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『夏宵蜃気楼』・3(了)



 これで四度目、いや、五度目だったろうか。

 野茉莉はまた夢を見ていた。

 流れはいつも変わらない。降り頻る雪の中、馴染みの蕎麦屋へ父と向かい。そこで雑談をしながら蕎麦を食べ、終われば父が鬼退治へ行くのを見送る。

 その後は“御嬢さん”と一頻り会話を交わす。

 彼女と喋っている間は誰も声を掛けてこない。というよりも誰の姿も見えなくなってしまう。

 初めは何故かと考えもしたが、そもそもこれはただ夢なのだから、そういうものなのだと納得する。

 ともかく野茉莉は今夜も喜兵衛で、“御嬢さん”と二人きりになっていた。


「子供の頃は餅なんか滅多に食べられなかったから、磯辺餅が今でも好きだって言ってた。それを知っているのが私だけってことが、なんだか嬉しかったなぁ」

「へえ、そうなんですか」


 話題はやはり父のこと。

“御嬢さん”は野茉莉の知らない父の姿を知っている。

 それを聞くのが楽しくて、この夢が何であるかなんて既にどうでもよくなっていた。


「……聞きたいことがあるんですけど」

「なに? ■■ちゃん」


 やはり名前は雑音に掻き消されたが、それにも慣れた。気にすることなく問いを続ける。


「父様とは、あの、どういう」


 直接的な表現は流石に照れるので遠まわしに聞こうとしたが、上手く言葉にならない。

 なんと言えばいいのか分からずまごついていると、くすりと“御嬢さん”は笑った。


「お父さんとの関係?」


 そうだ。

 この女の人のことを野茉莉は知らない。つまり彼女は、父が自分を拾う前の知り合いなのだ。

 だから父と彼女はどういう関係だったのかが気になった。


「その……はい」


 言い当てられて恥ずかしそうに野茉莉は頷いた。

 それを見てもう一度静かに笑い、どこか寂しそうに彼女は答える。


「さあ、どうだったのかな」


 軽い口調で、誤魔化すような物言い。

 真面目に答えてください。そう言おうとして、言えなかった。

 彼女はここではない何処か遠くを眺めている。下手なことを言えば、彼女を傷付けてしまうと思った。

 感情の色が見えない透明な横顔からは、内心を伺うことはできない。

 沈黙が重すぎて、耐えかねた野茉莉はおずおずと問うた。


「好き、だったんですか?」

「今はもう、分からないわ」


 呆れたような、疲れたような、不思議な笑み。

 複雑なその表情。彼女自身気持ちを掴みかねているのかもしれない。

 けれど僅かな振る舞いに、彼女にとって父が特別な存在だったことだけは理解できた。


「ただね、あなたのお父さんと私は、似た者同士だったの」

「似た者同士?」

「そう。強がってるけど、本当は弱くて。だからね、あいつの傍にいると安心した。同じ痛みを感じてくれるから」


 でも、と“御嬢さん”は悲しそうに目を伏せる。


「私は雀から変われなかった。結局、それが全てなんだと思うわ」


 諦めにも似た、力ない言葉。

 その意味を問おうとして。

 けれど、そこで夢から覚めた。






 * * *






「御じょ……女の人とは、どういう関係だったの?」

「ん?」

「蕎麦屋さんに来てたっていう女の人」

「またその話か」


 夕食時、出る話題は懐かしい蕎麦屋でのこと。

 最近、野茉莉はあの娘の話を妙に聞きたがる。何故そこまで興味を持つのか、甚夜は計りかねていた。

