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『面影、夕間暮れ』・4




 東菊は暗い廃寺の本堂で佇んでいた。

 探していた人を見つけてしまった。

 それと共に思い出す。

 自らに与えられた役割を。


「私は……」


 あの人の下へいかなきゃ。






 ◆






 ぞわりと背筋を走る冷たい何か。

 意味の分からない言葉を垂れ流すマガツメに、染吾郎はひどくおぞましいものを感じた。

 恐怖ではない。恐怖よりも気色悪さが勝る。一寸先の闇に足が竦むのと同じ。マガツメの心は彼には理解できず、だからこそ鳥肌が断つ程に気味が悪い。


「……無茶苦茶やな」


 マガツメは甚夜を憎んでいる。それは間違いない。

 しかし同時に執着してもいる。殺したいと願いながら、何よりも強く彼を求めていた。

 それは別にいい。人だろうが鬼だろうが、心はそう簡単に割り切れるものではない。

“誰よりも愛しているけど、殺したいほど憎い”。

 相反する想いを抱いたとて別段不思議はないだろう。


「甚夜に見て貰いたいから、憎まれたいが為に野茉莉ちゃんや僕を狙う? 君、なに言っとんのか分かっとる?」


 分からないのは、マガツメの行動だ。

 あの人に私だけを見て欲しい。

 私にとってあの人が全てであるように、あの人にとって私が全てであって欲しい。

 額面通りに捕えれば、この上ない愛の告白。だが其処までの執着を見せながら、彼女の形相は憎しみに染まっている。狂ったように語り続ける彼女から放たれるのは歪んだ愛情か、それとも純粋な憎悪なのか。 

