<< 前へ次へ >>  更新
9/216

『鬼と人と』・8

 意識が混濁している。

 余計な何かが混じって濁っている。

 自分が自分でなくなるような錯覚。溶け込んだ何かが急き立てる。熱くて冷たく整然とばらばらに。飛び散った自己は形にならない。


『人よ、何故刀を振るう』


 誰か囁いた。

 返す答えは他が為に。俺には守りたいと思えるものがある。だから刀を振るってきた。

 それは紛れもない本心で。なのに誰かはただ憐れんだような視線を送っている。

 何故そんな眼でお前は見るのだ。


『許せよ、我等は宿願の為にお前達兄妹を利用する』


 待て、それはどういう意味だ。


『せめて餞別をくれてやる。必要になる時も来るだろう』


 お前は何を言っている。

 問い詰めようにも今に自分には体がない。声は出せない手も動かない。ただ己だけが波間で揺れる。

 結局、誰かは何も言わず黒い光の中へ消え去った。

 何が言いたいのかは分からなかったが、そいつの意思が、存在が完全に自分の中からいなくなったのだということは理解できる。

 そして、意識が白い闇に溶けた。




 ◆




「う…あ……」


 ひんやりと冷たい地面の感覚に甚太は目を覚ました。

 なにか、奇妙な夢を見ていた気がする。

 朦朧とした頭を振り、どうにか意識を回復させる。


「ここは」


 体を起こして立ち上がる。

 見回せばそこは光の無い洞穴。鬼が用意したであろう数本の松明からは既に火が消え、辺りは暗闇に包まれている。

 相変わらず卵の腐ったような気色の悪い匂いが漂っているため、どうにかそこが洞窟の中だと知れた。


「なんとか、生きている、か」


 次第に目も慣れ、改めて周囲を見渡すが鬼の死骸は既にない。自身の首を掴んでいた腕もだ。

 どうやらこちらの息の根を止めるよりも早く鬼は絶えたらしい。おかげで、どうにか命は繋げたようだ。


「そうだ、鈴音……!」


 安堵も束の間、思い出すのは鬼の言葉。

 奴らの真の狙いは白夜ではなく鈴音だ。まずい、急いで戻らなければならない。

 ただ一人の家族。一緒にいてくれればいいと、何も出来なかった自分を必要としてくれた大切な妹を守る。それもまた自身が刀を振るう理由だ。

 体は無傷、何処にも痛みはなかった。これならもう一体の鬼を相手にするくらいはできそうだ。刀を失ってしまったがそれは後で考える。

 今はただ葛野へと向かわねば。

 先程まで見ていた夢など忘れ、焦燥に掻き立てられた甚太は葛野への道を戻る。明かりの消えた洞穴の中は暗く、先は見通せなかった。





 無傷、と。

 その事に何の疑問も抱かなかった。




 ◆




 走る。

 森の奥、湿った土を踏み締め葛野へ続く獣道をただ走る。

 日没は随分前、木々の切れ目の向こうでは既に星が瞬いていた。どうやら随分長い時間気を失っていたらしい。自分の迂闊さに嫌気がさし下唇を噛む。

 鈴音は無事だろうか。

 今宵は白夜を警護するために集落の男達が総出で社の警備についている。逆に言えば、社以外は手薄になっている筈だ。嫌な予感が拭えない。


「無事でいてくれ」


 祈り、只管に走る。

 その速度は自分でも驚くほどだった。息が切れることもない。体は未だかつてないほどに調子がいい。だが今はそんな事に意識を割いている暇はない。

 木々を抜け、辿り着く葛野の地。脇目もふらず自身の家へ。

 薄暗く何処か不気味な雰囲気を醸し出す慣れ親しんだ集落。次第に藁を敷き詰めた屋根に家の周囲は土壁と杉の皮を張った、昔ながらの造りの家が見えてきた。


「鈴音っ!」


 乱暴に引き戸を開け、草鞋を脱ぐこともせず入り込み、辺りを見回す。

 其処には誰もいなかった。嫌な予感が膨れ上がる。いったい、鈴音は何処へ行ったのか。

 家の中は荒らされた様子がない。とすれば鬼に拐された訳でもないだろう。鈴音は自分の意思で外に出た。

 そもそも鈴音はあまり外出をしない。自身の赤い眼を、成長していない姿を見せないよう基本は家に引き籠っている。そんな彼女が時折ではあるが行く場所と言えば。


「社か」


 思い当たったのはその程度。白夜の無事も確認せねばならない。どちらにしても一度社へは行かねばならぬだろう。

 ここから社まではそう遠くない。一縷の望みに託し、社へと向かう。

 不安に急き立てられ、一心不乱に駆け抜け。

 辿り着いた鳥居、あまりの惨状を前にして、甚太の足は止められた。


「なんだ、これは……」


 ごくりと息を呑む。濃密な血の匂いに甚太は立ちくらみを起こした。

 社の前には十を超える死体が転がされている。引き千切られた肉、砕かれた頭蓋。見るも無残な光景に動揺を隠せない。


「巫女守様……」


 折り重なる死骸の中に一人だけ、死の淵にありながらどうにか生きながらえた男がいた。

