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『鬼と人と』・4(再)




 いつものように、てをつないで、ふたりいえじをたどる。




 ◆




「そやけど、イマイチ分からんな」


 ここ数日足繁く通う廃寺の本堂に座り込んだまま平吉はふと呟く。

 視線の先には子供のようにあんぱんを頬張る癒しの巫女様の姿がある。

 明るい性格で甘い菓子が好きで、なにより無邪気に笑う。大仰な肩書きとは裏腹に巫女を演じていない時の東菊はごく普通の娘だ。


「なにが?」

「記憶の消去・改変なんて<力>で、ついた通り名が癒しの巫女。なんでやろなーと思て」


 分からないのは彼女のこと。

 傷を治したり病を癒したり、癒しの巫女はそういう<力>を持っているのだと思っていた。

 しかし実際は治癒的な要素などまったくない。純粋に、何故彼女が癒しの巫女と呼ばれたのか気になった。


「んー」


 最後の一欠片をこくりと飲み込み、口元を拭ってから東菊は考え込む。

 意識してはいないのだろうが、白く細い指の触れる唇がなんとなく艶めかしく、思わずじっと見つめてしまう。


「例えば、私と宇津木さんが恋人同士だとするよね?」 

「こっ、こいび……!?」

「だから、例えば!」


 だから突拍子もない発言にも、必要以上に反応してしまった。

 それでなくとも相手は美しい少女。例え話でも恋人という単語は青年を慌てさせるには十分過ぎた。

 自身の想像に照れて平吉はあちらこちらと視線をさ迷わせる。そういう態度に言った本人も恥じらい、僅かに頬を赤く染めていた。


「で、もし私が誰かに殺されたら、どう思う?」


 微妙な空気を振り払うようにこほんと咳払い、東菊は冷静なふりをして話を続ける。

 それが冗談の類ではないと感じたから、多少の動揺はあれど平吉も深呼吸一つ、気を落ち着けてしっかりと答えた。


「……そら、多分殺した奴を恨む」


 不愉快な仮定に顔を顰める。

 彼は父母を鬼に殺された。大切なものを失う痛みは実感として胸にある。目の前で絶命する東菊の姿が容易に想像できてしまったせいか、声色は重く冷たい。


「うん、それが普通だと思う」


 どうやら答えは間違っていなかったらしく、東菊は満足げに頷いた。 


「恨んで、どうにもならないって知ってるから苦しんで。毎日毎日なんで大好きな人を守ってやれなかったんだろうって嘆きながら暮らすの」

「嫌な話やな」

「そうだね。……でも、もし私が病死とか寿命とか、そういうどうにもならないもので死んだら? きっと悲しいけど、仕方のないことだからって諦められるんじゃないかな」

「そりゃあ、まぁ」


 それは、確かに。

 殺されたのでなければ恨む相手は神様くらいのもの。天寿を全うできたなら、悲しみこそすれ後悔はないだろう。

 と、そこまで考えてようやく納得がいった。


「ああ、そうゆうことか」

「分かってくれた? 私の<力>じゃ死んだ事実は変えられないけど、原因の記憶を改変したり消去したりすれば、“納得できる”ようにはしてあげられる」


 癒されぬ傷ならば忘れてしまえばいい。

