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『君を想う』・1




『私はただ、見たいだけ。東菊が本懐を遂げた時、あの人が何を選ぶのか』







鬼人幻燈抄『君を想う』






「……あの、どなた、ですか?」


 この娘はなんと言ったのか。

 甚夜は阿呆のように口を開けて固まる。耳に入った筈の言葉をうまく認識できない。

 目の前には、僅かな怯えを滲ませる野茉莉の姿がある。普段から父を慕っている彼女が初めて見せる表情は、発した疑問が真実だと雄弁に告げている。


「の、野茉莉、さん……? 自分の父親にそないな冗談、ちょっと悪趣味やろ」


 硬直して何の反応も返せない甚夜より先に平吉が口を開いた

 近くで親娘の触れ合いをずっと見てきた。野茉莉と甚夜は本当に仲睦まじく、だから彼女が何を言っているのか分からず視線を泳がせている。


「父、親?」


 よりにもよって野茉莉さんが、父親の顔を忘れる? 馬鹿な、在り得ない。

 ぼんやりとした、感情の乗らない声。初めて聞いたとでも言わんばかりの野茉莉の反応は、とてもではないが演技には思えない。

 平吉もそれなりに場数を踏んでいる。こういった奇怪な現象を起こし得る存在が現世には在るのだと、十分過ぎる程に理解していた。

だからこそ不安は過る。

 いや、不安の本当の理由は、彼女の状態から一瞬で浮かんでしまった想像のせいかも知れなかった。


「いつっ、あ……」

「野茉莉っ」


 頭を抱え、苦悶に表情を歪め、立ち眩みを起こしたように野茉莉の体が揺れた。

 甚夜は咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちそうになる寸前で支える。抵抗はなかった。抵抗されるかもしれない、そう考えた自分を情けなく思う。

 けれど手は離さない。野茉莉も振り払うような真似はしなかった。腕の中で身動ぎ、こちらを見上げ、焦点の合わない目でたどたどしく唇を震わせる。


「父、親。え、あ……あれ、とう、さま?」


 とうさま。

 紡ぎだされた響きに安堵し、甚夜は気付かれぬくらい微かな吐息を漏らした。

 強張っていた全身の筋肉がほぐれていく。どうやら思った以上に動揺していたらしい。

 しかし野茉莉は体調こそ悪そうではあるが、ちゃんと自分を父と呼び、今も腕の中にいてくれる。


「ご、ごめん、なさいっ。ちょっとぼーっと、して……つぅ」

「いいから喋るな。調子が悪いならもう少し寝ていた方が」

「ううん、大丈夫だよ。今ごはんの準備するね?」


 少しぎこちないながらも笑顔で返し、するりと腕から離れていく。

 足取りは普段通り、体も揺れていない。少し顔色も悪い。出来れば休んでいてほしいが、あれで頑固なところがある。多分聞いてはくれないだろう。


「分かった。だが、何かあったらすぐに言ってくれ」

「もう、父様。相変わらず過保護なんだから」


 その応対は普段と変わらず、甚夜は胸をなでおろした。先程は寝ぼけていたのだろう。

 小さく息を吐き、台所に向かう野茉莉を見送る。

 ふと視線を横に向ければ、平吉が暗い顔をしていることに気付く。野茉莉の方をじっと眺め、時折辛そうに口元を歪めていた。


「どうした」

「へ?」


 見られていることに気付かなかったらしく、びくりと肩を震わせる。

 動揺しあちらこちらに目を泳がせ、外の方をちらりと見て平吉はにへらと笑った。


「いやー、なんや、一雨きそうやなーと思って」


 あからさま過ぎる誤魔化しではあったが、敢えて問い詰めはしなかった。

 平吉が悪意から隠し事をするとは思えないし、染吾郎の件もある為無遠慮に踏み込むような真似はしたくない。

 そうか。と一言だけ残し甚夜は居間へと向かう。


「……名前を、忘れる? まさか、な」


 だから平吉の呟きを聞き逃した。




 ◆




 平吉のいう通り、朝食時には雨が降り出していた。 

 壊れた玄関の片付けを後回しにして、三人は居間で食卓を囲む。

 漬物を頬張り、白飯をかっ込む。味噌汁は豆腐、副菜には煮豆が添えられている。簡素だが手抜きのない丁寧な食事だ。平吉は料理が出来ない為、こういった普通の朝食にはなかなかあり付けない。決して豪勢ではないが、彼にとっては寧ろ嬉しい献立だった。


