『面影、夕間暮れ』・1
明治十六年(1883年) 五月
「どうぞ」
「ああ、すまないな」
荒城稲荷神社に立ち寄った甚夜は、拝殿の階段に腰を下ろし茶なぞ啜っていた。
隣ではここの神主の妻であるちとせが柔和な表情で彼を眺めている。
温めの茶を喉に流し、置かれた小皿に手を伸ばす。茶請けは磯辺餅、彼の好物だ。
ちとせは同郷であり、付き合いもそれなりにあった。甚夜の嗜好も理解していおり、こうして顔を見せると、いつも磯辺餅を出してくれた。
だからという訳でもないが、甚夜は時折荒城神社を訪れる。悪いとは思うが一息つきたい時には茶屋よりも居心地がよかった。
「今日はどうされました?」
「ちとせの顔を見に来ただけだ」
「もう、こんなおばさんをからかっては駄目ですよ?」
ゆるりとした笑み。小じわの目立つ、優しげな老淑女の顔だ。
葛野を出た時にはまだ女童だった。しかしいつの間にか、彼女は柔和な物腰の似合う歳になった。老いることのない身であればこそ、その変化を殊更重く、尊く感じる。
「大きくなったなぁ」
憧憬と寂寞が綯交ぜになったような不思議な心地に、気付けばそう零していた。
「いきなりどうしたんです、甚太にい」
「時が経つのは早いと改めて思わされた。昔は上手く敬語を使えなくてまごついていたお前が、こんなにも大きくなるのだから」
伸ばした手、くしゃりとちとせの頭を撫でる。それがくすぐったかったのか、恥ずかしかったのか、少しだけ目を細め困ったように彼女は笑った。
嫌がる様子はなく、手を払い除けることもしない。老淑女は頬を緩めた。既に五十近い彼女だが、幼いちとせの面影は確かに残っている。
変わるものと変わらないもの。重ね合わせれば不意に過る郷愁。思えば遠くに来たものだと、ちとせの笑顔に遠い故郷を想う。
とはいえそれも一瞬。手を離し、無造作に立ち上がる。
「馳走になった」
「いいえ。磯辺餅、いつでも食べられるように準備してますから」
僅かな名残さえ感じさせない。
互いに軽い別れの挨拶を交わし、甚夜は前を見据えた。
視線の先には鳥居を背もたれにして、ぼんやりと空を見上げる男が一人。古くからの友人である染吾郎が待っている。
「染吾郎」
「おぉ、もうええの? ほないこか」
黙って頷き、肩を並べる。
此処に来た理由は、本当にちとせの顔を見たかっただけだ。
あの娘は幼い頃それなりに同じ時を過ごした。妹の初めての友達だった。だからなんとなく会っておきたかった。
言葉少なく二人は歩みを進める。
区画整備がきっちりとなされた京の町は、人通りは多くても整然とした印象を受ける。賑わう商家で道は騒がしく、すれ違う人は朗らかに笑う。幕末の頃には考えられなかった光景だ。
「懐かしい、な」
不意に甚夜は零した。
楽しげな喧騒を余所に二人はしかめ面。目指す場所はあまり楽しい所ではない、自然と表情は曇った。
ただ昔を思い出しもする。随分前にもこうやって二人で怪異へと挑んだ。
「んん?」
「以前もお前とだった」
「ああ、そういやそうやな。何十年前や」
「さて。数えたことはない」
懐かしくはあるものの、そこに笑みはない。
胸中にはどろりとした憎悪。肺が焼け爛れ、逆流してしまいそうになる。それを懸命に隠しただ歩く。
顔に出なかったのは重ねた歳月故に。
しかし薄れることはない。この憎しみは心ではなく肉、感情から機能となった。
呼吸するように、腹が減るように、眠くなるように。ごくごく自然な生理機能として憎悪は湧き上がる。
拭い去る術は見つからぬまま、道の途中沢山の優しさを知って、尚も刀を捨てられずここまで来た。
「ま、感傷は最後でええやろ。今は目の前のこと片付けよか」
辿り着いたのは一軒の酒屋。
三条通にある、別段変わった所のない商家である。
「おこしやす」
裕福そうな身なりの、恰幅のいい男がにこやかに応対する。
