『面影、夕間暮れ』・3
埃臭い座敷。生温い五月の夜、だというのに寒気がする。
女はゆっくりと立ち上がり甚夜を見据える。赤い瞳は揺らがない。昏い光。灯ったのは憤怒か、憎悪か、それとも他の何かだろうか。べったりと張り付くような、偏執的な眼光だ。
「久しいな……鈴音」
憎い。
気安い態度で繕っても、胸中に渦巻く際限ない憎悪。
駄目だ。優しくなれたと、少しは変わることが出来たと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。
前にしただけで憎悪が胸を焦がす。
吐き気がする。
遠い雨の夜を、あの娘の兄でありたいと願った日のことを覚えている。大切な妹だと分かっている。
なのに憎しみは、まるで羽虫のように沸いて出る。
奪われた全てに報いる為、今この場で鬼女を殺せ。
肉を裂き骨を砕き臓物を抉り魂さえも磨り潰せと、鬼となった身体が叫んでいる。
「態々誘いに乗ってやったんだ。一言くらいあっていいと思うが」
気を抜けば斬り掛かってしまいそうだ。湧き上がる衝動を必死に隠し、鉄のように硬い表情で吐き捨てる。
しかし鈴音の反応は薄く、どこか胡乱とした様子でこちらを眺めるのみ。
沈黙が鎮座する座敷。返答はない。ただ無意味に時間だけが過ぎる。
どれだけ経ったろうか。ゆっくりと、やはり熱の籠らぬままに、ようやく鈴音は口を開く。
『おままごとは楽しかった?』
実に、四十三年ぶりの再会。
マガツメ───鈴音の第一声は憎悪と侮蔑、嘲笑が綯交ぜになっていた。
甚夜もまた平静を崩さない。怒りに任せて突っ込むような若い時期はとうに過ぎた。それでも胸を焦がす憎悪は更に濃くなり、眼は鋭く研ぎ澄まされる。
「面白い冗談を言う」
『冗談? こちらの科白だ。自ら家族を捨てた貴方が、血も繋がらぬ人の子を娘と呼び、家族ごっこに興じる……それが冗談でなくなんだというのか』
私を捨てた貴方が、何故家族なぞ求める。
言外の意味を間違えない。分かっている。あの娘をマガツメと変えたのは己が罪過。甚夜こそが鈴音を其処まで追い詰めた。そんなこと、今更言われるまでもない。
『寂しさを紛らわせたかった? それとも人と関わっていれば鬼となった自分を忘れられると思った? だとしたら、なんて無様な男』
鈴音は笑わない。
冷たく、見下すような眼。しかし込められた色は侮蔑よりも憎悪が勝る。
かつて無邪気に笑った幼い娘はもうどこにもいない。同じく、そんな娘を慈しみ大切にしたいと願った男も消え去った。
彼女を鬼へと落したのは己の罪過であり、しかし彼女こそがこの身を鬼へと変えた。
ならばどちらが正しいか、どちらが間違っているかなど問題にもならない。
もはや是非を問うこと自体無意味。どちらに罪が在ろうと関係ない。是非を問うたところで、二匹の鬼の間にある憎悪は消えない。
互いは同じように罪を犯し、同じように憎みあう。そういう生き方をあの夜に選んでしまった。
「無様、か。確かにそうかもしれん。だが私はあの娘に救われた。おそらくは、楽しかったのだろうな」
『ぬけぬけと……どうして。家族が、欲しいというのなら』
顔付きは更に歪み、羅刹もかくやという形相で鈴音は睨み付ける。
真正面からそれを受け止め、甚夜もまた問うた。
「私は答えた。こちらも聞かせて貰おう。鈴音……お前はまだ全てを滅ぼすとほざくか」
『何を今更』
そうしたのはお前だろうに、口にせずとも目が語っている。
場を占拠する空気は固く冷たく、まるで氷のようだ。あまりの冷たさに背筋が寒くなり、響く声を聞く度に苛立ちが募る。
憎しみはやはり消せない。苦渋に奥歯を噛み締めながら、それでも言葉を絞り出す。