「はぁ、ごっそーさん」


 かちゃん、と乱雑に茶碗を置き、茶を一啜り。平吉は満足げに一息吐いた。

 甚夜が帰ってきたら蕎麦でも作ってもらおうと考えていたが、野茉莉の手料理を食べることが出来た。

 蕎麦は勿論旨いのだが、やはり女性の手料理は別格。それが想い人のものであればそもそも天秤に乗せること自体間違っている。


「昨日はよう動いたからなぁ。飯が旨いわ。ま、まぁ野茉莉さんの作る飯はいつ食っても旨いけどな!」


 慌てたように褒め言葉を付け加える彼の顔は僅かに赤くなっていた。

 どうにも平吉には素直に褒めるという行為が恥ずかしいらしく、幼い頃からこうだった。 変わらない彼が何となく微笑ましくて野茉莉は微笑みながら頷く。


「お粗末様でした。お茶、お代わりいる?」

「そやな、貰おかな」


 平吉の顔がにやける。今のやり取りが、まるで夫婦のようだと思えたからだ。

 ただ少しだけ寂しくも思う。こんな時、いつもからかってきた師はもういないのだ。

 けれど顔には出さない、出さないよう努力する。野茉莉に心配はかけたくないし、何より自分は師から“秋津染吾郎”を受け継いだ者だ。この程度でヘタレていては、師に合わす顔が無い。


「はい、父様も」

「済まんな」


 下手くそな平気なふりでも何とかやり過ごせた。

 甚夜は気付いているだろうに、素知らぬ顔をしてくれている。心遣いに感謝し、平吉はぐいと茶を飲み干した。こんな風に酒を呑めれば、少しはこの仏頂面に報いることが出来るのだろうか。そう考えた自分が意外で、けれど悪い気分ではなかった。


「そやけど、野茉莉さんほんまに料理上手なったなぁ」

「ふふ、先生がいいからね」


 ぺろりと舌を出して、照れくさそうに笑う。

 もう二十歳になるというのにその仕種は幼げで、惚れた弱みを別にしても可愛らしく映る。無邪気な微笑みは、昔から変わらない。


「なんといっても、私の先生は……せん、せいは?」


 なのに、微笑みが凍り付く。

 またも野茉莉の体が揺れる。甚夜は手を伸ばそうとして、しかし今度は支えることが出来なかった。一瞬、ほんの一瞬。野茉莉がこちらを見る目に、怯えが宿っていたからだ。


「あれ、私、料理教えて、もらった。その筈なのに、なんで……?」


 畳に座り込み、手をついて俯く野茉莉。微笑みは困惑に変わる。ぶつぶつと呟きながら、まるで信じられないものを見たかのように目を見開いている。


「野茉莉、やはり少し休め」


 怯えられてもいい。甚夜はすぐさま野茉莉を抱きかかえ寝所へと向かう。

 何も言わない。素直に従った、というよりも動く気力が無いのだろう。完全に体を預け、しかし体は怯えに震えていた。


「……とう、さま」


 腕の中にいる愛娘の瞳は、自身でも理解できない恐怖と不安を映していた。

 縋るような声はまるで細い糸のようだ。するりと手からすり抜けていきそうなくらい頼りない。


「とう、さま……だよね? 私の父親で。ずっと一緒に暮らして……料理を教えてくれたのも、父様」


 そっと伸ばされた手、白く細い指先は何もつかめずただ小刻みに揺れている。

 すぐ近くにいるのに、腕の中にいる筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。怯えて縮こまる野茉莉を少しでも安心させようと出来るだけゆっくりと、出来るだけ穏やかに話しかける。


