12.布団かぶせ
~布団かぶせ~
柳田國男の著書に『ふわっと来てスッと被せて窒息させる』とだけ説明がある。それしか無い。まあ多分、布団がふわっと来てスッと被さって人を窒息させるのであろう。
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僕は今、何故か、布団の中に居る。
ただ、塾の帰り道を歩いていただけだった。
まあ、時間は少し遅かった。いよいよ受験まで4か月を切って、勉強に益々力を入れないといけない時期だから、今まで通りっていう訳にはいかないだろう。
周囲から掛けられる期待はかなり重い。元々、兄弟も居ないので僕1人に何かと期待がかかりがちなところに『努力を続ければ、早慶は受かる。更に努力すればなんとか東大もいけるかもしれないが、そっちは厳しいかも』という先生方の評があって、それからというもの、より一層、期待が重くなった。
自分が恵まれた環境にあることは理解している。両親ともに健在だし、金銭での苦労は無い。幸い、学力もそれなりにある。……世間ではこれを恵まれた環境だというんだろう、ということくらいは、分かっているつもりだ。
だが、重くて潰れてしまいそうだ、と思いながら勉強している。自分でも、やったらやったなりのことはできるだろう、という実感があるからなんとかやれている。
実際、僕はバカじゃない。人間を1000人くらい集めたら、間違いなく上位10人には入れる程度の学力だと思う。
けれど、1番ではないだろう、とも思う。……まあ、その程度の学力、ということだ。上には上が居る。けれど、僕自身だって、決して、そう捨てたものではないはずだ。少なくとも、『最上位』に手が届く可能性がまだある人間だ。だから、ここで諦めるわけにはいかなかった。
……何にせよ、これもあと5か月程度の辛抱だ。それでこの状況は終わるはずだから。ひとまずは、そこまで頑張ればいい。
……そう、思って、ただ歩いていた。
10月に入って、夜はそれなりに冷えるようになって、カーディガンでも持ってくればよかっただろうか、なんて考えながら、大通りを横に逸れて……。
ただそれだけだったのに。少し考え事をしながら歩いていた、というだけだったのに……『それ』は突然やってきた。
最初、ふわふわ、と空に何か浮かんでいるように見えた。
その時は、ポリ袋でも空を舞っているんだろうか、とぼんやり思った。だって、他に何がある?
……だが、もう少しよく見えるようになってくると、それが案外遠いところを漂っていることに気づいた。つまり……思っていたより大きいな、と。
けれどその時はまだ、特に何とも思わなかったんだ。まさかそれが、僕に向かって飛んでくるとは思わなかったから!
そうだ。その謎の飛行物体は、急に宙でぴたりと静止した。そこで僕はようやく、事の異様さが分かった。だって、空をふわふわ漂っていたものが、ぴたりと静止したんだ。あまりに不自然なことで……不気味なことだ。
だが、そいつは構わず飛んできた。静止したところから、僕に向かって一直線に。
僕は咄嗟に逃げようかとも思ったが、逃げるといっても、狭い道の途中だ。どこにも逃げ場なんて無かった。周囲は住宅街だから、叫べば誰か出てきてくれたかもしれないが……そんな度胸も、無かった。
結果、謎の飛行物体は僕に向かって飛んできて、僕はどうしようか迷って、その一瞬の迷いの内に……ぱくん、と、やられた。
いや、ぱくん、というか……ぱふん、というか……。
全身に軽く圧迫感があって、それで、僕は『何かに食われた』というように理解した。視界には何も映らなかったし、状況はまるで分からなかったが、ふわ、と浮遊感があったのは分かった。
……そして、僕は謎の生物……生物、だろうか?とにかく、謎の物体に食われかけた状態で、空へ飛び立ってしまった。
ひとまず、最初に命の心配をした。今尚、僕を攫ったコイツが何かは分かっていないが、何にせよただでは済まないだろう、と分かっていた。それから、どうも、ふわふわと空を飛んでいるような感覚もあったので、うっかりコイツが僕を離したら、それだけで僕は高所から落ちて死ぬだろう、ということも分かった。
このまま捕食されるかもしれないし、かといって暴れて取り落とされたら高所から転落して死ぬ。どちらがマシだろうか。
まだ、死体が残る方がマシだろうか。行方不明ということになったら、両親にも、周囲の人々にも、多大な心配をかけ続けることになる。それこそ、きっと、彼らが生き続ける間、永遠に。
そんなことになるよりは、転落死ということで死体が残った方が、まだ、皆にとっていいのではないかと思った。
……が、今、この時期に僕の転落死体があったら、間違いなく『受験に気を病んだ末の自殺』と理解されるのだろうから、甚だ不名誉であるし……これもまた、両親その他の皆に、不要な後悔を植え付けることになるだろう。となると、これもよくない。
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すことはできたから、誰かへメッセージを送ることは、できた。だが……この状況を、誰に、どう説明したらいい?