「……人里を去り、人と関わらず暮らすという選択肢はないか」
鬼神を“止める”。
叶うならば、斬る以外の道を探したい。
憎しみは消えない、けれど心は変わる。
今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれない。
葛野を旅立つ際、長の前で語ってみせた。今も覚えている。忘れる訳がない。その為に生きてきた。
かつての甚夜にとっては、それが全てだった。
「こうして再び逢い、思い知った。やはり私はお前が憎い。どれだけ幸福に浸ろうと、憎しみを消すことは出来なかった」
結局答えは出せなかった。
憎しみは今も胸に。
鈴音を止める為に、強くなりたかった。
あれから様々のものを拾ってきたけれど、憎しみは消えず。
未だ切るべきものを見つけられぬ自分がいて。
しかし一つだけ確かなことがある。
憎しみを捨てられなくとも、あの娘を愛しいと思い、慈しんだ日々もまた嘘ではないのだ。
「そしてお前が人を滅ぼすと言う以上、私はそれを見逃せない。だがもし人に危害を加えないと言うならこれ以上追いはすまい。……そうすれば、お前に刀を向けなくて済む」
憎しみと共に生き、何も為さぬまま死ぬ。
少しだけ優しくなれたい今なら、そういう道を選べる。
彼女を追い詰めたのは他ならぬ彼自身。だというのに手前勝手で消えろと言う。あまりにも理不尽だと分かっている。
だとしてもそれが甚夜に出来る最大の譲歩だ。
鈴音は俯き、逡巡してくれているのか、端正な顔を僅かに顰めた。
出来れば頷いてほしい。憎々しくも愛しい妹。殺さずに済むならば、そう在りたいと思う。
黙する鈴音を見つめ、ただ答えを待つ。
祈るように求め、縋るように願う、最後の可能性。
どうか首を縦に振ってほしい。
もしもこれが受け入れられないと言うのなら。
『無理だな……割に合わない』
後は殺し合うしかなくなる。
『貴方と離れ歳月を重ね、そして気付いた。今も私にとっては貴方が全て。貴方を愛しく思えればこそ、どれだけ辛くとも現世の全てを大切に想えた。だからこそ私は憎む。貴方を憎むのと同じように、現世の全てを。私は、全てを滅ぼす。滅ぼして、滅ぼして今度こそ……』
零れ落ちる呪言。
本当は、その答えを知っていたのかもしれない。
鈴音は向日葵を、地縛を生んだ。
彼女らはマガツメが捨てた心の一部が鬼と化したもの。不要なものを捨て去り、己が在り方を純化してきた鈴音にとっては、甚夜以上に憎しみが全てだったのだろう。
「そうか、残念だ」
詰みだ
これ以上言葉を重ねても意味はあるまい
何を斬るか。答えは出せぬまま、だが斬る以外の道はなくなった。
抜刀、夜来と夜刀守兼臣をだらりと放り出すように構え、鈴音を───眼前の敵を睨み付ける。
『……そんな顔でよく言う』
指摘されて気付く。
甚夜は笑っていた。
湧き上がる感情を抑えきれず、獰猛な笑みを晒す。
───所詮はこの程度の男なのだ。
鈴音の答えを嬉しいと思ってしまった。
こちらの提案を断られた。よくぞ、断ってくれた。
こうなっては仕方ない。もはや斬るしかない。……これで気兼ねなく斬れるのだ。
憎むべき敵に、正しく刃を向けられる。
「ああ……そう、だな」
それが嬉しい。
心がどうあれこの身は鬼。憎しみは感情ではなく機能でしかない。
憎悪に浸った心が高揚する。
大切な愛しく憎らしい女を、ようやく殺せると、歓喜に打ち震えている。
「この夜を待ち侘びたぞ鈴音。白雪の……いや、奪われた全ての仇。此処で果たそう」
止める、などと甘い考えはもうどこかに消えていた。
白雪、二人交わした誓い、大切な妹、人であった誰か。
