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『面影、夕間暮れ』・5(了)




 京都三条にある自宅の一室。

 夜も深まり、静けさが染み渡る。粟立つ肌の理由は寒気か、それとも他のなにかだったのか。

 しかしゆっくりと息を吸い、肺を冷たい空気で満たせば僅かな強張りも消え失せた。

 仕事場で身支度を整えた染吾郎は、マガツメなる鬼の手勢との戦いを前に英気を養っていた。

 今回は平吉の手を借りることになる。心配な反面頼れるようになった弟子の成長が嬉しく、戦いの前ではあるものの寛いだ心地になる。


『さ、平吉。行く前に、伝えとかなあかんことがある』


 手には半生を連れ添った付喪神、鍾馗の短剣がある。

 その存在を確かめるように握りしめ、穏やかさはそのままに、染吾郎は平吉をまっすぐに見据えた。


『なんですか?』

『うん。二つあるんやけど、まずは一つ目』


 行燈の光だけが揺れる室内。

 向かい合う二人の姿も橙色に染まる。

 ほんの僅か固くなった空気の中、三代目秋津染吾郎は静々と頷き、どこか満足げに緩やかな笑みを浮かべた。



『僕になんかあったら、君が四代目秋津染吾郎や』



 紡がれた言葉に平吉はひどく動揺した。

 戦いに赴く師が、秋津の名を託そうとする。その意味が分からない程子供ではなかった。


『ちょ、お師匠!?』

『ま、僕やってそう簡単にやられるつもりはないけどな。そやけどマガツメは鬼の首魁、いつか鬼神になるゆう規格外の相手や。何があってもおかしない』


 死ぬかもしれない。

 その覚悟を持って、染吾郎はマガツメへ挑もうとしている。

 それをこそ信じることが出来ない。師の名は秋津染吾郎。付喪神使い、その三代目にして稀代の退魔。秋津染吾郎が鬼相手に後れを取るなど想像もつかない。


『そんなやつ。そもそも師匠とあいつが手を組んで倒せん鬼なんておるわけない』


 むっつりと不機嫌そうに平吉は零す。

 掛け値なしの本心だ。師は言わずもがな、甚夜もまた尋常ではない使い手だ。

 以前『マガツメは自分より強い』などと言っていたが、そんなものは謙遜にしか思えない。

 マガツメなる鬼がどれほどのものか。師と甚夜の二人を相手に勝てる鬼などいる筈がないと本気で考えていた。


『嬉しいこと言ってくれるなぁ。勿論、僕も負けるつもりはない。そやから、これはあくまでもしもの時の為や思っといてくれればええよ』


 物言いは軽くとも目は笑っていない。

 つまり師は、それほどまでにマガツメとやらを警戒している。心底尊敬し信奉する師匠の弱気が平吉には面白くなかった。


『……お師匠がそう言うなら。もしもなんて有り得ませんけど』


 それでも師の本気は伝わった。

 しぶしぶながら頷けば、よかったと染吾郎はゆったり息を吐く。


『まぁ、マガツメのことがのうても、四代目は君以外おらん。平吉は僕の自慢の弟子、ほんまやったら今すぐにでも秋津染吾郎を譲ってもいいくらいや』


 そこには何の気負いもなく、優しく褒めてくれる師は父性さえ感じさせる。

 肩の力が抜けた態度に、先程までの話はあくまで念のためなのだろうと平吉も安堵した。そう思えば返す言葉も気楽なものだ。


『そんな。秋津染吾郎を名乗るには俺なんてまだまだです』

『あはは、謙遜せんでもええよ。……そやけど、今回の戦いが終わるまでは名を譲るんは勘弁したってな』


 ついと染吾郎は行燈に目を滑らせた。

 ゆらゆらと滲む灯を眺めながら、妙なくすぐったさを覚え苦笑する。

 初めて出逢った時はここまで長い付き合いになるとは思っていなかった。

 人に化けた鬼。性質こそ善良ではあったが、いつ敵になるとも知れぬ。警戒は当然、共闘した際も切り札を見せる気にはなれなかった。

 それが今では酒を酌み交わす仲となった。本当に、人生とは分からないものだ。


『僕は甚夜の親友やからな。名を譲る前に、“秋津染吾郎”としてあいつの為に出来ることをやってやりたい』


“マガツメが如何な手を打つか、私にも分からない。だからもしもの時は野茉莉を頼む”

