余談『鬼人の暇』・1
明治十二年(1879年) 五月
三条通・鬼そば。
店の玄関口には張り紙がされている。
『本日休業』
つまり、余暇の話である。
【朝・師匠の話】
嵯峨野の竹林での鍛錬は今も続いている。
多少慣れたとはいえ二刀の扱いはまだまだ拙い。未熟を知りながら捨て置けるほどの余裕はなく、毎朝欠かさずに刀を振るう。
ただ今回はいつもと相手が違った。
「まだまだ、青い」
二刀を構え甚夜は悠然と立つ。
対する平吉は投げ掛けた言葉に何も返さない。というよりも返す余裕がない。
今朝の鍛錬は普段と違い、甚夜ではなく寧ろ平吉に重きを置いている。染吾郎が弟子に少しでも経験を積ませようと取り計らったのだ。
もっとも両者の差は歴然。勝敗は予想通りの結末に落ち着いた。
「まあ、こんなもんやろなぁ」
甚夜はかすり傷どころか汗一つなく、息も乱さず着崩れさえない。平吉の方はといえば立つこともままならぬ程に疲弊し、大の字になって寝転がっている。
未熟な付喪神使いと数十年闘い続けてきた鬼。尋常の勝負であれば万に一つも起こらない。
当たり前といえば当たり前の話だ。弟子は息も絶え絶えだがこれも経験、染吾郎はからからと笑っている。
「お師匠…あいつ、人間やないです……」
「そら鬼やからな」
「いや、そうやなくて」
あまりにも強すぎた。
付喪神を操れるとはいえ実戦経験の少ない平吉では相手にもならない。何とか体を起こすも立ち上がることは出来ず、地べたに座り込んだまま。疲労困憊といった様相である。
「体術と付喪神を交えた戦法。悪くはないが、修練が足りん」
「分かっとるわ、くそ……」
平吉は染吾郎と違い、無手の体術を主とし、隙を消すように付喪神を操る。師ほど強い付喪神を持たない為、どうにかしようと工夫し編み出した戦い方なのだろう。
目の付け所は良かったが、いかんせんどちらも未熟。そこそこ動けるが決定打に欠けるといった印象だ。
「ま、自分がどんくらいやれるか、くらいは分かったやろ? まだまだこれからやね」
「はい……。我流とはいえもうちょっと出来ると思っとったんですけど、一発も当てられませんでした」
「僕は体術からっきしやからなぁ。そっちを教えられんのは許したって」
「許すなんて。お師匠からは、そんなもんより大切なことを数えきれんくらい教えてもろてますから」
「……泣かせることゆうてくれるなぁ」
その物言いに染吾郎の顔は自然と綻んだ。
多少足らないところがあったとしても、尊敬の念は微塵も揺らがない。教わったものは技だけでないと、まっすぐな目で平吉は語る。互いに信頼し合う師弟の姿は、見ていて気持ちよく感じられた。
「本当に慕っているのだな」
「当たり前や。俺の親は鬼に殺された。その仇を討って、今まで俺の面倒を見てくれたんがお師匠。尊敬して当然やろ」
付き合いは長いが、平吉の過去を聞いたのは初めてだ。
鬼を嫌っていた理由がそこにあるのならば、以前あそこまで敵意をむき出しにしていたことも納得できる。普通に会話をするだけでも苦痛だったに違いない。
「俺は鬼を討つ力が欲しかった……まあ、鬼も悪いヤツばっかやないって分かったけどな」
それでも子供はいつか大人になる。
照れたようにそっぽを向いて、話の流れを無視してそう付け加える。分かりやすすぎる、不器用な気遣い。染吾郎ならばもう少し上手くやるだろうが、こちらの方もまだまだ鍛錬が足りないらしい。
「平吉ぃ。ええ子やなぁ」
「な、なにがですか」
十九の男に「いい子」はないだろう。
思いながらも止めずに、微笑ましい気持ちでじゃれ合う師弟を眺める。
甚夜は落すような、穏やかな笑み。横目でそれを見た染吾郎は、意外そうに目を見開いた。
「お? なんや珍しいね」
「ん?」
「えらい機嫌良さそうやん」
ああ、と微かに息を吐く。
確かにこの友人の言う通り機嫌は良かった。
「師弟とはいいものだな」
感慨深げな声色に、師弟は揃って目を丸くした。
それがおかしくて、もう一度小さな笑みを零す。