奪われた全てに報いる為、貴様を斬る。
その為だけに生きてきた。
『ふん……』
鼻で嗤い、鈴音はすっと目を細めた。
そこには憎悪とも侮蔑ともつかぬ、極低温の悪意がある。
『貴方は結局、何も変わっていない。……本当に、無様な男』
叩き付けた言葉が合図となった。
二匹の鬼の距離は刹那の内に消え去る。
鈴音はただ歩いただけ。何の技術もない、無造作な動き。だというのに、長い歳月鍛錬を続けてきた甚夜よりも遥かに速い。
ひゅっ、と軽妙な音が空気を斬る。高く掲げられた腕を勢いに任せて下へと振るう爪撃。
刀身を寝かせ下からすくい上げるように防ぐ。右足で踏み込み、返す刀、夜刀守兼臣で首を突く。
容易に躱される。相変わらずの粗雑な挙動、だというのに呆れるほど速い。鈴音は間合いの外に逃げようと後ろへ退く。
基礎能力は明らかに鈴音が上、最初から分かっていたことだ。しかし逃がさぬ、こちらもあの頃のままではない。
<疾駆>
退がる鬼女に肉薄する。
動揺が見て取れた。だから獰猛な笑みで甚夜は語る。
「あれから四十三年。私もそれなりの強さを得たぞ」
彼の挙動はあの頃よりも鋭い。四十三年鍛え、戦い続けた。今や甚夜の動きは人の出せる限界を遥かに凌駕している。
横薙ぎ一閃。が、それでも尚鈴音が速かった。上に飛び夜来をやり過ごし、そのまま爪で頭蓋を狙う。
襲い来る一撃は無防備な頭部を正確に切り裂き。
<不抜>
体は、壊れない
渾身の一撃を防がれ鈴音の動きは一瞬止まる。
その隙に<不抜>を解き、側面へ回り込んだ甚夜は袈裟掛けの一刀を放った。
しかし空を切り、それでも鈴音の顔が僅かに強張る。
鬼としての格では下回っても、武芸者としては甚夜が上。短い攻防で悟る。鈴音は強く速いが、戦い慣れていない。付け入る隙はある、隙をつける程度には、強くなれた。
獰猛な笑みが更に歪む。
あの夜、捨て身でなければ当てることさえ出来なかった。だが今は尋常の勝負であっても、規格外の鬼女に追い縋ることが出来る。
それが嬉しく、憎しみに満ちた心が喜びに跳ね上がる。
だがそこが限界。今のところ付いていけるが、自分の方が弱いという自覚もあった。
分かっているからこそ攻め手は止めず、ガラス細工を扱うような繊細さで体を動かす。
対して鈴音はひどく冷めた目で甚夜を見つめていた。
袈裟掛け、突き、体を捌き逆風、踏み込んで胴を貫く。
苛烈に責めを危なげなく避けていく。あくまでも、実力では彼女が上。油断や慢心は出来ない。
鈴音は避けながら、すっと腕を上に翳す。
呼応して虚空から三匹の鬼が現れた。皮膚がなく、赤黒い筋肉がむき出しとなった鬼。おそらくは死体から生んだのだろう、赤い目は生気を感じさせない。
鬼共は鈴音と甚夜の間に割り込んだ。
たかだか三匹、障害にはなり得ない。襲い来る鬼、体を捌きすれ違いざまに一刀。腕を切り落とすと同時に懐へ潜り、袈裟掛け一閃その身を裂く。
「失せろ」
まずは一匹。
止まる気はない。間髪入れず拳を振り上げた残る二匹。仕切り直すのも面倒だ、今この場で斬り伏せる。
脳裏に浮かべるは岡田貴一の剣。過剰な力も余分な所作もいらない。迫り来る鬼共を前に心は平静を保つ。
流れに身を任せるように突き出す刀身。まずは一方の鬼の拳、振るうことによって伸びきった腕に刀の腹を添わせる。僅かに軌道を逸らし、右足で踏み込み鬼へと並び、そのまま軸として体を回し二刀連撃横に薙ぐ。
構えは崩さず、腰を落し最後の一匹に目を向ける。
殴り掛かる鬼、しかし遅い。摺足で大きく前へ進むと同時に肘を切り上げる。腕を跳ね除け、左足を引き付け、狙うは素首一太刀で斬り落とす
三匹合わせても三十秒も持たず、全ての鬼は死骸へと変わる。