「どうした、のま」

「分からないの……! 分からない! 父様だって分かってるのに、ずっと一緒に暮らしてきたのに、貴方の名前が、思い出せない……!」


 堰を切って流れる感情に言葉は途中で断ち切られた。

 甚夜は何の反応も返せず、ただ立ち尽くす。貴方の名前が思い出せない。そういった野茉莉に嘘を吐いている様子はなく、そもそもそんな悪質な嘘を吐くような娘ではない。

 つまり野茉莉が口にしたのは紛れもない真実。この娘は、本当に父親の名を忘れてしまっているのだ。


「なんで私……分からない、怖い、怖いよ父様……」

「いいから、落ち着け」

「でもっ」


 それ以上言わせないように、野茉莉を抱き寄せ胸元へ押し付ける。

 正直に言えば、甚夜自身にも恐怖と不安があった。愛娘の異変を前に冷静でいられる筈がなく、ならばこそ努めて冷静で在ろうと浮動する心を抑え付ける。 


「まずは休め、それからだ」

「…………うん」


 完全に納得した訳ではないだろうが、それでも野茉莉はおずおずと従った。

 起きたばかりだ、布団に寝かせてやっても眠れないようだ。しかし自身の異変に怯え、無理矢理目を瞑り布団を頭から被っている。


「野茉莉」


 怯えている所を申しわけないとは思うが、聞かなければならないことがある。

 愛娘に起きている異変を知る必要があるだろうと、甚夜は問いを投げかけた。


「私の名前が分からないと言ったな。他にも、何か思い出せないことはあるか」


 答えは返ってこない。それも当然か。まともに答えられる精神状態ではないし、なにより“何を忘れているか”など問いとしておかしい。聞いたところで思い出せないのだから、返す答えなどないに決まっている。

 そして野茉莉の態度を見るに、やはりいくらか記憶が失われているところがあるのだろう。

 その後も何度か声を掛けたが、返ってくるのは意味のない繰り言か沈黙のみ。結局何の情報も得られぬままだ。これ以上は問うても意味がないだろうと、ゆっくりと愛娘の頭を撫でる。


