01.温め鳥
~温め鳥~
冬の寒い夜、鷹が雀などの小鳥を攫って脚を温めるのに使うこと。また、その鳥。
鷹は翌朝、小鳥を放す。また、礼としてその小鳥が飛び立った方角ではその日、狩りをしないそうだ。
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俺は、何もかもが真っ白な視界の中でぼんやりと死を覚悟していた。
油断した。
大学時代の後輩に誘われて、冬の登山に向かったのが今朝のこと。
だが、社会人になって数年。趣味で夏山に登ることは数度あっても、ここ半年以上はそれもしていなかった。体力は自分で思っていたよりずっと衰えていたし、それを許してくれる冬山じゃあなかった。
疲労でぼんやりした頭のまま滑落したのは、もう、何時間か前のことだろう。だが、正確なところは分からない。滑落直後に意識を失ったことは間違いないが、何時間経ったのかは分からない。スマートフォンはこの寒さでバッテリー切れになっていた。ついでに、天気予報を裏切って急に吹雪いてきた空には太陽が見えず、方角がある程度分かっていても、時刻を知る手立てにはならなかった。
更には、滑落した時に脚をやってしまったらしい。折れてはいない、と思いたいが……体重を掛ければ痛む脚では、まともに動くことすらままならない。
冬の山でこうなったら、覚悟を決めるしかない。救助が来てくれるまで待つことと……それが間に合わなかった場合の、死を。
「……登山届は出してきた。ルートも申請済み。そもそも、後輩は無事だろうから、救助は多分、来る……」
救助のアテはあるが、それでも少なくない人が死んできたのが冬の山だ。俺もその内の1人になる可能性は、十分にある。決して、望みを捨てたわけではないが……それでもぼんやりと忍び寄る死の気配を、俺は確かに感じ取っていた。
俺が死んだら実家の家族とかどうするんだろ、と考えていた。ついでに、職場の同僚は仕事が増えて大変だろうな、とか、申し訳ないな、とか。それから友人はそもそも、俺が死んだことをどこで知ることになるんだろう、とか。
大学のサークル仲間には、後輩から連絡が行くだろう。だが、それ以外となると……どうだろう。もしかしたら、俺が死んだことを知らないままの友人も居ることになるのかもしれない。
と、そんなことを考えていた時。斜面の向こうの方から、低く、何かの音がする。
巨大な生き物が歩く時の音はこんな具合だろうか。だが、こんな雪山でこんな音がするというのなら雪崩、だろうか。
ここに居たら、巻き込まれるだろうか。見える範囲の斜面には、亀裂や雪庇の類は見えないが……音が聞こえた、という時点で、ここも崩れる可能性がある。
「少し、移動した方が、いいな……」
なんとか自分を奮い立たせて、歩こうとする。だが、上手く歩けない。雪の上を這うようにしてなんとか進むが……。
「えっ」
……それより先に、ぱっ、とあたりが暗くなった。
そうして気づいたら、真っ暗だった。
ついでに、妙にぬくぬくとしていた。
ついでに、もふもふ、とも、していた。
……意味が分からない。俺は一体何がどうなってこうなった?
動かせる範囲で体を動かしてみたら、ぬくぬくのもふもふから頭を出すことができた。途端、視界に光が入る。
どうやら、自分は羽毛に囲まれているらしい、ということが分かった。
更には、くうー、みゅうー、というような、妙な鳴き声が頭上から降ってきた。
「えっ」
そして俺の頭上からは、巨大な鳥の頭が覗き込んでいる。
俺はしばらく固まっていた。固まりもする。なんだって、こんな、バカでかい鳥……バカでかい、鳥?鳥だよな。鳥だと思う。多分鳥だ。まあ、多分、鳥……の下に、居るんだ……?
ああ……状況を整理しよう。
今、俺は、バカでかい、真っ白い鳥の、腹の下に、しまいこまれている。
多分、腹の下、かつ、ふっかふかの脚の間にしまいこまれている。
これだけ脚がふっかふかだってことは、ライチョウかな。白いしデカいし脚ふかふかだし、まあ、冬毛のライチョウだろうな。デカいが。デカすぎるが。流石のライチョウでも自動車よりデカいとは聞いたことが無いが。
……駄目だ。状況を整理したはずなのに何も整理されていない気がする。
だが間違いなく、さっきまでとは別の種類の死が近づいている。じわじわと、などではなく、猛スピードで近づいてきている。俺の頭の中では理性がガンガンと警鐘を鳴らしているが、残念ながら体は動かない。
いや、だって、どう考えてもこれは……捕食、だろう。
ライチョウが肉食か草食か雑食かなんて知らないが、こんなにデカい鳥が、巣らしい場所に俺を連れてきた。これが餌にするためじゃなかったとしたら、一体なんだっていうんだ?