「ただ一つに専心し、生涯をかけ磨き、朽ち果てる前に誰かに授け、人は連綿と過去を未来に繋げていく。……人よりも遥かに長くを生きるからこそ、その尊さが分かる。正直羨ましいとさえ思うよ」
染吾郎は既に老体、いずれは死を迎えるだろう。
だが“秋津染吾郎”が絶えることはない。それを継いでくれる者が、ちゃんと此処に居る。
昔、人は面白いと言った鬼がいた。
鬼より遥かに短い命、しかし人は受け継ぐことで鬼より長くを生きる。人は当然の如く摂理に逆らう。それはどんな娯楽よりも面白いとあの鬼は笑った。
今になって奴の気持ちがよく分かる。繋がり受け継がれていく想いの尊さ。手の届かぬものというのは、どうしてこうも眩しく映るのか。
「よう分からんけど、師匠ならあんたにもおるんちゃうの?」
しかし年寄りの感慨は若者には今一つ実感できないらしい。首を傾げ、お前も似たようなものだろうと不思議そうにしていた。
少しずれた返答に甚夜は若干眉を顰める。それを受けた平吉は寧ろその態度こそ疑問だと言わんばかりで、どうにも噛み合わないまま二人して顔を見合わせる。
「いや、だから剣の。あんたは力任せやなくて、ちゃんと剣術を使っとるから、師匠がおるんかと思ったんやけど」
そこまで言われてようやく納得し、思い出すのはやはり元治のこと。
師事というほど大仰ではなかったが、確かに甚夜の剣は彼から受け継いだもの。平吉の指摘も間違いではない。
瞼を閉じればふと過る、今は遠き“みなわのひび”。幼かった頃を懐かしめば自然と口も滑らかになる。
「私に剣を教えてくれたのは養父だ。毎日のように稽古をつけて貰っていたよ。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかったが」
「……一太刀も? ほんまに?」
「鬼は嘘を吐かん。養父は集落で一番の使い手でな。刀一本で鬼を討つ剣豪だった」
「ふーん、先代って訳か」
妙な言い回しに眉を顰める。
けれど平吉に気付いた様子はなく、やはり雑談程度の軽さで平然と言ってのける。
「いや、だってあんたも“刀一本で鬼を討つ剣豪”とか言われとるし。羨ましいも何も、あんたも似たようなもんやろ」
頭が、真っ白になった気がした。
そして数瞬置いてから意識を取り戻し、歓喜とも興奮ともつかぬ、自分でもよく分からない感情に背を押され言葉を零す。
「……そうか、そうだったな」
想いを繋ぎ未来へと残すのは人の業だと思った。
しかし平吉の中に染吾郎の技が息づいているように、この手にも元治が遺したものがある。それは鬼になった所で変わりはない。
なにより、多くの出会いがあり、多くの別れがあった。
店主や直次、おふう。彼ら彼女らに出会い、僅かながらに変わることが出来た。
ならば鬼に堕ちたこの身にもまた、連綿と続く人の想いが宿っているのだ。
それに改めて気付かされた。
───羨ましいやろ? これが僕の弟子や。
ふと見れば染吾郎は勝ち誇るような顔。言葉にせずとも何を考えているのか分かってしまった。
これも師の教えか、宇津木平吉は形のないものを、当たり前のように慈しめる男となった。
あの生意気な小僧がよくぞここまで大きくなったものだと感心する。物に宿る想いを扱う“秋津染吾郎”にとっては、こういう弟子を持てるというのは、まさしく師匠冥利に尽きるというものだろう。
「やれへんよ」
「必要ない」
短い遣り取り。羨ましいと思ったのは事実だが、欲しいとは思わない。
代わりに脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「励めよ、宇津木。私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ」
今度は平吉の方が呆気にとられる。驚きに上手い返しが出てこないようだ。
一拍子置いてその意味を理解したのか、不機嫌そうに、しかし照れを隠しきれずそっぽ向いた。
「……おう」