 ただここ数日、不審な輩が野茉莉に接触するような場面はなかった。あの娘のことは、誰かに吹き込まれた訳ではないようだ。

 とすると、人の理から食み出た“なにか”によって知識を与えられたのか。

 例えば過去の映像を見せる<力>だとか。

 もしそうならばこちらから打てる手はない。別段衰弱している様子もなし。口惜しいが、取り敢えずは様子見を続けるしかないのが現状だった。


「友人、だった思う。だが、もしかしたら家族になったかもしれない相手だ」


 内心の逡巡を悟られぬよう平静に振る舞い、しかし返した答えは誤魔化しという訳でもない。

 もし何かの間違いがあれば、心底惚れた女と出会わなかった代わりに、妹になっていたかもしれない。

 だからだろう、どんなに生意気でも怒る気にはなれなかった。


「じゃあ、好きだったんだ」

「嫌いではなかったな」

「なのに、会いに行かなかったの?」


 もし本当に好きなら、何故縁が途切れかけた時、繋ぎ留めようと思わなかったのか。

 責めるような語調ではなく、ただ純粋に疑問を零しただけ。だからこそ甚夜は驚き眉を顰めた。その問いは、ある程度状況を把握していなければできないものだ。

 それに数舜遅れて気付いたらしく、野茉莉は慌てて言葉を付け加えた。


「喧嘩して、仲直りできなかったって言ってた。あ、えと、秋津さんが、だけど」


 染吾郎は確かに古い付き合いだが、その辺りの事情はまるで知らない。咄嗟にしても拙い言い訳だ。

 追及はしないが、少し寂しくも思う。

 この子も大きくなった。秘密くらい出来るし、その為なら嘘も吐く。当たり前のことだ。

 なのに、当たり前のことが胸に痛い。

 父親とは難儀なものだと甚夜は静かに息を吐く。


「私が、傷付けてしまったひとだ。合わせる顔が無かった」


 胸の痛みの幾らかは過ったかつてに理由があったかもしれない。

 雪降る夜の悴むような寒さと胸に刺さった棘の痛みは、今でも情けないくらいによく覚えていた。


「え……?」

「どうした」

「……ううん、別に」


 ふるふると首を横に振り何でもないと示してみせるが、動揺は隠しきれていない。

 そこまでおかしな発言をしたつもりはなかった。しかし野茉莉はいかにも予想外といった反応で、寧ろ甚夜の方こそ戸惑いを覚える。


「謝ったりは、しなかったの?」


 続けた遠慮がちな言葉には、やはり不満げな調子も刺々しさもなく、だから責める意図はないのだと分かる。

 けれど目には微かな縋る色。どうして会いに来てくれなかったのか、まるで“彼女”にそう問いかけられていると錯覚してしまう程野茉莉の姿は真摯だった。


「……私は、彼女の大事なものを奪ってしまった。許せるものではないだろうし、よしんば許せたとて失われたものが返ることはない」

「それは。そんな、ことは」

「謝ったところで彼女の負担を増やすだけだ。そう思えば、会いに行くのは憚られた」


 素直に心情を吐露するのは多分重なった面影のせいだ。

 謝るなどできる筈がない。彼女の父親を殺した男が一体何を言えるというのか。

 それに、本当の彼女は“どうして会いに来てくれなかったのか”なんて言わない。

 鬼を嫌う彼女だ。化け物に擦り寄られても嫌悪しか沸かないだろう。

 つまり大層なことではなく、落ち着くべきところに落ち着いたというだけの話。ただ時折考えたりもする。


「それでも、時折考えるよ。もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今があったのではないか、とな」