 構えを解かぬまま染吾郎は思考に深く没頭するが、考えはうまく纏まらない。

 ただ脳裏にはこびりつくような、奇妙な違和感がある。

 混じり合ったような憎悪と愛情。それをおかしいと、何かがズレていると感じるのに、その何かが分からない。喉の奥に魚の小骨が刺さったような不快感だ。


 この奇妙さをどう表現しよう。

 語る想いと行動が釣り合っていない、とでも言おうか。

 執着心だけが先に立って、肝心の感情がついてきていないとするか。

 例えば、憎悪の形相で愛の言葉を撒き散らす。

 例えば、自分を見て貰いたいから他の者を殺す。

 そもそも愛情にせよ憎悪にせよ、そこまで甚夜に拘っているのならばもっと早く行動を起こしていてもおかしくない。

 だというのに、マガツメは存在を匂わせながらも今まで大きな動きを取らなかった。


 そうだ、この鬼女は言動と心が乖離し過ぎている


 それが無茶苦茶だと感じた理由。

 在り方がちぐはぐすぎて、まるでだまし絵でも見せられているような気になる。


『当たり前だ、今もあの人は私の全てなのだから』


 そう口にする鬼女からは、もはや感情は読み取れない。

 端正な顔からは色が消え能面のような無表情があるばかり。少しでもマガツメの意図を探ろうと染吾郎は言葉を続ける。


「ほぉ。憎いゆうたり全てやゆうたり忙しないなぁ。そこんとこ、どうなっとんの?」


 マガツメが甚夜に対して、良しにせよ悪しにせよ特別な感情を抱いているのは間違いない。だから質問自体に意味はない。ただ反応を見たかっただけだ。


『お前には分からない。……どうせ、知る意味もない』


 数瞬の間を置いて、興味なさげにマガツメは吐き捨てる。

 どのみちお前はここで終わるのだから。無造作な科白の裏には強い侮蔑が込められていた。

 滔々(とうとう)と語ったかと思えば肝心なところで口を閉ざす。やはり染吾郎にはマガツメを理解できない。

 それでも一つだけ分かっていることがある。


「ま、言いたないなら別にええよ。ただ、君のことは放っておけん。あいつの親友として、なにより“秋津染吾郎”として」


 こいつを放っておけば甚夜だけでなくその周囲にも累が及ぶ。

 いや、それどころか訳の分からない理論を振りかざし、いつしか本当に現世を滅ぼそうとするかもしれない。

 ならば彼の行動は決まっている。


「悪いけど、此処で討たせてもらおか」


 眦は強く敵を射抜く。

“妖刀使い”の南雲や“勾玉”の久賀見、付喪神の秋津。

 日の本に退魔の名跡は幾つかあるが、その中で秋津は家門ではなく一派。鬼を討つ者よりも職人としての一面が強い。

 故に害意のない鬼は討たぬが信条、だがもはやマガツメを見逃すことは出来ない。

 今この場で討ち取らねば、後の世の禍根と成り得る。突き付けた短剣に力を籠め、染吾郎は敵意をあらわにした。


『笑わせるな老いぼれ』


 それを意にも介さずマガツメは動く。ゆらりと揺れる体はまるで幽鬼のようだが、美しい容姿と相まってどことなく艶かしい。

 見惚れる暇もない。一足で距離は零となり、鬼女は既に爪を振り上げていた。

 空気を裂く音、視認することさえ難しい速度。人の身なぞ容易く引き千切る一撃だ。

 マガツメは寸分の狂いなく染吾郎の頭蓋を狙い、




「老いぼれ舐めんな小娘」




 しかし、微動だにしない。

 振るわれた爪を受け止めたのは、力強い目をした髭面の大鬼。

 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手にした釣り義で悠々とマガツメの一撃を受け切る。


 ───鍾馗。


 疫病を祓い、鬼を討つ鬼神。

 染吾郎の持ち得る付喪神の中でも最上級の戦力である。


「無駄に長く生きただけのガキに遅れなんぞとるかボケ」


 無造作に薙ぎ払えば、それだけでマガツメの体は後ろへと飛んだ。

 自分から、ではない。単純な膂力に押されたのだ。

 ふわりと軽やかにマガツメは着地する。傷はなく、悠々と立つ鬼女。反撃を容易くいなし、体勢を崩すことさえない。

 にも拘らず染吾郎の表情は余裕に満ちていた。


 ────速く、強い。だが“それだけ”だ。


 マガツメは今まで相手取ってきた鬼の中でも最上級。

 だが体術では甚夜よりも数段劣る彼でも、不意打ちの一撃を防げた。技巧のない愚直な突進だったからだ。

 確かに強いが、これならば付け入る隙はある。


「君が死んだらあいつにはこう伝えといたる。マガツメは僕に勝てんから逃げた。多分もう悪さもせんやろ、ってな」


 軽く鼻で嗤い、染吾郎は言ってのける。

 既に五十を超える老翁とは思えぬ気迫。そこには数多の鬼を屠ってきた、“三代目秋津染吾郎”としての彼の姿があった。

 一気に終わらせる。懐から犬張子いぬはりこを取り出し、マガツメへ向け解き放つ。


「いきぃ、犬神」


 黒い靄が走り出す。次第に輪郭ははっきりしていき、犬の姿を取った時には既にマガツメへ飛びかかっている。

 近寄るな、とでも言わんばかりに腕で払い除ける。やはり強い。払うどころか犬神はまとめて吹き飛ばされ、粉微塵になった。甚夜と違い染吾郎は人。あの一撃を受ければ生き長らえることは叶うまい。