 目を背けて取り繕って、そうすれば痛みを感じることもない。

 比喩ではなく、彼女にはそういう真似ができてしまう。


「例えば恋人が死んだとしても。一緒に過ごした思い出や大好きって気持ちを忘れてしまえるのなら、きっと貴方は別れを悲しまないよ」


 大切な想いを失くす代わりに別離の痛みも消し去る。

 それを為すのが彼女の<力>。

 東菊は儚げな微笑みを浮かべて締め括る。


「だから私は東菊。誤魔化しのような癒ししか与えられない、中途半端な巫女にございます」


 おどけて見せても瞳に宿った悲しげな色は消せない。

 本当ならば救ってやりたいのに、それが出来ない。

 抱く理想に今一歩届かぬ己。その嘆きは平吉がいつも感じている焦燥とよく似ていた。


「ひと時の慰みを与える花ってわけか……」


 ああ、そうか。彼女は本当に東菊なのだ。

 美しい景色を忘れさせることでしか癒せない巫女。

 その在り方はまるで、栄華の終わりに流された地で侘しさを慰める都忘れの花のよう。

 蕎麦屋の店主の言を真似てみれば、少女は意外そうに目を見開く。


「……意外、よく知ってたね?」

「おう、まあ、な。東菊って、えーと、都忘れ……の別名、なんやろ? 風流な女やな」

「風流な女、か。ふふ、そう言われると私の名前も悪くないね」


 どうやら少しは気が紛れたようだ。無邪気に笑う東菊を眺める。

 寛いだ様子に平吉は安堵の息を吐き、しかし表情を僅かに強張らせた。

 彼女の話には引っ掛かるところがあった。

 記憶を消去・改変することで癒しを与える巫女。

 東菊は探し人をしているのに、その相手を知らないと語る。


「なあ、もしかして」

「うん?」


 返ってきたのは、やはり無邪気な微笑み。


「いや、すまん。なんもない」

「そう?」


 だから聞けなかった。

 もしかしてお前が探し人を知らないというのは。

 そこに耐えがたい何かがあったからじゃないかなんて、聞ける筈がなかった。


「なんなら宇津木さんも経験してみる?」


 一瞬なにを言われたのか分からなかった。

 話の流れの冗談、或いは本気の気遣いか。どちらにせよその申し出をうまく呑み込めず、平吉はぎこちなく頬の筋肉を引きつらせる。


「だから、辛い記憶とかがあるなら消してあげられるよ?」

「……やめとく。なんや、ちょっとあれやし」


 たっぷり数十秒使ってなんとか返答を絞り出す。

 得体の知れない<力>に身を任せるのは流石に怖い。しかし素直に怖いと言うのも情けない気がして、軽く笑って誤魔化した。


「そう?」


 東菊もそれ以上勧めることはしなかった。

 廃寺の本堂には沈黙が訪れ、だから平吉は少しだけ考えた。

 記憶の改変。

 確かにそれをすれば楽にはなるのだろう。

 或いは父母の死を消せれば、という思いが無かったと言えば嘘になる。

 だけど実際にその<力>が信用できるものだとして。


 自分は、悲しかった記憶を無かったことにするのだろうか。


 考えても答えは出ず、平吉は何をするでもなく、しばらくの間東菊の寂しそうな横顔を見詰めていた。






 鬼人幻燈抄 葛野編『鬼と人と』・4(再)