 最後には全部台無しになってしまったが、笑い合えた頃も確かにあった。

 ならば今更どうしようもないと知ってはいるが。

 何かが違ったのなら、もう少しましな終わりも有り得たのではないだろうか。

 懐かしむような、しかし力ない声。

 それはもしかしたら、“御嬢さん”の零した嘆きに似ていたかもしれない。


「……そっ、か」

「どうした」

「別に」


 話を聞き終えた野茉莉は見るからに沈んだ様子で俯いてしまった。

 急激な態度の変化に甚夜は眉を顰め、心配して声をかけるも返事は素っ気ない。


「しかし」

「だから何でもないって。ごちそうさま、もう寝るね」


 淡々とした物言いは、ほんの少しだけ苛立ちが混じっている。

 事実これ以上話を続ける気はないのか、かちゃんと二の句を遮るように、強めに箸を置いて食卓から離れる。

 けれどその横顔は、不機嫌というよりは悔やむような。泣きそうになるのを我慢しているようにも見えた。


「随分と、早いな」

「なんか、眠くて。おやすみなさい……ごめんなさい」


 申し訳なさそうにそれだけ残し、振り返ることなく野茉莉は部屋へと戻る。

 遠くなる足音がよく響く。一人いなくなっただけ。なのに居間は随分と広くなったように感じられた。






 * * *   






 今も、雪が、止むことはなく。






 今日の夢はいつもとは違った。

 何処かの大きな家。縁側に“御嬢さん”と並んで座り、庭を眺めている。

 雪が降っている。なのに寒いと思わないのは、やはり夢だからだろうか。


『そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ』


 父は焼けただれたような皮膚の、醜悪な鬼と対峙している。

 抜刀し、脇構えを取り。一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。


『今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ』


 それで終わり。

 一太刀の元に、鬼は両断され。

 そこで父の姿も鬼の死骸もなくなり、平穏な雪の庭だけが残された。







「昔ね、あなたのお父さんに護衛をしてもらったの。本当に強くて。ああ、読本の中の剣豪が目の前にいるって思ったわ」


“御嬢さん”は懐かしそうにそっと目を細める。

 聞かせてくれたのは、鬼に襲われた商家の娘と助けてくれた腕の立つ浪人の話。語り口はゆったりと穏やか、なのにどこか楽しそうだ。

 それが嬉しいようで、自分の知らない父の姿を知っていることがちくりと胸に痛いような、複雑な気持ちで耳を傾けていた。


「■■ちゃん、今日は元気ないわね?」


 憂鬱が顔に出ていたようだ、“御嬢さん”は優しい笑みで声をかけてくれる。

 心配してのことだと分かっているのに、勝手に傷付いている心を見透かされたようで、なんだか情けなくもなる。

 でもこれは夢だ。そう思えば、素直に言葉は口の端から零れていた。


「父様、貴女のことが好きだったのかな」


 父はもしかしたら家族になっていたかもしれないと言っていた。

 きっと二人は恋仲だったのだろう。結婚の約束までしていたのかもしれない。


『それでも、時折考えるよ。もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今があったのではないか、とな』