 出来れば間合いを離したいが、相手は強い。おそらく鍾馗でなければ致命傷は与えられないだろう。

 鍾馗の射程はせいぜい一間(1.8メートル)。危険だが、距離を詰めるしかない。


「まだまだいこか、虎さんおいで」


 次いで繰り出したのは“張子の虎”、大型の付喪神だ。

 夜を震わせる獣の呻き。躍動する筋肉、虎は鬼女を食い殺そうと疾走する。ぐっと地を蹴り、覆いかぶさるように牙を剥き。


 ざしゅう、と奇妙な音が響く。


 爪も牙もマガツメには届かない。

 軽々と虎の体躯は引き裂かれ、問題ない、それは囮。染吾郎は既に距離を詰めている。

 左方から踏み込み振り下す短剣。連動し、鍾馗もまた脳天から唐竹に割ろうと一刀を放つ。

 しかし既にマガツメはそちらへ向き直り構えている。

“読んだ”のではない。虎を葬るのに腕を振るい、近付いた染吾郎を視認してからでも、彼女は間に合うのだ。

 二者の能力にはそれだけの差がある。囮を使い、不意を打ち、尚もマガツメの迎撃の方が速い。

 鬼女は無感動に染吾郎を見下す。

 鍾馗が剣を振るうよりも先に、マガツメは僅かに一歩踏み込む。間合いはなくなり、白くしなやかな指がぴんと伸びる。

 そこから先は見えなかった。霞むほどの速度で繰り出された彼女の抜き手は染吾郎を一瞬で貫く。


「残念、はずれ」


 ただし幻影の、ではあるが。

 清(中国)では、蜃気楼とは大きな蛤の吐く息であるという。

 故に合貝あわせがい、蛤の貝殻の付喪神は蜃気楼を産み出す。マガツメが貫いた染吾郎は蜃気楼。本物は既に背後へ周り、本命の一撃を放っている。

 気配を察知し振り向こうとするが、今度は染吾郎が速い。

 一撃で葬る。殺意を込めた剣戟はマガツメが振り向いた瞬間に肩口へ食い込み、白い肌を破り肉を裂いた。

 飛び散るのは赤。血飛沫を撒き散らしながら、マガツメは能面のまま染吾郎を睨め付ける。


『……で?』


 意識の外から、背後から斬り掛かり、そこまでしてもマガツメには回避するだけの余裕がある。

 打点を外され刃は肉を切ったのみ、骨を断つには至らなかった。とはいえ傷は決して浅くない。


 だというのにマガツメは眉一つ動かさず、それどころか左手で鍾馗の短剣を掴んだ。

 ぶしゅ、という嫌な音からかなり力を込めたのだと分かる。

 思ってもみない行動。それだけでは終わらない。ゆったりとした様子でマガツメは右腕を動かし。


「なんや、その腕……?」


 染吾郎は自身の目を疑った。

 ぐちゃり、不愉快な音が鳴る。

 刀を掴んだ腕とは逆、鬼女の右腕が胎動している。まるで別の命を宿しているかのように、蠢き変容し始めたのだ。

 その醜悪さに息を呑む。

 少なくとも人の、鬼の腕とは全く違う。

 滑らかな陶磁器のような肌は、深緑に変色し、芋虫のようなグニャグニャとした気味の悪い皮膚に。

 それを食い破り、外骨格が現れる。手に当たる部分には鋭い爪。構造を見るにあれは節足動物の歩脚に近い。あまりにも気色が悪い。芋虫と歩脚が混在した腕だ。

 見目麗しい少女の右腕が、虫に為る。気色悪い。しかし染吾郎を驚かせたのは気色悪さよりも発される気配である。


 あれは、まずい。


 一目でわかる程の禍々しさ。

 離れないと、考えた時には体が動いていた。無理矢理に剣を引き、マガツメの指を切り落とし大きく後ろへ距離を取る。


「って嘘やろ……っ!?」


 それで一息、とはいかない。

 マガツメは一歩も動いていない。なのに虫の腕が体躯を伸ばし襲ってくる。

 構え直し、鍾馗の剣で薙ぎ払う、つもりだった。

 だが斬れない。鍾馗の一撃をもってしても、傷一つ付かない。硬いのではなく奇妙な弾力がある。刃は喰い込むだけで断ち切るには至らない。


「ぬぉぅ、りゃ!」


 それでも力尽くで虫の腕の軌道を逸らし、どうにか退ける。

 鬼女の変容を眼前にし、染吾郎は奥歯を噛み締めた。

 脳裏に浮かぶ疑問。どうでもいいとばかりにマガツメは虚空を眺めている。その仕種は穏やかで、だから染吾郎は少なからず動揺した。


「……あら、おっかしーなぁ」


 冷や汗が垂れる。唇がかさつく。

 内心の焦りを悟られぬように、軽い調子で微かに笑う。




「僕、今君のこと斬らんかった?」




 マガツメは、まったくの無傷だった。

 幻影などではない。確かに手ごたえはあったし、鍾馗の剣には血がついている。間違いなく斬ったのだ。

 なのに平然と立っている。

 切り落とした筈の指は戻っている。血も流れていない。着物には僅かなほつれもない。

 鬼の再生力は人を上回るが、それだけでは説明がつかない。



 ───つまりはあれがマガツメの<力>。



 鬼は百年を経ると特異な<力>を得る。

 中にはもっと早く習得する者もいる。マガツメもその手合いなのだろう。

 鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望みながらも理想に今一歩届かぬ願いの成就。

 ならば通常よりも早い<力>の目覚めは渇望故に。強すぎる願いへの執着が<力>を目覚めさせる。

 染吾郎は地面を見渡した。

 斬り落とした指が転がっている。ならば幻覚や幻影の類ではない。衣服が元に戻っている以上、単純な再生能力でもない。

 相手の挙動を注視しながら<力>の正体を推測する。臆したと思ったのか、動きを止めた染吾郎を見た。


『どうした……私を討つのだろう?』


 侮るでも勝ち誇るでもない、淡々とした語り口だった。

 美しい少女から虫が生えている。数多のあやかしを屠ってきた秋津染吾郎をして、あのような鬼は初めて見た。

 あまりにも不気味。しかし何故か、マガツメの纏う空気は寂寞を思わせる。圧倒的な力を振るいながら、まるで迷子のような頼りなさを感じた。


「あはは、言ってくれるなぁ」


 不用意に攻め立てることはできない。

 傷の再生、そのからくりを解かない限り意味がないし、そもそも虫の腕を掻い潜るだけでも至難だ。 

 間合いを取り、牽制代わりに付喪神を放ちまずは様子見。虫の腕が音を立てて振るわれ、一瞬で蹴散らされる。

 かさかさ。がしゃがしゃ。不気味に蠢く、吐き気がする。見ているだけで不快だが、目を逸らす訳にもいかない。


『向日葵、あの人の所へ』


 やはりどこか寂しげな様子で、マガツメは少し離れた所にいる娘へ声を掛ける。

 その言葉が意外だったのか、こてんと向日葵は首を傾けた。


「え?」

『様子を見てきなさい』

「ですけど」

『此処から先は貴女が見るようなものではない』


 曲りなりにも母、ということなのか。

 おそらく様子見をさせることに意味はない。単にこの場から離す為の方便だ。

 言葉尻には娘を案じる愛情が含まれている。


『いいから。あの人が貴女に危害を加えるようなことはないだろう』

「……分かりました、お母様」


 少し躊躇いがちに、しかし一転満面の笑みになる。

 このような状況でも“大好きな叔父様”の下へ行けるのは喜ばしいらしい。呆れたように溜息を吐き、染吾郎は去って行こうとする向日葵に言った。


「ほんま、君は甚夜のこと好きやなぁ」

「え? あ、はい。勿論です」 


 急に話を振られて少しだけ慌てた様子で向日葵は答えた。


「あはは、かいらしなぁ」

「むぅ。馬鹿にされたような気がします」

「馬鹿になんてしてへんよ。多分、甚夜の奴もおんなじこと思っとるで?」


 視線はマガツメに向けたまま、和やかに談笑する。

 向日葵は染吾郎の物言いに名前の如く晴れやかな笑みを浮かべた。


「そう、でしょうか?」


 落ち着いた対応を取ろうとしているのだろうが、喜びを隠せていない。

 無邪気な女童。甚夜を慕う、マガツメの娘。

 そうだ、向日葵は本当に甚夜を慕っている。

 その意味を、染吾郎は以前の邂逅で何となくではあるが予測していた。

 甚夜に話さなかったのは確信が持てなかったから。そして、出来れば予測がはずれていて欲しかったからだ。


『無駄話は止めなさい』

「はい、ではお母様行ってきますね。それは秋津さんもこれで」


 ぺこりと頭を下げ、今度こそ向日葵は走っていく。

 明るい笑顔が無くなり、夜は深まった気がする。マガツメが娘を行かせた理由は分かっている。ここからは、子供の見るようなものではない。つまり染吾郎の息の根を完全に止めるつもりなのだ。