その程度でも距離を空けるには十分だったようだ。既に鈴音は観戦していた向日葵を抱き上げ庭へと躍り出ている。
「ちぃ」
後を追い甚夜も庭へと出たが、再び鬼が現れる。雑魚とはいえ今度は十を超える。
その後ろで悠々とこちらを見下す鬼女。憎しみが膨れ上がり、どういうつもりだと睨み付ける。
『貴方は、何も変わっていない』
先程と同じ言葉を吐く。
鈴音は何故か、どこか寂しそうで。涙を堪えるように目を伏せる。
呟きにも力はない。儚げな立ち振る舞い。なのにその姿が殊更苛立たしい。
『あの夜も同じだった。鬼を討ちに森へ向かった。……残された私のことなんて、気にもかけないで』
瞳に宿った感情は侮蔑より失望より寂寞を思わせる。
睨み付けているつもりなのだろうが、表情は泣き笑うようだった。
『貴方はいつだって、残されたもののことなんて考えない』
「何が言いたい」
斬って捨てるような甚夜の硬い声に、鈴音は氷のような微笑で答える。
『あの夜と同じ。貴方は誘いに乗った』
触れる冷たさに、四肢が固まった
あの夜、甚夜は───甚太は思っていた。
鬼達は白夜、或いは宝刀・夜来を狙って葛野へ訪れるのだと。
だが違っていた。本当の目的は鈴音。鬼神を生むための舞台を整えることこそが狙いだった。
<剛力>の鬼は囮に過ぎず、甚太がいらずの森へ向かった隙に鬼は鈴音との接触を図った。
それと同じだと言うのならば、鈴音の本当の狙いは。
「……野茉莉か」
『ようやく気付いた? だから貴方は何も変わらないと言った。今も、同じ過ちを繰り返す』
例えば、もしもあの夜、鈴音を独り遺して行かなければどうなっていただろう。
分からない。鈴音が如何なる経緯で社へ向かい、白雪を殺すに至ったか。それを知らぬ甚夜には、仮定の未来など想像できる訳がない。
だが鈴音は、もし甚太が残っていれば、或いは違った未来があったのではないかと信じている。
だから見せつけるように野茉莉を狙った。
憎みあう今はお前の罪だと思い知らせる為に。
『……本当に、無様な男』
見下した物言い、なのにその言葉は何処か痛ましく感じる。
地面から湧き上がるように鬼は増えていく。雑魚であっても数が多い、蹴散らすだけでも時間はかかる。あからさまな足止めだ。
固くなった表情に焦りが見て取れる。しかしそれだけ。激昂し鬼共に斬り掛かると思っていたが、甚夜は冷静に周囲を警戒していた。
その様子に違和を感じ見据えれば、平然とした様子で甚夜は言う。
「随分と見下してくれる。だが言ったぞ、私は“それなりの強さを得た”と」
鈴音の知る兄ならば、激昂して鬼共に斬り掛かっていた筈。なのになぜこうも冷静なのか。
意図が読めない。僅かに表情を顰め、しかしすぐさま意識を切り替える。
十分な数を呼び出し終え、静かに息を吐き、鈴音は軽やかに跳躍した。
屋敷の囲いの上に立つ鬼女、その傍へ向日葵も寄り添う。甚夜は捨て置くつもりなのか、背を向けたまま振り返ることもしない。
「逃げるのか」
『為すべきは為した。貴方はそのまま鬼と戯れていればいい。……事が終わるまで』
おそらくは今頃、野茉莉もまた鬼に襲われている。
甚夜は奥歯を噛み締めた。自分ではなく愛娘を狙う。その所業に憎悪は淀み、更に濃くなる。
「回りくどいことを。私が憎いのならば直接ぶつければいいだろうに」
分かっている。甚夜が憎いからこそ、大切な者を奪うことで苦しめようとしているのだ。鈴音の遣り様は決して不思議ではない。
しかし彼女は背を向けたまま、ゆっくりと首を横に振り、甚夜の想像を否定する。
そうして静かな、何処か頼りない声で鈴音は言う。
『私はただ知りたいだけ。貴方が何を選ぶのか』
選ぶ?