この男は以前染吾郎に鬼の討伐を依頼したことがある。どうにも興が乗らなかった為、実際に討伐を買って出たのは平吉であるが、一応の面識はあった。
「これは秋津さん」
「お久しゅう。もうかっとる?」
「はは、それなりに。今日はどないな御用で」
「いやぁ、最近流行の酒があるって聞いたもんでなぁ。こら呑んどかな思て友人と顔を出させてもろたんやけど、置いとるかな?」
言葉に意味はない。あるという情報は既に掴んでいる。
態々荒城神社で待ち合わせをしたのは、染吾郎が先に調べ回っていたからだ。近頃流行の酒。半年ほど前から名を聞くようになり、今ではどこの酒屋でも取り扱っているという。
「流行の酒ですか」
その話を聞いたからこそ酒屋に足を運んだ。
染吾郎はちらりと横目で友人の表情を盗み見た。相変わらず固い鉄のよう、金属の冷たさを感じさせる。
しかし長い付き合いだ、その奥にある熱は容易に察せる
きっかり三秒間を取って、低い声で甚夜は尋ねる。
「ああ。“ゆきのなごり”……という酒があると聞いたのだが」
鬼人幻燈抄『面影、夕間暮れ』
その日の昼は偶にはいいだろうと、近場の牛鍋屋に足を運んだ。
店内は盛況、肉食文化もそれなりに根付いてきたようで、牛肉は気軽な外食として大衆に受け入れられていた。
「肉うまっ」
平吉はがつがつと肉を口に放り込む。
初期の牛鍋と言えば角切りの肉を味噌ダレで煮込んだものが一般的だった。肉の質が悪く、そうしなければ臭くて食べられたものではなかったからだ。
しかし大衆文化として浸透するにつれ肉の質も自然とよくなり、今では醤油や砂糖、出汁を合わせた割下に変化した。この店でも後者であり、それだけ肉の質が良いことを示している。
「平吉さん、凄い勢い」
「ははは、普段お師匠の趣味に合わせて薄味やからなぁ。こうゆうがっつりしたのは中々食えん」
次々と肉を平らげていくその様を見て、感心したように野茉莉は目をまん丸くしている。彼女も味は気に入っているようで、平吉ほどではないが箸は進んでいた。
それを眺めながら甚夜と染吾郎は酒をやり、時折思い出したように野菜や付け合せの漬物をつまんでいる。
「あぁ、マジでうまい。……そやけど、ええんか? ほんまに御馳走になって」
四人での食事を発案したのは甚夜で、支払いも彼が持つ。人の金で飯を食っているというのに、流石に食い過ぎたかもしれない。
散々食い倒して少しばかり不安になったのか、のんびりと杯を傾けている甚夜に向かって平吉が遠慮気味に問うた。
「ああ、構わん。子供が遠慮するな」
「俺、一応二十三なんやけど」
「酒をやらん男など子供で十分だ」
子供扱いが癪に障ったのか、若干平吉の表情が曇った。
しかし甚夜は取り合わず野茉莉の酌を受けている。娘が注いでくれたのだ、味は格別。それを抜きにしても辛口で香りも芳醇、悪くないどころか中々に良質な酒だ。
「それは言い過ぎやろ。ま、気持ちは分からんでもないけどな」
染吾郎は苦笑しながらビヤザケを煽った。
だが一口呑めば、むぅ、とあからさまに顔を顰める。舶来の技術を模して造られた酒らしいが、彼の趣味には趣味に合わなかったようだ。のど越しも苦味も悪くないが総じて“たるい”。もう少し切れ味のいい方が好みだった。
「なんやあんた、微妙に機嫌悪い?」
「そういうつもりはないが」
無表情も抑揚の小さい喋り方も普段と変わらない。
なのに今日はやけに素っ気なく見える。なんとなく引っ掛かって問えば、甚夜が何か言うより早く染吾郎はにんまりと口元を歪めた。
「あはは、平吉。こいつな、君と酒呑みたかったんや。そやけど呑めんいうから拗ねとるだけ」
「五月蠅いぞ、染吾郎」
じろりと睨み付けても軽く受け流す。
相変わらず好々爺然としながら食えない爺である。しかも正確に読み切っている辺り性質が悪い。
「それ、ほんま?」
「……否定はせんな。楽しみが増えると思っていたのだが」
「そら、あー、すまん、かった?」