俺の頭の中には、『燕が巣の雛に餌として取ってきた虫を与えるシーン』が再生されている。ああいうかんじで、雛でも居るんだろうか。いや、でも冬だしな。流石に子育てのシーズンじゃないよな。
『捕食』の二文字が脳裏にこびりついて、心臓がうるさくなり始める。俺はこんな状況だっていうのに、このバカでかい鳥は特に気にするでもなく、もそもそ、と時々身じろぎしながら、くうー、きゅうー、と鳴くばかりである。
……だが、俺がそっと、バカでかいライチョウの下から這い出そうとすると、もそもそもそ、と動いて、俺をまたライチョウの腹の下かつ脚の間にすぽんと収めてしまうのだ。
なんとか這い出して、すぐに走ればなんとか脱出できるだろうか。だが、そんなことができる状態の脚じゃない。走るどころか歩くことも覚束ないっていうのに。
「この状態でも救助ってされんのかな……」
唯一の希望は救助が来てくれることだが、それもよくよく考えてみれば望みが薄い。この鳥がどこまで俺を連れてきたのかは分からない。ライチョウの巣は雪の穴の中らしく、周りは只々真っ白いだけで何も情報が無い。だが、まあ、あの場からは間違いなく離れているのだろうし、そうなると、俺が落ちた近辺を捜索しているのであろう救助隊は俺を見つけられないと思う。
「……そもそもこの鳥相手に救助隊が戦ってくれんのかな……」
……そして何より、このバカでかい鳥だ。こんなのに捕まっていたら、まあ、救助隊だって困るだろう。どう考えても、この鳥を退かすところから始まる救助なんて望みが薄い。それこそ機動隊とか自衛隊とか連れてきてもらわないといけない案件のような気がする。
「……駄目だ、眠い」
色々考えていたが、眠くなってきた。寝ている場合じゃないはずなのだが、体はやっぱり限界らしい。
滑落する前からして疲労が酷かった上に、負傷して、更に体が冷えて体力を持っていかれている。そして……今、ぬくぬくと羽毛に温められて、およそ冬の雪山にはあり得ない居心地の良さを味わっている。
……これが眠くならないわけがない。
ということで俺は腹を括った。次に目が覚めた時にはライチョウに食われる瞬間かもしれないが、それでも、眠ってしまうことにした。
自力では動けないのだし、起きていて体力を消耗するよりは、休める時に休んでしまった方がまだ望みがありそうな気がする。そして何より、眠い。
もう駄目だ。俺はふかふかぬくぬくした羽毛の中で唯一冷たい足の部分……羽毛の無い部分に頭を乗せて、そのまま寝ることにした。
目が覚めたら、相変わらずぬくぬくとしてふかふかもふもふとしていた。だが、ついでに暗い。どうやら夜になってしまったらしい。
……ついでに、まだ、食われていないようだ。何故だ、と思いつつも、少々回復した体力と気力を奮い立たせて、なんとかライチョウの体の下から抜け出してみた。
すると。
「おお」
ライチョウの巣穴の出口から、星空が見えた。
吹雪いていた空はすっかり晴れ渡り、満月に近い円さの月が、眩しいほどの光を雪の上に投げかけている。そして、そんな月光に負けじと輝く沢山の星!