 今夜の為に臨時で警備についた男だった。辛うじて生きているとはいえ腹を裂かれており出血が酷い。もう僅かばかりの命だろう。

 近寄り、彼の体を抱え起こして問うた。


「いったい何が」

「あ、あ。す、すずねちゃんが」

「鈴音が?」

「鬼と」


 一言。たったそれだけを残して男は力尽きた。

 死体となった男をゆっくりと地面へ下ろし、数秒だが目を伏せ黙祷を捧げる。

 甚太は、おそらくはこの男が使ったであろう刀を拾い上げた。

 鬼がこの先にいるのならば素手では話にならない。死者から物を取り上げるのは気が引ける。とはいえ新しい刀を探している時間もない。


「済みませんが、借ります。弔いはまた後で」


 短い謝罪を残しそのまま社殿へと向かう。

 目指す場所はすぐそこに在る。迫る木戸、開けるのも面倒くさい。勢いのまま蹴破り、一気に本殿へと傾れ込む。


「白雪! 鈴音!」


 瞬間目に映ったのは。

 襦袢だけの姿で肩を震わせる白夜。

 そして床につきそうな程長い金紗の髪をした鬼女が、刀を突き付け今にも襲い掛かろうとする姿だった。

 以前見た女とは違う鬼の存在。

 驚いている場合でもない。白夜のいる座敷までは約三間弱。今ならまだ間に合う。立ち止まることはせず、板張りの間を走り抜ける。


「甚、太……」


 白夜は声の方に視線を向け、その主の姿を確認し、安堵の溜息を洩らした。

 ああ、もう大丈夫だ。お前は何も心配しなくてもいい。後は任せておけばいいんだ。

 よろよろと覚束ない足取りで白夜は座敷から、鬼女から離れようとする。

 手を伸ばす。応えるように白夜もまた手を伸ばした。

 たった三間がこんなにも遠い。鬼女は何故か動こうとしない。

 呆然と、その様を眺めている。

 何のつもりか分からないが、動かないならそれでいい。

 距離が近付く。あともう少しで傍に行ける。体が軋むほどにただ走る。


「白雪!」


 届いた。

 左手で白夜の手を掴み引き寄せる。 

 ふわりと風が流れた。しがみ付くように、決して離れぬように、白夜の体を抱き締める。

 彼女からは甘やかな香りと──ぶちり──鉄錆の匂い。

 間に合った。安堵に息が漏れる。

 何とか最悪の事態は免れた。あの鬼が何者か、どれだけの力量かは分からないが、せめて白雪を逃がすだけの時間は稼ぐ。

 状況がよくなった訳ではない。だが彼女を、愚かしくも美しい在り方を守ると誓った。ならば己が為すことなぞ一つ。

 あの鬼女を斬り伏せる。

 眼光も鋭く鬼女を睨め付け、


「消え、た?」


 しかし既に座敷には誰もいなかった。

 何時の間に姿を消したのか、金髪の鬼女は影も形もない。いったい何処へ。

 其処まで思考を巡らせ、白夜が身動ぎさえしないことに気付く。もしかして怪我でもしたのだろうか。

 抱き締める力を少し緩め、体を離し、彼女の無事を確かめる。


「あ」


 思わず固まった。

 白夜の表情を見るつもりだった。なのに見ることが出来なかった。腕の中にいる白夜は動かない。

表情も分からない。

 いや表情どころか、


「しら、ゆ」





 彼女には、首から上が、なかった。





 なんだ、これは。

 意味が分からない。ある筈のものが無い。なんでだ、間に合った筈だろう。

 なのに彼女の笑顔は何処にもない。目の前は赤く染まり、頭の奥で何かがちかちかと瞬いている。

 ぎしり、と背後で床が鳴った。

 咄嗟に振り返り、驚愕する。


「な」


 消えた筈の金色の鬼女は、僅か二寸というところまで迫っていた。

 其処に敵意はない。鬼女は寧ろ気遣わしげな視線を甚太に向けていた。


「駄目だよ、そんなの持ってちゃ。汚れちゃうよ?」


 鬼女の右手には刀。逆手で握られたそれには見覚えがあった。

 夜来。いつきひめが代々受け継いできた宝刀。

 何故お前が。

 過る疑問とほぼ同時に、刀がぶれた。

 多分、刀が振るわれたのだろう。

 確証がないのは単純に見えなかったから。

 あまりの速さに目で追うことさえ叶わない。刀身を視認できたのは、切っ先が白夜の胸に食い込んだ瞬間だった。

 腕に負荷がかかり白夜の体を離してしまう。どさり、と床に彼女の体が落ち、心臓に突き立てられた刀で社殿の床へと縫い付けられる。

 仰向けに横たわる少女。

 白い肌。薄い襦袢に赤色が沁みていく。

 胸に突き刺さった刀はまるで彼女に手向けられた花のようで。

 何度確かめても、彼女の笑顔を、見ることは出来なくて。


 白夜が、死んだ。


 その事実がようやく頭に伝わった。


「嘘、だろ……」


 言葉遣いはいつもの堅苦しいものではなかった。

 まるで幼い頃に戻ったかのような、朴訥な呟き。

 なあに、甚太?