何を言っているのか。問おうとして、それを遮るように向日葵がにっこりと笑った。
「それではおじさま。私達はこれで失礼します。あ、今度一緒にお茶でも飲みましょうね?」
『黙りなさい向日葵』
「むぅ」
下らない遣り取りを交わす二匹の鬼女、追い縋ることは出来ない。数多の鬼が立ち塞がったからだ。取り囲まれ、<疾駆>で逃げるのも難しい。
野茉莉が危ない。もしもの情景が想起され、憤怒に憎悪に体が震える。暴走しそうな感情を無理矢理に抑え込み、去ろうとする背中を呼び止める。
「鈴音……何故今になって動いた」
これまではあくまで実験だった。
鬼を生み、百鬼夜行を為し、その果てに心を造る。向日葵の言葉を信じるならば、マガツメはその為に動いていた。
しかし今回は違う。態々誘いだし、野茉莉を狙う。そこには私怨しかない。今になって何故目的から外れた行動をとったのか、それが分からなかった。
甚夜の声に一度足を止め、何かを逡巡するように鈴音は俯いた。
僅かに顔を顰め、投げ捨てるように返す。
『決まっている。“割に合わない”からだ』
意味の分からない答えを残し、鬼女は去っていく。
逃げるな。ようやく逢えたのに何故見逃さねばならない。なんたる屈辱。憎悪が頭の中を焼く。心の臓は早鐘を打ち、迸る感情に目が眩む。
『旦那様』
「分かっている」
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
以前も染吾郎や兼臣に窘められた。焦りは禁物だ。野茉莉を思えばこそ、まずは落ち着き、冷静に対処せねばならない。
鈴音が何を考えているのかは分からないが、何を企んでいようが今はどうでもいい。鬼共を蹴散らし、野茉莉の下へ急がなければならない。だから落ち着け。焦ればその分だけ動きは鈍る。時間が無いからこそ、冷静に平静に眼前の敵を斬る。
「……悪いが、道を開けて貰う」
意識は刃のように鋭く、意思は鉄のように硬く。
刀を構え直し、甚夜は鬼の群れへと斬りかかった。
◆
犬の遠吠えが聞こえた。
夜は深まり、空気は澄み渡る。透明な宵闇に揺蕩う星々。
三条通は静まり返り、人通りもなくなった。いや、ゆっくりと歩く人影が一つだけあった。
裕福そうな身なりの、恰幅のいい男。平吉と癒しの巫女を引き合わせた、三条通にある酒屋の主人である。
男は一歩一歩踏み締めるように夜道を行く。その顔に色はなく、ぞっとするくらい冷たい。
目は、赤い。
そもそも男は“誰も居場所を知らない”筈の癒しの巫女の居場所を知っていた。巫女の正体を考えれば、彼が鬼であること、そして誰によって造られたのかもまた明確だった。
迷いない歩み。見えてきたのは、三条通にある一軒の蕎麦屋。
鬼そば。
当然ながら暖簾は外されている。
既に寝静まっているのだろう。ならば好都合。男はにたりと気味の悪い海を浮かべた。
『マガ…ツメ……』
思考力は奪われた。
男の頭にあるのはこの店に訪れ住人を襲うことのみ。その為に成形された鬼である。
歩く、ぎしりと筋肉が鳴った。
歩く、体躯が膨張する。
歩く、容貌は醜悪に歪み。
店の前まで辿り着いた時、男は人ならぬ異形と化していた。
『オ…オオ……』
六尺を超える鬼は、気味の悪い呻き声を上げる。
全ては目的を為す為。赤黒い腕を伸ばし、鬼は玄関の戸に手を掛け、
「“しゃれこうべ”」
雪崩のように襲い来る骸骨に押し流された。
『オォ……』
叫び声はからからと鳴る骨の音に掻き消された。
突然の状況に頭は付いて行かないが、それでも腕を振り回し骸骨を振り払う。埋もれる程の骨から這い出れば、眼前には面倒臭そうに頭を掻く男の姿がある。