『謎の物体に捕食されかかっています』などと、誰に連絡すればいいんだ?そして、そんな連絡をしたとして、何になる?
そうして僕は、結局、答えを出せないまま、有効な手立てなど何1つ思いつかないまま……とにかく僕を運ぶ謎の物体によって、秋の夜空を飛んでいくことになった、のだと思う。
そうして僕は、気づいたらここにいた。
……周囲を見回せば、妙にふわふわと柔らかな、雲か何かのような、そんなものの上に居ることが分かった。そして見渡す限り、他に何も無い。
謎の空間だ。僕は、謎の空間に居る。これは一体、何なんだ。
僕は茫然としていたが、それどころではない。そんな雲か何かの上には、ふわり、と布団があって……その布団が、僕を包んでいる!
ぼんやりと薄明るい中で分かる周囲の景色。そして、布団。……僕は急速に、この状況を理解した。
「こ、こいつ……布団だったのか」
あの時、空を舞っていた謎の物体。あれは、布団だったようだ。
僕は敷布団と掛布団、2枚の布団にすっぽりと挟まれて、身動きが取れない状態になっている。そう。身動きが取れないんだ。
僕が布団から出ようとすると、布団が力を込めて僕を締め付けてくる。敷布団と掛布団同士がぴったりくっついて、その2枚を剥がせない状態になってしまうらしい。
だが、僕がただ大人しく寝ているだけなら、布団も大人しい。ふんわりと柔らかく被さっているばかりで、特に何をしてくるでもない。
仕方がないので、僕は布団に寝た状態で周囲の状況を探ることにした。
……見渡してみれば、そこはなんとも不思議な場所だった。
なんと、地面が無い。
そう。地面が無い。或いは、遥か下方にあるから見えないだけだろうか。
ただ、夕暮れ時のような仄明るさの虹色の空が、上にも下にも広がっているばかりだ。一応、なんとなく霧の中のように見通しが悪い様子から、地面が実はあったとしてもおかしくはない、と思うが。
……では、地面も無い世界の中、僕が寝かされているのはどこか、といえば……雲の上だ。
僕の布団が乗っている雲の外にも、幾つか雲が浮いている。ぷかぷかと暢気に浮かんでいるそれらの雲は、上に誰かが乗っていたり、はたまた、誰も乗っていなかったりまちまちだ。
僕以外にも人がいるなら助けを求められないだろうか、と思ったのだが、声が届きそうにはない。そもそも、僕は布団から出られないので、助けを求めるにもかなり不自由だ。
それに……。
「……他の人も、寝ている……」
僕以外の人の姿は、確認できる限りでは全員寝ている様子だった。僕のように布団に閉じ込められている人も居るのだろうが、雲に埋もれて寝ている人も居る。まあ、布団無しでも眠れるくらいにふわふわした雲だが。
……まあ、確認するだけ確認したら、いよいよ僕には打てる手が無くなった。
これから僕は一体、どうすればいいんだろうか……。
僕を寝かしつけている布団2枚は、なんとも上機嫌だった。こちらが腹立たしくなるくらいに。