 甚夜は敵地に向かう際、そう残して行った。

 とことん不器用な頑固者が素直に自分を、弟子を頼ってくれた。

 親友だと冗談のように言えばすぐさま否定する。そういう男が後ろを任せ、それに足る友だと認めてくれた。

 ならばその心意気に報いたいと思うのが人情。

 染吾郎にとっては、十分過ぎる程に命を懸ける理由となった。


『これが一つ目の話。二つ目は、ちょいと伝言をな』

『伝言、ですか』

『そや。いつ伝えるかは、君に任せるけど』


 故に彼はマガツメに戦いを挑み。

 そして、もしもの時の為に弟子へ伝言を残す。

 普段は冷静ぶっているが、あれで案外情の深い男だ。何かあれば甚夜は苦しむだろう。

 だからそうならぬように、“秋津染吾郎”はあいつに伝えよう。


『いつか、あいつにこう伝えたってくれ』


 伝言を聞いた時、あの仏頂面がどんなふうに歪むのか。

 それを想像しながら、染吾郎は遠くを見つめ────






 ◆






 今になって考えてみれば、あの時既に師は終わりを予見していたのかもしれない。

 だからこそ“甚夜にこの言葉を伝えて欲しい”と遺して逝った。

 平吉は足元にある鍾馗の短剣を拾い上げる。生温い血の香り。握り締めれば、自身に何かが流れ込んでくるようだ。


「お師匠……確かに、受け取りました」


 鍾馗の短剣を。

 あなたの想いを。

 一筋、涙が零れる。

 大の男が情けない。思いながらも、拭うことはしなかった。

 これからは彼が秋津染吾郎になる。ならば、平吉として泣けるのは今日が最後だ。

 だから涙を拭うこともしなかった。今だけは師の背中を追っていた生意気な小僧として、染吾郎の死を悼んでいたかった。

 目を閉じて、最後の涙を押し流す。

 瞼の裏に映し出される懐かしい記憶。

 平吉はかつての騒がしい日々を思い起こしながらただ立ち尽くす。

 夜の風が身に染みても動こうとはしない。

 それからどれくらいの時間が経ったろうか


「平吉さん、こんばんは」


 此処にない筈の、涼やかな声に顔を上げる。

 驚きに目を見開けば、いつの間に訪れたのか。この二年で随分と親しくなった顔があった。


「東、菊……?」


 長い黒髪の鬼女は、どこか疲れたような微笑みを浮かべながら平吉の前に立っていた。

 何故、此処に?