「この店、もうとっくに営業時間終わっとるで。勝手に入られたら困るわ」
左手に三つの腕輪念珠を填めた青年が無造作な歩みで店から出てくる。
襲撃を予見していたらしく、異形を前にしても動揺はない。
鬼は青年を睨み付ける。それを飄々と受け流し、不敵に笑う。
「そんで、静かにせえ。野茉莉さんが寝とる。起こしたら可哀想やろ」
名を宇津木平吉。
三代目秋津染吾郎が一番弟子、付喪神使いの後継である。
────だが私も言ったぞ、“それなりの強さを得た”と。
甚夜がマガツメに叩き付けた言葉は負け惜しみではない。
確かに彼は遠い夜と同じく誘いに乗った。しかし今はあの頃とは違う。後ろを任せられる者がいる。ならばこそ、誘いと理解しながらも敢えてそれに乗ることが出来た。
全てと信じた生き方に専心できなくなった甚夜は、確かに以前よりも弱くなった。だとしても、道行きの途中、拾ってきたものは決して無駄ではなかった。
だから胸を張って言える。彼は弱くなった、だがそれに比肩する強さを得たと。
『オォ……』
「案外、丈夫やな」
意外だった。一撃で終わらせるつもりだったが、しゃれこうべを受けながらも鬼は平然としている。
流石にマガツメの配下。一筋縄ではいかないようだ。
しかしここは退けない。平吉は甚夜に頼まれた。
────マガツメが如何な手を打つか、私にも分からない。だからもしもの時は野茉莉を頼む。
あの男が野茉莉を頼むと、何よりも大切な愛娘を任せた。任せられるだけの人物だと、自分を見込んでくれたのだ。
言葉の裏にある最大級の信頼。
それを裏切るような真似は出来ない。
「まあ、所詮雑魚やけど」
左腕を突き出して、平吉は不敵に笑う。
今なら如何な鬼が相手でも後れは取らない。それだけの自信があった。
◆
屋敷を離れ、東山を下る。
腕に抱えた向日葵は少しだけ不満そうにしていた。
「むぅ。おじさまともう少し話していたかったのですけど」
マガツメは反応を見せない。しかし向日葵を抱く手つきは優しく、その柔らかさはまさしく母を連想させる。
薄雲に覆われた夜空の下、歩く緩やかな傾斜。木々に囲まれた小路には淡い星の光も届かない。
薄暗い道の先は見えず、尚も歩みは止まらず、迷いなく鬼女は進む。
取り敢えずの目的は達した。
あの人を呼び寄せ、足止めする。それだけの為にゆきのなごりの噂を流した。
目論見通り逢いに来てくれた。数えきれない歳月を越えて、ようやく逢えた。
胸に過る淀んだ感情。
憎悪。恋慕。愉悦。悲哀。憤怒。寂寞。それとも、他の何かなのか。
考えるまでもない、全てだ。今も変わらない。マガツメにとっては彼が全て。
そも彼以外に心動かされることなどない。ならば湧き上がる感情の全てはあの人だ。
鬼へと堕ち、現世の全てを敵に回したとて、それだけは揺らがない。
どこまでいっても、あの人が全てだった。
「お母様、今から野茉莉さんの所へ?」
向日葵はこてんと首を傾けて問う。
この娘はマガツメの長女。鈴音が兄と敵対し、マガツメとなる為、初めに切り捨てた心が鬼と化した存在である。
だからこそマガツメは、現世に絶望し滅びを願う今でもこの娘を慈しんでいた。既に切り捨てた心、しかし本当に大切だったのだ。
問いには答えなかったが、優しく髪を梳き、宵闇を見つめる。
赤の瞳は薄く細められている。何を見ているのか読み取れない。
ただ鬼女は山道を下る。
その歩みに淀みなく、
「ええ夜やね」
しかし投げ掛けられた言葉に足を止められた。