酒が呑めない平吉にはその感性が分からない。だから抱いた感想は、こっちのことは放っておいて呑めばいいのに、くらいのものだ。
そういう考えが読み取れるから、染吾郎は仕方がないなと優しげに溜息を吐いた。
一緒に酒を呑みたいと思うことの意味に気付かないのだから、子供と言われても仕方がないだろう。
「やっぱ、まだまだ子供やね。ところで甚夜、そいつの味はどない?」
落ち着いた表情は変わらず、口調も何気ない。ただほんの刹那だけ染吾郎の目は鋭くなる。
甚夜は悠々と杯を傾けた。咽喉に酒を流し込めばじんわりと熱が広がり、風味も心地よい。
「辛口で切れのあるいい酒だ」
何ら普通の感想が返ってきて、染吾郎は顔を顰めた。
こちとら真面目な話をしているというのに期待外れの返答もいいところ、呆れて溜息を吐いてしまうのも仕方ないだろう。
「そうやなくてな?」
「……が、それだけ。“普通”の酒だな」
勿論甚夜とてこの友人が何を聞きたいかは把握しており、だから普通という言葉を強調した。
ちゃんと意図は汲んでくれたようだ。染吾郎も表情を引き締め直し、顎をいじりながら考え込む。
「そか、予想通りっちゃ予想通り。この酒が出回ってから半年、話もあんま聞かんしな」
呑んでいる酒の名は“ゆきのなごり”。
甚夜と染吾郎は近頃巷で名を聞くようになった“ゆきのなごり”について調べていた。
酒屋を周り現物も買い、問屋を調べ酒の流通、また実際に甚夜が呑んで中身を確かめても見た。
結果としては、ある一点を除いて特に何も出てこなかった。
呑んでみても普通の酒、正規の流通に乗って品は出されており、人が鬼になるといった類の噂もない。
駄目押しとばかりに牛鍋屋に置いてあったゆきのなごりを頼んでみるも、やはり質がいいだけで、呑んでも懐かしい風味はしなかった。
つまり今回の酒は名前が同じだけで以前とは別物である。
「染吾郎、どう見る?」
だからと言って何の関わりもないという訳でもなさそうだ。
瓶も記された文字も江戸の頃と全く同一。これを偶然と片付けることは出来ない。
なにより気になるところが一つだけあった。
当然ながら出荷元も調べたのだが、問屋から教えて貰った場所に酒蔵はなく、実際に行ってみれば既に打ち捨てられた屋敷へと辿り着いたのだ。
ご丁寧に、とでも言えばいいのか。どの問屋で聞いても件の屋敷へ繋がるようになっており、あからさま過ぎて失笑してしまう程の怪しさだ。
「誘い。噂の女からの結び文ってとこやな」
その物言いに甚夜は眉を顰める。
結び文は細く巻き畳んで、端または中ほどを折り結んだ書状。古くから恋文に使われた形式である。
噂の女というのは当然マガツメのこと。
屋敷の中までは調べていないが、間違いなくそこで彼女は待っている。
まったく嬉しくない逢瀬の誘い、だが同時に嬉しくもあった。
憎むべき者が態々こちらに出向いてくれた。そう思えば、にたりと猛禽のような笑みが浮かぶ。
「向こうからの誘いとは有難い」
「がっつく男は嫌われんで?」
「既に十分過ぎる程嫌われているさ」
明言はせず、二人だけが分かる会話を交わす。
そこに割り込んだのは、若干不機嫌そうに頬を膨らませた野茉莉である。
「……噂の、女?」
野茉莉は反芻する。父に近付く女の影、幼い頃はもう少し過敏に反応していたが、今ではそこまでではない。
それでも今更母親が出来るのは嬉しくないらしく、隠してもささくれ立った内心が微かに顔を覗かせる。
「あー、別に気にせんでええよ。艶っぽい話やないから」
「どちらかと言えば血生臭い」
二人が即座に否定すれば、安堵したのか柔らかく目尻を下げる。
代わりに血生臭いという言葉が引っ掛かったのだろう、今度は心配そうに声をかけた。
「なにかあるの?」
「探っている段階だ。そう心配するな」
甚夜は軽く答え何でもないことだと示し、最後の一杯を呑み干す。