甚夜の言葉は、“秋津染吾郎”を継ぐのに最も相応しいのはお前だと言ったに等しい。
普段は見せないが師を敬愛する平吉にとって、それは途方もない称賛だった。
「あはは、よかったな平吉。勿論僕も君以外に“秋津染吾郎”を譲る気はないよって」
「ありがとう、ございます、お師匠」
感極まった様子に彼の内心がよく表れている。
心底敬い慕っている師からの後継と認める発言だ、嬉しくない筈がない。
「そやけど、その前に君は甚夜を倒せるようにならあかんな」
ただ染吾郎はどうにも一筋縄にはいかない男で。
真面目な表情は一瞬にして消え去り、今度はからかうような含み笑いに変わった。
「……え?」
平吉は何を言われたのか理解できず固まった。
なんとか聞き返すも意に介さず、染吾郎は朗らかに笑っている。
「平吉、野茉莉ちゃんのこと好きなんやろ? そしたら“お父さん、娘さんを僕に下さい!”ってこともあるかもしれへわけや。ということは」
一度ちらりと横目で甚夜の方を見る。
いい加減付き合いも長い。何を求めているのか、分かってしまった。
「ならば私の返しはこうだな。“娘が欲しいのならば私を倒してからにしてもらおうか”」
「さっすが、完璧や!」
まあ偶には乗ってやるのも悪くない。
定番の言い回しを口にすれば子供のようにはしゃぐ。まったくもって無駄に元気な老人である。
「…………え?」
対して平吉は目を点にしている。
あれ、を、倒す?
人を超える膂力を持ち、複数の<力>を操り、剣術にも長けた鬼。それを倒さない限り、野茉莉に結婚を申し込むことは出来ない? そもそも別に付き合ったりしているわけではないけども。
混乱する平吉を余所に二人の会話は続く。
「頑張り。野茉莉ちゃんを手に入れるんはしんどそうや。なんせこいつは僕でも倒せるか分からん」
「それはこちらも同じ。鍾馗、だったか。あれは中々に厄介だ」
「僕の切り札やしね。勝てるかどうかは分からんけど、易々と負けてはやれんなぁ」
いやに好戦的な視線を交わしながら、とんとん拍子に話が流れていく。ただ平吉だけがついていけていない。
違う、あれは冗談。師匠一流の冗談だ。頼むからそうだと言ってくれ。
「さて、そろそろ終いにするか。時間も時間だ。朝食を準備しよう」
「お、もしかして誘ってくれとる? 悪いなぁ。味噌汁玉ねぎ、玉ねぎな。平吉もいこか」
しかし否定することなく、茶化すことなく、二人は歩き始めてしまう。
しばらく歩いてから甚夜は振り返り、口の端を釣り上げ、不敵に平吉を見据えた。
「楽しみにしている。……ただ、私はそれなりに手強いぞ、宇津木」
冗談など言いそうもない男が駄目押しの科白を吐いてくれた。
だから平吉はどうすればいいのか分からなくなり、その場にただ立ち尽くす。
「…………………………え?」
色恋の悩みは若者の常である。
惚れた女と添い遂げるには、青年は数多の試練を乗り越えねばならない。
その辺りは今も昔も、おそらく未来でも変わりはなく。
いつの世も、最後の最後に立ち塞がる壁は父親である。
【昼・あんぱんの話】
「で、だ。協力してほしいんだ」
鍛錬を終えた後、平吉は用事があるらしく先に戻った。
染吾郎の方はいつも通り鬼そばで朝食のご相伴に預かり、悠々と食後の茶なんぞを楽しんでいる。
親娘二人は後片付け。その後それなりにのんびりとした時間を過ごしていると一人の男が店へ訪れた。
開口一番協力してほしいと言い出したのは、鬼そばの隣にある三橋屋という和菓子屋の店主だった。
今年で二十七になる豊繁とは店が隣同士と言うこともありそこそこ交流を持っている。
普段ならば多少相談に乗ってやっても構わないのだが、残念ながら今日は予定があった。
「すみませんが、今日は」
「そういや休業とか書いてあったが、何か予定でもあったか」
「ええ、野茉莉と買い物に行くので」
「ちょっと待ってくれ葛野さん。もしかしてその為に店を休んだのか」
「そうですが」
その返答に豊繁はなんとも微妙な面持ちへ変わる。