 けれど幼い頃のようには返って来ない言葉。

 彼女は何も言ってくれない。笑ってくれない。仕方ないなぁ、お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。そんな軽口は聞こえてこない。

 もう、彼女は、此処にいない。 

 愕然とする。甚太は鬼女を前にして無防備を晒し続けていた。どれだけ愚かなことをしているかは分かっている。

 なのに体は動いてくれなかった。彼女の死があまりにも唐突過ぎて、現実感が追い付いてこない。


「おかえりなさい……怪我はない?」


 直ぐ傍で、鬼女はにっこりと笑っていた。

 豪奢な金の髪、女性らしい豊満な体付き。浮かべたのは童女のように人懐っこい笑顔だ。

 端正な顔立ちも相まって彼女の笑みは美しく、その無邪気さに怖気が走る。

 そう、鬼女はにっこりと笑っているのだ。 

 白夜の頭部を、余りにも無造作に、掴みながら───


「てめぇええええええええええええええええあああああ!」


 思考が一瞬で沸騰する。

 膨れ上がる感情が勝手に体を動かし、気付いた時には鬼女の脳天を叩き割ろうと斬り掛かっていた。


「わ」


 激昂する甚太とは対照的に、鬼女はあまりにも呑気な声を漏らした。

 すっと右手を刀に合わせ、緩慢にさえ見える動作でゆっくりと横に払った。

 然して力を込めたようには見えない。だというのに剣戟は流され、体は引っ張られ、タタラを踏んでしまう。

 崩れた体勢を立て直し、大きく後ろに退がり鬼女と正対する。

 刀は折れていない。腕に痺れもない。当然だ。鬼女は優しく、本当に優しく受け流しただけ。

 まるで戯れに伸ばされた手を笑いながら押し退けるような、そんな気安さで渾身の一刀を払い除けてしまった。


「危ないなぁ、いきなりどしたの?」


 やはり鬼女に敵意はなかった。

 怒りも、僅かな負の感情さえ見て取ることは出来ない。

 だから知る。この鬼女は、己を敵とは見ていない。当たり前だ。敵と思う訳がなかった。

 人が蝿や蚊に殺意を持たぬのと同じ。歯牙にもかからぬ矮小な存在を敵と見る馬鹿はいない。

 おそらく先程も消えたのではない。

 鬼女は特別なことなどしていない。普通に走り、普通に白夜の頭を引き千切った。

 ただ一連の動作が甚太には視認することすらできない速度だったというだけの話。

 鍛錬で得られる武技では埋められぬ、生物としての絶対的格差。

 それを無邪気な笑顔に見せつけられた。

 だが退けぬ。

 脇構え。意識を薄く研ぎ澄ませ、眼前の敵を睨め付ける。

 自身でも理解している。この鬼には決して勝てない。斬り掛かったところで無様に屍を晒すことになるだろう。だとしても退くことは出来ない。

 例え敵わぬとしても、


 ──俺が、お前を守るから。


 せめて一太刀意地を見せねば死んでも死にきれない。

 決死の覚悟で一歩を踏み出そうとして、


「にいちゃん、本当にどうしたの?」


 意識が凍り付く。

 金髪の美しい鬼女は本当に心配そうな、透き通った声で甚太に語りかけた。

 にいちゃん。

 その呼び方に改めて鬼女を見る。

 顔立ちには僅かな面影。激情に曇っていた目には映らなかった、見慣れた色があった。


「……鈴音、なのか?」

「うん!」


 明るく無邪気な、どこか甘えるような、いつも見せてくれる笑顔だった。

 それが今は辛い。何故か妹が成長しているのかなど疑問に思う程の余裕もなかった。

 お前が鈴音だというのなら。

 鬼女の正体を知ったことで、甚太の頭はたった一つの問いで満たされてしまっている。


「本当、に」

「そうだってば」


 不満げに頬を膨らませる。

 大人びた容貌には似合わぬ幼げな態度。それは確かに見慣れたもので、だから余計に泣きたくなった。


「何故だ……」


 お前が鈴音だというのなら、何故白夜を殺す必要があった。

 白夜と、否、白雪と鈴音は仲のいい姉妹のような存在だった。

 少なくとも甚太にはそう見えていた。だから分からない。何故、鈴音が白雪を殺さねばならなかったのか。


「なんで、お前が、白雪を」


 分かる訳がない。

 己が白雪を想っていたように、鈴音もまた甚太を想っていたのだと。

 甚太が全て。他の命など塵芥。そんな彼女の真実に気付かない彼には妹の行為は凶行でしかなく、口にする言葉は狂気でしかない。

 深すぎる愛情から生まれた憎悪など理解できる筈がなかった。


「なんで、そんな顔するの? すずはひめさまを殺したんだよ? もっと喜んでよ」


 同じように、甚太が如何な想いを抱いているか見通せない鈴音には、兄の反応は予想外のものだ。

 鈴音にとって白雪は大切な兄を傷付ける売女だった。だから殺した。これで兄を傷付けるものはいなくなり、彼はきっと笑ってくれるだろう。無邪気な子供のように彼女はそう信じていた。