 染吾郎に動揺はない。

 元より命の取り合い。覚悟はとうに出来ている。だから思考は今から行われる戦いよりも、マガツメの目的の方に向けられていた。


「ほんま、かいらしい娘や。君もあの娘のこと、大切にしとるみたいやし……ねっ!」


 言葉と共に左手を翳す。

 犬神。四方八方から襲い掛かる爪と牙。しかしマガツメは粗雑に腕を振り回す。ただそれだけで全て薙ぎ払われ、ぼとりと犬神の残骸が地面に転がった。

 別に構わない。今は相手に手傷を負わせることより考える時間が欲しい。

 更に犬神を繰り出し、その度に地の残骸は増える。相手の所作を警戒しながら軽い調子で言った。


「その腕、悪趣味やけど大したもんや……それも“実験の結果”か?」


 マガツメの動きが止まる。

 答えは返ってこないが、当たらずとも遠からずなのか、ほんの少し表情は固くなった。

 一挙手一投足に注視し、反応を窺いながら染吾郎はゆさぶりをかける。


「“心を造る”のが君の目的やったな。そのおまけで人を鬼に変える酒やら百鬼夜行がでてきたんや。その腕も同じ技術やと思うんが普通やろ」


 初めは人を鬼に変える酒だった。

 次は死体を鬼に変え、百鬼夜行を為した。

 自由に<力>を産み出す術も得た。

 しかしそれらは副産物に過ぎず、心を造るのが本来の目的だという。



“心を造る”



 心を造ったなら、どうなる?

 人は心の闇から鬼へと堕ちる。

 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。

 そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。

 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。

 つまり心を自由に造れるとすれば、容れ物もまた自在に変容させられると同意。


「人は想い故に鬼へ堕ちる。そんなら心……想いを自在に造れるんなら、中身も外見も自由自在やな」


 即ち“心を造る”技術の行き着く先は、完全に自分の意思を反映させた命の誕生に他ならない。


「好きなように造れる命。それが君の望みか? はん、吐き気がするわ」


 マガツメの眉間に皺が寄った。

 反応を見るにどうやら“当たり”か。

 ぎり、と奥歯を噛み締め睨み付ける。

 人として生きてきた染吾郎には彼女の望みが虫の腕よりも醜悪に映る。命を侮辱している。湧き上がる感情は憤怒と嫌悪。年甲斐もなく明確な敵意を露わにする。


「その腕、自分の心弄ったんか?」

『……違う』


 今度は間髪入れずに否定する。

 ゆっくりと首を横に振る仕種はやはりどこか寂しそうで、成熟した外見とは裏腹にまるで幼い娘のように見えた。


『心を造り、命を産み出す。お前のいう通りだ。でも“これ”は私の心。……散々切り捨てて来たのに、これだけは消えてくれなかった』


 心を弄った訳ではないと言う鬼女からは寂寞さえ感じられる。

 染吾郎に語るのではなく、独白のように零す。周りにまったく意識が向いていない。


「切り捨てられなかった……?」


 似たような言い回しをどこかで聞いた覚えがある。

 どこでだったろうか。染吾郎は紐解くように記憶を辿り。



 ───私も、地縛も。私たち姉妹は全て母の“切り捨てた一部”が鬼になった存在です。



 百鬼夜行の夜

 かつて向日葵が零した言葉を思い出して目を見開いた。


「そういや、向日葵ちゃんは、確か長女やったな」


 予想は確信へ。

 あの時の言葉が真実ならば、向日葵の正体は容易に想像がつく。

 向日葵はマガツメの長女。つまり一番初めに切り捨てたもの。

 兄を慕う妹が、マガツメとなり敵対するうえで一番必要ないものこそが向日葵だ。

 それは何か? 考えるまでもない。



 マガツメの娘は、切り捨てた想い。

 長女たる向日葵の根幹は“兄を慕う心”、大好きだという気持ちだ。



 故に向日葵は甚夜のことを慕う。彼女はそもそも、そういう思いが形になった存在だから。

 そこに思い至り、同時に染吾郎は理解してしまった。


 そもそもの目的は心を造る。

 造らなければならない、理由があった。

 それはいったい? 