 弱々しく、けれど暖かな声が耳に残っている。

 それが辛い。

 だって思ってしまったのだ。今の生活は、父にとって“上手くいかなかった結果”なのではないだろうか。

 本当は、父は。拾った子供のことなんて。

 そんなつもりで言ったのではないとちゃんと分かっている。なのに嫌な想像が過って消えてくれない。


「あいつの気持ちなんて分からないけど。私は……もしかしたら。貴女の言う通り、好きだったのかもしれないわね」


 ああ、やっぱり。

 それは、つまり。


「でも恋じゃなかったわ」


 けれど“御嬢さん”はどうでもいいことのように答えた。

 その気楽さが不思議に思えて、彼女の横顔を盗み見る。過ぎ去ったかつてを語る彼女は、こちらが驚くくらい落ち着いた表情をしていた。


「え……?」

「私は、あいつの弱さに気付いてたのに。抱えているものの重さを考えてあげられなかった。その時点で、私の想いは恋じゃなかったの、多分ね」


 報われなかった恋の話をしているのに痛みなんて欠片も感じさせない。

 ただそれが悲しいのか、寂しいのか。

 遠くを眺める瞳はあまりに静かで、だから何も言えなくなった。


「私は雀なの。羽毛を精一杯膨らませて、冬の寒さに耐えることしか出来ない雀。そんなだから、冬を越した時あの人はもう傍にいなかった。馬鹿みたいね」


 自嘲の笑みに、何故か自身の憂いが重なる。

 ああ、違う。“何故か”ではない。

 毎夜続く不可解な夢の中で、怖いとも感じず、こんなにも和やかに会話ができる理由をなんとなく理解してしまった。


 ───この人は、私といっしょなのだ。


 言いたいことも言えずに、勝手な想像に怯えて。

 今もずっと立ち止まったまま、前にも後ろにも進めないでいる。 


「お父さんと、なにかあった?」


 そういう彼女だから、同じ痛みを隠しているから、気付けてしまうのだろう。

 軟らかい微笑みで心の奥を見透かされて、またも何も言えなくなってしまう。


「なら、もう少しここにいる?」


 迷いはあった。

 でも、どうしてか帰るのは躊躇われて、自然と頷きを返していた。 



 そうして雪は降り注ぎ、辺りを白く染め上げて。

 わたしは、ゆめを、みている。






 * * *






「は? 野茉莉ちゃんが目ぇ覚まさん?」


 昼飯時、染吾郎はいつものように鬼そばへ訪れた。

 しかし休みでもないのに暖簾が出ておらず、戸締りもしていない。

 はて、何かあったか。奇妙に思い店を覗き込めば、そこには椅子に深く腰を下ろし項垂れている甚夜の姿があった。

 随分と憔悴しており、声をかけるまで来客にも気付かない有様。ここまで分かり易く疲弊を表に出すのは、この友人にしては珍しい

 理由はすぐに知れた。

 事情を尋ねれば言葉少なに奥の部屋へと案内される。

 綺麗に整頓された畳敷きの室内、机の上には平吉の土産の櫛やら根付やらが並べられている。

 敷かれた布団には、彼の愛娘である野茉莉が静かに眠っていた。


「何度も声を掛けたが反応はない。医者にも見せたが異常はないらしい。状態としては眠っているだけ。なのに、目を覚まさない」


 体を屈め、野茉莉の頬に手を触れる。

 暖かい。脈も正常。規則正しい寝息。一見何の問題もないように思える。

 ただ、目を覚まさない。


「いったい、どうすれば」


 募る焦燥に普段の無表情は崩れ、語り口にも余裕がない。

 娘の異変に狼狽し、頭の方もうまく回っていないようだ。思い悩むが打開策など浮かばず、甚夜は眠り続ける野茉莉をただ痛々しげな顔で見詰めていた。


『旦那様、落ち着いてください』

「分かっている。分かってはいるが」


 それを慮り兼臣が窘めるもあまり効果はなかった。

 そも父親に「娘を案じるな」なぞ、どだい無理な話。野茉莉を想えばこそ甚夜は冷静になれない。

 ならば落ち着いて状況を判断するのは、やはり無関係でいられる者の方がいいだろう。


「ええよ別に。無理に落ち着かんでも」


 切羽詰まった状況にあって、染吾郎は肩の力の抜けた、実に気楽な態度である。

 場違いとも思える振る舞い。あまりに軽すぎて甚夜は茫然としてしまう。


「煮えた頭で考え事もないしな。そういうのは僕が受け持ったる」


 気負いのない物言いだが、決して野茉莉のことを軽んじている訳ではない。

 ゆったりとした笑みは軽薄ではなく、信じるに足るだけのなにかを感じさせた。


「君に野茉莉ちゃんの心配すんなは酷やろ? 冷静になんのも頭使うのも僕がやったるから、適当に気付いたことだけ吐き出してくれればええ」


 だから落ち着く必要も不安に思うこともない、どっしり構えていろ。

 言外の意味を間違えない。甚夜は静かに俯き、ゆっくりと息を吐く。

 染吾郎の気遣いはちゃんと届いたらしい。纏う空気が目に見えて変わる。

もう一度顔を上げた時には、まだ本調子とはいかないまでも、幾らか冷静さを取り戻していた。


「……済まない、取り乱し過ぎた」

「それが分かりゃ十分。ま、君にはこういう言い方のが効くやろ?」

「ああ、多少頭も冷えた……お前の掌の上というのは癪ではあるが」

「あらら、ひどい物言いやなぁ。嘘はいっこも言うてへんのに」


 悪態をつきながらも甚夜の口元は僅かに緩み、それを察した染吾郎はやはり軽い調子でからからと笑う。

 取り敢えず軽口を交わせる程度には落ち着いたようだ。

 まったく、有り難い友人だ。その心遣いに感謝し、情けなくも狼狽えた自身に喝を入れる。


『旦那様……』

「お前も済まなかったな、兼臣」