食事時に話すことでもなかった。けちの付いた酒で締めもない。追加注文しようと手を上げれば、その手をやんわりと握った野茉莉に無理矢理下げられてしまった。
「お酒はもうおしまい」
めっ、とまるで子供の相手をするような窘め方。 それがよく似合うと思う。そう思える程に、彼女は大人になった。
長い髪は子供の頃と同じように桜色のリボンで一纏めにしている。しかしその面立ちから幼さは抜け、立ち振る舞いにも落ち着きがあった。
「いや、もう少しくらいは」
「呑み過ぎだよ。深酒は駄目だっていつも言ってるでしょう?」
野茉莉は二十歳になった。
対して甚夜の外見は十八の頃から止まったまま。
とうとう彼女は甚夜を追い越してしまった。
今では並んで歩いていても親娘かと問う者は誰もいない。こうやって四人集まれば、当然ながら甚夜が一番年若いと思われる。
恐れていた時がきた。
もはや彼らは親娘でいることはできないのだ。
「駄目ですよ、ちゃんとお姉さんのいうこと聞かないと」
しかしそれを悲しむことはなかった。
「おー、出た。野茉莉ちゃんのお姉ちゃん風」
「はい。今の私はお姉さんですから、弟が無理しないようにしっかり見ていないと」
からかうように染吾郎が言えば、ふふん、と勝ち誇った笑みを甚夜へと向ける。
野茉莉は人目のあるところでは彼の姉を自称し、家では今迄通り父様と呼んでいた。
父であることは変わらず、傍から見ても家族で在れるように、野茉莉は二つの態度で甚夜に接する。その心遣いを嬉しいと思わない筈がない。
「だから、甚夜。今日はもう止めとこうね?」
「ああ、分かった。姉上様」
「はい、よくできました」
茶化して姉と呼べば満足そうに何度も頷く。
形は変われども家族として在ろうとする二人の戯れ。それが染吾郎には眩しく見えて、光を避けるように目を細めた。
「野茉莉ちゃん、昔はかいらしかったけど、今はええ女になったなぁ。なあ、平吉?」
急に話を振られて、平吉は肉を喉に詰まらせる。
むせ返りそうになったが茶で無理矢理流し込み、呼吸を整え、何とか言葉を絞り出す。
「え、ええ。そですね。野茉莉さん、綺麗になった、と思います」
「ふふ、なんだか照れるなあ。ありがと、平吉さん」
返ってきた笑顔は本当に綺麗で、顔が熱くなるのを自覚した。
もっとも平吉にとってはそれが精一杯。小さい頃から知っていた仲良くもしているが、さん付けはまだ取れない。あと一歩が踏み出せず、仲のいい幼馴染というのが現状だ。
その遣り取りを見て、甚夜は重々しく口を開く。
「可愛いということも、いい女になったことも認めよう。確かに野茉莉は親の贔屓目を抜きにしても器量よし、気立てもよく家事に関してもそつなくこなす。その上で男を立てる、夕暮れに咲く花のように淑やかな娘だ」
「出たな野茉莉ちゃん至上主義者」
染吾郎の揶揄もなんのその、堂々と言ってのける。親馬鹿どころか馬鹿親丸出しの発言だ。
ただ諸手を挙げての称賛にはにかむ辺り、娘の方も似たようなものではあった。
「も、もう父様まで」
「事実だ」
「ふふ……」
照れたせいか姉としての態度も崩れてしまう。
この親娘の仲の良さは店の常連客には有名で、鬼そばの名物となっていた。紆余曲折を間近で見てきた染吾郎にとっては相変わらずの二人が微笑ましくもある。
「ただ、な」
「お、珍しい。なんかあかんとこでもある?」
「いや、まあ、なんだ」
退魔と鬼。
初対面の時こそ多少やり合ったが、今では長い歳月を共にした親友同士だ。
考えることなんぞ粗方予想はつく。言い淀む甚夜を見てぴんときたのだろう、染吾郎はからからと笑いながら言わんとした言葉の先を取った。
「ははん、分かった。そろそろ嫁の貰い手を探さんとな、てとこやろ」
ぴしり、と空気が凍り付いたのは気のせいではないだろう。
見事に図星を突かれた甚夜と同じく、照れ笑いのまま野茉莉も固まっている。