 どれだけ歳月が流れようとも、忘れ得ぬ景色がある。




 ───甚太、私ね。いつきひめになるんだ。



 戻川を一望できる丘に二人佇む。



 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。

    私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。



 幼さの消えた横顔。彼女の瞳は何を映しているのだろう。

 きっと流れる水ではなく、もっと美しい景色を見ているのだと思った。



 ───でも、もう会えなくなるね。



 白雪は知っている。

 それが別れを意味すると知りながら、他が為に生きる道を選んだ。

 自分の想いよりも拘った生き方を優先する。

 そういう、不器用な女だった。



 ───なら俺が会いに行くよ。



 だから自然、そう口にしていた。

 甚夜は───“甚太”は幼馴染の少女を、その時初めて美しいと感じた。

 出来れば彼女には彼女自身の幸福のために生きてほしいと思う。彼女の母は巫女であったが為に命を落とした。その顛末を知れば尚のことだ。

 だが白雪は母の末路を知りながら、それでも同じ道を歩むと言った。他が為に在ろうと、幼さに見合わぬ誓いを掲げた。

 美しい、と。

 その在り方を美しいと感じ、だからこそ守りたかった。 



 ───今はまだ弱いけど。俺、強くなる。



 子供の発想、けれど真剣だった。

 強くなれば、どんなことからも彼女を守れると思った。



 ───強くなってどんな鬼でも倒せるようになる。そうしたら巫女守になって会いに行くよ。



 紡ぐ言葉は祈りのように。

 強くなりたいと。彼女の強さに見合うだけの男でありたいと、心から願う。



 ───その時には。俺が、お前を守るから。



 静かに白雪は涙を零した。

 その涙の意味を知ることは幼い甚太には出来なかったけれど。

 彼等は、確かに通じ合えた。



 ───ね、甚太。おかあさんはいつきひめになってからおとうさんに会って、それで結婚したんだって。



 そして想う。

 二人なら、遙かな道もきっと越えていける。



 ───私はいつきひめになって甚太を巫女守に選ぶから。



 風が吹いて、木々が微かにざわめく。



 ───甚太は、いつか私のことをお嫁さんに選んでね。



 遠い夜空に言葉は溶けて、青白い月が薄らと揺れる。

 森を抜ける薫風は、するりと指から零れ落ちるように頼りなくて、ほんの少しだけ切なくなった。だから二人はどちらからともなく手を繋ぎ、言葉もなく空を眺めた。

 言葉と一緒に心まで溶けていきそうな、そんな夜だった。






 今も忘れ得ぬ原初の想い。

 俺は白雪が好きだった。

 それが、“甚太”の全てだった。




 ◆




「………白……雪?」


 無意識の内に彼女の名を呼ぶ。

 らしくもなく動揺していた。失くした筈のものが、目の前にある。その事実に心が震えている。

 起因する感情は歓喜か、暗鬼か、或いは在り得ぬ今への恐怖だったのか。

 いったい何に心を動かされたのか、自分でも理解できない。


「どうしたの?」


 明らかに動揺している幼馴染を白雪は不思議そうに見つめている。

 それが記憶に残る初恋の人の面影と重なって、微かに指先が揺れた。


「……いや、少し寝ぼけていただけだ」


 けれど手を伸ばすことはない。

 ほんの数秒で平静を取り戻し、普段通りの顔を作って見せる。

 甚夜は郷愁に駆られながらも思索を巡らせていた。

 驚愕も動揺もあった。しかし積み重ねた歳月により育まれた警戒心がそれを上回った。

 何があったのかを思い起こす。そうだ、逆さの小路に入った途端、黒い影に襲われ、気が付けば布団で寝ていた。

 起こしに来たのは、白雪だった。 

 あの影が原因と考えて相違ない。白雪には気付かれぬよう自身の状態を確認する。

 呼吸正常。意識ははっきりしている。痛めたところはない。

 左腕。僅かに力を込め、違和感に奥歯を噛む。


“ない”。


<同化><剛力><隠行><疾駆><犬神><飛刃><空言><不抜><血刀><地縛>。

 取り込んだ筈の<力>を感じ取れない。これは鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕ではなく、単なる人の腕だ。鬼と化すことも出来ない。 


 つまり、記憶はあるがこの身は“甚太”なのだ。


 そして目の前に白雪がいる。

 考えられる可能性。

 空言、合貝の付喪神……幻覚、幻影。

 おふうの<夢殿>……過去視。

 狐の鏡……時間逆行。

 或いは記憶に干渉する<力>か。

 これまでの経験と照らし合わせながら現状を理解しようと努めるも、如何せん情報が少なすぎる。仮説にすらならない想像を棄却し、穏やかな声で未だきょとんとしたままこちらの様子を伺う白雪へ話しかける。


「何でもない、気にするな」

「それならいいけど。さ、ご飯食べよ?」


 お腹の辺りを手で摩り、待ちきれないとでも言わんばかりの振る舞い。そのおどけた所作を懐かしいと思った。

 納得した訳ではないだろうに、白雪はそれ以上何も聞いてこなかった。

 昔からそうだった。白雪はこちらが隠したいと思っている所には、それを十分理解しながらも踏み込もうとしない。隠し事があると気付いていても、話せるようになるまで気付かないふりをしていた。