 新しいものを造る理由。普通に考えれば古いものが使えなくなったから、失くしたから。

 交換しなければならない程、壊れてしまったから。

 だからマガツメは、心を造らなければならなかった。





 つまりこの鬼女は、切り捨てた想いの代わりに、造り物の心を自身に植え付けたのだ。





 だが所詮は模造品、質は悪かったのか。それとも元ある心と上手く合わなかったからか。

 いや、マガツメの言を鵜呑みにすれば、慕う心を切り捨てて憎しみだけを残してしまったせいだろう。

 虫の腕は、想いを捨て去り偽物の心を植え付け、それでも捨てられなかった憎悪。

 人の、鬼の枠を食み出る程に歪んだ感情の発露だ。

 結果としてマガツメは人でも鬼でもない、別の何かに変質してしまった。


 ここにきて違和感の正体をようやく理解する。

 並外れた執着の割に大した動きを見せず、愛を語りながら憎しみを振りまく。

 自分を見て欲しい、だから“憎まれたい”。

 一致しない感情と言動。

 おかしく感じて当然、マガツメの心と体は、本当にばらばらだった。



 有体に言えば、彼女はとっくに壊れていたのだ。 



「あかん、分かってもた君の“願い”」


 マガツメの“願い”とやらも染吾郎には分かってしまった。

 苦々しく表情を歪める。眼前の鬼女の歪みを見せつけられ、知らず手に力が籠った。


「マガツメ、君はそんなことのために……」

『そんなこと? 何度も言わせるな。私にはそれが全てだ』


 震えている。体が、心が、内から滲み出るものに慟哭していた。

 マガツメが見せる、あまりにも純粋な激情。熱いのか冷たいのかも分からない、靄のように淀む想いだ。


『なにも変わらない。向日葵を、地縛を、東菊を産んだ。散々、散々心を切り捨てて、偽物の心を植え付けて。なのに、こんなにも愛おしい。……なのに、この憎しみだけが消えてくれない。今も想っている、でも憎いの。私を捨てたことが。傍に、いて欲しかった。それでよかった。傍にいてくれるなら、あの人が誰かの隣で笑っていても耐えられた。ただ、ほんの少し、頭を撫でてくれれば。手を繋いでくれれば。それだけで、よかったのに……』


 だけど、もうあの頃のようには笑えない。

 兄は妹を憎み鬼へと堕ちた。

 捨てられた妹は、全てを憎み、いつか鬼神と為る。

 愛おしく思う心は変わらず、けれど兄妹は憎しみを選んでしまった。

 彼等が鬼である以上、もはや互いに憎み合うことしか出来ない。


『だから私は造るの。憎しみに染まった心なんていらない。純粋で、無垢な心を。憎いと思わない、嫉妬もしない、ただ純粋にあの人を想える、完璧な心を。そうすれば、きっと、もう一度あの人の……にいちゃんの傍にいられる』


