前へ次へ
10/30

10.ウロボロス

 ~ウロボロス~

 自分の尻尾を咥えている蛇。死と再生、或いは永遠の命を象徴する。

 不思議なことに、北欧神話のヨルムンガルドやヒンドゥー教の世界を支える龍、アステカ・トルテカ文明のケツァルコアトルなど、実に様々な神話・伝説において、蛇や龍が尻尾を食べているものが存在している。

~~~~~~~~~




 ブラウニーがやってきて、はや3か月。

「……金がある」

 俺は、謎の現象に慄いていた。

 それは、金に余裕がある、ということについて。


 原因は分かっている。1つは、終電を逃さなくなったのでタクシー代が浮いている。

 それから、エナジードリンクの類を買い込むことが無くなった。

 そして何より……まあ、食費が浮いているのだ。

 考えてみれば当然なのだが、毎日外食かコンビニ弁当かスーパーの見切り品の総菜、という生活をしているよりは、真っ当に自炊した方が安上がりなのである。ついでに多分、体にもいい。

 また、この謎の生物は、どこからか安く食材を仕入れてきている様子である。

 最近では、謎の生き物が週に一回、まとめて見せてくれるレシート(やレシートではない謎の何か)を確認するのが趣味のようになっているが、知っているが行ったことのない産地直売所で野菜を買っていたり、スーパーの特売で卵を買っていたり、と、大変に買い物上手な様子である。

 ……まあ、柿の葉に『なす 5つ ごじゅうえん』と書かれたものが混ざっていたり、石板にラテン語と思しき言語で何かが書いてあったり、どう見ても羊皮紙か何かであろう立派な紙にまるで読めない文字が書いてあったり……と、そういうのも混ざっているのだが。まあ、むしろそれを見るのが楽しいので構わない。

 ……いや、やはり気になってきた。俺は一体、何を食わされているんだろうか。いや、まあ、もうなんでもいいか。美味くて健康になれる飯なら、中身が何でも……。




 と、まあ、こんな具合に、俺は心身とついでに経済状況まで、健康になってきてしまった。

 ついでに、戸惑いばかりだったブラウニーとの日々にも慣れ、最近ではブラウニーが連れてくる来客にも落ち着いて対応できるようになってしまった。

 最近では、角が生えたウサギに一晩宿を貸してやった。鹿の角が生えている妙なウサギだったのだが、角が片方、先の方が折れてしまって元気が無かったらしい。なので、折角だから、と思い立ち、折れた角の先端を耐水ペーパーで磨いて綺麗に整えてやった。ウサギは喜んでくれたので、やった甲斐があったというものだ。

 それから、灰が入った鍋を持って飛んできた鳥にガスコンロを貸してやった。灰の鍋を火にかけてしばらくしたら、中から小鳥が生まれた。どういう仕組みかはさっぱり分からないし、分かる気も無い。ただ、我が子らしい小鳥を抱きしめる鳥が流した涙はいい出汁らしく、ブラウニーが採取してその日の味噌汁に入れていた。美味かったし、やたらと元気が出た。なんだったんだアレは。

 そしてつい昨日は、空飛ぶ水玉のようなものを漉してやった。コーヒーフィルターを使ってみれば、中に混ざっていた細かな砂などがすっかり取れて、空飛ぶ水玉は元気に帰っていった。アレもなんだったんだ。


 まあ、兎角、このように俺は日々を妙な生物と共に過ごしている。それ故に俺はこの状況に慣れ……うっかりしていたのだ。

 大学生の妹からの『お兄ちゃん!久しぶり!今週末ちょっと泊めて!』というメッセージに『OK』と返してから、はたと気づく。

 そういえば、うちには妙な生き物が居るのだった、と。




「えええーっ!?なにこれなにこれ!かっわいい!かっわいい!」

 土曜の夕方。妹がやってきた。妹と会うのは、実に1年ぶりほどになる。去年の年末は実家に帰らなかったからな。

 ……ちなみに、最近の俺は土日に出勤しないので、今週の土日はどちらも空いている。ついでに月曜は祝日だ。つまり、1年前にはまるで考えられなかった3連休なるものを味わっているところである。が、そんな日に妹が襲来してきた、というわけだ。まあ、許可を出したのは俺だが。

「可愛い!この子誰!?何!?」

 そして妹は、すっかり、例の謎の生き物に夢中である。

 ……謎の生き物は、妹に抱き上げられ、撫でられる状況を受け入れているらしく、『こういうこともある』というような、しれっとした顔をしているのだった。肝が据わっている。

「分からん」

「分かんないのに同居してんの!?お兄ちゃん大丈夫!?」

 まあ、大丈夫かと言われれば、大丈夫ではない。どう考えても正気ではない。だがもういい。俺は狂気と共に生きていくと決めたのだ。だから休日出勤は極力しないし、残業も減らせる分は減らすことにした。

 ……そうだ。この狂気は、案外かわいいものなのである。どういう訳か、うちに住み着いたこの謎の生き物は、中々どうして可愛らしい。未だにこれは幻覚なのではないだろうかと思わないでもないが、それを受け入れて可愛い生き物を可愛がる方が有意義だ。俺はそう思ってしまった。つまり狂人だ。ああ。狂人だとも。

「へー。まあいいじゃん。お兄ちゃん、こういうの向いてるよ多分」

 妹は適当なことを言いながら、謎の生き物をそっと床に下ろした。

 ……そして。

「まあ、私もよく分かんない生き物拾ってきたんだけどさ。ほら」

 妹は、旅行鞄からペンケースを出してきた。

 そして、そのペンケースの中から、狐を出してきた。

 駄目だ。分からん。


「なんだこれは」

「わかんない。多分、狐」

 見れば、ボールペン……の芯を除いた筒の中に、ミッチリと詰まった狐色の毛。そして、妹がボールペンのガワをちょいちょいとつつくと、中からふりふりと尻尾が出てきて、それから、もそもそ、と狐が出てくるのだ!