しかし何故そんな表情をされるのか甚夜には分からなかった。店と野茉莉との買い物、当然ながら優先順位は後者の方が高い。よって店を休みにするのもまた至極当然。驚かれるようなことではないと思うのだが。
「なんでこの人こんな普通の顔してんだよ」
「いやぁ、甚夜にとってはこれが普通やし。基本野茉莉ちゃん至上主義やからね」
初対面の豊繁と染吾郎だったが、何故か仲良くひそひそ話なんぞをしている。二人とも似たような感想らしく、なにやら通じ合うものがあったらしい。
甚夜からすればおかしいことなど何一つしていないのにそんな態度を見せる二人の方こそ理解できなかった。
「まあそういう理由ですので。申し訳ないが、また今度に」
「あ、いや、そこをどうにか。少しの時間でいいんだ」
「しかし」
難色を示し微かに唸ると、くいくいと袖を引っ張られた。
豊繁が可哀想に思えたのか、傍らに立つ野茉莉は同情的な視線を送っている。
「父様、別にいいよ?」
楽しみにしていた買い物を後回しても構わない、野茉莉はそういうことを言える優しい娘に育ってくれた。だからこそ約束を反故にしたくはない。
その考えを先回りして、野茉莉は柔らかく笑う。
「普段三橋さんにはお世話になってるし、ね? お話を聞いて、それから買い物でも私はいいから」
「……そう言うのなら」
申し訳ないと思うが、同時に嬉しくもなる。今までのように、嫌われのが怖くていい子を演じるのではないと分かったからだ。
本当に、子供は知らぬうちに大きくなるものだ。
「三橋殿、話を聞こう」
だから自然と表情は穏やかになった。
「新商品の開発?」
「そうだ。あー、めんど……と普段なら言うところなんだが、売上少なくて嫁さんがお冠でな。ここいらでちょっと気合入れとかないと後々もっとめんどくさくなりそうなんだよ」
豊繁の細君である朔は非常に気が強く、夫婦仲は良好で仲睦まじいのは確かだが、夫は妻に頭が荒がらない。
なにより三橋屋の客入りは今一つで、朔が気を揉むのも分からないではなかった。
「しかし、私では力に為れそうもありませんが」
ただ相談相手としては、甚夜は相応しくはないだろう。
蕎麦打ちや家庭料理ならまだしも菓子作りなどしたこともない。適切な助言など出来るとは思えなかった。
「そんなことはないさ。あとは、野茉莉ちゃんの方にも期待してる」
「私、ですか? あの、でも私料理は」
急に話を振られて野茉莉は少しだけ驚いてしまう。
花嫁修業という訳ではないが、一応料理の練習はしている。しかしそれも最近父に調理を習い始めたくらいで腕はまだまだ、甚夜以上にこういうことには向いていない。
気後れしているようで曖昧な表情を浮かべているが、なんの問題ないとばかりに豊繁は笑った。
「いやいや、協力ったってそんな固っ苦しく考えなくていんだ。あー、とだ。味見役をしてほしいんだよ。それで意見が欲しい」
つまり作成の手伝いではなく、完成品の味見役を頼みたいというだけ。その程度ならば菓子作りの経験のない甚夜でもできなくはない。
野茉莉にも期待しているというのは単に若い女の意見が聞きたい、といったところか。
「よかった、それくらいなら」
「お、なら頼めるか?」
「はい、私でよければ」
料理に自身はないが味見ならば、と野茉莉は安堵の息を漏らして頷く。
取り敢えずの同意を得られ、今度は甚夜の方に視線を移す。あからさまに期待した目。娘が受け入れたのだ、ここで断るのも妙な話だ。
「ええ、私も構いません」
「ありがてえ。実は何を作るかももう考えてあるんだよ」
「ほう?」
仕方なくという雰囲気を漂わせていたが意外にもやる気らしい。
周りの視線が集まる中、溜めに溜めて豊繁は高らかにのたまう。
「木村屋って知ってるか」
にやりと釣り上げられた口元からは相応の自信が感じられた。
甚夜が首を横に振り否定の意を示せば、待ってましたと言わんばかりに滔々と語り始める。
「東京の銀座にある店なんだがな、この店があんぱんっつー菓子を作ったらしいんだ。それが売れに売れて、天皇様まで気にい入っちまって今じゃ皇室御用達らしい。知ってるか、あんぱん?」