 憎しみは消せなかった。

 マガツメにはそれが認められない。

 だから憎しみを消す為に、心そのものを造ると決めた。

 その為に本当の心を、兄への思慕さえも切り捨てた。

 矛盾ではない。少なくとも、彼女の中では。

 例え、“それ”が本当に大切なものだったとしても。

 大好きな兄を憎んでしまう欠陥品/心なぞ、初めから在ってはならなかったのだ。


「……君、ほんまに甚夜のこと好きやってんなぁ」


 本当に、好きだった。

 結局マガツメにとっては、どこまでいってもそれだけが全てで。

 その全てを失ってしまった時点で、彼女の崩壊は必然だったのかもしれない。


「そやけど、君のやっとることに何の意味がある? 鬼を造り、心を造り、自分自身さえ造り変えて。甚夜自身を傷付けて、現世を滅ぼしたその果てに、君はほんまに……」

『あると信じている。心から願う場所が……きっと』


 きっと、もう一度幸せになれる。

 淡い希望を信じる彼女は、人を踏み躙り現世を破壊し尽くし、その果てに在る場所へと辿り着こうとしている。



 ───滅びの先にある夢を、マガツメは見ている。



 なんて愚かで、なんて純粋で、なんて気持ちが悪く。

 けれど、なんて美しいのだと、思ってしまった。

 首を横に振って浮かんだ感情を振り払い、染吾郎は歯を食い縛る。そして敵意に満ちた視線でマガツメを射抜く。


「やっぱり、君のことは捨て置けん」


 本当は、ほんの少しだけ希望を抱いていた。

 マガツメの目的を知って、妥協点を見いだせれば、案外戦わないでも済むかもしれない。

 そうすれば、兄妹が仲直りして“めでたしめでたし”、そういう終りだってあるのではないかと、そんな夢を見ていた。

 それが無理だと分かってしまった。

 マガツメは目的の為ならば現世の全てを滅ぼしていい、それほどの覚悟を持って事に臨んでいるのだと思っていた。


 だけど違った。

 現世を滅ぼすのに覚悟など要らない。

 彼女にとっては、大げさな表現ではなく、甚夜以外はどうでもいいから。

 だから簡単に、心の底から、滅ぼすなんてことを言えてしまう。

 悪意ではない。兄の傍へもう一度戻る為に歩む道。その途中に落ちていたゴミを片付ける程度の軽い気持ちで、彼女は現世を滅ぼそうとしているのだ。


「このままやと君は本当に現世を滅ぼしてまう。なにより、君のやっとることは甚夜への……いや、僕ら人への侮辱や」


 染吾郎の目には明らかな敵意がある。

 マガツメの願いを理解した。だから分かる。この女を放っておけば、どうしようもない悲しみが広がっていくだけだ。

 説得など意味がない。彼女は、もう手が付けられないくらいに壊れている。 

 今この場で、討たねばならぬ相手だ。


『知ったことか。この身は鬼。ならば為すべきを為す』

「鬼? 違うな。君はもうとっくに人で鬼でもないわ」


 人は想い故に鬼へと堕ちる。

 ならば、その想いを捨て去ってしまった鬼は、もはや何物でもない。

 彼女は真実、鬼でも人でもない、ただ災厄を振りまく存在に。

“鬼神”に為ろうとしている。

 四肢に力を籠め、鍾馗の短剣を構え、染吾郎は静かに意識を研ぎ澄ます。


「君の居場所はどこにもない。とっとと黄泉路に還れ」


 放つはかみつばめ、紙燕の付喪神。

 速度を上げたそれは既に刃。マガツメを切り刻もうとひゅるりと飛んで、届くことなく虫の腕に叩き落とされる。

 逆に、マガツメの攻撃も届かない。

 虫の腕は確かに脅威だが、鍾馗は染吾郎の最大戦力。容易く打ち破れるものではなく、こともなげに異形を払い除ける。

 染吾郎は距離を詰められない。それだけマガツメの攻めは苛烈。隙を見て犬神を繰り出してもすぐさま消し飛ばされる。

 距離を詰めたい染吾郎と、離しておきたいマガツメ。互いに思惑通りとはいかず、状況は千日手に陥ろうとしていた。


 息を漏らし、染吾郎は再度虫の腕を払い除ける。

 既に十合を超える攻防、マガツメの攻撃を退けながら染吾郎は額に汗を垂らした。

 見得を切ってみたはいいが、状況は悪い。

 意思を持つように蠢く虫の腕。伸びて、うねり、爪を立てる。鍾馗を使いどうにか凌いではいる。

 劣ってはいない。決して劣ってはいないのだ。

 マガツメの攻撃など鍾馗ならば容易く受けられるし、腕は兎も角マガツメ自身を貫くことは可能。

 互角の攻防、しかし染吾郎の顔には次第に焦りが見えてきた。


「いい加減、しつこい!」


 空気を裂きながら振るわれる剣が虫の腕を払い除ける。

 犬神で反撃、容易く薙ぎ払われ地に残骸が転がる。

 一進一退。それでも力負けはしていない。

 鍾馗は、秋津染吾郎は決してマガツメに劣ってはいない。

 なのに攻防を繰り返すたび、染吾郎は次第に劣勢へと追い遣られる。

 足りないのは膂力でも速度でもない。

 鍾馗ならばマガツメ相手でも互角。戦いに関して言えばマガツメは素人同然、或いは このまま持久戦に持ち込めば勝機を見出せるかもしれない。

 だが染吾郎は劣勢だった。


「ちぃ、歳は、取りたくないもんやな」


 肩で息をしながら零す愚痴。どうしようもないことだが、言わずにはいられなかった。

 そう、現状は互角。いずれは勝機を見出せる。

 だとしても、“いずれ”が来るまで現状を維持するだけの体力など、既に五十を超える染吾郎にはないのだ。


『人の身ではそれが限界か』


 淡々とした口調が逆に鬱陶しい。

 染吾郎は奥歯を強く噛み締めた。

 マガツメの言葉は正鵠を射ていた。

 このままならば染吾郎の体力が先に付き、無惨に死骸を晒すだろう。

 もしこの身が鬼であったなら、歳を取らなかったのなら。

 ふと過る思考を染吾郎は鼻で笑い飛ばす。


「はん、舐めんなや。人はしぶといで」


 老いることのない体、若さへの羨望は確かに在る。

 けれど鬼であればよかったとは思わない。

 確かに人は鬼よりも遥かに脆い。

 千年を生きる鬼から見れば人の一生など瞬き程度だろう。

 だとしても染吾郎は人の強さを知っている。

 短い命。それ故に積み重ね、受け継ぎ、繰り返し。

 人は連綿と紡いでいく。

 技を、血を、心を、想いを。 

 そうやって人は今を造り上げた。

 それは、脆く儚い命だからこそ成し遂げられた業だ。


「確かに人は弱い。体も心も脆いし、鬼程長く生きることもかなわん。……そやけど僕らは不滅や」


 その尊さを、信じている。

 だから人であるが故に陥ったこの劣勢を染吾郎は甘んじて受け入れる。

 受け入れて、マガツメを屠る為に身命を賭す、そう覚悟を決めた。


「いくで、虎さん」


 染吾郎は身を翻し、自ら繰り出した張子の虎に跨った。

 そのまま虎の背に乗り夜を駆ける。躍動する獣の筋肉。疾走は人を凌駕する速度、それでもマガツメにとっては遅い。迎撃も容易いだろう。

 幾ら鍛えようとも人では彼女の域に辿り着けない。生物としての格がそもそも違う。マガツメが上、染吾郎が下。絶対的な、埋まることのない差がそこに在る。


「ああ、言い忘れとった」


 漏れた呟きなぞ意にも介さず、その進軍を冷めた目で眺める。

 当たり前だ。マガツメが乱雑に手を払い除けるだけで染吾郎の命は簡単に消し飛ぶ。ならば何事を語ろうが、真夏の蚊の羽音と然程変わらない。ぶんぶんと喧しく煩わしいだけ、心に届く筈もない。