 故に分かり合えない。

 彼らは家族として互いに想い合っていた。ただ出発点を致命的に間違えていのだ。


「お前は、何を、言っている」

「にいちゃん、ひめさまはね。他の男の人と結婚するんだって。にいちゃんのことを好きだってふうに振舞ってたくせに裏切ったの」


 違う。裏切ってなどいない。私達は。

 言葉にしようとして、できずに口を噤む。

 あんなに一緒だった。兄と妹。二人はいつだって一緒で、一番近くにいた筈で。

 なのに横たわる断崖があまりにも高すぎて声が届かない。だから言葉に出来なかった。


「自分から服を脱いで、自分の体をあげるって言ってた。そんな最低な女なの。だからにいちゃんが気に病むことなんてないんだよ」


 妹の口から語られる想い人の所作に心が軋む。

 痛みはある。けれど分かっていた。そうなると知って、受け入れた。

 それくらい、大切だった。

 白雪の決意も、葛野の地も、鈴音のことだって。

 みんな比べようもないくらい大切で、だからみんな守りたくて。

 なのに、どうしてこうなってしまったのか。


「もう、やめてくれ……」

「にいちゃん……」


 絞り出される悲痛な嘆きに鈴音も悲しそうに目を伏せた。

 甚太の言葉は鈴音を指している。

 ひどいことを言わないでくれ、そんなお前は見たくないのだと。鈴音ことも確かに大切だから、「やめてくれ」と言った

 けれど鈴音は別の意味で捉える。

 白雪のそんな話は聞きたくないと。白雪のことが大切だから、「やめてくれ」と言うのだろうと。

 鈴音はあくまでも甚太の気持ちを優先する。だから、焦点が自身には合わず。

お互いに想い合うからこそ、どこまでも二人は分かり合えない。


「にいちゃんはやっぱり、今もひめさまのことが好き? あんなにひどい人なのに、死んじゃったら悲しいの?」


 俯き体を震わせる兄の姿が辛くて、鈴音もまた沈んだ声を出した。

 悩み込み端正な顔が歪む。けれど何か思いついたのか、両手を自身の胸の前で合わせて、可愛らしく微笑んでみせた。

 そうして、兄妹は終わりへと至る。


「あ、でもさ! これで、ひめさまが他の男の人と結婚するところなんて見なくてもいいでしょ?」


 澄み切った言葉に、甚太は叩き伏せられた。

 奪われた。

 そう、思ってしまった。

 川辺で伝え合った想い。

 互いが互いの在り方を尊いと感じ、不器用でもそれを最後まで守ろうと誓った。

 最早結ばれることは叶わない。

 だけど変わらずに在ろうと、曲げられない自分を貫いた。

 例えそれが愚かな選択だとしても、二人は誰にも侵されぬものを築き上げた筈だった。


「にいちゃんがひめさまを好きなら、他の男とくっつくよりそっちの方がいいよね? それに今はちょっと悲しいかもしれないけど、もう辛い思いしなくて済むし。あんな最低な女に傷付けられることもないし……そう考えたら、最初から必要なかったんだよ、ひめさまなんて」


 その誇りを奪われた。

 お前達の誓いなどただのお為ごかしだ。

 本当は、心は嫉妬に塗れているのだと。

 彼女の決意を、美しいと感じた在り方を。

 正しいと信じ、意地を張って貫いてきた自分自身さえ踏み躙られた。


「ああ……そう、か」


 かすれた声が零れる。

 全てを否定された甚太の胸中に浮かんだ感情は、酷く純粋だった。

 純粋で、透き通った、昏い心。

 混じり気のない、なのにどろりとした、冷たい激情が身を焦がす。


「ね、そろそろ帰ろ? すず疲れちゃった」


 兄の変化に気付かず、いつものように幼げな調子で問いかける。

 足元には変わらず白夜の死体が転がっていて、左手で彼女の頭部を掴み、けれどその表情は柔らかい。

 守りたかった者を奪い、だというのに、鈴音は笑っていた。


「私の知っている、お前は」


 もう、いないのか。

 愛しい筈の妹。

 彼女の兄でありたいと。遠い雨の日、確かにそう願った。

 今もその願いは変わらず胸に在る。

 白夜を、彼女の幼い決意を尊いと感じたのと同じく、鈴音を大切に想っていた。

 しかし、白雪の死を笑う妹が、もはや化け物にしか見えない。

 鈴音は、本当の意味で鬼となってしまった。

 だから胸に宿る感情はたった一つ。


“憎い”