「残念ながら」
「そうか……んー、まいいか。とにかくそういうことだ」
一人で納得してうんうんと頷く。しかしそこで話を止められては意味が分からない。
それで? と言葉を促してみれば、何故か返ってきたのは不思議そうな表情だった。
「いや、それでって……それが全てだろ?」
今一つ意図が理解できず眉を顰めると、豊繁は仕方ないと肩を竦める。
「だから、今はあんぱんが人気なんだよ」
「ふむ、で?」
「つまり、奇をてらった新商品なんざ考えなくても、あんぱんを作ればいいって訳だ」
堂々と真似をする気らしい。
自信満々といった様子だが、言っていることは最低だった。
「……なあ甚夜? 僕、こん人の店が流行らん理由分かったような気ぃするんやけど」
「……奇遇だな、私もだ」
集まっていた視線は全て呆れ交じりのものに変わってしまうが、本人は全く気にしていない。
寧ろ自分の提案の素晴らしと心底思っているようだ。
「我ながら完璧だ……問題はあんぱんの作り方どころか見たこともないってとこだけだな」
「うん、問題しかあらへんね」
染吾郎の突込みは見事に無視された。
作り方も知らず見たこともないものをどうやって作ろうと言うのかこの男は。
そう考えて、甚夜は気付いた。
彼の言う“味見役”に求められる役割は、味を見るのではないのだ。
「三橋殿、もしかして私達の役目というのは」
「ああ! なんせ俺はあんぱんなんて知らないからな。取り敢えず適当に作るから、葛野さんがこれだってやつを決めてくれ」
「だから私もあんぱんを知らないのですが」
「いいんだよいいんだよ。食べた感じ一番あんぱんっぽいものを選んでくれれば」
実に無茶苦茶なことをさらりと言ってくれるものだ。
ともかく、こうして三橋屋のあんぱん作りは始まったのである。
◆
「ほい、まずはこれ」
甚夜達の前に出されたのは小さな茶色の菓子である。
一口大の丸い菓子は焼きあがったばかりでほんのりと暖かい。
「どうやらあんぱんってのは小麦を使った生地で餡をくるんだ菓子、らしい。取り敢えず素直に作ってみたんだが、どうだ?」
期待の視線を受けながら、促されるままにあんぱん(仮)を齧る。
若干甘さを抑えたあずきに多少風味の付いた生地
味を確かめるようにゆっくりと咀嚼し、呑みこんで一言。
「饅頭だな」
「饅頭やね」
「おまんじゅうですね」
甚夜、染吾郎、野茉莉が声を揃えて同じことを言う。
出されたそれはまったくもって普通の饅頭であった。
「それに生地あんまりおいしくない……」
野茉莉はむーっと若干不機嫌そうな顔になってしまう。
やはり若い娘だ、甘いものは好きなのだろう。甚夜や染吾郎よりもこだわりがある分野茉莉の方が評価は厳しかった。
「そ、そうか。結構自信あったんだが。まあいい、次に行くか」
そそくさと新しい菓子を店から運んでくる。
次いで出されたのは何とも奇妙な菓子である。球形ではあるのだが糸のようなもので幾重にも包んであり、あまり食欲をそそる外見はしていなかった。
「……三橋殿、これは」
「小麦の生地って聞いてたからな。小麦で作ったものって考えてたら、素麺が思い浮かんだ。つーことで、素麺で包んでみた」
「中には当然?」
「あんこが入っている」
腕を組み、堂々と言ってのける。
この男は何故こうも自信に満ち溢れているのだろう。
「……すみません、あずき味の麺はあまり食べたくないのですが」
「あ、やっぱり?」
分かっていたなら何故出した。
「……甚夜、これまずい」
何故食べた染吾郎。
ひどく疲れて、甚夜は俯いて溜息を零した。
いかん、豊繁の発想に任せていては何時まで経ってもこの味見は終わらない。この後には野茉莉との買い物が控えている。早々に終わらせねばならない。
甚夜は気を取り直し、積極的に意見を出すことにした。
「三橋殿、あんぱんというのは小麦の生地であずきを包んだ菓子、でしたね」
「ああ、そうだ」