「ええ具合に月も星も陰った……おあつらえ向けってヤツや」
立ち塞がるように現れたのは、齢五十を超える老翁だった。
張り付いた作り笑いでにこにこと語りかけてくる。マガツメは立ち止ったまま、更に視線を鋭く変えた。
「向日葵ちゃん、お久しぶり。君がおるってことは、そっちがマガツメで間違いないな。なんやえらい別嬪さんやなぁ。とても娘がおるようには見えん」
老翁は気にも留めず、軽妙な語り口である。
こちらの正体を知りながら、おどけた態度を崩さない。この不敵な老翁の名を、マガツメは既に知っていた。
『秋津、染吾郎』
「お、僕のこと知っとんの? いやぁ、有名になったもんやね」
付喪神使い、三代目秋津染吾郎。
深い夜、森の中。闇の中でおどける姿は何処か浮世離れしていて、寧ろこの男の方こそ怪異のように映る。
浮かべた笑みは張りぼてのようだ。見栄えばかりしっかりしていて、中身が伴っていない。表情は穏やかなのに、その奥は敵意に満ちていた。
「ゆきのなごりの噂を聞いたら屋敷にマガツメがおること、誘いであることまでは甚夜も“読む”。そやけど、なんの為の誘いかまでは考えん。一応あいつの名誉んために言っとくけど、頭悪いからやないよ? 君のことが憎すぎて、自分と君にしか焦点が合わんからや」
懐に手を入れ、短剣を取り出した。
語りながらも隙は見せない。老齢に見合った抜け目なさで、少しずつ位置を調整していく。
マガツメも向日葵を下し、木陰に隠れさせた。一瞬だけ緩んだ表情は優しく、しかしすぐさま鬼として顔を取り戻す。
「甚夜は、普段冷静ぶっとるけど基本頭に血が上り易いからなぁ。君がおるって分かった時点で、他事はすこーんと抜けとる思うたわ。まぁ、端から僕らに頼る辺り、マシにはなったけどな。……君の狙い、野茉莉ちゃんやろ?」
確信を持って放った言葉。
染吾郎は短剣を突き付け高らかに宣言する。
「そやけど、やらせん。野茉莉ちゃんのとこには平吉がおる。そんで、僕が君を片付ける。君の道行きは此処で終いや」
夜の風が吹いた。
木々の鳴き声はいやに不気味だ。薄雲に覆われた黒の空、宵闇に紛れ対峙する。
肌に張り付く不快感。空気自体が粘ついている。
鈴音の表情は能面のようで、些かも感情を見せない。呟くようなか細さで、染吾郎に問い掛ける。
『何故、立ち塞がる』
お前には関係ないだろうと言外に匂わせ、氷の視線で邪魔者を射抜く。
並みの者ならばそれだけで凍り付く。けれど染吾郎は涼風を受けるが如く悠々とした態度、向けられる敵意なぞ歯牙にもかけない。
「ははん、さては君、友達おらんな?」
鼻で哂う。
何故? 馬鹿なことを問う。寧ろ立ち塞がらぬ方が道理に合わない。
長い年月を共にした。一緒に酒を呑み、愚痴を言い合った。お互い年を取ったと、娘を弟子を見ながら笑った。
ならば、突き付けた短剣も同一線上にあるだけのこと。
「僕はあいつの親友やからな。いざって時は、そら体くらい張るやろ」
他に理由などない。
甚夜と野茉莉、親娘の触れ合いを一番近くで見てきた。
不器用だった。けれど歳月を重ねて、血の繋がらない、種族さえも違う二人は本当の家族なり、今でも家族であろうと努力している。
それを崩させてなるものか。
此処で体を、命を張れないのなら、自分には友を名乗る資格はない。
染吾郎の心は既に決まっている。
マガツメの息の根を止める。
その上で、あれが甚夜の妹だと言うのならこう伝えよう。
“マガツメは自分に勝てなかったから逃げた。もう悪さもしないだろう”
妹を殺すなどという罪を、彼が犯すことのないように。