 マガツメは無造作に虫の腕を振るおうとして。



「犬神には再生能力がある」



 地に転がった残骸が、瞬時に形を取り戻す。

 四方八方縦横無尽に駆け回る黒い犬。取り囲み、それぞれが再びマガツメへと襲い掛かる。

 意味はない。犬神などマガツメの力ならば容易に薙ぎ払える。

 にも拘らず、一瞬マガツメの動きが止まった。

 犬神が脅威だからではない。

 ただ単に“びっくりした”のだ。 

 それでいい。

 重要なのは威力ではなく突飛であること。

 目論見通り、復活した犬神に鬼女は僅かながら動きを止めた。

 マガツメが戦いに関して素人であり、それに反して能力が高いからだ。突如として襲い掛かる犬神に、反応できてしまうほど反射神経がいいからこそ、意識がそちらに割かれた。

 通じないと分かっていながら犬神を放ち続けたのは仕込み、この一瞬だけ思考を止める為。

 いいぞ、そのまま驚いていろ。

 駆け抜ける。虫の腕が振るわれ、犬神がまたも砕かれ、その隙に染吾郎は間合いを詰める。

 マガツメは既に二撃目に移っている。下から上へ掬い上げるように虫の腕が迫る。

 虎はそれこそ紙屑のように切り裂かれ、だがそれも予測済み。染吾郎は張子の虎から飛び降りていた。

 もう十分だ。間合いに入った。

 染吾郎は短剣を翳す。

<力>の正体は分からないが、傷が治っていたところをみるに再生・復元に類するもの。ならば己が為すべきは一つ。

<力>を使わせる間もなく、一瞬で命を刈り取る。

 それならば如何な<力>であっても関係ない。

 マガツメは虎を打ち倒すのに一撃を放った後。無防備を晒している。

 千載一遇の好機。

 此処をものにせねばもはや勝ち目はない。



 ひゅっ、と軽い音が響いた。



 鍾馗の剣が空気を裂いて夜に白い線を描く。狙うは頭蓋、再生など出来ぬよう完全に粉砕する。

 マガツメはまだ動かない。避けることも、防ぐことも今からでは間に合わない。

 とった。

 横薙ぎの一閃は吸い込まれるようにマガツメの頭部へ。

 絶対の確信を持って放たれた、染吾郎の渾身の一刀は。





『<地縛>』





 虚空から現れた鎖に四肢を絡め取られた。

 いや、鎖ではない。また虫だ。尋常ではない体長を誇る大百足おおむかでが肌にまとわりついている。

 急に制動をかけられぎしりと骨が鳴った。走る痛み。ぞわぞわと這い回る虫の足。締め付けられている、ただそれだけの筈なのに、指一本動かせない。動きそのものが“縛られている”。