「ならば“きんつば”に近い菓子では?」
きんつばは金鍔焼きの略称で、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包んだ菓子のことである。
これも小麦の生地で餡を包んだ菓子だ。あんぱんがどういう菓子かは知らないが、似通った部分があるかもしれない。
「きんつば、か。いや、話によると本当に包んじまうみたいなんだ。あんこが外から見えないくらいに」
「ふむ。きんつばの生地で包むと」
「流石に野暮ったくなるだろう。あれは薄いからいいんだ」
しかし豊繁が聞いた話では、あんぱんは全く異なる菓子であるらしい。
言われてみれば生地がそのまま分厚くなっても旨いとは思えない。とすると饅頭、或いは他の菓子。幾つか思い浮かべてみるも、しっくりと来るものは出てこなかった。
「あーでも、既存の菓子と照らし合わせてみるってのはいいかもなぁ。おっしゃ、ちょっと待っててくれ」
ただ考え方としては悪くないと、豊繁は意気揚々と店へ戻っていく。
思い付きの発言だったが試作の為のきっかけ程度にはなったようだ。後は彼の手腕に期待するしかないだろう。
「……なんだかんだ、甚夜も付き合いええなあ」
「父様は優しいですから」
呆れたような染吾郎と、何故か自慢げな野茉莉。
取り敢えず二人の言葉は軽く流すことにした。
◆
「団子風の生地にしてみた」
「悪くないな」
「うん、もちもちしてて美味しいです」
豊繁は次々に、工夫を凝らした菓子を運んでくる。
彼の腕はかなりのもので、試作品でも真面目に作ったものなら店に並んでもおかしくないくらい味がいい。
「小麦だからな、焼いたらいい香りがすると思ったんだが」
「水で練った小麦の生地を焼き上げたか」
「お、いけるやん。そやけど、時間が経ったらちょっとこれはなぁ」
しかしながら“あんぱん”が何か分からない以上、悩みに悩んだところで明確な正解を出せず、ただただ菓子を喰い続ける。
「あー、いい加減しんどなって来たんやけど。老人にこれはきついて」
最初に根を上げたのは染吾郎だった。
食べ過ぎで腹が苦しいらしく、居間の方で寝転がっている。かくいう甚夜も相当きつくなってきていた。
「父様、大丈夫?」
「……一応は」
甘いものは苦手ではないし、寧ろ好むくらいではあるが、流石にこう連続すると中々に辛い。
野茉莉がまだ平気そうなのは、やはり若い娘だからなのか。男と女では甘味の摂取容量に違いがあるのかもしれない。
「悪いな、長いこと付き合わせて。だが、今度こそってなくらいの自信作だ」
言いながら豊繁はまたも店からあんぱん(仮)を運んでくる。
今回のものは黄色っぽい生地に包まれた円形状の菓子。会心の出来だったのか、彼の笑みからは相応の自信が見て取れた。
「小麦の生地だが、卵と水あめをたっぷり入れて柔らかく焼いてみた。いい感じに仕上がったと思うぜ」
「……そうか」
対して甚夜の表情はぎこちない。
見た感じ確かに旨そうではあるのだが、如何せん食べ過ぎた。甘味であるというだけで体が拒否反応を起こしかけている。
「……あかん、僕もう無理」
染吾郎はもはや見向きもせずに手をひらひらとさせている。甚夜も出来ればそうしたかったが、協力すると言ってしまった。
些細な約束でも反故にするのは彼の矜持に反する。
躊躇いがちに手は揺れ、それでも何とか動かし、出された菓子を頬張る。
「む」
一口食べてみたが、案外と口当たりはいい。卵と水あめを使ったからだろう、小麦の生地は今までのものよりもふんわりと軽かった。
中の餡は若干甘さを控えてあり、後味も悪くない。
「これは、旨いな」
批評したつもりではなく、旨いという言葉が自然と漏れた。
続いて野茉莉も一口。にこやかな表情を見れば味を問う必要もない。しかし期待に満ちた目で豊繁は感想を求める。
「ど、どうだ野茉莉ちゃん」
「……おいしい。うん、これが一番おいしかったです」
親娘の答えを聞いて、豊繁は感極まったように肩を振るわせる。