泥は全て自分が被る。
その為に、立ち塞がったのだ。
「一応聞いとこか……何を望む、マガツメ」
『滅びを』
臆面なく言ってのける鬼女は、大言を吐くだけの力を有している。
散々鬼を相手取ってきた染吾郎は、マガツメから発せられる禍々しい空気だけで、その実力の一端を感じ取っていた。
「はん、滅び? 鬼のくせに嘘吐きやね自分」
だからこそ滅びという言葉をくだらないと一蹴する。
「君のやっとることはむしろ逆や。人を鬼に変え、<力>を生み、心を創り出そうとしとる。やのに、滅びが望み? そない拙い嘘に騙されてはやれんなぁ」
推測ではなく確信だった。
なにが狙いかは分からない。ただマガツメは何かを“創り出そう”としている。そこだけは間違いない。
滅びを謳う鬼女が望む“なにか”。それが知りたかった。もしも知ることが出来たなら、或いは兄と妹がもう一度分かり合えるかもしれないと思った。
「聞き方変えよか。マガツメ……手を血ぃで濡らして屍敷き詰めて、何を生めるつもりでおんのやお前は?」
挑発めいた物言いにもなんら動揺なく、マガツメは黙したままだ。
初めから答えるとも思っていない。落胆はなかった。ただこれで問答の必要もなくなり、染吾郎の次手も決まった
「ま……そろそろ始めよか」
構えたのは短剣、秋津染吾郎の切り札である。
相手の実力は未知数、ならば出し惜しみはすまい。
それに正々堂々戦う理由もない。初手から最大戦力をぶつけ、相手が全力を出し切らぬうちに息の根を止める。
対峙する鬼女は構えることなくだらりと手を放り出している。ただ目には明確な憎悪が宿っていた。
『……一つだけ訂正しておこう。私の狙いは野茉莉、だったか。あの気色の悪い小娘ではない。お前だ』
「は? 僕?」
『私の目的が知りたいのだろう? 教えてやる……“割に合わない”の』
意外な言葉に目を見開く。
見下し、口元を釣り上げ、侮蔑を込めてマガツメは語る。
『私には、あの人が全て。なのにあの人はそうじゃない。それでは、割に合わない。昔は違った。あの人にとっても私が全てだった。私を殺す為に全てを投げ出してくれた。なのに今は違う。周りに余計なものが多すぎる』
何を産もうとしているのか、そういう大局的な話ではない。
今回、何故動いたのか。その理由をマガツメは口にする。
今までの氷のような印象は一瞬で消え去った。熱情に浮かされた狂信者。もはや正気を失っているとしか思えない。
「なんやそれ。君は、あいつのことを殺そうとしとるんやろ」
『そう、殺すの。だってそうしないと私は前に進めない。あの人を殺して現世を滅ぼしてそうしなければ私の夢はかなわない』
無茶苦茶だ、染吾郎は思った。
支離滅裂すぎて何を言っているのかが分からない、故に怖気が走る。鬼女の纏う不気味な空気に背筋が寒くなった。
『あの人は私のことを憎んでいてくれればよかった。あの人が私を探してる私の為に強くなろうとしてる私のせいで苦しんでいる。あの人の全てを私が満たしている。蜜のように甘い幸福だ。なのに今は違う。割に合わない。私にとってはあの人が全て、ならばあの人もそう在るべきだ。だから再び逢った。でもそれだけじゃ足りない。娘も友人もいらない。私がいればそれでいい。あの人の目をこちらに向けなければ。なら傷付ければいい。そうすれば私を憎む、憎んでくれる。傷つけて傷付けて、他のことなんてどうでもよくなるくらい傷付ければあの人の目にはもう私以外映らない……その為に」
そうしてマガツメは、心からの愉悦に表情を歪める。
『今宵、あの人の全てを奪う』