「……なんだこれは」

「わかんない。でもなんか、このサイズの狐っぽいよ。で、狭いところが好きっぽい」

 極小サイズの狐は、全部で4匹。それぞれボールペンのガワの中に収納されていたらしく、こんこん鳴きながらうちの机の上をくるくる回り始めた。

「あと……ポメー、おいでー」

 更に、妹は部屋の片隅に声を掛けた。すると、わんわん!と元気な犬の声が聞こえ……。

「うお」

「ね。最初見るとびっくりするよね、これ」

 にゅるん、と。部屋の角から、小型犬が生え出てきた。なんだこれは。

 妹は、『おおー、今日もふかふかだねえ。よしよし』と小型犬を撫でに撫でた。狐達も一緒になってこの小型犬を可愛がっている様子であった。

 それから少しして、妹は『じゃあまたねー』と言って、小型犬を部屋の角に押し付けた。すると小型犬は、にゅるん、と消えていった。

 ……俺は考えるのをやめた。




「で、今日はうちの狐、一応神社とかに連れてってみようかなー、って思ってこっち来たんだけど」

「ああ……稲荷神社目当てか」

「うん。折角京都行くなら日帰りもなんかなー、って思って、じゃあお兄ちゃんち泊めてもらお、って思って来た。ここからなら家よりは京都近いし」

 成程な。妹は妹で妙な生き物と生活しているようだ。俺の家にブラウニーが棲みついていることなど、まるで問題にならないくらいの生活ぶりであるようなので、俺から言う事は最早何も無い。

「ってことで、明日の朝、ここ出てくねー」

「そうか」

 まあ、体のいい宿として使われることに抵抗は無い。こっちは既に、角ウサギだの、不死鳥っぽいのだの、謎の水玉だの……そういうのの宿にされているようなものだからな。そこに狐憑きの妹が1人増えたところで、今更何も変わらない。


 夕食は、ブラウニーが張り切って作った。

 ……いや、土日は俺が作ることも多いんだが。今日は、ブラウニーに予め『この日、妹が泊まりに来るんだが』と伝えておいたところ、ブラウニーは大いに張り切って準備をしていたので……俺が入る余地が無かった。精々、ゆで卵の殻を剥くくらいのことしかしていない。

 ということで、本日の夕食はスコッチエッグとミネストローネ、サラダ、そしてカスタードプティング、という夕食であった。手が込んでいる。実に手が込んでいる。

「いいなあー……お兄ちゃん、毎日こういうの食べてるの……?」

「……ああ」

 妹の羨望のまなざしに、少々居心地の悪い思いをする。まあ、自炊じゃないからな。他炊だからな、これは。

 だが、うちのブラウニーは妹の言葉に喜んでいる。誇らしげに胸を張っているのを見ると、まあ、なんとも可愛らしい。

「いいなー、いいなー、ブラウニーちゃん、うちに来ない?」

「こいつはやらんぞ」

 妹がブラウニーの引き抜きを画策しているようだが、こいつはやらん。いや、勿論、ブラウニー自身が妹のところに行きたいというのであれば、俺は喜んで送り出す、つもりではある、が……今更こいつ無しの生活ができるのだろうか、と自問してみると、答えは『否!』でしかないのである。だからこいつはやれない。すまない、ブラウニー。




 そんな折だった。

 ふと、ブラウニーが窓の方を見て、それから、とててて、と窓に近づいていった。ぴょこん、と驚異的なジャンプ力で窓の鍵を開けると、からから、と窓を開ける。

「……来客か?」

 妙な生き物は窓から入ってくることもある。まあ、俺が不在の間に勝手に入っていることの方が多いのだが。尚、出ていく時も、窓から出ていったり、玄関から出ていったり、はたまた、ぱっ、と消えたりと様々である。

「何々?何か来たの?」

 俺がブラウニーと一緒に窓の外を覗きに行くと、妹もついてきて一緒に覗いた。……すると。

「……妙なのが来たな」

「蛇かー。お腹空いてるのかな」

 ……ブラウニーがそっとベランダから連れ帰ってきたそれは、蛇である。

 が、その蛇は何故か、自分の尻尾を自分で咥えているのだった。


「これは俺にも分かるぞ。ウロボロスだな」

 ポストに入っていたチラシを広げた床の上にその蛇を置いてやると、蛇は幾分落ち着いた様子であった。