江戸の頃、女性の結婚適齢期は十五から十八。明治に入っても十七から十九まで。明治後期になると早婚の弊害が説かれたため二十歳を過ぎる例も出てきたが、大抵は親が二十歳までに結婚させてしまう。
二十歳を過ぎても未婚のままでいる女性は、奇異な目で見られるのが一般的だ。
野茉莉は今年で二十歳。行かず後家と言われてもおかしくない年齢に差し掛かっていた。
「秋津さん、何か、仰いまして?」
困惑し、戸惑いに視線をさ迷わせる。
わなわなと震えた唇で、たどたどしく紡ぐ言葉。何とも頼りない声は、自分でも少しばかり意識していたからだろう。
「いや、そろそろ年齢がな? 女の子は早め早めの方がええと思うたんやけど」
「うぅ」
歯に衣着せぬ物言いがちくちくと刺さる。
非常に失礼ではあるが言っていること自体は間違っていない。
野茉莉の歳なら子供がいる女も珍しくないし、体への負担を考えれば出産は早い方がいいのも事実。少なくとも一般的にはそういう考え方が普通である。
「父親としては、嫁に行かれるのは寂しい。家にいてくれるのは嬉しいと思うが」
「う、うんっ、そうだよね?」
「そやけど相手が一人もいないってのは流石にあれやろ?」
一応擁護しようとするも、今度は親娘共々何も言えなくなってしまう。
染吾郎の言は甚夜の内心でもあった。
今更ながらおふうを嫁にしないかと言い続けた店主の気持ちが分かる。可愛い娘、手放したくないとは思うが、適齢期を過ぎても相手がいないというのは確かに心配だ。
「でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。あは、あはは」
顔の筋肉をぎこちなく引きつらせて、乾いた笑いを垂れ流す野茉莉。そこに染吾郎は追い打ちをかける。
「そんなら、平吉はどや?」
「お師匠っ!?」
「なに言ってるんですか秋津さん!?」
突飛な提案、しかし今度は口を挟まなかった。
大事な娘が嫁に行くのは複雑な心境だが、それでも平吉なら信は置ける。案外悪くないかもしれない。そう思って止めなかったのだが、予想以上に二人は混乱している。
「そ、そういうのは、ほら! 平吉さんも迷惑だと思いますし、ね?」
「いやっ、迷惑とは思わんけども」
「えっ!?」
慌てふためく様を甚夜はじっと観察する。
平吉は言わずもがな、野茉莉も顔を赤くしている。お互い憎からず思っているのは間違いない、筈。とはいえ如何せん性急すぎたらしい。互いに照れ、戸惑い、ずれた会話を繰り返すのみだ。
「あちゃー、やってもったな」
「そうだな」
わたわたと落ち着かない二人を放置し、甚夜は手酌で残ったビヤザケを盃に注ぎ軽く煽る。
染吾郎は気に入らなかったようだが、呑んでみればそれなりにいける。個人的にはもう少し辛口が好みではあるものの、喉越しはそれほど悪くはなかった。
「あら、怒らんの? うちの娘に何しとるー、くらいは言うかと思たんやけど」
騒ぎを余所に酒を呑んでいるのが不思議だったらしく、染吾郎は首を傾げている。
持ち出した話は場を混乱させることしか出来なかった。しかし怒る気にもなれないとビヤザケを呑みながら甚夜は苦笑する。
「友人の気遣いを叱責するような真似は出来ん」
「なんや、ばれとる?」
「いい加減付き合いも長いからな」
だからこの友人の分かり難い気遣いも察してやれる。
父親として娘を心配するのは当然。年齢が年齢だ、結婚相手に関しては甚夜も気を揉んでいたのだが、野茉莉の心情を慮ればこそ今一つ踏み込み切れずにいた。
とはいえいつまでも放っておく訳にもいくまい。
今日の席を設けたのはその為。そもそも甚夜こそが、それとなく「そろそろ結婚でも考えてはどうだ」と促すつもりだった。
「済まない。道化をやらせた」
「僕が勝手にやったことやけどね」
「それでも感謝くらいはさせてくれ」
しかし娘に甘い父親ではあまり厳しいことも言えないだろうと、染吾郎は茶化しながらも代わりに色々と指摘してくれたのだ。
本当に、有り難い友人である。