「取り敢えず休んでおけ」

「うん……」


 小さく頷き、野茉莉は髪を纏めていたリボンをほどく。

 それを手にして見詰めると何故か途中で動きが止まった。


「……これ」


 懐かしそうにぽつりと呟けば、表情から怯えが消えた。

 意図が分からず甚夜は眉を顰める。答える愛娘は柔らかな微笑み、けれど口調はどこか頼りない。


「このリボン、父様が昔買ってくれた、んだよね?」


 縋るような目が痛ましく、何もできない自分が歯痒い。

 顔に出ないのは、積み重ねた歳月のせいだろう。しかし今は有難い。娘を安心させる為、心の内の焦燥は隠しただ穏やかに頷いて見せる。


「ああ、そうだ」

「……よかった。ちゃんと覚えてる。だから、それが嬉しくって」


 野茉莉は心からの安堵に息を吐く。かなり精神的に参っているらしい。手の中にある、小さな思い出を愛おしそうに眺めている。

 だからこそ次いで口から出た言葉は、鋭い刃物のように胸を刺した。


「朝顔さんがいた頃だったよね、確か。父様が浴衣を買いにつれていってくれたの」


 もしかしたら、思った以上に時間はないのかもしれない。

 かける言葉を失った甚夜は、野茉莉を寝かしつけてから寝所を後にした。




 ◆




 雨は強くなった。

 遠く聞こえる雨音に耳を傾ける。清澄な響き、しかし心が落ち着くことはない。

 平吉にとっても野茉莉は特別な相手、思うところがあるのだろう。椅子に腰を下ろし、そわそわと落ち着きのない様子で膝を揺らし続けている。


「の、野茉莉さん、どうやった?」


 しばらくして甚夜が戻ってくると、すぐさま立ち上がり駆け寄ってきた。

 上ずった声にどれだけ心配していたのかが分かる。親としてその気持ちは有り難いが、残念ながらいい報告は返してやれない。


「私の名前を思い出せないだけではなく、所々記憶が抜け落ちているようだ」

「そ、か。あ、医者! 医者に診せて……っ!」


 喋っている途中で意味がないと気付き平吉は黙り込む。

 成長したとはいえまだまだ若い。大切な者が怪異に巻き込まれ、浮足立ってしまっていた。


「意味はない。なにより原因なら分かっているだろう」

「そう、やな」


 甚夜の脳裏には愛しくも憎々しい妹の姿が映し出されている。

 鈴音は野茉莉を狙うと言っていた。記憶の欠落がその一環であり、それがマガツメの配下、或いは娘の持つ<力>によるものだとは容易に想像がついた。

 もっとも平吉が思い浮かべたのはまた別の鬼女であった。 


「記憶の欠落、いや忘却か。朝よりも進んでいる。おそらくは時間と共に全て、いや、私に関する記憶を忘れるのだろう……中々に性質たちが悪い」

「やっぱり……そうなんか」


 甚夜は表情を変えず、投げ捨てるように言った。平吉の反応を見るに、彼もある程度推測していたようだ。

 最初に「どなたですか?」と問うたところを見るに、記憶を消す類の<力>であることは間違いない。

 甚夜を父親と認識できた以上、まだ完全に消えた訳でもいないだろう。

 しかし野茉莉は今身につけているリボンを指して、「朝顔がいた頃に買った」と言った。

 父の名を忘れているのに、朝顔は覚えている。平吉を見ても動揺はなかった。

 つまり野茉莉の記憶はただ単に消えたのではない。甚夜のことだけを忘れているのだ。

 だから“性質が悪い”。マガツメの狙いは野茉莉ではない。あの子の記憶を奪うことで、甚夜を追い詰めようとしている。やはり幼かった鈴音は、大切な妹は最早何処にもいないのだと思い知らされ、甚夜は知らず唇を噛んだ。