 ただ純粋に、あの鬼女が憎い。

 沸き上がる憎悪だけが、今の彼には全てだった。




 彼女が胸に隠した想いなぞ、知る由もない。

 鈴音の想いを知らぬ甚太にとって、目の前にいる『あれ』は狂気に囚われた異物。

 だからこそ彼は大切な妹を憎むべきモノとして正しく憎悪する。

『あれ』は愛した人と大切な妹を同時に奪った化け物なのだ。


 思い至った瞬間、甚太の体は躍動する。

 踏み込み、鬼女の首へ一閃。

 ぱきん、と頼りない音が響く。

 横薙ぎに放たれた刀は真っ二つに折れていた。白くしなやかな鈴音の腕が、目にも映らぬ速度で刀身を叩き折ったのだ。


「にい、ちゃん……?」


 顔色に変化はない。いきなり斬り掛かった甚太を、ただ不思議そうに小首を傾げ眺めていた。

 殺す気で放った一刀をいとも簡単に防がれる。やはり勝てない。勝てる訳がない。十二分に理解し、尚も憎しみが心を埋め尽くす。

 折れてしまった刀を投げ捨てる。武器はなくなったが、戦う手段はまだある。頭ではない他のどこかがそれを知っていた。


「無様なものだ。惚れた女を守れず、大切な家族を失い、自分自身さえ踏み躙られた。私には、最早何も残されていない……」


 構えもせず、だらりと腕を放り投げる。

 めきっ、気色の悪い音が響いた。

 体が熱い。しかし憎しみに満ちた心は、不気味なほどに平静だった。

 筋肉が、骨が、呻きを上げる。

 奇妙な音をたてて甚太の体が変化していく。正確に言えば腕が、である。左腕の肘から先が赤黒く変色しめきめきと音を立てながら筋肉が躍動する。

 動揺はない。

 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。

 揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。

 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。

 だから、これは当然の帰結だ。 


「ああ、違うな。一つだけ残ったものがあったよ」


 赤黒く筋骨隆々とした鋼の腕。人では持ち得ぬ鋭い爪。

 変容した甚太の腕は、あの時斬り落とした鬼の腕によく似ていた。


 ───人よ、餞別だ。持って往け


 否、それは真実鬼の腕だった。


「お前が、憎い」


 見開いた眼は血のように、鉄錆のように、赤い。

 彼の人としての時間はそこで終わる。

 その身は既に異形。

 甚太もまた、憎悪をもって鬼へと堕ちた。


「……え?」


 戸惑ったような言葉を洩らす。

 彼の変化に理解が及ばないのか、或いは自分を憎いという兄への疑問か。不安そうに声は揺れる。

 甚太は妹の様子なぞ気にも留めず、自身の変化した左腕を見詰め、納得したように一度小さく頷いた。

 今になってようやく分かった。

 何故、あの鬼が敗北しながらも『成すべきことを成した』と満足げに逝ったのか。その理由を今更ながらに理解する。

 そもそも、あの鬼の目的は甚太を倒すことなどではなかった。


<同化>


 その<力>には別の使い方が在る。

 他の生物を己が内に取り込むことが出来るのならば、他の生物に己を溶け込ませることもまた可能。

 最後の瞬間腕が襲いかかってきたのは、甚太を殺す為ではなく、自身の一部を<同化>させる為だった。


 それがあの鬼の狙い。

 おそらく、鬼へと転じる下地を作ることこそが真の目的。

 甚太は目論見通り自身すら焦がす憎悪に呑まれ鬼へと堕ちた。

 此処に勝敗は決した。

 斬り伏せたことで勝ったつもりになっていた。

 だが先の戦いにおいて、真の勝者は甚太ではない。

 あの鬼を殺した時点で、彼は既に敗北していたのだ。

 思わず自嘲の笑みが零れた。

 息まいて鬼を討ちに行っておきながら、掌の上で踊らされた己の馬鹿さ加減に呆れてしまう。


「情けのないことだ……が、今はお前の餞別に感謝しよう」


 前傾姿勢を取る。

 半身になり左肩を鈴音に向け、腕をだらりと放り出す。


「おかげで刀がなくとも『あれ』が討てる」


 鬼の腕に何が出来るのか、彼は既に知っている。奴は、<同化>を正しく使わせる為に態々語って聞かせてから逝った。

 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。

 そして異形の腕が現在所有する唯一の<力>は、


「……<剛力>」


 呟いた一言に異形の腕が更に膨れ上がる。

 鬼の左腕が更に隆起する。沸騰する筋肉、躍動する腕は次第に膨張していく。

 急激な変化は左腕が一回りほど巨大になったところで止まる。

 もはや人ではない。甚太は左腕だけが異常に発達した、左右非対称の異形となった。


「どうしたの? なんで」


 そんな眼ですずを見るの?