 いきなりすぎて頭が追い付いてこない。そんな平吉を尻目に、東菊はゆっくりと近付いてくる。


「どうしたの、目が赤いよ?」


 吐息がかかる距離。いつもなら照れて身を離したかもしれない。

 けれど動けなかった。


「泣いて、たの?」


 東菊は気遣わしげに、上目遣いでこちらを見る。

 沈んだ表情。彼女の方こそ泣きそうで、離れようと思えなかった。


「いや、なんでもな」


 思わず普通に返そうとして、平吉の思考が止まった。

 東菊の態度はあまりに普通だ。

 鬼そばの玄関は見事に壊れている。辺りには鬼との戦いの名残がある。

 そもそもまだ鬼の死骸は完全に消えきってはいない。

 なのに東菊は、それらを見ながらも普通だった。日常とはかけ離れたこの場に在りながら、あまりにも普通過ぎた。

 何故、なんて考えるまでもない。

 そもそも彼女は鬼。そして今回の敵は鬼の首魁だと師が言っていた。

 ならば、ここに来た意味だって分かり切っている。



 おまえ、まさか。



 平吉は身構え、しかし退くことも攻撃に転じることも出来なかった。

 余裕はあったが同時に余分もあった。

 彼女が敵である、その可能性を考えた。

 それでも癒しの巫女としての振る舞いが、その下に隠れていた少女の顔が、雑談を交わしながら並んで歩いた日々が、積み重ねた余分が反射的な行動を躊躇わせた。

 なにより彼女は、本当に心配そうな目でこちらを見ている。

 それは平吉がよく知る東菊の優しさで。

 だからこそ一瞬の戸惑いが身動きを封じる。

 その間隙を突くように、東菊はしなやかな指を伸ばし。


「ごめんなさい」


 そっと優しく、平吉の頬に触れた。








 ◆








 踏み込み、横薙ぎ一閃首を落す。

 目の前が染まる程の赤。霞のように濃密な、鼻腔を擽る鉄の香り。

 鬼であっても血は人と変わらない。本当は、鬼も人も差異などないのかもしれない。

 不意に過る夢想は振るう刀で薙ぎ払い、鬼の心臓を貫き、体躯を裂き、頭蓋を叩き割る。


『何匹目、だったでしょうか』


 兼臣の言葉に反応し鬼を斬った刀、その為に振るわれた腕が刹那も置かず跳ね上がる。

 伸びきった筋肉はもう一度収縮するまで動かせない。当たり前の肉体構造、だというのにそれを無視して、甚夜の腕は有り得ぬ力強さで刀を返す。

<御影>。妖刀夜刀守兼臣が有する、自身の肉体を傀儡とする<力>だ。

 肉体を<力>で操り、本来ならできない筈の動きをも可能とする。


「知らん」


 十を超えた辺りで数えるのは止めた。

 返す刀で斬り捨て、しかし尚も鬼共は立ち塞がる。

 下位とは言え鈴音の配下。おそらくは死体を弄り産み出した存在。並みの鬼とは比較にならぬ力を有し、なにより数が多い。

 時間稼ぎと分かっていながらも甚夜は鬼共を振り払えずにいた。

 闘わず逃げることも考えた。実際<疾駆>や<隠行>を試したが、結果は失敗、ものの見事に阻まれた。

 数多の鬼の中には尋常ではない速度で動くもの、見えない筈の姿を見る鬼もいた。

 つまりこの屋敷にいる鬼は、甚夜の現在の能力に合わせて、初めから足止めの為に造られているのだ。


 甚夜は只管に刀を振るい、鬼を斬り伏せる。

 無論焦りはあるが、そこに動揺はない。冷静に、闘うことが出来る。

 当たり前だ。今の彼には、遠い昔には持ち得なかった力が在る。

 鍛錬で得た技でも鬼を喰らい奪った<力>でもない。

 染吾郎や平吉、兼臣。

 憎しみに囚われた道行き、それでもこの身を案じ手を貸してくれる者達がいる。ならば動揺などする筈もない。己が為すべきはあの師弟を信じ、一刻も早く鬼を片付けること。

 迷いはなく、故に濁りはない。

 一挙手一投足が斬る為にある。眼前の鬼、その絶殺にのみ専心する。


「兼臣、悪いな。無茶に付き合わせる」

『夫の無茶を支える。まさしく妻の役割でしょう』

「言っていろ」


 自然と口の端が釣り上がる。

 滑るように鬼の懐へ潜り込み、左肩からぶつかる全霊の当身。怯み生まれた隙間を埋めるように夜刀守兼臣を突き出す。

 眼球を貫き、頭蓋を砕く。飛び散った脳漿、血払い、休む間もなく次の鬼を斬る。

 襲い来る鬼は、瞬く間に死骸へと変わる。荒れ放題の庭に籠る濃密な血の匂い。慣れ親しんだ香りは心を落ち着けてくれる。

 冷静に平静に、命を摘み取る。その途中、甚夜は奇妙なことに気付いた。


『旦那様』

「ああ」


 兼臣も訝しんだ様子だ。先程までは雪崩のように攻めてきた鬼共の動きが鈍っている。まるで攻撃を躊躇っているような。