『いいえ、その焦燥には、私も覚えがありますから。ですが野茉莉さんを想えばこそ、まずは一呼吸を置いてください』


 大切な人を亡くした兼臣にも思うところがあるのだろう。

 だからこそ指摘は正しい。

 ここで動揺してどうする。野茉莉がなんらかの怪異に巻き込まれたのは間違いない。ならばそれをどうにかするのは父親の役割、狼狽えている場合ではなかった。


「反省している。成長できたつもりでいたが、父親としてはまだまだ未熟のようだ」

『お気になさらず。それを支えるのも妻の務めでしょう』

「またそれか」


 気安い調子で鬼と刀は言葉を交わし合う。

 夫婦には程遠いがそれなりに相性はいいらしい。遠慮のない遣り取りに甚夜の肩の力も抜けてきている。


「なんや、結構うまくやってるみたいやね」

『勿論です』


 勝ち誇るような言い方に思わず苦笑が漏れる。

 しかし染吾郎は表情を引き締め、眠り続ける野茉莉を見た。


「取り敢えず、甚夜は傍にいたり。僕の方で調べてみるわ」

「助かる」


 本当に、感謝してもし切れない。

 甚夜は腰を下ろし、そっと野茉莉の手を握った。

 滑らかで小さく、とても暖かい。

 歳を取れない自分では、いつまでもこの娘と共に在ることは出来ない。

 いつかは離れていく手だと知っている。

 しかし叶うならば、もう少しの間だけ傍に在ってほしいと願った。






  * * *


 止むことのない雪に景色は染まり。

 揺蕩う心は、白い夢を見続ける。


『なんだ、忘れてた訳じゃないのね』

『いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな』

『そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね』

『あまり老けん性質たちだ』

『世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ』


 偶然の再会。

 あの時と同じように彼は助けてくれた。


『時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか』

『何よそれ』

『事実だから仕方ない。だが敢えて言うならば……多分、私にはそれしかないんだろう』


 茶屋で磯辺餅を食べながら語り合う。

 強いと思っていた彼の弱さを知った。


『兄と呼ばれるのは苦手なんだ』

『え?』

『私は最後まで兄でいてやることが出来なかった。だから苦手……ああ、違うな。多分、自分の弱さを見つけられたようで、嫌な気分になるんだ』


 雪柳の下。

 悩んで、傷付いて。

 譲れない何かにいつも彼は苦しんでいて。


『ええ。きっと私達は、想いの帰るべき場所を探して、長い長い時を旅するのです』

『見つかるだろうか』

『見つけるのです。きっと、その為の命なのでしょう』


 でも少しずつ心は変わる。

 それが何故か、とても嬉しかったような。


『二人とも、どうしたの?』

『何でもありませんよ』

『ああ、何でもない』


 でも、悲しいことだってあった。

 彼と蕎麦屋の娘。二人の間には、他の人にはない何かがある。

 それを見せつけられるのが辛かった。


『じ、甚夜』

『目を瞑っておけ。すぐ終わる』


 危ない時は、当たり前のように庇ってくれた。

 大きな背中を、多分頼もしいと思った。


 ああ、そうだ。 

 いつだって彼は守ってくれていたのだ。


 なのに───





 近寄らないで化け物ぉ!!




 降り頻る雪の夜。

 投げ付けた言葉で傷付けてしまった。

 彼を、今迄積み重ねたものを。

 最後まで形にならなかった、曖昧な心すらも。


「あいつは、私を助ける為にずっと隠してきた秘密を曝け出したのに」


 場面が変わる。

 先程も見た雪柳の下。

 春の花が咲くのに、雪はまだ降り続けている。

 白く小さな花弁が雪に紛れて揺れている。淡く儚げな景色は本当に美しく、同じくらい寂しくもあった。


「……なんであの時、違う言葉をかけてあげられなかったんだろう」


 遠い情景を、知らない筈の人を夢に見る。

 不思議だったけれど、その意味にようやく気付けた。 

 ずっと見続けた夢は野茉莉のものではなかった。


 今なら分かる。

 これは“御嬢さん”の夢だ。 


 彼女を苛む過去の未練。その中に迷い込んでしまっただけ。

 だから名前は雑音に掻き消される。

 野茉莉と面識のない“御嬢さん”は、知らない名を呼ぶことが出来ない。

 彼女はただいつかの後悔を、今更どうにもならない白い夢を眺めている。


「そうすればあなたに、私の面影があったかもしれないのにね」


 零れ落ちる呟きが胸を抉った。

 彼女の言葉は聞き流しそうになるくらい軽やかで、それが痛くて野茉莉は何度も首を横に振って否定する。

 違う、そうじゃないのだと。 

 どんな道筋を辿ったって、“御嬢さん”が望む今には辿り着けない。


「……違うんです」


 だって、私は。

 あの人の子供じゃないのだから。


「私、捨て子なんです。父様が拾ってくれて、育ててくれて。だから、本当は、娘なんかじゃなくて」


 ああ、心が軋む。

 野茉莉は甚夜を本当の父だと思っていて、ちゃんとそれを伝えた。

 でも聞くことは出来なかった。

“私を本当の娘だと思ってくれていますか”なんて、どうして言えるのか。

 だって父は優しい。

 兼臣や朝顔といった、行く当てのない者達を見返りもなく家に泊めていた

 もしも自分もそうだったら?