 大好きな兄が自分を睨みつけている。もしかして怒らせてしまったのだろうか。

 でも、何故兄は怒っている? 理由が分からない。


「すずはただ、にいちゃんのために」


 だから覚束ない足取りで甚太の方へよろよろと近付き、鈴音は必死に言い訳をする。


「あの売女を殺しただけで」




 憎い。




「もういい、黙れ」


 妹の言葉を切って捨てる。比喩表現ではなく、多分その時、真実彼は何かを切って捨ててしまったのだろう。

 憎しみは更に膨れ上がる。鈴音もまたそれを感じたのか、悲しそうに唇を噛み俯いた。


「そっ、か……。結局、にいちゃんもすずを捨てるんだね。にいちゃんは、にいちゃんだけは、すずの味方でいてくれるって思ってたのに……」


 縋るような想い。煩わしい。愛しい筈の妹の所作、全てが苛立たしく感じられる。

 甚太は何も語らず、ただ眦を更に鋭く変えた。沈黙を返答にしたのだろう、鈴音は俯き悲痛な呻きを上げる。


「ならいい。いらない。もう何も信じない。貴方がすずを……私を拒絶するならば、現世など何の価値もない』


 纏う空気が目に見えて変わった。

 語り口からは幼さが抜け、俯いたままでさえゆったりとした余裕が垣間見える。

 鈴音は、白夜の頭を無造作に投げ捨てた。殺してやる。彼女もまた、一緒になって何かを捨てた。


『そして、貴方にも』


 顔を上げたのは、妹ではなく鬼女。

 赤い目に映るのは、明確な憎しみだった。

 鬼女の細くしなやかな指が強張りその爪が鋭さを増した。刃物の如く鈍い輝きを持つそれは、確かに刃物の如き切れ味を持つのだろう。

 互いは互いへの憎悪を隠そうともせず対峙する。

 硬直は僅か数秒、鈴音の左足が板の間を蹴って駈け出し、それだけの所作で二体の鬼の距離は一瞬で零になった。

 ひゅっ、と軽妙な音が空気を斬る。高く掲げられた腕を勢いに任せて下へと振るう爪撃。

 鮮血。爪が胸元を切り裂く。鮮血が宙を舞い、命には届かない。左足を大きく引いた分傷は浅かった。

 鬼女は一撃では止まらない。視界の中で姿がぶれ、気付いた時には既に間合いの外だった。速い、ただ速い。およそ体術など意識していない粗雑な動きが、だというのに呆れる程の速さを誇る。

 再度音が鳴る。肉薄し、爪を振るい、すぐさま離れる。その度に裂傷は増えていく。襲い来る凶手。だが甚太は避けようともしなかった。

 と言うよりも、彼にはその攻撃を避けられる程の身体能力がない。

 鬼となり目は付いて行くようになったが、鈴音の方が生物として格上。尋常での立会において勝機など欠片もない。


『もう、いいでしょう?』


 距離を取り一度動きを止めた鈴音は、憐れむような視線を向けた。

 貴方では私に勝てないと、濁った瞳が語っている。

 分かっている。そんなこと、今更言われるまでもない。元治にも白雪にも、鈴音にも。いつだって勝てたことなんてなかった。


『命を粗末にすることもない。今なら……』

「黙れと言ったぞ」


 返す言葉は鉄のように硬く冷たい。

 合理なぞ端から持ち合わせていない。憎しみに突き動かされる心が望むは一つ、苦悶に歪む仇敵の面だけだ。


『そう……なら、いい』


 鬼女の表情が悲痛に歪む。そして今度こそ意思を固めたのだろう、一直線に駆け出し、殺意の籠った瞳で甚太を射抜く。

 次いで鈴音は左手を下から大きく振るう。

 今迄よりも更に速度を増した一撃。当然の如く避けられない。

 だが、それでいい。

 鈴音の爪が腹に食い込む。走る痛みに表情が歪む。違う、彼の顔はただ憎しみによって歪んでいた。 

 そもそも初めから彼には攻撃を躱す気などなかった

 先程爪を躱せたのは偶然、足を引いたのが功を奏しただけ。

 元より避けることなど考えていない。足を引いたのも回避ではなく攻撃の為。左腕を引き、体を捻り、足は床をしっかりと噛んでいた。

 人であった頃ならば体は引き千切られていただろう。しかし鬼となった今、その体躯は以前よりも遥かに頑強。爪は皮膚を裂き臓器に達したが、かろうじて体は繋がっているし、まだ動くことも出来る。