 無理に聞かなくとも、心の整理がつけば話してくれると信じてくれているから。信じられるくらいに、二人は同じ時間を過ごしたのだ。

 忘れかけていた距離感に胸が詰まる。だから現状を理解している訳ではないが、それでも穏やかな心持になれた。


「そうだな、準備しよう」


 懐かしさに心が鈍ったのかもしれない。

 甚夜は当たり前のように、なんの警戒もなく白雪の隣に立っていた。




 ◆




「せっかくひめさまが来たんだから、もっとおいしいの出せばいいのに」


 起きてきた鈴音を含め三人で朝食を始める。

 いつも通りの麦飯と漬物が不服なのか、鈴音は頬を膨らませていた。


「にいちゃん、どうしたの?」


 反応が無いことを疑問に思ったのか、幼い鈴音が見詰めている。

 それを、平静な心持で見つめ返す。

 見つめ返せたことに、違和を覚える。あれだけ己を苦しめた、既に機能となってしまった憎悪。しかし何故か、鈴音を前にしても憎しみが湧き上がってこない。だから甚夜は戸惑っていた。


「なんでもない。気にするな、鈴音」


 そう穏やかに言えたのは憎しみが無いから。

 つまりは“まだ何も起こっていないから”だ。

 頭ではこの娘が白雪を奪ったと知っている。けれど憎悪はない。楽しそうに笑う鈴音を受け入れ、頭を撫でてやれる程度には余裕があった。


「ほんと、甚太はすずちゃんには甘いよね」

「そうでもないさ」


 兄妹の遣り取りに白夜が半目でぽそりと呟くが、否定は間髪を入れず零れる。

 妹を殴り殺そうとした男のどこが甘いのか。

 そう考え、しかしそれもまた起こっていない出来事だと気付く。

 鈴音はマガツメではなく、甚夜は未だ甚太であり。ここにはそもそも憎しみの入る余地が無いのだ。


「えー……」


 逡巡を余所に鈴音は声を漏らす。

 不満げ、ではなく信じられないとでも言いたげだ。妹からしても兄は随分と甘く見えているらしい。


「あ、すずちゃんもやっぱり甘いと思う?」

「うん、だってにいちゃんだもん」


 まったく理由になっていないが、白雪はそれで納得してうんうんと頷いている。肩を寄せ合ってひそひそと話す二人はまるで姉妹のようだ。


 その暖かさに、視界がが滲む。


 甚夜は食卓を眺めながら、静かに息を吐いた。

 飯と漬物だけの朝食を、だけど笑顔で頬張る白雪と鈴音。


「にいちゃん、どうしたの?」


 不思議そうに小首を傾げる妹。

 その無邪気な仕種が、本当に無邪気だから、甚夜は泣きたくなった。


「なんでもない」

「えー、でも」

「本当に、なんでもないんだ」


 上手く笑えなかった。まだ頭が、心が現状に追いついていない。

 自ら捨て去ってしまった幸福が、目の前にある。

 今は遠き“みなわのひび”。

 あの頃の甚太の世界は狭く、だからこそ完成されていたのかも知れない。

 兄として妹を守る。

 巫女守としていつきひめを守る。

 それだけが全てで、それでいいと思っていた。

 なのに、どうして────


「さ、そろそろいこっか?」


 わざとらしく柏手を打ち、白雪はすくりと立ち上がった。

