている。つまり、酒だ。
どうするかな、と、少しばかり逡巡した。だが、今日はこの後、特に何をする予定も無い。この量であれば酒が明日に残ることも無いだろうし、そもそも明日は休日である。
ならば、ということで早速、どんぐりお猪口に口を付けてみる。
……酒は、なんとも軽やかな味わいであった。米由来なのであろうに、果物や花めいた甘やかな香りが強い。アルコールの香りはほんの気持ち程度に感じられるばかりだ。
味わいも、実に軽やかだ。何とも陳腐な表現になるが、果物めいて甘酸っぱい。そしてしかと旨味も感じられる。まあつまり、極上の甘口日本酒、というわけだ。
俺が酒を飲んでいると、大蛇がなんとも機嫌のよさそうな顔で俺を見ていた。微笑んでいるようにも見える。これが素の顔なのかもしれないが。
「ああ、お相伴に与っている。ありがとう」
恐らく、この酒はこの蛇が持ってきたのだろう。玄関にあった巨大な瓢箪は、うちのブラウニーが運んでくるにはあまりにも大きすぎる。が、この大蛇が持ってきたというのならば納得のいく大きさだ。
蛇が持ってきた酒を一杯分けてもらった、という何とも奇妙な状況だが、まあ、美味い食事に美味い酒があるとなると、細かいことは最早どうでもよくなってくる。
ブラウニーが白和えめいた小鉢を持ってきてくれたので、それを肴にもう一杯、酒を頂く。
白和えはベーコンとアスパラを和えた洋風の味付けだった。甘味は抑えられ、代わりに塩味と黒胡椒、そしてオリーブオイルと隠し味のチーズが効いている。これはこれで中々美味いな。
そして蛇もまた、同様に酒のつまみを与えられていた。蛇は白和えをぺろりと嘗め、酒を嘗め……そしてなんともうっとりとした様子でにこにこしているのだ。
まあ、ご機嫌なようで何よりだ。不機嫌であるよりはご機嫌である方が良い。それ以上のことは考えないものとする。以上。
そうして俺が3杯目を頂き終えたところで、大蛇はいつの間にか寝ていた。……恐らく、寝ている。この蛇は一般的な蛇よろしく瞼が無いので、目を閉じないのである。が、恐らく寝ている。まあ、恐らくは。恐らくはな。
酔っ払って寝てしまうあたり、実に神話のヤマタノオロチ的である。まあ、この蛇の頭は1つだが。
俺も酒はこのあたりにしておくとして、風呂に入ることにした。
すぴ、すぴ、と寝息を立てる大蛇を起こさないようにそっと移動して、俺は風呂へ向かう。……やはり、玄関の巨大な瓢箪が少々気になるが、まあ、大蛇が帰る時に持ち帰ってもらおう。駄目でも、恐らくブラウニーが処分先を知っているだろう。ブラウニーには無理だろうが、俺ならなんとか運べそうだ。その時はブラウニーに代わってこれを運んでやることにしよう。
風呂に入って、湯舟に浸かり始めたタイミングで、ブラウニーがやってきた。『家を狭くしてすみませんね』ということなのか、そっとアイスを持ってきたのである。パピコだ。……久しぶりに食ったが、パピコ、美味いな。
風呂から出て、ドライヤーで髪を乾かす。大蛇は相変わらず寝ているので、起こしてしまっては不憫だ。仕方なしに、俺は洗面所に籠るようにしながら髪を乾かした。
髪を乾かしたところで、ブラウニーが肩を揉んでくれた。嗚呼、生き返る心地である。
……だが、ここで問題が発生する。
「ベッドが無い。参ったな」
そう。今、決して広くないワンルームのほとんどは大蛇によって占拠されているのである。
くねくねとしながらも、もっちりみっちり、天井付近にまで詰まった大蛇によって、俺のベッドは埋もれていた。嗚呼。やんぬるかな。
「すまない、ブラウニー。毛布だけ引っ張り出したいんだが、手伝ってくれるか」
仕方が無いので、せめてベッドの上にあるのであろう毛布だけでも引きずり出すことにする。それを被って床で丸くなれば、まあ、眠れないこともないだろう。