 踏み込み、斬る。こちらから仕掛ければ応戦はするが、やはりどこかぎこちない。

 一体どうしたというのか。


「みなさん、もういいですよ」


 疑問はすぐに消え去った。

 響き渡る幼げな声に、鬼の動きは完全に止まった

 それを辿れば鬼共の後ろから、宝相華の着物を纏う女童が現れた。

 波打つ薄い茶の髪、ほっそりとした顔の輪郭。

 もういい加減見慣れた、形の上では姪にあたる少女だった。


「向日葵……」

「おじさま、さっきぶりです」


 にこやかに軽く手を振って様子は、やはりあどけない女童でしかない。

 本質が鬼だと知っていてもやりにくい相手だ。

 何故ここにいる。視線で問い掛ければ何故か嬉しそうに向日葵は語る。


「母が様子を見て来いと」

「そうか。残念だが、この通りまだ生きている」

「むぅ。言い方が意地悪です」


 頬を膨らませる。その仕種が、いつかの面影と重なる。

 向日葵と話していると、何故か妙な心地になる。多分、似ているからだろう。

 この娘はどこか鈴音に似ている。いや、親娘であることを考えれば当然なのか。無邪気に慕ってくる様は、まだ鈴音だった頃の妹を思い起こさせた。

 拗ねた様子で向日葵はすっと左手を上げる。すると取り囲んでいた鬼共は揃って円形を崩し、なんのつもりか甚夜の前に道は開けた。


「どうぞ、行ってください」


 一度深く息を吐き、向日葵は穏やかに微笑む。夏の花の鮮やかさではなく、秋を彩る柔らかな色だ。

 場違いだが素直に綺麗だと感じ、だからこそ奇怪な印象を受ける。ちぐはぐな鬼女の振る舞いに警戒心は否応なく高まった。


「なんのつもりだ」


 投げ付けた言葉にきょとんとした顔で返される。意味が分からないのはこちらだといった風情だ。


「鈴音の目的は足止めだろう。何故態々鬼を引かせる」


 続く言葉に合点がいったようで、少女は小さく吐息が漏れた。

 視線を泳がせ、困ったような曖昧な顔で微かに俯く。

 綺麗だと思うのに、心許なく感じられる。微笑みと呼ぶには少し陰りが勝ちすぎるかも知れない。


「もう、意味がありませんから」


 そうして何処か寂しげに吐き出した一言。

 自然すぎて聞き逃してしまいそうなくらいさり気無い言葉に思考力を奪われた


 待て、お前は何を言っている。


 問おうとしても声が出ず、全身の筋肉が強張って動けない。


「私の名前は向日葵。<力>の名も<向日葵>。私の目はあなただけを見つめる……設定した対象への遠隔視、千里眼が私の<力>です」


 実年齢は兎も角として、向日葵の容姿は十歳の少女といったところだ。

 しかし浮かべた表情は、幼げな容貌には似つかわしくない。

 胸中を隠し、けれど滲み出る心を隠しきれない。そういう大人びた憂いだった。


「だから遠く離れていても見えるんです。もう足止めの意味はありません。この夜のうちにしたかったことは、みんな終わりました」


 待てと言っている。

 マガツメの目的は野茉莉。それは読めていた。読めていたからこそ、染吾郎と平吉が護衛を買って出てくれたのだ。

 その上で、目的を果たしたと言うのなら。

 無表情のまま敵に動揺は見せなず、だが内心は焦燥に満ちている。


「謝りません。私は、母が大好きです。母の願いは叶えてあげたい……だから、謝れません。でも私はおじさまのことも大好きですから」


 緩やかな、泣き出しそうな笑みに胸を締め付けられる。

 これくらいなら母に許して貰えるだろう。

 飲み込んだ言葉はそんなところか。

 鈴音の最終目標が何処にあるのかは甚夜には分からない。

 しかし向日葵は知っているのだ。

 母が目指す場所と甚夜の安寧が両立し得ないと理解してしまっている。

 憂愁を帯びた目は、自身の感情と役目を上手く処理できないから。

 情けない話だ。くだらない兄妹喧嘩で、そういう優しい少女を悲しませている。


「野茉莉さんなら無事ですよ。初めから、命を奪う気はなかったので。でも、秋津さんは別です」


 それでもどうにか向日葵は笑顔を作る。

 そこにあるのもまた彼女の優しさで、けれどその気遣いこそが甚夜を追い詰めていく。


「この先で、母は秋津さんと戦いました。今ならまだ、末期には立ち合えるかもしれません」


 もはや少女の心を慮る余裕はない。

 限界だった。鬼共を目にしながらも、警戒することさえ忘れ甚夜は走り出していた。






 ◆






 夜は、寒い。

 いや、寒く感じるのは、血を失ったせいだろうか。

 分からない。分かったところで意味もない。

 自分は死ぬ。