野茉莉もこれが気に入ったようで、おいしそうに食べている。
その笑顔に、ようやく確信というものを抱くことが出来た。
「三橋殿、おそらくこれが正解だ」
にやり、甚夜の口元が吊り上る。
豊繁の方も手ごたえがあったらしく、不敵な笑みを浮かべる。
「そうか、これが」
呟いた声に頷きで返す。
そうして彼はきっぱりと、確信を持って言い切った。
「間違いない……“あんぱん”だ」
もっとも、その確信は見当はずれな訳だが。
「これがあんぱん……!」
「ええ、あんぱんでしょう」
勿論違う。
小麦粉を使い卵と水あめをたっぷり入れて焼き上げる。それはパンではなくカステラである。もはやあんぱんとはかけ離れたものが出来てしまった訳だが、突っ込める人間はこの場にいない。
野茉莉もあんぱんがどのような菓子か知らず、これがあんぱんなのだとこくこくと頷いている。
「ありがとう、葛野さん野茉莉ちゃん。あと、名前知らない爺さん。おかげで、ようやくあんぱんを作ることが出来たよ!」
間違っているとも知らず、今までの苦労から豊繁は目を潤ませている。
味見だけでもかなりの苦労だった。その分感動もひとしお、甚夜もどこか満足げに軽く彼の肩を叩いた。
「これを作ったのは三橋殿です。私達は何もしていない」
「そうですよ、三橋さん。おめでとうございます」
野茉莉も試行錯誤の末にあんぱんを完成させた豊繁へ、純粋な賛辞を贈る。
何度も言うが、この菓子はあんぱんとは全く違うものである。
「そんなことねえさ。俺一人じゃこいつは出来なかった……そうだ、もう一つ頼みがある」
照れくさそうに豊繁は頬を掻いている。
あんぱんの完成に気をよくした甚夜は、穏やかな表情で頷いてみせた。
「ああ、聞こう」
「名前を、考えて欲しいんだ。手伝ってもらったからできたんだ。出来れば葛野さんにつけて欲しい」
「む、そうか」
多分、場の空気に流されて柄にもなく高揚していたのだろう。
少しばかりむず痒い気持ちを感じながらも、その菓子に名をつけて────
◆
2009年 8月
時は流れて現代。
葛野市、甚太神社。その敷地にあるみやかの自宅では甚夜、薫、そしてみやか本人がテーブルを囲んでいた。
8月25日。夏休みもそろそろ終わる。
残った夏の課題を終わらせる為に、三人は朝からみやかの部屋でテキストに挑んでいる最中だ。
「甚くん、大丈夫?」
「一応は。ただ英語は苦手でな」
「なら私がちょっと手伝うよ。代わりに古典で助けてね」
「ああ、そちらは殆どのものを原文で読んだことがある」
「あはは、さすがー」
みやかは二人のやり取りを半目で眺めていた。
この夏休みは色々あった。皆で海へ行ったり、お祭りや女子だけで買い物。クラスのいつものメンバーで駅前で一日中遊んだりもした。
それに、ちょっと切ないオカルトな事件もあった。
なんだかんだと積み重ね、甚夜だけでなく高校で知り合ったクラスメート達とも随分仲良くなれたと思う。
だから甚夜と薫が以前より仲良くなったのも別段不思議ではない。
けれどいつの間に薫は彼のことを「甚くん」などと親しげに呼ぶようになったのだろう。
「朝顔、すまん」
「あ、ここはねー」
元々甚夜は薫に対して甘かったが、更に距離が近くなったような。
それに彼の方も「朝顔」と、何処をどうすればそうなるのか分からないあだ名を使っている。薫を見るに嫌がった様子もないし、一体どうなっているのか、みやかにはまったくもって理解が出来なかった。
じっと見ていると、不意に顔を上げた甚夜と目が合ってしまう。
しばらく見つめ合う形になったが、大した動揺もなく彼は言う
「どうした、手が進んでいないようだが」
だとすれば間違いなくあんたのせいだ。
言おうとしたが、流石に理不尽過ぎると思い直す。
「……てい」
しかしあまりにもいつも通りすぎる態度が何となくいらっと来て、消しゴムなんぞを投げてみる。
「何をする」
こつんと頭に当たった。
避けもせず受けもしない。なんだか子供扱いされたようで、それがちょっと不満だった。