だが、ブラウニーはこくんと頷くと、ぺちぺち、と大蛇を叩き始めた。折角気持ちよさそうに寝ているのに起こしてしまっていいのだろうか。
……が、大蛇は特に気にする様子もなく、のそ、と少しばかり頭を持ち上げると……。
「うわ」
尻尾の先で、くるん、と俺を捕まえた。なんと器用な。
そして、俺はそのまま大蛇に捕まって、ずるずると引きずられ……。
「……いいのか、これで」
つづら折りになっている大蛇の体と体の間に、すぽ、と収められてしまった。ついでに、大蛇の尻尾の先がごそごそやって取り出してくれた俺の毛布が俺の上にもふりと掛けられる。
まあ、つまり……俺は今、大蛇をベッドにして寝ている、という事になる。いいのだろうか。これはいいのだろうか。
ちら、とブラウニーの方を見てみたが、ブラウニーは『よし』とでも言うかのように満足気に頷いていた。そしてそのまま、ブラウニー自身は食器棚の一番下……ブラウニーの部屋として提供したそこに帰っていった。
「……おやすみ」
なので俺も寝ることにした。ブラウニーが寝るのなら、俺も寝る。そもそも、大蛇の尻尾の先は俺を寝かしつけるように、ぽす、ぽす、と俺の胸の辺りをごく軽く叩いてくるのだ。これはもう、寝るしかあるまい。大蛇の期待に応えるためにも。
……蛇の体をベッドになどして眠れるだろうか、と少々心配にはなったのだが、蛇の体は意外とフワフワしていた。まあ、これなら眠れる。
そして俺の肝は案外太かったらしい。或いは、風呂にも入ったことで酒が回ってきたのか。
……兎角、俺は寝た。大蛇に寝かしつけられて、大蛇をベッドにして、俺は寝たのである。
翌朝。起きたら、大蛇の上だった。
寝ぼけた頭で、『そういえば昨晩、大蛇が入り込んでいたのだったか』と思い出す。
さて、そんな大蛇は俺が起きて身じろぎしたことで起きたらしい。もそ、と動いて、それから俺の顔を覗き込んで何やら満足気に頷いていた。ああ、よく眠れたよ、ありがとう。
それからブラウニーが朝食を用意してくれたので、食べる。トーストとスクランブルエッグ、それにカリカリのベーコンとコーヒーだ。
尚、大蛇はスクランブルエッグを食べていた。とろりと口当たり滑らかなスクランブルエッグは、卵のまろやかさと旨味、そして絶妙な塩味に馥郁たるバターの香りが合わさって、最高の料理に仕上がっている。これには大蛇も大満足なのだろう。盃に入ったスクランブルエッグを一口食べては、むにゅり、とした口を一層むにゅむにゅさせて、なんとも機嫌のよさそうな顔をする。
ブラウニーはこれに満足気であった。彼女はプロ精神に満ち満ちた存在なので、自分が提供したもので他者が満足することに喜びを覚えるようである。まあ、そういう訳なので、俺もできる限り、『美味い』と伝えるようにしている。伝える度にブラウニーが満足気に頷くが、なんとも可愛らしいのだ。
そうして朝食を終えた俺と大蛇であったが……ここで、大蛇が動き出した。
「ああ、帰るのか?」
大蛇はこくん、と頷く。どうやらこの大蛇は一晩の宿、そして酒を飲む場所と酒の肴をアテにして来たようである。
「まあ、部屋が必要な時にはまた来てくれても構わないから」
俺が構うとしてもきっとブラウニーが招き入れるのだろうが、まあ、俺自身としても構わない。こういう変なものが家にいる、というのも、悪くはない。
大蛇はこっくりと頷いて、なんとも楽し気に這っていって……。
「……脱皮するのか」
そこで、なんと、脱皮を始めた。
成程な。この蛇、脱皮会場もご所望であったらしい。
そうして小一時間で蛇は脱皮を終えた。脱皮を終えてより一層艶やかな体になった大蛇は、ぺこん、と頭を下げると、そのまま窓へと進んでいく。
「ああ、ここから出……いや、これ、出られるか……?」
大蛇はベランダに繋がる窓を器用にも自分で開けて、そこへ突き進んでいくのだが……やはり少々キツいらしい。みち、と窓に詰まった大蛇は、それでも、むぎゅむぎゅ、と、多少変形しつつ出ていく。