「あんた、冷静やな」


 野茉莉を溺愛しているこの男のことだ。もっと動揺するかと思っていたが、案外落ち着いている。自分だけ慌てているのが悔しくて、少し棘のある言い方になってしまった。


「慌てても意味はない。野茉莉を想えばこそ、冷静になるべきだろう」


 事も無げに答える。やっぱり、こういう所は敵わないと思ってしまう。

 平吉は動揺し切っていた。

 どうすればいいのだろう。こういう時彼の導となってくれた師は既におらず、これからどうするのかは自分で決めなければならないのだ。

 しかし野茉莉のこと、頭に浮かんでしまった可能性のこと。頭の中がごちゃごちゃになって、上手く考えが纏まらない。

 更に甚夜の提案を聞いて、思考は完全に止まってしまった。


「それにやるべきことは明確だ。忘却の<力>を有した鬼、おそらくはマガツメの配下。そいつを探し出す」


 当たり前のことだ。方策としてはごく単純、当然の帰結。なのに平吉は冷や水をぶっかけられたような気分になった。


「み、見つけたからって、どうにかなるんか? そら<力>の持ち主なら治せるかも知らん。そやけど、そいつが……治す義理なんて、ない訳やし」


 唇がわなわなと震えている。それを懸命に隠し、何とか歯を食い縛り、平吉は途切れ途切れになりながらも問う。


「喰えばいい」


 対して甚夜はさらりと言ってのけた。

 まるで死を宣告する医師のように、冷静で無慈悲だった。


「……え?」 


 短すぎる返答に、思わず間抜けな声を出してしまう。

 一瞬意味が理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。

 だって鬼の<力>で野茉莉がああなったなら、それを治すにはやはり鬼の協力が必要だ。なら殺す訳にはいかない筈で。


「如何な鬼であろうと斬り殺し喰えばいいだけのことだ。……それが一番手っ取り早い」


 だけど、こいつには態々生かしておく必要がない。

 元々この男の左腕はそういうもの。

 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。

 此処に来て平吉はようやく思い知った。甚夜は冷静なのではない。怒りなどとっくに振り切れている。

彼は娘の為ならばどんな手段を取る。

 だから例えば、<力>を持つ鬼が女で、少し食いしん坊だけど明るくて楽しい奴だったとしても、何の躊躇いもなく喰い殺すのだ。

 目の前が真っ白になった。

 野茉莉さんを助けなきゃ。そやけど、もしかしたら忘却の<力>を持つ鬼っていうのは。

 もしそうだとしたら、俺は、一体どうすれば。


「て、なんだこらおい!?」


 平吉は聞こえてきた声に意識を取り戻した。

 思考に没頭し過ぎていたせいで反応するのが遅れた。玄関の方に目を向ければ、ぐちゃぐちゃになっている店を見て唖然としている男がいる。

三橋豊繁。鬼そばの隣にある和菓子屋、三橋屋の店主である。


「おお、この前の」


 壊れた玄関を見て、様子を窺いに来てくれたのだろう。豊繁は店内に甚夜らを見つけると、軽く手を上げて近寄ってきた。

 ただし彼の視線は平吉の方に注がれている。隣に住む、同じく店屋の主人ではなく二度三度訪れた程度の客に声をかけた。

 その理由は、容易に想像がついてしまった。


「三橋殿」

「ん、あんたは……お、おお。葛野さん、どうしたよこの惨状。性質の悪い客が暴れでもしたか?」

「……私のことを覚えているのか?」

「は? いや、そらお隣さんのことくらい覚えてるだろうに」


 問いの意味が分からず豊繁は首を傾げた。

 彼の態度はどこか呑気だが、甚夜らにしてみれば平静ではいられない。

 確かに、覚えている。だがおそらく枕には“まだ”が付く。取り敢えず、今のところ記憶を失っていないというだけだ。


「な、なあ、おい」

「分かっている。思ったよりも、私には時間がない」


 ただ多少腑に落ちない点もある。

 変調をきたしているのは野茉莉ばかりではなかった。おそらくは甚夜と関わりのある者全ての記憶を消す。そうすれば自然今迄通りの生活は送れなくなる。

 つまりマガツメの狙いは憎い兄の居場所を奪うこと、そこまでは予測していた。

 だが、にしてはおかしい。

 実際に愛娘の、隣人の記憶が少しずつ薄れている。予測は大きく外れてはいない筈だ。

 では何故平吉には異常が見られないのか。

 甚夜にとって野茉莉は別格、あの子の記憶を消すことが一番の痛手となるのは間違いない。

 だがその次を考えれば、秋津の師弟が来る。

 染吾郎の命を奪ったからにはマガツメも重々承知の上。にも拘らず平吉は害されることなく記憶も消されず見逃されている。

 そこが分からない。意図が読めない、というのはどうにも居心地が悪かった。


「あー、なんかよく分からんが。どういうことだ?」


 話に着いて行けていない豊繁は、頭をぼりぼりと掻きながら困った様子で立ち尽くしていた。

 とは言え詳しい内容を話すことも出来ない。誤魔化す方法を考えていると、同じく隣でなにやら考え込んでいた平吉が先に口を開いた。


「俺、そろそろ行くわ」


 一応は落ち着くことが出来た。ならば次は行動しなければならない。

 軽い調子。けれど感情の色を失った冷たい横顔に、寧ろ平吉の激情が滲んでいる。


「宇津木……」

「野茉莉さんほっといてお喋りなんてしとるのもあれやしな。心当たり回ってみる」


 笑ったつもりだったのだろうか。

 引き攣ったように口角を釣り上げ、言い捨てた後は振り返ることもせず店を出て行く。雨の中、傘もささずに走る彼の後ろ姿から伝わる気配は強張っていて、掛ける言葉を失くしてしまう。