結果として上手くはいかなかったが、これで踏ん切りは付いた。
「一度、腹を割って話してみようと思う」
「そやな。その方がええ」
ちゃんと野茉莉と話そう。
父としては、娘が離れていくのはやはり寂しい。けれどあの娘の為にも避けては通れない道だ。
甚夜は重々しく頷き、反して染吾郎はにやりと口の端を釣り上げる。
「ま、野茉莉ちゃんはええ女や。多分君が思っとるようにはならんけどな」
それが意味するところはよく分からない。
ただ染吾郎には結末が見えているのか。やけに上機嫌な彼は、心底面白そうにからからと笑っていた。
◆
あくる日の夜。
夕食を終えた親娘二人は、居間でのんびりと茶を啜り寛いでいる。
近頃では食事は野茉莉が作るようになった。腕前も中々で、今では炊事掃除洗濯、糠床の管理まで彼女がこなしている。
流石に悪いとは思うのだが、「私だって作れるようになったんだから」と頑として譲らない。結局やれるといえば食事の後片付けを手伝う程度になってしまった。
「有難くはあるが、お前にばかり負担をかけるのもな」
「駄目。こういうことはお姉さんに任せて。ね?」
まったく都合のいい。娘と姉を上手く使い分けるものだ。
此処で言う“都合のいい”は野茉莉にとってではなく、甚夜にである。彼女は娘と姉の立場を使って、極力甚夜の負担を減らそうとする。そういう気遣いが出来る大人に育ってくれた。
しかし手放しに喜んでいる訳でもない。
娘の成長が嬉しい反面、申し訳ないとも思ってしまう。
この娘は父を気遣い過ぎる。もう少し自分を優先しても罰は当たらないだろうに。
───でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。
当たり前のように紡がれた嘘。
親の贔屓目を抜きにしても、野茉莉は器量よしで気立てもいい。引く手数多とまでは言わないが、その気になれば相手などいくらでも作れただろう。
そうしなかった理由など考えるまでもない。
それは偏に父を慮ればこそ。
老いることの出来ない父と、少しでも長くいようと彼女は努力してきてくれた。嫁に行こうとしなかったのも、そう意図があったのだと本当は知っていた。
「なぁ、野茉莉」
「はい?」
けれどそれに甘えたままではいられない。
お茶を楽しみながら愛娘は嫋やかに笑う。
その柔らかさに躊躇い、それでも彼女を想うならば言わなくてはならない。
「いいんだぞ、無理をしないでも」
穏やかな声に空気が固まる。
野茉莉に動揺はなかった。落ち着き払った様子を見るに、なんと続くかを既に察しているのだろう。彼女はただ黙って甚夜の言葉を待ってくれていた。
「お前もそろそろ、結婚を考えてみないか。相手がいないというのなら見合いでもどうだ? なに、これでもそれなりに伝手はある。お前の希望に沿う相手を探そう」
江戸で生活していた甚夜にとっては、それが普通である。
野茉莉が望むならば恋愛結婚も構わないが、そうでないのなら見合うだけの人物を探すのは父たる己の役目だ。
「いや、探さなくとも宇津木がいるか。あれは、いい男に育った。気心も知れているだろう、相手としては申し分ないと思うが」
娘は何も言わなかった。
沈黙は焦燥を掻きたてる。捲し立てるように口を開くのは、一度止めてしまえば二の句を告げられなくなると思ったから。この熱が冷めるまえに、伝えておかなくてはならない。
「二十歳を過ぎれば相手を探すのも難しくなる。考えるなら頃合だと」
「……なんで?」
けれどその途中、野茉莉はか細い声で言葉を遮る。
やはりそこに動揺はなく、しかしほんの少しだけ瞳は寂寞に揺れていた。
「なんで、そんな話するの? 私のこと邪魔になった?」
抑揚なく紡ぎだされたのは、心の奥底にあった劣等感だ。
血が繋がっていない。幼い野茉莉はその事実にずっと怯えていた。
いつか自分が嫌われた時、捨てられるのではないだろうか。その想像が彼女には何よりも怖かった。