 育ててくれたのは優しさからで。哀れな捨て子に手を差し伸べてくれただけで、娘だなんて思っていなかったら?

 不安はいつも胸にあって、返ってくる答えが怖くて、どうしても聞けなかった。


「そう……」

「父様は優しくて、何も言わないけど。本当は私のことなんて邪魔なんじゃないかって。だって、私がいたって何の役にも立たない」


 本当は分かっている。父は邪魔だなんて思ってないことくらい。

 でも重荷になっているのは事実なのだ。

 助けられてばかりで、何も返せるものはない。

 子供の頃はまだよかった。無邪気に「いつか父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげる」なんて言っていた。

 あれから随分と時間が経って、背は高くなり、少しくらいは大人になれて。

 なのに相変わらず助けられてばかりで、父が居なければ何もできない。

 辛かった。 

 何もしてあげられない自分が、たまらなく惨めだった。


「だから、だから」


 気付けば野茉莉は泣いていた。

 自身の言葉に傷付けられて、後から後から涙は溢れる。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 昔は違った。もっと素直に父娘でいられた。

 父が大好きなことも、昔願った夢も、変わらない筈なのに。

 何故こんなにも息苦しいと感じてしまうのか。


「……そう、よかった」


 涙と一緒に溢れる嘆き。けれどそれを受けた“御嬢さん”の声はとても優しい。

 場違いと感じてしまうほどの柔らかさに顔を上げる。

 滲む視界の向こうには、遠い日々を懐かしむような微笑みがあった。


「私は多分、あいつが好きだった。同じくらい弱いから、きっと支え合うことが出来ると思ってた。……支えて、あげたかった」


 それが彼女の未練。

 あの頃は気付かなかったけれど、本当は彼を大切に思っていて。

 支えになってあげたかった。できるなら一番近く、彼の隣で。


「だけど、今はもう傍にいてくれる人がいるのね」


 しかしその願いが叶うことはなく。

 それでも、よかったと。

“御嬢さん”は満ち足りたようにゆったりと息を吐く。


「本当はとても脆くて、なのにそれを見せようとしてくれない人だから。……あなたみたいな人がいるなら、少しだけ安心はできるかな」


 その気持ちが嘘でないと分かるから、野茉莉は目を背けたくなった。

 まっすぐなものをまっすぐに受けられないのは、自分が歪んでしまったから。

 父が昔そう言っていた。

 きっとそれは正しい。彼女の笑顔を辛いと思うのは、まっすぐに成長できなかったせいなのだろう


「……でも、私。父様にひどいことばっかりして、ひどいことばかり言って」


 傍にいてくれてよかった。

 そんなこと、父は思っていない。

 私は重荷にしかならない。

 いつか、きっとあの人も────


「あ……」


 そこでようやく野茉莉は気付いた。

 自分の気持ちに、父と上手く喋れなかった理由に。


 所詮は拾われた子供だ。

 明確な繋がりなどある筈もない。

 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。

 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。

 結局のところ野茉莉は怖かったのだ。



 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。



 だからいい子になりたくて。でも出来ないことはあまりに多すぎて。

 父に失望されるのも怖くて、自然と距離は離れて。

 そのまま時間だけが過ぎて、いつの間にか、普通に喋るのも儘ならなくなった。


「馬鹿みたい。私、何やってるんだろう……」


 そのくせ上手く喋れない自分が苛立たしくて、父に八つ当たりをして。

 大好きなのに、嫌われたくないのに、上手く伝えられなくて。

 優しい父に甘えて、なのに愛してくれるなんて信じられなくて。

 想像に怯えて口を閉ざす愚かな女。見せつけられた弱さに野茉莉は肩を震わせた。

 こんな面倒な娘、きっと父も煩わしく思っている。


「きっと、父様も」


 私のことなんて。

 泣きながら、決定的な科白を口にしようとして。