時々布団の端がぱたぱた、と動く。それから僕を、きゅ、と抱きしめるようにして、それから僕の頭を布団の端で撫でて……それから、僕の胸のあたりを、ぽふ、ぽふ、と軽く叩いて寝かしつけようとしてくる。
……こんなふうにされていると、どうにも眠くなってくる。この布団が僕を寝かしつけようとしてきていることは間違いないし、敵意らしいものも感じられないんだが……油断させておいて、僕が眠ってしまったところで捕食するタイプの奴かもしれないので、寝るに寝られない。
動けない。寝心地が良い。でも眠れない。……となると、自然と僕の行動は、考える、ということになる。
まあ、何故ここに居るのか、こいつは何なのか、ということについては考えるだけ無駄だろうから考えないこととする。
だから、この状況を脱する方法とか……この布団をどうにか出し抜いて脱出するための方法を考えることになるんだが……。
その時だった。
ふわふわ、と浮かんでやってきたのは……その、謎の生き物だった。
アリクイに似ている気がする。あれをもっと、こう、デフォルメしてぬいぐるみめいた容姿にして、白黒のツートンカラーにしたような……そんな、猫か小型犬くらいの大きさの生き物が、ふよ、と浮かんでやってきた。
……どう見ても、自力で空を飛べるような形状ではない。実際。風船か何かのような浮かび方でやってきた。飛んだというか、浮かんできたんだ。
僕は布団の中でそいつの到来を迎えることになってしまったのだが……その妙な生き物は、首から札を下げていた。
『退出時間になると、布団被せは自然にあなたのお家へ向かいます。延長の場合はスタッフへお申し付けください。』
……意味が分からない札を読んで、僕は益々意味が分からない思いでいっぱいになった。
布団被せ。そうか。こいつは布団被せというのか。……いや、何なんだ布団被せって!生き物か!?生き物なのか!?駄目だ、何も情報が無い!
ただ……唯一、有益な情報があるとすれば、『退出時間』があるということだろう。そして、それを迎えることができれば、僕は家に帰れる……のだと、思う。恐らくは。死体になって帰る、というようなことが無いならば、だが。
では、時刻を知る手立ては何かあるだろうか、と思いながら周囲を見渡していると……。
「……枕が飛んできた」
今度は、枕が飛んできた。更に、その枕の上には何かが乗っている。
「砂時計と……お茶?」
枕の上には木のお盆が乗っていて、そのお盆の上には大きな砂時計が1つ。『3h』と書いてあるから、3時間の砂時計なんだろう。
それから、マグカップがあって、中ではほこほこと湯気を立てる……お茶。
お盆には『本日の枕:天使の羽枕』『本日のお茶:ブレンドほうじ茶』『お茶のお代わりはスタッフまで。ごゆっくりお休みください!』と書かれた紙も乗っていた。
いよいよ、意味が分からない。だが、枕は枕元にお盆を置くと、すっ、と滑り込むようにして僕の頭の下に入り込んだ。
……ああ、くそ!意味が分からない!