「馬鹿なことを。そんなわけがないだろう」
「なら、なんで?」
でも今は違う。
血が繋がらなくても家族になれると知っている。父はちゃんと愛してくれているのだと分かっている。
だからこそ何故父が今更そんな話をするのか理解できない。
いや。それも、きっと違う。
多分なんとなく理解しながらも、彼女は認めたくなかったのだ。
「お前が結婚しようとしない理由は、私だろう」
身構える野茉莉に甚夜は困ったような静かな笑みを落した
口にした言葉は、まぎれもない真実だった。
「とう、さま」
「分かるさ。お前が私を慮り、家族であろうとしてくれていることくらい分かっている。それが嬉しくて、甘えてしまった。……だが、それはいけないのだと思う」
鬼の寿命は千年を超える。
しかし人は五十年もすれば消えてしまう。野茉莉がどれだけ努力しても、家族でいられるのはほんの刹那でしかない。
その刹那の為に、彼女の幸せを犠牲にはしたくない。
家族だと、自信を持っている。
そう思えるだけのものを、野茉莉は与えてくれた。
ならばそれでいい。自分は十分に救われてきた。
今度は、こちらが彼女の幸せを祈る番だろう。
「離れたとて家族であることに変わりは無かろう。だから無理はしなくていい。結婚し、子を産み、緩やかに生きる。女として当たり前の幸せを得てもいいんだ、お前は」
胸を過る空虚を今は見ないふりして、ただ優しく語り掛ける。
野茉莉は俯き肩を震わせていた。それも一瞬だけ、すぐに顔を上げ、揺れる瞳で甚夜を射抜く。
泣いているのだと思ったが、どうやらそうではないらしい。僅かに潤んではいるが、そこは決意の色があった。
「父様……私、もう子供じゃないよ」
震える声に、込められた心。
真っ直ぐ視線は逸らさない。もう子供ではないと、態度で示そうとしているようだ。
「自分の道くらい自分で選べる。それとも、そんなことも出来ないように見える? そんなに私って頼りない?」
「そんなことは」
「なら、そんなこと言わないで。父様が私のこと心配してるって分かってるよ。でも、私も、私だって……」
野茉莉は一瞬口籠る。けれど首を横に何度か振って、無理矢理に自分を奮い立たせる。
濁してはいけない。伝えたいことははっきり口にしないと。懐にある福良雀が、そう教えてくれた。
「私は、父様の娘で、姉で、いつか母親になるの。そうするって自分で決めた。それが幸せじゃないなんて、間違ってるなんて言わないで」
「野茉莉……」
「大丈夫。将来のことだってちゃんと考えてるよ。だから、もう少しだけ好きにさせて欲しいな」
精一杯の笑顔で紡ぐ強がり。
ちゃんと笑えただろうか。自信はなかったが、野茉莉は胸を張る。
幼かった娘は、そうやって我を張るだけの強さを手に入れた。
それが甚夜には嬉しく、同時に少し寂しく。
けれど思う。この娘は本当に大きくなった。浮かべた笑顔の眩しさに、少しだけ安堵を覚えた。
「済まない。お前の気持ちを考えていなかった」
「ううん、それだけ私のこと心配してくれたんだよね。……今更だけど、父様が私に甘いっていうの実感出来ちゃった」
ぺろりと舌を出しておどけて見せる。
釣られた甚夜も表情を柔らかくして、親子二人のんびりとした空気が戻ってくる。
本当は、誰かの妻となり、穏やかに老いていく、そういう生活を選んでほしかった。
マガツメに繋がる道を見つけた今、余計にそう思ってしまう。
きっと野茉莉が止めたとしても、甚夜はマガツメの下へと向かう。
それだけが全てで、そういう生き方をしてきた。
だからこそ愛する娘には平穏を生きて貰いたかった。
結局それは叶わなかったが、悪くはない。
野茉莉が娘でいてくれる。
それを心から誇らしく感じられた。
それでも生き方は変えられない。
明日、彼は打ち捨てられた屋敷へ踏み入る。
マガツメとの邂逅は、すぐそこまで近づいているのだ。