 鬱蒼とした森の中で、独り。太い木の幹にもたれ掛かる。 

 奇跡などない。間違いなく、疑いようなく、彼は此処で死を迎える。


「まっとうな死に方なんて、出来るとは思っとらんかった」


 曲りなりにも鬼を討つ者。

 他の命を奪う男が寝床で死ねるとは考えておらず、だから嫁を取ることもしなかった。

 一人で生きて一人で死ぬ。そういう生き方が似合いだと思っていた。


「そやけど、やっぱ寂しいもんやなぁ」


 つぅ、と口元から血が一筋垂れる。

 臓器が潰れているせいだ。血を吐きすぎて、口の中は鉄錆の味しかしない。

 それも仕方ない。今迄殺してきた鬼は、もっと無惨に死んでいった。形が残っているだけでも有難いと思わねば。

 死はとうに受け入れている。

 ただ気掛かりなのは、周りのこと。なにより弟子の安否だ。

 平吉は無事だろうか。犬神は辿り着けたか。

 ちゃんと、遺志は伝わっただろうか

 伝わったなら、寂しく死んでいく自分にもまだ救いはある。

 多少の未練はあっても、安心して眠ることが出来る。


 ああ、体が重い。

 瞼も段々と落ちてきた。けれど必死に耐える。きっとこのまま目を瞑れば、二度と目覚めることはないだろう。

 もう少しだけ、景色を眺めていたかった。

 星ない夜。蜘蛛は少し晴れ覗く朧月。木々の鳴く音が、逆に静けさを強調する。

 霞んだ目でぼんやりと虚空を眺める。



 ───もう、そろそろか。



 ここらが限界だ。

 体の感覚は既にない。

 終わりがやってきた。

 まあ、こんなものか。

 素晴らしいとまでは言わないが納得のできる人生だった。

 嫁こそ貰わなかったが、子のようにかわいい弟子を持った。

 愚痴り合いながら酒を呑む友人も得た。

 そんなに悪いものでもなかった。

 だから、もうそろそろ目を瞑ろう。

 そう思えば、ゆっくりと瞼は落ちて。



「染吾郎……」



 聞こえた声に思い直す。

 ああ、やっぱり、あと少しだけ、頑張ろうか。

 マガツメは結局止めを刺しては行かなかった。

 刺さずとも死ぬからか、それとも何か企みがあったのか。

 或いは、単なる気まぐれだったのかもしれない。

 その意図は読めないが、今は感謝しよう。

 おかげで、今際の際に、親友の顔を見ることが出来た。


「おぉ、甚夜……あはは、すまんなぁ。下手ぁ打った」


 反応はない。

 甚夜は何も言わず、ただ立ち尽くしていた。

 僅かに歪んだ表情には後悔が滲んでいる。

 染吾郎ならばと、頼ってしまった。その結末がこれだ。ならば彼を殺したのは己。大方、そんなことを考えているのだろう。


「戦いは素人やけど強かったわ。能力は治癒と、ようわからん虫の腕。マガツメは、ほんまに人でも鬼でもない“何か”……鬼神に為ろうとしとる」


 駆け寄って抱き起すような真似はしない。

 一目見た時点で分かった。

 もう何をしても助からない。

 体を動かしても体力を消耗させるだけ。だから正対し見下ろすような形から動かなかった。本当は、動けなかったのかもしれなかった。


「済まない、染吾郎」


 軋むような嘆きだった。

 奥歯を砕かんばかりに噛み締め、湧き上がる感情を隠そうともしない。

 己が失策を悔やみ、無力感に苛まれ。それ以上に染吾郎の死を嘆き俯いていた。


「私が、お前を、巻き込んだ」


 絞り出すような声にいつもの強さはない。

 不謹慎だと思いながらも染吾郎は軽く笑った。

 項垂れる甚夜の姿が申し訳なく、同時に嬉しくも思う。

 こいつは悲しんでくれている。自分のことを友人だと思い、それ故に立ち尽くしている。


「何故、私は大切な者をこそ守れない。いつも、いつもだ……」


 ああ、僕は。

 こんな風に悲しんでくれる友人を得たんか。

 一人で生きて一人で死ぬ。そう思っていた。

 だからこそ、自分の為に悲しんでくれる誰かが、たまらなく嬉しかった。


「アホなこと、言いなや。僕は、僕の意思で戦って、結果負けた。そんだけの、ことやろ。君の責任……なんぞ、どこにもないわ」


 傷付かなくていい。

 この最後を、笑顔で受け入れられる。負目を感じることなんてない。


「……だが。すまな」

「謝んな。頼むから、謝らんでくれ」


 残された力を振り絞るように、ぴしゃりと言い放つ。

 思ったよりも強かったらしい。ようやっと甚夜は顔を上げた。


「そら、ちょっとばかり届かんかった。ほんでも、僕は友人の為に、体張ったんや。ちっぽけな意地かもしれんけど、冥土にもってくには十分すぎる誇りや。……そいつを奪ってくれんな」