「……意外と出られるものなんだな」
……まあ、蛇は柔軟であった。やがて、すぽん、と抜けて、ちゃんと窓から出ていった。脱皮したてで柔らかいからかもしれないな。
いや、だとすると脱皮直前の昨夜はどうやってこの部屋に入って……いや、考えるのはやめよう。こういうことを考えても、碌なことは無い。
蛇はベランダからのんびりと這って出ていって、やがて道の曲がり角へ消えていった。俺とブラウニーは、それを見送った。
……あの大蛇、そこら辺の道路を塞がなければいいが。
さて。
こうして俺の部屋には、デカい抜け殻が残されることになった。……デカい。抜け殻であっても、十分、デカい。そしてそこそこ分厚い。あの大蛇の皮だからな。当然と言えば当然なのだろう。
だが、ブラウニーはどうやら、これが欲しかったらしい。小躍りしながらデカい抜け殻の周りで喜んでいる。成程、あの蛇にこの部屋を貸した賃料として、これを貰ったのか。
まあ、お前が嬉しいならよかったよ、と俺は思う。家事をやってもらっている以上、部屋に変なものを連れ込まれても文句は言えない。それに、これはこれでまあ、楽しいものだ。
持ち帰った仕事を少しばかりこなして、昼寝して、起きたらブラウニーが増えていた。近所から助っ人に駆けつけてくれたブラウニーかもしれない。
一応、『うちのブラウニーがどうも』と挨拶しておいた。ブラウニー達はそれぞれ、ぺこん、と愛想よくお辞儀してくれた。ついでに、クッキーをお裾分けしていただいた。美味い。
……彼らブラウニー達は、蛇の抜け殻を切り分けたり、それを畳んで紐で縛ったり、何かラベルを付けたり、袋詰めしたりしている。
かと思えば、その横では蛇の抜け殻を使って何かをこしらえているブラウニーも居る。どうやらこの蛇の抜け殻、皮革製品の原料として使われているようだ。分厚く丈夫な大蛇の抜け殻は、皮革製品の原料として使えるらしい。成程な。
うちのブラウニーも、早速何かこしらえているようである。まあ、楽しそうで何よりだ。
俺もいくらかブラウニー達の作業を手伝う。大きな抜け殻を切ったり畳んだり引きずったりするのは、身長30㎝程度のブラウニーよりは俺の方が向いているというわけである。
そう広くないワンルームの面積を利用して抜け殻を切り分けるべく、抜け殻を掴んで、廊下の方、そして玄関の方にまで引きずっていく。こうしてやると、ブラウニー達は喜んで、伸びた分の抜け殻の加工を始めるのだ。
……が、そうして玄関まで抜け殻を引きずってきた俺は、そこでもう1つ、大蛇の残していったものを見つけてしまった。
「そういえば、これもあったな」
そう。玄関には、巨大な瓢箪が残されている。これは一体、どうしたものか。
更には、その瓢箪の他に、もう1つ。
「……狸か」
なんと、瓢箪の蛇口を捻って酒を出し、それをカップに注いではくぴくぴと飲んでいる狸が居た。
狸は玄関のドア前に座り込んでなんとも美味そうに酒を飲んでいたが、俺が狸を見つめ始めてからたっぷり1分後、ようやく俺に気づいて、ぴゃっ、と跳び上がった。そして、そっ、と酒の入ったカップを脇に置いて、その場で丸まってぶるぶると震え始めた。
……盗み飲みを詫びているのかもしれない。ということはこれは、土下座か。ただの毛玉にしか見えないが。
「まあ……どうぞごゆっくり」
だがまあ、狸の1匹程度、入り込んだところで今更である。俺は狸に挨拶して、居間へ戻ることにした。こういうのは気にしないに限る。家に妙なものが居るのはいつものことだしな。
……が、狸は俺に見逃されてもブラウニーには見逃してもらえなかったらしい。
ブラウニー達に寄って集って怒られたらしい狸は、その後、しょんぼりとした様子でブラウニー達と一緒に働いていた。盗み飲みした酒の分、働かされているらしい。
まあ、こういう妙なことがあるのも、いつものことだしな……。俺は考えるのを止めた。