 袋小路に迷い込んだ意識が急速に覚醒する。

 何を考えていたのか。

 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。分かっていた筈だ。

 醜態を恥じ、甚夜は自嘲し溜息を零した。そして何事もなかったように問いかける。


「何処へ?」

「どこへって……昨日も言ったでしょ?」


 白雪が見せたのは、何処か涼やかな微笑みだった。


「伝えたいことがあるんだ。とっても大切なこと。だから今日一日、私に付き合ってくれないかな?」


 絞り出すような、小さな願い。

 はにかみ、嬉しそうで。しかし鮮やかな喜びは直ぐに消え失せる。

 白雪は瞳に一抹の寂寞を滲ませ、そっと瞼を伏せた。

 だから甚夜は気付いた。

 いつきひめは社から出ず、ただ神聖なものとして在り続ける。

 なのに、白雪が此処に居る理由。

 ようやく分かった。



 ────これは、あの日の再現なのだ。











「いってらっしゃーい」


 朝食を終えれば白雪に急かされ出かける準備を整える。

 玄関で見送るのはあまりにも元気な鈴音だ。妹はにこにこと笑顔を絶やさない。


「鈴音……何か嬉しそうだな」

「うんっ! だって、にいちゃんは今日一日ひめさまと一緒なんでしょ? だからすずも嬉しいの」

「何故それが嬉しい」

「すずはにいちゃんが大好きだもん。だからにいちゃんが幸せだと嬉しいの」


 思い出す。

 遠い雨の夜、何もできなかった。だけど妹は、傍にいてくれればいいと笑ってくれた。

 この娘の言葉に、笑顔に、どれだけ救われたか分からない。 

 いつだって鈴音は自分の寂しさを押し殺して、笑っていたのだ。


「そう、か。済まない、留守を頼む」

「うん、たのしんできてねー」


 ぶんぶんと手を振って見送ってくれる鈴音に軽く手を挙げて応える。


「ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」


 白雪は呑気にそんなことを呟く。

 しかし甚夜の内心は深く沈んでいた。二人でこれから集落を歩くというのに、心が浮き立つことはない。

 知っているからだ。

 日が暮れる頃には、明確な終わりが待っている。

 甚夜はそれを知っていた。







 のんびりと集落を見て回る。

 二人手を繋いで歩く。すれ違う人々は好奇の視線やからかいの言葉を投げかける。

 白雪は見せつけるように甚夜の腕を取り、体を寄せる。満面の笑顔。仲睦まじく寄り添う。鼻腔を擽る彼女の香に少しだけ頬が熱くなった。

 如何なる怪異によってこの状況が引き起こされたかは分からない。

 けれど彼女と再び会えた。それを嬉しいと思わない筈がなかった。


「あ、甚太様! いらっしゃい……ませ?」


 二人が訪れたのは葛野に一軒だけある茶屋だった。

 本来タタラ場に茶屋があること自体が珍しく、殆どの集落にはないだろう。しかしこの茶屋は、初代の巫女守が「せめてもの娯楽を」と建てさせたものらしい。所以はともあれ、今ではこの茶屋は集落の数少ない憩いの場となっていた。