「やった、終わったー!」
薫がシャーペンを放り出してぐっと伸びをした。
ちょうど同じタイミングで甚夜も息を吐く。
「うん、こっちも終わった」
みやかの方も片付き、三人は課題を何とか終わらせることが出来た。
ようやく一息つける、というところで母親がお菓子を用意しておいてくれたことを思い出す。
「疲れたー。でもこれで安心して遊べるね」
「そうね。……っと、ちょっと待ってて。今お茶淹れてくる」
台所に行き、煎茶とお菓子を御盆に乗せて戻る。
部屋では完全にだらけモードに入っている薫とそれを微笑ましく眺めている甚夜の姿がある。確かにこの二人は仲がいいけど、恋人とかよりも兄妹と言ったイメージ。ああいや、年齢を考えればおじいちゃんと孫娘だろうか。
「あ、おかえりー」
「薫、床でゴロゴロしない。はしたないよ、男の人がいるんだし」
「だって疲れたんだもん」
仲はすごくいいけど男としては意識していないのか、それとも単に深く考えていないのか。薫はスカートのまま、うだーと寝転がっている。
指摘されても改めない辺り、そもそも見えそうとか気にしていないのかもしれない。
そんなことを考えながらテーブルに御盆を置けば、さっと薫は起き上がる。まったくもって現金だった。
「お母さんが京都旅行に行ってきたから、そのお土産。三橋屋の“野茉莉あんぱん”だって」
「あ、知ってる! この前テレビでやってた!」
甘いものが好きな薫は嬉しそうに頬を綻ばせる。
反面、甚夜は普段通りの無表情。しかし若干眉間の皺がいつもより深かった。
「ごめん。もしかして、嫌いだった?」
「いや、嫌いではない、がな」
以前一緒にお茶をした時、「昔は砂糖が貴重だから甘味は滅多に食べられないご馳走だった」と言い、普通にケーキを食べていた。
だから甘いものも平気だと思っていたけれど、表情は何故か曇っており珍しく歯切れも悪い。
腑に落ちないものを感じながらも、とりあえずはテーブルの上を片付ける。三菓子とお茶が行き渡ったのを確認して、食べるのを促すようにみやかはこくりと頷いた。
「いただきまーす」
ちゃんと挨拶してからまずは一口頬張る。
野茉莉あんぱんは京都・三橋屋の銘菓で、カステラ生地で餡を包んだ菓子である
柔らかい生地とあずきの組み合わせは確かに美味しい。人気があるのも納得の出来だった。
「あ、おいしー」
「うん。……でもこれ、あんぱんじゃないよね」
そもそも、パンじゃない。
なんでこれがあんぱんなんだろうと思っていると、思わぬ方から意見が出てきた。
「いや、小麦の生地に餡が入っていればあんぱんと呼んでもいいんじゃないか?」
「流石にそれ、適当過ぎると思う」
反射的に突っ込むと、何故か甚夜は苦々しい顔であんぱんを噛み締めている。
その様子に何か気付いたらしく、薫がおずおずと問うた。
「……ねえ甚くん。三橋屋って、確か甚くんが昔住んでた家の隣にあったお菓子屋さんだよね?」
「え? 甚夜、京都に住んでたの?」
「昔、一時期な」
それは初耳だった。
みやかは甚夜を慮りあまり踏み込んだ質問はしない。ただ薫の方はクラスでの席は隣同士、元々の性格もあり疑問に思ったことはすぐに聞く。
彼も薫に対しては相当甘いし、もしかしたら以前の生活について結構話しているのかもしれない。
「でさ、もしかしてこのあんぱんって」
「……言うな朝顔」
ただ京都に関してか、それともアンパンに関してか。
どちらかは分からないがあまり触れてほしくない話題のようだ。返ってくるのはやけに重い、疲れた声だ。
「でも、野茉莉あんぱんってどう考えても」
「頼む、言わないでくれ」
「ああ、うん。何となく分かった」
それきり俯き黙り込んでしまった。
恥じるべきは一時のテンションに身を任せてしまった過去である。
まさかあんなノリで作られた菓子が百年を越えるなど誰が思うものか。
なんとなく事情を察した薫と訳が分からないみやか。二人の視線を受ける甚夜は、ただただ項垂れるしかなかった。