「こいつ、は……!」


<地縛>は以前甚夜との鍛錬で見た。地縛から喰らった<力>だ。

 何故、と問うことはない。そもそも地縛はマガツメの想い、その具象化。ならば想いの大本はマガツメにこそある。

 鎖ではなく虫に変化しているのは、地縛を切り捨てた故に。

 本当の想いは捨て去った。残っているのは醜く歪んだ執着のみ。だからマガツメの<地縛>はこんなにも醜い。


「あかん、やばっ……!」


 染吾郎は冷や汗を垂らし、体を強張らせる。自身も鍾馗もやはり動かない。完全に無防備だ

 仕損じた。

 身動きは取れない。

 眼前には、マガツメがいる。

 虫の腕が、振り上げ、られた。


 マガツメは、冷めた目でこちらを見ている。

 心底興味が無いといった風情だ。

 彼女は甚夜以外に興味などない。染吾郎のことなど、羽虫程度にも思っていない。

 躊躇いはなく、感慨などもある筈はなく。

 それこそ虫を叩き潰すように、あまりにも乱雑に。



「……………あ」


 虫の腕が、突き刺さった。

 拘束は解かれ、衝撃に鍾馗は掻き消え、染吾郎の体は大きく吹き飛ばされた。

 無様に地面を転がる。与えられたのは致死の一撃。だからこそ、マガツメは眉を顰めた。

 羽虫を叩き潰したと思っていた。今の一撃は、人の体なぞ軽く貫くだけの重さがあった。

 なのに、あの男は吹き飛ばされただけ。羽虫如きが何故生きている。冷たい視線で染吾郎を見下す。


「が、は……福良、雀」


 懐にあるは福良雀。付喪神としての力は防御力の向上。

 おかげで一命は取り留めた。しかし骨は折れ、臓器は潰れた。死に至るまでの時間が僅かに伸びただけ。

 どのみち染吾郎は死ぬ。

 どうしようもなく、なんの慈悲もなく、此処で死ぬ。

 その事実が変わることはない。


「あかん、下手、打ってもたなぁ……」


 できればマガツメは自分が倒しておきたかった。

 仏頂面で冷静ぶっているくせにどこか脆い親友が、これ以上傷付かないように。

 あいつが妹と戦うなんて、そんな悲しいことをさせない為に。

 だけど届かなかった。


「もう、動けん。付喪神も出せてあと一回、ってとこか」


 打つ手はなしだ。

 秋津染吾郎は何もできず此処で死ぬ。

 親友の為と意気込んでおいてこのザマ。なんと滑稽なことか。

 情けなさに乾いた笑いしか浮かんでこない。


『何故生きている』


 マガツメには今染吾郎が生きていることさえ信じられない。

 人は脆い。脆い、筈。なのに、なぜこの男は。

 二者の噛み合わない遣り取り。断ち切るように染吾郎は表情を引き締めた。


「最後の付喪神。一矢報いな死んでも死に切れん」


 全身が軋む。激痛に意識が飛びそうだが、奥歯を強く噛んで耐える。

 死を前にして彼の気勢は些かも衰えない。

 親友の為に張った命だ。残念ながらうまくはいかなかったが、意地だけは通させてもらう。

 翳す鍾馗の短剣。

 懐に左手を入れ、放つ秋津染吾郎最後の付喪神。


「犬神……っ!」


 最後の最後に選んだ付喪神は鍾馗ではなく犬神だ。

 マガツメは怪訝そうに眉を顰める。染吾郎の付喪神の中では唯一鍾馗だけがマガツメと渡り合えた。だというのに今更雑魚を出す意図が分からなかった。


『無駄なことを』

「無駄? んなことないやろ」


 無駄ではない。

 これが今の彼に残された選択、人として出来る意地の通し方。 



「これが、僕の最後のあがき」



 染吾郎は口の端を釣り上げ。

 翳した短剣を、自身の腹に突き刺した。

 皮膚を破り、内臓を刻み、刀身が血に染まる。熱い。痛い。しかし苦悶の声は上げず、不敵な笑みのまま刃を体から抜いた。


「この短剣に、僕は想いを、命を込める。秋津染吾郎の遺言や」


 血塗れになった短剣を鞘に戻し、犬神に渡す。

 口に咥えたことを確認すると、染吾郎は険しい形相で叫んだ。


「行け犬神っ! 平吉んとこまで走ってそいつを届けろぉ!」


 これが最後の付喪神。マガツメに今一矢を報いることよりも、平吉に鍾馗を託す道を染吾郎は選んだ。

 疾走する犬神に、マガツメは何もしなかった。染吾郎の行動に意味を感じなかったのか、別の思惑があったのかは分からない。

 ともかく犬神はこの場を離れ、平吉の下に向かう。

 短剣には想いを、命を、そして言葉を込めた。

 平吉ならばちゃんと受け取ってくれる。その確信があった。


「僕は、君に勝てんかった」


 棒立ちしているマガツメを睨み付ける。

 目に宿るのは敵意ではなく決意。如何な暴威にも屈しない、しぶとい人の心だった。


「そやけど“秋津染吾郎”は負けん。人はしぶといで。鬼みたく長くは生きられんが、僕らは不滅や」


 がふ、血が口から零れる。

 もう長くはもたない。それでも、最後の命を振り絞って染吾郎は宣言する。


「今此処で断言しといたる。君が鬼神とやらになった時、僕は、“秋津染吾郎”はもう一度君の前に立ち塞がる。甚夜の隣で、一緒に戦ってみせる」


 その為の心を鍾馗の短剣に残した。

 想いは平吉が受け取り、五代目六代目と受け継がれていく。

 だから“秋津染吾郎”は負けない。

 今は退く。だが、いつか秋津染吾郎はお前に届く。


「葛野での再会、楽しみにしといたるわ」


 喀血しながら高らかに笑う。

 しかしマガツメには何の反応もない。

 染吾郎の遺言にすら興味が無いのか。






 ただ、冷めた目で────












 ◆




 付きも星もない夜。

 どこかで、犬の遠吠えが聞こえた。


「やっぱ、雑魚やったな」


 鬼そばを襲撃した鬼は四半刻も持たず消え去った。それなりに梃子摺りながらも余裕ぶって見せるのはやはり若さか。

 ともかく野茉莉を狙う鬼の撃退は成った。

 ようやく一息、気楽な様子で平吉はぐっと背筋を伸ばした。


「あー、終わった終わった。お師匠やあいつが負ける訳ないし、もう安心やな」


 激しく動いて流石に腹が減った。

 そうだ、甚夜が帰ってきたら夜食に蕎麦を作ってもらおうなどと考えながら鬼そばの店舗を見る。


「……しまった、思いっ切り玄関壊してもた。どないしよ」


 そういえば“しゃれこうべ”で鬼ごと押し流してしまったのだった。

 やばい、どうしよう。弁償とか言われるか? いやいや、あいつのことだ。野茉莉さんを守ったんだからこれくらい大目に見てくれる可能性も。

 うんうんと唸っていると、目の端には疾走する黒い影を見つける。


「ん?」


 向き直れば、そいつには見覚えがあった。

 師が好んで使い、自身が初めに教えて貰った付喪神。


「犬神……?」


 なんでこんなところに?

 口には短剣を加えている。それにもまた見覚えがある。鍾馗の短剣。三代目染吾郎の切り札だ。

 疑問を口に出そうとした時変化は訪れる。

 平吉の下に辿り着いた犬神は、輪郭を失って崩れ、黒い靄へと戻っていく。

 再生能力を持つ筈なのに、壊れたらそのままだ。

 そして、ぽとりと足元に落ちる短剣。 

 まさか、嫌な想像が脳裏を過る。




「……お師、匠?」




 乾いた呟きは夜に紛れ、何処かへと消えた。


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