 が、どうせこの蛇はただの蛇ではないのだろう。『自分の尾を自分で食べている蛇』が何かくらいは俺も知っている。ウロボロス、だろう。

「え、何それ」

「不老不死や輪廻転生、無限といったものの象徴だ。色んな神話や伝説に出てくる」

「へー、お兄ちゃんそういうの詳しいんだ」

「……ゲームやってりゃ一度ぐらいは出会う概念だぞ」

 ウロボロスは割と有名なものだと思うが。……まあ、そういうのに縁遠いのかもしれない妹が『へー、君、無限かあー』とウロボロスをつつくのを見ていると、何とも言えない気分になってくるが。


 さて。

「ねえ。この子、脱皮しそうでできてないよ」

 問題は、ここからである。

 このウロボロス、どうやら脱皮の途中らしい。皮が剥けかかっている。だが……。

「……尻尾を咥えていると、脱皮どころではないんだろうな」

「ね。どう見ても脱皮しづらそうだもんね」

 ウロボロスは輪になったまま、もたもたと身じろぎしているばかりである。上手く脱皮できていない。まあ、当然である。蛇にあるまじき姿勢なのだから。

「しょうがないなー、剥いてあげるかぁ」

「……いいのか?ああ、いいのか。そうか……なら剥くか……」

 俺は妹よりは思慮深いので、一応、ブラウニーとウロボロス本人(いや、本蛇、と呼称すべきなのだろうが)にも確認を取った。両者共に、こくんと頷いたので、まあ、脱皮を手伝ってやるべきなのだろう。やれやれ……。




 そうして数分で、ウロボロスの脱皮は終了した。

 俺と妹とブラウニーが一緒になってウロボロスの皮を引っ張ったり、どうしようもない部分を破ったりしてやれば、なんとかウロボロスも無事に脱皮できたのである。

「円状になってさえいなければもっと簡単だったと思うんだけどなー」

「仕方あるまい。こいつはこういう生き物なんだろうから……」

 まあ、脱皮に失敗しかかっていても頑なに輪であろうとし続けているウロボロスの、そのプロ意識には天晴と言うしかない。

「ところでこいつ、こう動くんだな」

「普通に這った方が速くない?」

 脱皮を終えて元気になったウロボロスは、輪になった状態のまま、車輪の如くころころと転がって移動し始めた。

 ……蛇とは思い難く、そして、合理的であるとも思い難い移動である。

 まあ、こいつは自分で自分の尻尾を咥えて輪になるところにアイデンティティがあるのだろうから、止めはしないが……。


 ……そうしてウロボロスはベランダに帰っていった。

 外で寝るんだろうか、と思っていたら、羽が生えて飛んでいった。つくづく妙な蛇であった。あれは本当にウロボロスだったのだろうか……。




 そうして翌朝。

「じゃあお兄ちゃん、またね。今年の年末は帰ってこれそう?」

「ああ。今年は帰る」

 妹が出発するのを玄関で見送る。……まあ、今年は帰るさ。去年の年末みたいなことにはならないだろうから。何せ、うちにはブラウニーが居る。

「年末帰省して来る時、ブラウニーちゃんも一緒に連れてったらいいよ」

「まあ、考えておくが」

「あーあ、いいなー、ブラウニーちゃん、いいなー……」

 妹は心底ブラウニーが羨ましいようであるが、うちのブラウニーはやらんぞ。


 ……まあ、うちのブラウニーは、だが。

「あれ?ブラウニーちゃ……ん?あれっ?増えた!?」

 妹が驚く横で、俺も驚いている。俺も聞いていないぞ。

 ……うちのブラウニーが胸を張る横で、ぺこん、とお辞儀するブラウニー。

 そう。ブラウニーが、増えている!


 俺と妹がポカンとしている中、新顔のブラウニーは、もそもそ、と妹の旅行鞄の中に潜り込み始めた。

「……あ、うちに来てくれるの?」

 成程。

 どうやらこのブラウニー、仲間の職業斡旋もしているようである。


「なんかお兄ちゃんの家さあ、変なのの仲介所とかになってない?」

「……なっているのかもしれないな」

 しっかり新顔ブラウニーを抱えて帰ることにしたらしい妹に言われて、少し考えてみる。

 だが、まあ……すぐに考えるのをやめた。

 考えても仕方がない。ブラウニーが勝手にやることだし、俺にはどうしようもないのである。

 それに、まあ、嫌ではないしな……。

前へ次へ目次