「ちとせ、邪魔するぞ」


 茶屋の娘、ちとせは目を丸くしてこちらを見ている。

 甚夜は思わずくすりと笑った。まだ小さいちとせ。彼女はこれからいつきひめとなり、国枝航大と結婚することになる。その行く末と幼げな表情の差異が面白かった。 


「あの、その方は?」

「知り合いだ。それ以上は聞いてくれるな」

「はぁ」


 白雪を見てちとせは問う。

 あの時と同じ問い。記憶をなぞり、あの時と同じ答えを返す。納得がいったのか、いかないのか。ちとせは微妙な表情で首を傾げている。


「あ、と。すみません。ご注文は?」


 茶と団子を頼み、待つ間は談笑して過ごす。

 しばらくするとちとせが木の盆に湯呑と小皿を乗せて戻ってくる。


「磯辺餅。お好き、でしたよね?」


 白雪には団子を、甚夜には磯辺餅を差し出しはにかむ。

 懐かしい。磯辺餅は昔からの好物だった。


「覚えていてくれたんだな」


 今も、そして何十年と経っても。

 それが嬉しかったから、表情はいつもより柔らかい。


「はいっ。ちょうどもらい物があったんで、折角ですから」

「済まん、有難く頂こう」

「いえ、ゆっくりして、いってください」


 小さくお辞儀をしてまた店の中に戻っていく。懐かしい遣り取りに心が満たされていく。

 当時は気付かなかった。けれど葛野で過ごした何気ない日常はこんなにも幸せだったのだと、改めて思い知らされる。


「甚太だけ特別扱いされてるー」


 白雪は団子を食べながら不満そうに頬を膨らませている。そんな彼女の膨れ面さえ愛おしく思える。

 だからこそ彼は目を伏せた。

 自分はこれを自ら斬り捨ててしまったのだと。


「変わらずにはいられないものだな」


 あの時と同じ言葉を、違う意味で呟く。

 白夜は何も返さなかった。それが何故かは、考えても分からなかった。






 集落をただ歩きくだらない話をした。

 目的などない。元々娯楽の少ない集落だ。然して楽しめる場所などないが、それでも 久しぶりに外を歩くのが楽しいのか白雪はいつになくはしゃいでいる。

 それに引き摺られる形ではあるが、甚夜もまた幼い頃に戻ったように。

 否、実際に過去へと戻ったような心地になっていた。


 ただ一つだけ気にかかる。


 ゆっくりと沈む日、もうすぐ辺りは夕暮れの色になる。

 終わりは、直ぐそこまで近づいていた。

 そうだ、甚夜は知っている。

 これから戻川を一望できる丘へと向かい、互いに想いを伝えあい……二人は終わりを迎える。 

 近付く別れに自然と甚夜の足は前へ進むのを躊躇い、立ち止まってしまった。 


「甚太?」


 心配そうに声を掛けてくれる白雪。

 耳には入っていたが、何も返せなかった。

 頭にあるのは“これから”のことだけだった。


 別れを間違いと思ったことはない。

 自分の想いよりも自分の生き方を取る。

 そういう不器用な二人で、二人は何処までも同じだから、結局のところ別れは必然だったのだろう。


 けれど時折思い出し、ほんの少しだけ考える。

 もしもあの時彼女の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。

 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。

 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もないと。斬って捨ててきた。

 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残った。


 だけど、と思う。


 甚夜は“これから”別れの場所へと向かう。

 まだ何も起こっていない。“甚夜”も“マガツメ”もこの世にはおらず、白雪と離れることもない。

 変えられる。

 惚れた女を守れず、大切な妹を憎み、ただ力だけを求めた無様な鬼人。

 その間違えた生き方も、“これから”なら覆すことが出来るのだと、気付いてしまった。


「なんでもない……行こうか」


 感情の乗らない声。

 それきり二人は黙り込んで、気付けば夕日が辺りを橙色に染めていた。




 ◆




 散々歩き倒して火照った体を冷まそうと集落を離れる。

 辿り着いたのは戻川を一望できる小高い丘。いつか、二人で遠い未来を夢見た場所だった。


「風が気持ちいい……」


 真っ白なその肌を夕暮れの風が撫でている。

 通り抜ける風の優しさに黒髪は揺れて、ざぁ、とさざ波のように木々が鳴いた。


「今日はありがと」

「いや、私も楽しんだ」

「そっか、それならよかった。また私の我儘に付き合わせちゃったから」

「それこそいつものことだろう」

「あ、ひどー」


 表情は次第に曇っていく。先程までの無邪気な少女は消え、大人びた横顔に変わった。

 橙色の陽を映す川は斑に光り輝いて、その眩しさに目を細めて眺めながら、甚夜は静かに呟いた。


「もう、いいのか?」


 紡がれた言葉。

 それは白雪へ向けたものなのか、或いは自分だったのかは分からなかった。

 ただ、覚えている。忘れる筈がない。

 彼女はこれから決定的な言葉を口にする。

 二人は終わりを迎え、明日には全てを失くしてしまう。

 甚太は<剛力>の鬼を討伐へ向かう。戦いに赴いている間、白雪と清正は逢瀬を交わし、鬼と化した鈴音は白雪を殺す。

 結末は決して変わらない。


「う……ん」


 沈んだ声。しばらく口を噤み、しかしようやく何かを決意したのか、戻川に向けられていた視線を甚夜へと移す。


「ここで、甚太と話したかったんだ。ここは私の始まりの場所。だから伝えるのはこの場所がいいと思ったの。ね、聞いてくれる?」

「ああ」

「……よかった。ねえ、甚太」


 透明な笑みに秘められた想いを、甚夜は既に知っている。

 風がまた一度強く吹き抜けた。木々に囲まれた小高い丘で、彼女は少しだけ近くなった空に溶け込んでしまいそうだった。いや、その姿は自ら空に溶け込もうとしているように見えた。

 そして空になった彼女は、泣きそうな、けれど強さを感じさせる笑みを浮かべて。


「貴方は、どうしたい?」


 あの時とは違う問いを投げかけた。





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