 そして内臓に突き刺した爪が臓物や筋肉に絡め取られ、ほんの一瞬だが鈴音の動きが止まる。

 だから躱す気などなかった。

 どんなに速くても、止まった相手ならば確実に当てられる。

 この瞬間をこそ待ち侘びていた。


『……っ』


 鈴音も気付いたらしい。

 距離を取ろうと後ろに下がる。挙動は確かに“速い”、だが此方の方が一手“早い”。


「がぁっ!」


 血を吐きだしながらの短い咆哮。

 踏み込んだ瞬間、板張りの床が軋み割れた。

 赤の目は金髪の女を捉えている。左腕が音をたてて唸った。<剛力>によって肥大化した膂力、全てを余すことなく拳に乗せ、鈴音の豊かな胸の下にある鳩尾へと叩き込む。

 めきょ、という嫌な音と感触。

 皮膚を破り肉を裂き臓器を潰し、背骨まで到達する衝撃。

 鬼女の体はいとも簡単に吹き飛ばされ、夜来が安置されていた神棚へと突っ込んだ。逃げるどころか防ぐことも出来なかった。


 ───じゃあ試しに殴ってみて? こつん、くらいでいいから。


 或いは、どんなに怒っていたとしても。兄が自分を本気で殴るなど、想像さえしていなかったのかもしれない。

 社殿の奥で舞い上がった埃、その向こうで倒れ込む鬼から一寸たりとも視線は外さない。十二分に手応えはあった。

 にも拘らず、命には届かなかった。


「まだ立つか」


 女は平然と、と言う訳ではないが、風穴の空いた体で立ち上がった。

 腹からは今も血が流れている。立ち上がった鈴音はただ目を伏せ佇んでいた。

 そうか、いくら見目麗しい女であってもあれは鬼。首を落とすか心の臓を穿つか。もしくは頭を潰すくらいせねば死なぬということか。

 ならばもう一度だ。

 再度構え、一足で懐に飛び込む。

 甚太は憎しみに顔を歪め、拳を振るう。狙うは頭部、その小奇麗な顔を吹き飛ばす。

 対して鈴音は動かない。元よりこれだけ距離を詰められれば避けることなど叶わない。

 これで終わり。

 そう確信し、尚も憎しみを持って鈴音を睨みつけ、


『何度も悪いけど、やっぱりさせないわ』


 またも響く声。

 いつだったかと同じように、いつの間にか現れた鬼女に邪魔をされた。

 だが拳は止まらない。振り抜いたそれは確かに肉を潰す感触を味わう。


「貴様……」


 鈴音の頭部を砕く筈だった拳は代わりに、咄嗟に割り込んだ鬼女の心臓を貫いていた。

 腕を抜き、次撃を放とうにも腕は鬼の体でしっかりと固定されてしまっている。

 無理矢理に引き抜きたかったが剛力の持続時間が切れたのか、膂力が極端に下がっていた。

 相変わらず、鈴音は佇んだままだった。何の反応も示さないが、鬼女は静かに語りかける。


『ね、鈴音ちゃん』


 心臓を潰した。鬼の命はもう長くないだろう。

 事実鬼女からは白い蒸気が立ち昇り始めている。

 鬼は為す術もなく息絶える。分かっているだろうに、死を目前にして、それに見合わぬ優しげな語り口だった。


『逃げなさい。憎いでしょう、壊したいのでしょう? だったら今は逃げて傷を癒せばいい。今の貴女はまだ自分の<力>に目覚めていない。でも百年を経れば鬼は固有の<力>に目覚める。貴女ならもっと早く手に入れられるかもしれない。その後に改めて貴女の憎むものを壊せばいい』


 柔らかな悪意に背を押されて、鈴音はようやく動きを見せた。

 甚太の横を通り過ぎ、一度捨てた白夜の頭を拾い上げ、社殿の出入口へと向かう。


「待て、鈴音!」


 彼の声に立ち止まったのは、最後の未練か。

 金縛りにでもあったように鈴音は体を強張らせる。目を瞑り、かつて在った幸福を噛みしめ、一度深く息を吸った、

 遠い雨の夜。

 捨てられた自分。

 手を繋いでくれた兄。

 あの夜から、鈴音にとって甚太は全てだった。彼さえ傍にいてくれればそれでよかった。

 それだけで父に棄てられても、友達と一緒にいられなくても。

 貴方が触れてくれるだけで、私は幸せだった。




 ───でも、私が信じてきたものは幻だった。



 兄もやはり私を捨てた。

 結局、自分には最初から居場所などなかったのだと思い知り、大きく息を吐く。

 鬼は言う。お前が憎むものを壊せと。

 あの鬼女ではない。憎悪をもって鬼へと堕ちた他ならぬ己自身が叫んでいる。

 白雪が死んだ今、何を憎むべきなのか。

 残された憎悪が向かう先を探す。

 しばらく立ち止まったまま思考を巡らせ、それに気付き鈴音は眉を潜めた。

 鈴音にとって甚太は全てだった。

 ならばこそ、全てに裏切られた今、彼女の憎むものは決定した。


『私は、貴方(すべて)を憎む。だから全てを壊す』


 それが答え。

 全てを憎むならば、全てを壊すが道理。


『人も、国も、この現世に存在する全てを私は滅ぼす。そうしないと私は前に進めない』


 最後に、兄の姿を瞳の奥へ焼き付ける。

 本当に、大切だった。

 貴方がいれば、それでよかった。

 なのにどうしてこうなってしまったのか。


『……忘れないで。どれだけ時間がかかっても、私はもう一度貴方に逢いに来るから』


 揺れる感情をそっと言葉に乗せる。

 きっと真意は伝わらなかったと思う。

 けれど振り返ることなく、鈴音は完全に消え失せた。




 ────にいちゃん、すずはね。ただにいちゃんに笑って欲しかっただけなんだよ。




 去り際、舌の上で転がすように呟いた想いは誰にも届かなかった。






 鈴音がいなくなったことを確認し、ようやく鬼女は体から力を抜いた。

 腕を引き抜けば支えをなくした体は崩れるように倒れ込む。体からは今も白い蒸気が立ち昇り続けている。鬼女は、その生を終えようとしていた。


『あはっ……あはははははは。やった、やったわ。あたし達やったわよ! やった……あたしは、あたしの成すべきことを成した!』


 鬼は狂ったように笑う。

 高らかな声が癪に触った。甚太は沸き上がる衝動を抑えられず、鬼女へと叩き付ける。


「これが、貴様等の成すべきことだと言うのか……こんなことが!」


 白夜が死に、甚太は鬼となり鈴音と殺し合う。

 こんなくだらない惨劇を作り上げることに、何の意味がある。

 砕けそうになるほど奥歯を噛み締める。

 しかし鬼女は叩き付けた激情など意にも介さず、飄々と語ってみせた。


『あははっ、ええ、そうよ。貴方達には悪いけど、ね』


 同情はしていた。それでも鬼女は止まれなかった。

 鬼は、鬼である己からは逃げられない。

 一度成すと決めたなら、例え何があっても成す。彼女もまた、そういう生き物だった。

 だから同情はしても、鬼女の瞳には一切の迷いがなく、声にも淀みはない。


『あたしの<力>は<遠見>……だからあたしには見えるの。これから先、この国は外の文明を受け入れ発達していく。人工の光を手に入れ、人は宵闇すらも明るく照らすでしょう』