 ゆるやかに言葉を紡ぐ。

 お前が、こんな老いぼれの命を背負うことはないのだ。

 穏やかに。お前に咎はないと、何の未練も後悔もないと、ただ穏やかに笑う。


「そやから、はよ行け」


 そして、突き放すように別れを告げる。

 友が、自身の死を悼んでくれている。

 それを嬉しいと思えたなら、彼の足を止めてはいけない。


「君はさっさと野茉莉ちゃんとこ行かな。こんなとこでぼーっと突っ立っとる暇ないやろ」


 いっそ粗雑とも思える物言い。根底にある感情が透けて見えたせいだろう、甚夜は僅かに表情を歪めた。

 染吾郎の心遣いが分かる。分かるくらい、一緒に酒を呑んだ。

 毎日のように蕎麦屋でくだらない雑談を交わした。

 鬼を討つ者でありながら、鬼である己を友と呼んでくれた。

 憎悪に塗れた道行きを肯定も否定もせず、それでも力を貸してくれた。



 ───そういう友を、失うのだ。



 甚夜は動けなかった。

 愛娘の危機を十二分に理解しながら、一歩も動けない。弱々しく呼吸する親友から目を離せずにいた。


「はは、鬼の目にも、涙やなぁ」


 何も言えない甚夜を、染吾郎はからからと笑った。笑ったつもりだった。

 もう顔の筋肉は殆ど動いていない。声も無理矢理絞り出したようで、掠れ切っている。


「誰が泣いた」

「君がや。一人になるんが怖くて怖くて、迷子の子供のみたく泣いとる」


 反論を口にしないのは、否定しきれなかったから。

 紛れもない事実だ。

 恐怖に足が竦んでいる。一歩も動けない。

 如何な鬼を前にしたとて恐れに動きを封じられることなどなかった。

 命など数えきれぬ程に奪ってきた。

 なのに、ただ一人の死が、こんなにも怖い。  


「……なぁ甚夜、人って案外しぶといで?」


 染吾郎はそう何度も言っていた。

 甚夜とて元は人。その在り方が鬼に劣るなどとは思わない。

 それでもやはり人は脆すぎる。現に、しぶといと言いながらこの友人はもう終わりを迎えようとしている。


「僕はもう終わり。そやけど、続くものがある。僕は僕のやるべきことをやった……これでも、結構満足しとるよ」


 自分の遺志を継いでくれる者がいる。ならばこの命にも意味はあった。

 間近に迫った死を、あまりにも穏やかに受け入れる。

 その姿は弱々しく、なのに今にも消え入りそうな灯が何故か眩しい。


「そやから、悲しまんでええ。今度は君が、やるべきことをやらな。此処で、僕の死を看取るなんて無様な真似、さらしてくれるなや」


 動かない表情筋を無理矢理に動かして、染吾郎は精一杯笑う。

 やはりうまく笑みは作れなかったが、ちゃんと伝えられたと思う。

 甚夜は俯いたままだったが、背を向けてくれた。

 前を、しっかりと見てくれた。


「……おい、染吾郎」


 揺らぎのない、鉄のような声。

 恐れを抑え込んで、甚夜は冷静な己を作る。

 本当は染吾郎を見捨てて行くような真似はしたくない。だがここで手を差し伸べるのは、命を張って味方してくれた親友への侮辱だ。

 ならばこの背中を返答にする。

 最後まで友で在ってくれた男に、少しでも報いることができるよう、今は悲しみを押し殺す。


「おう、なんや親友」


 甚夜の意思もまた伝わったようだ。

 消えてしまいそうな意識を必死で繋ぎ留め、染吾郎はおどけて返した。


「ありがとう。お前と酌み交わした酒は悪くなかったぞ」

「そんなん、僕もや」


 なにに対する礼だったのか、甚夜自身にもよく分からなかった。

 けれどそれでいい。きっと伝える機会が無かっただけで、いつも礼を言いたかったのだと思う。

 素直に言えてよかった。

 最後の最後に、妙な意地を張らずに在れた自分を褒めてやりたい。

 僅かな沈黙。振り払うように、甚夜は一歩目を踏み出した。


「さらばだ。もう逢うこともあるまい」

「あほ、こういう時はいつかまた逢おうって言うもんや」


 顔を合わさずに、それでも互いに笑い合う。

 ざっ、と土を踏みしめる音。

 それを合図に颯爽と、僅かな名残さえ感じさせず甚夜は歩き始める。

 遠ざかる背中は、硬く強く、まるで鉄のように映る。

 染吾郎はほんの少しだけ悔しさを感じた。

 これから、あの不器用な友人は。