「……なんか、あったか?」


 その背中が完全に姿が消え去ってから、豊繁は所在なさげに零した。

 状況は分かっていなくても平吉の纏う空気にただ事ではないと察したのだろう。


「いや……」


 もう姿は見えないが、平吉が去っていた方を甚夜はただ眺める。

 目付きは鋭く、けれど表情は硬く、豊繁には甚夜が何を考えているのは分からない。


「ま、話せないんならいいけどな。でもよ、俺はこれでも懐広い方だから、気が向いたら話してくれ。その時は、面倒だなんて言わねえよ」


 だからといって追及はしない。

 返ってきたのは気の抜けた笑み、豊繁の物言いはいかにも軽薄そうである。

 それが有り難い。あからさま過ぎる態度の意味を取り違えるほど鈍くはなかった。


「多少のことじゃ驚かねえよ。あんたが何者か、なんてことも聞きやしないさ」


 親しい友人という訳ではなく、こちらの事情も全く知らない。

 だというのに、甚夜のまったく年老いていない姿を見ても、今まで変わらず近所付き合いを続けてきた。三橋豊繁はそういう男だ。

 特別な力はなくとも培ってきた信頼がある。だから甚夜はほんの僅かな逡巡の後、まっすぐに豊繁を見た。


「三橋殿、貴方は以前借りを返してくれると言ったな」


 以前豊繁は店の新商品を作る際、甚夜らに助力を乞うた。

 それに恩義を感じており、「借りはちゃんと返すから、なんかあったら俺にどんと任せてくれ」と言っていた。

 彼はそれを忘れておらず、急な質問でも戸惑うことなく、力強く首を縦に振った。


「おお、勿論だ」


 それを聞いて安心した。

 甚夜はいやに真剣な顔で「ならば」と言葉を続ける。


「済まないが、野茉莉を見ていてくれないか」

「は?」

「少し体調を崩しているんだ。生憎と、私はこれから出かけねばならん。留守を頼みたい」


 豊繁は意外そうに目を見開く。

 それもその筈、いい加減付き合いも長く、甚夜がどれだけ娘を大切にしているかは知っている。鬼そばの常連客が「野茉莉ちゃん至上主義」だなどとからかっていたが、豊繁にしても同意見だった。