「……綺麗だなあ」
冬の雪山から眺める星空は、あまりにも美しかった。これが人生最後に見る光景だったとしたら、中々悪くないんじゃないか、と思ってしまうくらいには。
そのまましばらく、星空を見ていた。だが、バカデカライチョウは俺が居なくなったことに気づいたらしい。きゅうー、みゅうー、というような声を上げて、すぐ、俺をむんずと掴んでまた腹の下、足の間にしまい込み始めた。
「いや、もうちょっと見させてくれよ」
だが、ちょっと抵抗させてもらう。どうせ人生最後なら、もうちょっと星空を眺めていたい。
もそもそ、と羽毛の下から這い出すと、バカデカライチョウは諦めたように、みゅー、と鳴いた。そして一緒になって、空を見上げ始める。
「……綺麗だろ」
何やってんだ、と自分でも思うが、俺はバカデカライチョウに話しかけていた。通じるとは思っていないが。
……そして案の定、通じはしなかったようである。だが、バカデカライチョウは空を見上げつつ、くう、と鳴いた。少しばかり満足気に見えるのは、俺の気のせいだろう。
俺はそのまましばらく、バカデカライチョウと一緒に星空を眺めていた。……その内、体力がまた尽きたらしく、眠ってしまったが。
そして眠る直前、またライチョウによってもそもそと腹の下にしまい込まれてしまったが……。
次に目が覚めた時も相変わらず、俺はライチョウの腹の下、羽毛の中であった。
だが、羽毛を多少透かして光が差し込んでくるところを見ると、朝、だろうか。
何とかライチョウの腹の下から這い出すと、案の定、朝陽が眩しく差し込んでいた。
「ああ、おはよう」
真白い雪の上に朝の光が反射して眩しい。そして、バカデカいライチョウの羽毛も、朝陽でふわふわと輝くようであった。
……さて。そして俺は、いよいよこのライチョウの朝ごはんにされる、のだろうか。
「……ん?」
と思っていたら、俺の前にみかんが差し出された。ついでに、きゅい、とライチョウが鳴く。
……どうやら俺が朝ごはんになるのではなく、俺に朝ごはんが提供されるらしい。
みかんを食った。美味かった。というかこのみかん、どこから来たんだ。色々と意味が分からないが、食っちまったものは仕方がない。もう俺は色々諦めた。なんなんだよこのクソデカライチョウは。意味が分からないよ。
「うわ」
そうして意味が分からないままみかんを食い終えたところで、ライチョウの足が俺を掴む。そして……。
「うわうわうわうわ飛ぶのかよ!」
ライチョウは、ぱふ、と案外軽い羽音を響かせて、飛んだ!
生きた心地がしなかった。色々諦めたとはいえ、生きた心地はしなかった。
何せ、バカでかいライチョウに捕まえられて空を飛んでいるのだから!
落とされたら死ぬし、落とされなくてもいよいよ死ぬ気がする。だがどうすることもできない。そんな状況で、俺は『うわー、今日いい天気だなー、空が青いなー、遠くまでよく見えるなー』などと思いながらライチョウに運ばれ、運ばれて……。
きゅうー。
ライチョウは一鳴きすると、俺を雪の上に、ぽふん、と置いて、また飛び立っていった。
「……え?」
意味が分からないまま呆然としていたが……飛び去っていくライチョウはすぐ山の陰に見えなくなり、そして……。
「……えっ!?」
俺の目の前には、山小屋があった。
……ということで。
全く意味が分からないことに、俺は助かってしまった。
雪山の斜面を滑落して、骨折した上に(そう。やっぱり骨折していたらしい。)一晩を越えて、それで生きていた。普通であればあり得ないことである。
だが俺は生きている。あの、謎のバカでかいライチョウにぬくぬくと温められて、生き延びてしまった。
……結局、俺はその後、骨折もあって入院する羽目になったのだが、そこで後輩にあのライチョウの話を聞かせながら、改めてまた考える。
あのライチョウは何だったんだろうか。妖怪の類?いや、まさかな。
だが、幻覚だというには色々と……色々とおかしい。主に、細かい羽毛まみれになりつつ生きて帰ってきた俺の状態からして。
となると、やはりあれは現実だったのだろう。そう考えた方が、精神によろしい気がする。色々な意味で。
「世の中にはよく分からない謎の怪異みたいなのが居るのかもなぁ」
「都市伝説みたいですねえ」
後輩が『いいなあ、クソデカライチョウ、会ってみたいなあ』と零すのを聞きつつ……俺は、きっともう二度と出会うことが無いであろうあの謎のライチョウに思いを馳せるのだった。
「いや普通に居るのかよ」
そして半年後、夏山登山で同じ山に登ったら、夏毛に生え変わったクソデカライチョウが登山道を塞いでいたが、それはまた別の話である。