 長い長い、気が遠くなるような道を歩いて行く。

 その道行きを、共にすることはもう出来ない。

 例え此処で生き残ったとしても人と鬼では寿命が違う。

 いつまでも友人でいてやることなど染吾郎には不可能だ。

 あいつが辛いと思う時、何の手助けもしてやれない自分が歯がゆい。

 ああ、だけど。



「人は、しぶといで。そやから、“またな”」



 去っていく背中に、約束を。

 気が遠くなるくらい先の未来でいつかまた会おうと、一方的な約束を押し付ける。

 あの男が歩む道が何処に繋がっているのか、見通すことは出来ない。

 同じく、“秋津染吾郎”がこれからどうなるかもまた。

 けれど願わくは。

 もう一度、笑い合える未来が訪れますように。

 その時に、あいつの傍にいるのは自分じゃないけれど、それでいいと思える。

 もしも道の先で、偶然出会った誰かが“秋津染吾郎”を名乗った時、あいつは一体どんな顔をするのだろう。

 驚くのか、訝しむのか。喜ぶだろうか、いやいや喜び過ぎて涙を流すかもしれない。

 いずれ訪れる小さな奇跡を夢想しながら、染吾郎は笑う。

 だけど、かくんと頭が揺れる。

 なんだか、眠くなってきた。少し、頑張りすぎたようだ。

 最後の力を振り絞って顔を上げる。

 背中さえ見えない。本当に、立ち止まらずに甚夜は歩いて行った。

 ならきっと、もう一度会える。

 あいつが歩みを止めないのなら、“秋津染吾郎”が絶えず在り続けられたのなら、いつか道が重なり合うこともあるだろう。

 そのいつかを心待ちにし、最後まで笑みを浮かべて。

 染吾郎は、そっと、瞼を閉じた。







 ざあ、と風が鳴く。

 沈み込むような夜空の下、染吾郎は木の幹に背を預けたまま佇んでいた。

 その姿は本当に穏やかで。

 ともすれば心地よい風の中でうたた寝をしているようにすら見える。

 けれど彼の目が開くことはもうない。

 微睡みに揺蕩い、見果てぬ未来を想いながら、彼は息絶えた。

 瞼の裏に映したのは、きっと再会の日だろう。

 上手く表情を作れずに歪んだ顔は、それでも何処か楽しそうに見えた。






 ◆






 空が白みかけた頃、ようやく甚夜は鬼そばに戻ることが出来た。

 遠目からでも店の玄関が壊されているのだと分かる。

 焦燥に足を速めて、辿り着いた店先で見た光景に甚夜は毒気を抜かれた。


「おう、おかえりー」


 壊れた玄関の前で座り込んでいる平吉の姿が其処には在った。

 眠そうに欠伸を一つして立ち上がる。ぐうっ、と背筋を伸ばし、肩を回す。座り続けていたせいで体が固まっている。気怠げな、緩慢な動作だ。


「鬼、結局一匹来ただけやった。それも雑魚。相手にもならんかったわ。野茉莉さんも、まだ中で寝とる」


 軽い笑みに、一先ずは安堵する。

 全てが終わった。ならば野茉莉もかと思ったが、如何やら無事のようだ。

 礼を言おうと平吉の顔を見て、声を出せなくなった。

 多分平吉はちゃんと笑えているつもりだったのだろう。しかし目は少し赤い。右手には、短剣が握りしめられている。鍾馗の短剣、染吾郎の切り札だ。

 だから気付く。平吉は既に染吾郎の死を知っている。その上で、何でもないと振る舞っているのだ。


「言っとくけど、あんたのこた恨んどらんからな」


 甚夜の視線に気付き、目を逸らしたまま投げ捨てるように平吉はそう言った。


「お師匠は、最初からこうなると分かっとった。その上で、戦った。恨むのは筋違いや」

「宇津木……」


 敬愛する死を失って辛いだろう。含むところがあって当然だ。だと言うのに、平吉は甚夜を責めることはしなかった。

 それでも真っ直ぐ向き合うことが出来ないところに、複雑な心境が現れている。


「そやけど、整理し切れとらん。あんま、“そこ”には触れんでくれ」


 精一杯の譲歩だと、平吉は背を向けた。

 仇、という訳ではない。だとしても巻き込んだのは事実。とは言え甚夜を憎むことは出来なくて、やり場のない苛立ちだけが募る。

 自分でもどんなふうに感じているのかよく分からない。だから今はそのままにしておく。もう少し落ち着くまで、師のことは考えないでいようと平吉は決めた。