 そういう男が、娘を見ていてくれと頼む。正直どう返せばいいのか分からなかった。


「いや、そりゃいいが……あー、俺でいいのか?」


 留守番ぐらいで大層かもしれないが、一応のこと確認しておく。

 しかし困惑を余所に、甚夜は自然体でさらりと言ってのけた。


「私はそれなりに貴方のことを信頼しているよ」


 例え私のことを忘れたとしても、目の前の少女を見捨てられない。

 そういう男だからこそ任せられる。

 豊繁はがしがしと頭を掻いた。

 それなりに、という表現には引っ掛かるが、嘘を言う男ではない。

 ならば素直にその信頼を受け取ろうと豊繁は軽く笑った。


「そうか。しゃあない、なら本日三橋屋は休業でございます……絶対嫁さんに怒られるけど」


 おどけてそう言ってくれる隣人に限りない感謝を。

 深く頭を下げて、甚夜は力強く言い切った。


「ならば、此処で借りを返して貰う。野茉莉のことは任せたぞ」


 できれば次に会う時も隣人として話せればいい。

 飲み込んだ言葉に揺れた瞳は、どこか寂しそうにも見えた。






 ◆






 降りしきる雨に先は見通せない。

 雨の冷たさに四肢は悴み、けれど平吉は足を止めなかった。

 体が冷え切り強張っても、焦燥が彼を突き動かす。

 想い人が怪異に巻き込まれた。その時点で冷静さを保てる筈はなく、なにより“記憶が消えた”という事実に胸を締め付けられた。

 甚夜は気付いていない。単純に、マガツメの配下が引き起こした怪異だと思っている。

 しかし平吉は誰よりも早く怪異の真相に気付く。すぐさま気付ける程に親しくなっていた。

 記憶を消したり、改変したり。そういうことが出来る鬼を、彼は既に知っているのだ。


「頼む、俺の勘違いであってくれ……あいつは、そないなことせん」


 だってする意味がない。あいつが、そんなことをする理由なんてない。

 そうやって自分に言い聞かせても不安が苛む。

 息切れを起こし、それでも尚走る。

 甚夜はまだ彼女の存在を知らないが、もしも思い至り場所を突き止められれば終わり。あの食いしん坊は無惨に食い殺される……そして、自分はそれを止めることが出来ない。

 野茉莉が助かる可能性を、選んでしまう。


 だから走らないといけない。

 甚夜に知られるよりも早く彼女の下へ辿り着き、なんとか野茉莉を救ってもらうのだ。そうしないと、彼女は。

 浮かんだ想像を振り払い、通りを只管に進む。向かう先は四条通の更に東。通りから少し外れた場所にある、うらぶれた寺院。

 迷うことはない、通い慣れた道だ。

 お土産に野茉莉あんぱんを持っていくのがいつものこと。毎回同じお土産でもあいつは喜んで食べてくれた。

 最初は緊張していたけど、素のあいつを見れば呆れて溜息しか出なくて。

 でも中身はいい奴で、鬼であっても何ら気にすることなく雑談を交わして。 

 いつの間にか依頼なんて関係なく、無駄話をするのが楽しくてこの道を歩いていたのかもしれない。

 泣きそうになる。雨が降っていたのは幸いだった。潤んだ瞳を誤魔化せた。

 今は泣いている場合ではない、とにかく急がないと。


 そうして平吉は走りに走り、ようやく辿り着く、草木が無造作に生い茂る境内。

 立ち止まらない。本堂に向かい一直線に走り抜けた。

 だんっ、と大きな音を立て、板張りの間に雨に濡れたまま、土足の中で上がり込む。

 恰好なんて気にしてはいられない。荒い息のままぐっと前を見据える。

 其処には、彼女が居た。

 本堂の奥、座敷で彼女は正座している。

 この数年で見慣れた、もう友人と読んでも差し支えが無いくらい親しくなった相手だ。


「……おう、東菊」


 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。

 透き通るような、とはこういうことを言うのだろう。少女の肌はあまりにも白く、細身の体と相まって触れれば壊れる白磁を思わせた。

 緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女は座したまま、能面のような無表情で平吉を見据えている。


「すまん、今日は土産買って来れんかった」


 片手を挙げて、いつものような気やすい挨拶を演出して見せる。

 いつものように返してほしかった。そうすれば、いつものように座り込んでくだらない冗談を言い合える。

 だから、頼む。食いしん坊で無邪気で明るい、そういう東菊で迎えてくれ。


「宇津木、さん」


 だけど、そんな願い叶う訳もなくて。


「そっか、宇津木さんの方が先に来ちゃった、かぁ」


 長い黒髪を指先でいじりながら、どこか無気力に女はぼやく。


「ちょっと辛いな。……二人とも、それだけあの子のことが大切なんだね」


 もう言い逃れは出来ない。

 疲れたような微笑みに、平吉は泣きたくなった。


「そうだ、探してた人見つかったよ。色々思い出したんだ。野茉莉ちゃん、って言うんだよね? 私は、あの子に出逢うために生まれたの」


 聞きたくない。聞きたくないのに、耳は塞げない。

 何故か目の前が滲んだ。東菊の顔がよく見えない


「あの娘の記憶を消す。それがすずちゃん……お母様から与えられた役目」

「なん、で……そんなこと」

「なんで、かぁ。多分、お母様は知りたかったんだと思う。結局、あの子にとっては甚太が全てだから」


 絞り出した声。返ってくるのは乾いた声。

 上滑りするような会話。感情なんて何処にもない。


「でも、同じくらい知りたくなかったんじゃないかな。だから、野茉莉ちゃんに会えば記憶が蘇るようにした。もし逢わなかったら、それはそれでいいってことなんだろうね」

「そうやないっ! なんでお前がこんなことを……そんな奴ちゃうやろ!?」


 慟哭、けれど届かない。

 東菊は疲れたように溜息を吐いた。


「ううん、そういう奴だよ私は。この身はお母様の想いだから。……それに、知りたかったのは私も同じ。命令に従ったのは、私の意思」


 遠くを見るような、思い出を眺めるような、言い様のない寂寥。

 もっと問い詰めたかった。しかし何も言えなくなった。

 野茉莉の記憶を消した鬼。こいつは、人に害をなす鬼なのだ。

 だけど、ひどく寂しそうに見える。

 だから何も言えない。彼女は下手なことを言えば壊れてしまいそうなくらい儚くて、平吉は口を噤む。



「私は……私達は知りたいの。あの人が何を選ぶのか」



 そうして東菊は、春の雪のように弱々しく微笑む。

 透き通る声音が雨音に紛れて消えた。





アルカディア版との変更点。

タイトル『あなたを想う』→『君を想う』に変更。


内容の改定。

記憶を消されたキャラクターが増えています。


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