 先程まで笑い転げていた鬼女は、静かに息を吐いた。

 疲れたような、寂しげな、得も言われぬ表情。細められた目は、きっと遥か遠くを眺めている。


『でもね、早すぎる時代の流れにあたし達鬼はついていけない。発達し過ぎた文明に淘汰され、その存在を消していく。作り物の光に照らされて、あやかしは居場所を奪われて。そうしていずれあたし達は、昔話の中だけで語られる存在になるの』


 穏やかな語り口は、逆に決意めいた強さを感じさせる。

 甚太は、変化した鬼女の空気に戸惑っていた。

 呑まれていると表現した方がより的確かもしれない。

 鬼女の所業を許せる訳ではない。しかしいつの間にか怒りは鳴りを潜め、口を挟むこともできずにいる。


『だけどあたしはそんなもの認めない。鬼と人が相容れなくても、ただ黙って淘汰なんてされてやらないわ』


 そこまで言って、鬼は甚太の瞳を見据えた。


『あたしが見た景色を教えてあげる。今から百七十年後、あのお嬢ちゃんは全ての人を滅ぼす災厄になる。貴方は長い時を越えてあの娘の所まで辿り着く。そして貴方達兄妹は、この葛野の地で再び殺し合い、その果てに……永久に闇を統べる王が生まれるの。あたし達を守り慈しむ鬼神が』


 だから鈴音の鬼としての覚醒を促し、甚太が鬼になるよう舞台を整えた。

 鈴音は鬼神として、この身は捧げられる贄として。

 悔しいが、自分は鬼達の思い通りに動かされていたのだ。


『貴方はあたし達を憎むでしょう。でも鬼神は遠い未来で、あたし達の同朋を守ってくれる。これでもう、いずれ訪れる人の光に怯えることはない』


 笑っている。

 先程までの狂気に満ちた笑いではない。

 満ち足りた、己の生涯を全うした老人のように穏やかな笑みだ。


「お前……」


 もはや怒りは欠片もない。

 それが本当の話なら。この鬼達は最初から自分達の欲望ではなく、ただ己の大切なものの為に動いていたのか。

 だとすれば、己と鬼に何の違いがある。


『あたしは満足。同朋の未来を守れたわ……』


 希望の籠った声音だけを残して、鬼女の死骸は溶けて消えた。

 本当は、最後に何か声をかけてやろうと思った。

 だが何も言えなかった。名を呼んでやりたかったが、名前など知らないことに気付く。

 そう言えば先だって洞穴で斬り殺した鬼の名も分からないままだった。

 身命を賭し、同朋の未来のために戦った誇り高き者を、今まで甚太は名も無き有象無象として切り捨ててきた。

 その事実が想像以上に自身を打ちのめした。





 それからいったいどれだけの時間が過ぎただろう。

 社に残されたのは甚太だけだった。

 人はいない。

 ……ひとは、いない。

 改めて社殿を見回し、暗闇の中で倒れる白夜の姿を視線に留め、覚束ない足取りで近付く。


「白…雪……」


 首は引き千切られ、胸には夜来が突き刺さったままだ。流石にあんまりだろうと夜来を引き抜き投げ捨てる。

 そして片膝をつき彼女の体を抱え起こす。

 彼女の香はもう感じることができない。代わりに血の匂いが鼻を突いた。


「あ……」


 手をそのまま背に滑らせ抱き締める。胸元に溜まった血が体に触れる。

 冷たくて熱い、奇妙な感覚。彼女の血が、鈴音の付けた傷跡から自身へと溶け込んでいくようだった。

 今も声が聞こえる。


 もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。


 そうだ、私は……俺は何にも出来ない。

 彼女がいなければ何一つ出来ないのだ。

 こんな堅苦しい言葉遣いを始めたのは、いつきひめになった白夜に、少しでも見劣りしないようにと気を張っていたから。

 鬼を倒せるように自身を鍛え上げたのは、幼くとも葛野を守る為その身を捧げた白夜に見合う強さが欲しかったから。

 生き方は曲げられなかった。でもその生き方を支えてきた想いは一つ。


「俺は、お前が好きだった」


 ただそれだけ。たったそれだけのことが甚太の真実だった。

 本当に、好きで。誰よりも、大切で。

 叶うならばいつまでも傍にいたかった。


「白雪ぃ………」


 だけど現実はどうしようもなく冷たい。

 何が巫女守だ。何が誓いだ。俺に何が出来た。惚れた女を守ることも出来ず、大切な家族を己が手で傷付けた。






 ───俺は、何一つ守れなかった。






 思い知り、堰を切ったように涙が溢れ、ただ甚太は叫び声をあげた。


「あ、ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 夜に鬼の慟哭が響く。

 白夜の亡骸にただ縋りつくしかできぬ己はあまりにも無様で、しかしそれを止める術など知らなかった。






<< 前へ次へ >>目次  更新