 頼まれた伝言も次の機会にしよう。このままでは素直な気持ちでその言葉を口には出来そうもなかった。


「……分かった」


 平吉は結局甚夜の目を見なかった。

 上手く感情を処理できない自分が、殊更子供っぽく思えて、気付かれないように奥歯をぐっと噛み締めた。

 悔しかった。何が悔しいのかは、やはり分からなかった。


 言葉少なく甚夜と平吉は店に戻った。

 壊れているのは玄関のみで、店内は荒らされていない。確認もそこそこ、いの一番に店の奥、廊下を進み、辿り着いた部屋の障子を静かに開ける。


「すぅ……」


 よく眠っている。

 本当に平吉は上手くやってくれた。野茉莉は、外での騒ぎなど気付くことなく普段と変わらぬ様子で眠っている。

 しばらく寝顔を見ていたかったが、起こしてしまっては可哀想だ。ゆっくり、音を立てぬよう静かに障子を閉める。店舗に戻れば、すぐさま甚夜は頭を下げた。


「感謝する。よくぞ野茉莉を守ってくれた」


 平吉は驚き、あたふたと視線をさ迷わせる。

 甚夜の親馬鹿ぶりは承知の上だが、まさかここまで素直に謝意を伝えてくるとは思っていんなかった。


「ちょ、やめぇや。別にあんたの為ってだけやないんやし」


 染吾郎は甚夜の為に戦った。平吉にもその気持ちはある。頼られたのが嬉しかったのは事実、しかし理由の大半は本音を言えば野茉莉にこそある。

 昔から惚れている女だ。危機を知って見捨てるなど出来る筈もない。詰まるところ頼まれずとも端から体を張るつもりだった。だから感謝がどうにもくすぐったい。


「しかし」

「ええから。あんま礼とか言わんでくれ。なんや居た堪れん」


 なにせ下心ありだ。真正面から受け入れるのはなかなかに辛かった。

 胸中を見透かしたのか、店に戻ってからずっと張り付かせていた硬い表情を崩し、甚夜は落すように笑った。


「なんや」

「いや、お前達を頼ってよかったと心から思っただけだ」

「ちょっとは隠せや、恥ずかしい奴やな!?」


 それがいつも通りの姿だったから、平吉もいつものように照れ隠しの叫びを上げた。

 間を空け、ようやく目を合わせて、もう一度ぎこちなく笑い合う。まだ少しわだかまりは残っているが、空気はほんの少し柔らかくなったような気がした。

 そうこうしていると、店の奥で微かな物音が聞こえた。次いで障子が開く音。どうやら、野茉莉が目を覚ましたらしい。


「おう、起きたみたいやな」


 浮き立った声。あからさまに表情が明るくなった。

 好意を隠すのが下手なくせして、決定的な言葉は口に出来ない。唯一こういう所だけは頼りないと思ってしまう。

 もしも平吉がそのつもりなら、親として認めてやろうと思っているのだが。

 そんなことを考えていると、朝の寒さに肩を抱きしめ、覗き込むように野茉莉が顔を出した。


「おはよ、野茉莉さん」


 片手を軽く上げて、何気ない風を装い平吉が挨拶をする。

 そこに至るまでの態度を見ているだけに、甚夜は小さく溜息を吐いた。


「ん、おはよう。今の声って平吉さん?」


 野茉莉は寝間着のまま着替えてもいなかった。

 淑女としてはしたないと思ったのか、どこか居心地悪そうにしている。

 昨夜は甚夜が帰れない為、平吉に留守を任せるとだけ伝えておいた。鬼に狙われるかもしれない。そんなことを言って怖がらせたくはなかった。

 結果、野茉莉は何事もなく夜を過ごしただけ。鬼との戦いがあったことさえ知らない。やはり平吉に任せてよかったと思える。


「すまん、五月蠅かった? 喋っとったら、ついな」


 流石に朝から大声を出し過ぎたらしい。

 申し訳なさからか、にへらと笑みを浮かべる。親指でくいと甚夜を指し示せば、野茉莉は意外なものでも見るように目を見開いた。


「え……?」


 その姿はどこか幼げで、すっと口の端が緩む。

 平吉の、染吾郎のおかげだ。こうして愛娘の姿を見られるのは。


「野茉莉、ただいま」


 娘の無事を確認し、甚夜は安堵の息を漏らした。

 そうして夕間暮れは過ぎ。





「……あの、どなた、ですか?」





 夜が、訪れる。




『面影、夕間暮れ』(了)





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