いつのまにか、首から札を掛けた謎の生き物が枕元で寝ているし、開き直って飲んでしまったお茶はとても美味しかったし、枕はふんわりとしていて、何とも寝心地がよかったし……意味が分からないながらに、眠くなってきてしまった。
砂時計の砂がさらさらと落ちていく音になんとなく安心感がある、というか……意味が分からない状況の中で、少し、意味が分かるものが見つかってしまったから安心してしまったのかもしれない。
かくして、僕は眠くなっていた。
……こういう風に眠くなるのは、久しぶりのような気がする。
最近は何かにつけて不安なことを反芻しながら、夜を過ごしている。模試の結果だとか、復習しておくべき分野だとか、受験への漠然とした不安だとか、閉塞感だとか。そういうものを考えて繰り返していたら、1時間もすれば大体眠っている。そんな寝方をしている。
だから、『この生き物なんなんだ』とか『あのお茶なんだったんだ』とか『砂が落ちる音っていい音だな』とか考えながら眠くなってくるのは……その、随分と久しぶりな気がした。
思い返してみれば、受験期前から、何かにつけて布団の中で心配事を繰り返していた気がする。そう思うと、本当にこういうのはいつぶりだろう。
……その内、本当に意識が途切れ途切れになってきて、それで、その内、寝ていた……んだと思う。いつ眠ってしまったのかは、よく分からなかったが。
……暫くしたら、ゆさゆさ、と体が揺すられて、目が覚めた。
気が付いたら、布団が僕を揺すっていた。
……布団に揺すられるのは初めての経験だ。いや、それはそうだ。それはそうだよな……。
それで、なんだか妙に体が軽かった。頭もスッキリしていた。随分ぐっすり眠ってしまったような気がする。
僕の横では、アリクイにも似た妙な生き物が僕を見つめて首を傾げていた。首にかかっている札には、例の延長についての文章がある。
「ああ、延長はしなくていいです」
謎の生物相手に何を言っているんだろう、という気はするんだが、言っておかないとまた布団に捕まりそうなので言っておくしかない。
謎の生物は、僕の言葉をきいて、こっくりこっくりとゆっくり頷いた。
それから、もう一杯、お茶が出された。さっきと同じ、ほうじ茶だ。
……改めて、このほうじ茶、とても美味しいな。銘茶とされるものは何種類も飲んだことがあるが、それらのどれとも違う味わいだ。個性的、というか。これ、どこのお茶なんだろうか。
お茶を飲み終わって、カップをお盆へ返す。すると、布団がぱふん、と動いて、僕をしっかり挟み込んだ。……そして、謎の生物が前足を振って見送ってくれる中、布団はふわふわと飛び立っていく。
……やっぱりこの布団、空を飛ぶんだな。ああ、もう、原理なんて何も考えない。何も考えないとも……。
布団の飛行中は、僕の頭まですっぽり布団の中に入れられてしまったので、どこをどう飛んだのかは分からない。だが、気づいたら家の庭に居た。
僕を放した布団は、そのままふわふわと空へ帰っていった。……あれはどういう仕組みで飛んでいるんだろう。
ところで、あの砂時計が本当に3時間の砂時計だったなら、僕は3時間以上、帰宅が遅れたことになる。つまり、もう深夜であるはずだ。慌てて時計を見てみたら……不思議と、時間が経っていなかった。本来帰宅する予定だった時刻より、30分程度、遅いだろうか。でも、それくらいで済んでいる。
狐につままれたような気持ち、とはこういうことなんだろうな。
結局、僕は特に何をするでもなく、ただ家に帰った。両親にも、特に何も言われずに迎え入れられた。少し遅かったな、という程度で済んでしまったのだから、やはり不思議だ。
その日の夜は眠れない気がしたが、何故かすとんと寝てしまった。……寝ていた、というのも夢か幻覚だったのかもしれない。
そうして何事もなく朝を迎えて、高校へ向かって、また何事もなく受験勉強を進めることになった。昨日、謎の布団に攫われたのは本当に夢だったんじゃないか、と思われるくらい、何も変わりがなかった。
夜はやはり、眠れなかった。心配事が無くなったわけでもないんだから、当然なんだが。
僕に掛けられる期待も、相変わらず重い。まあ、これも当然だ。
だが……休憩を心がけるようには、なった。
あまり思い詰めないように、と、自分で意識している。効果があるかは微妙なところだが……まあ、こう意識していれば、またあの布団に攫われることは無いんじゃないかと、そんな気がして。
休憩する時には、なんとなくほうじ茶を飲むようにしている。とはいえ、あの謎の空間で飲んだほうじ茶のような美味しさは無いんだが。
……あの謎の空間で、謎の生物なり謎の布団なりに、ほうじ茶の茶葉の銘柄だけ教えてもらえばよかった。それは少し、後悔している。
「……ここで売ってたのか」
……後日、歩く木が『ブレンドほうじ茶!おいしいよ!』というポップを掲げながら、小さな袋に詰められた茶葉を売っているのを発見してしまうのは、また別の話だ。
その、世界って、広いな。本当に。知らないことが、山のようにある……。