「私も、そうだった」




 けれど穏やかな言葉に遮られる。

 降りしきる白。

 雪が止むことはない。

 この夢は越えられなかった冬。

 だから今も、雪が、止むことはなく。

“御嬢さん”の想いは此処で立ち止まっている。


「自分に自信が無くて。本当は言いたことがいっぱいあった筈なのに、何にも言えなかった」


 助けられたのに、ありがとうって言えなかった。

 傷付けたのに、ごめんなさいって言えなかった。

 そうやって言えないことばかりを積み上げてきたから。

 最後に、さようならを伝えることさえ出来なくなってしまった。


「ちょっとしたきっかけで話さなくなって、仲直りできずいつの間にか時間が過ぎて……すれ違っても気付かなくなって。そうなって初めて知ったわ。想いって薄れていくものなのね」


 くすりと口元を緩ませる彼女に、悲しみの色はない。

 寧ろ足跡のない雪原を思わせる。淀みも汚れもない、真っ白な心だ。


「もう胸は痛くない。彼のことも、そんなこともあったなんて笑えるようになったわ。誰かを傷付けても、誰かに傷付けられも、いつかはそれを忘れられる。でもね、痛みと共に消えていくものだって確かにあるの」


 彼を傷付けてしまった。

 会えなくなって、別の誰かが支えてくれた。

 触れ合う日々に痛みも少しずつ薄れて。

 もう一度笑えるようになった頃、胸の中で燻っていたなにかは、何処かへ消えてしまっていた。

 本当に、大切だった筈なのに。

 今では思い出すことさえ出来ない。


「あなたはそうなっちゃ駄目よ」


 だから、この子には伝えなきゃ。

 涙と共に乾いて消えていく大事なもの。

 歳月に押し流され失われていく、ありふれたもの。 

 尊い幸福の日々が小さな掌から零れ落ちてしまわないよう、そっと優しく少女の手を握り締める。


「もう私には、あの頃の想いは思い出せないけれど。まだ、あなたは間に合うでしょう?」

「でも」

「大丈夫、ほんの少し素直になれば充分。あいつ、結構そういうのに弱いのよ?」


 言葉にならない想いは降り積もる雪のようだ。

 伝わらないまま胸の奥に降り積もり、白く染め上げては心を凍てつかせる。

 だけどいつか冬が終わり、雪が溶け出す頃には。


「……私には、それが出来なかった。だから、あなたが支えてあげて」


 寒さに縮こまった羽を広げて、貴女の想いが春の空を無邪気に飛び回れますように。




 真っ白な景色。

 迷子が二人、手を取り合って。

 触れ合う掌から、悲しかった夢を暖かく感じるくらいの熱が伝わってくる。


「どうして、そこまで……」


 祈るような真摯さに、野茉莉は自然と問うていた。

 この夢は“御嬢さん”の未練。初めは迷い込んだとばかり思っていたけれど、想いを託すような言葉達に、今は寧ろ彼女が迎え入れてくれたのではないかと感じられる。

 どうして彼女は、名も知らぬ小娘の為にそこまでしてくれるのか。


「そうね……多分、借りを返したかったのよ」

「借り?」

「そう。あいつが、私達を親娘にしてくれたから。その借りをね」


 借りだなんて言われても野茉莉には理解ができない。

 しかし“御嬢さん”は楽しそうに口の端を釣り上げているだけ。説明をする気はないようで、代わりに彼女は悪戯っぽく付け加えた。


「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」


 低い声と堅苦しい口調は慣れておらず、なんだかしっくりこない。

 だからそれが彼女の言葉ではなく、似ていない口真似だと知れる。誰の科白なのかは考えるまでもなかった。


「あの」

「なに?」


 好きだったけど、恋ではなかったと。

 そう語った彼女が何故ここまでしてくれたのかは、どれだけ考えても分からない。

 でもその優しさに少しでも報いたいと思う。


「あなたは、恋をしてたと思います。ちゃんと、父様を好きでいてくれました」


 だから野茉莉はまっすぐに瞳を見つめて言う。

 せめて彼女の想いが何の意味もなかったものになってしまわないよう、あやふやな恋の輪郭を縁取るように、はっきりと。


「……ありがと」


 彼女の心はやはり分からないままで。

 だけど、くすぐったそうに彼女が笑うから。少しは何かをしてあげられたのだと思えた。


「今更だけど、名前……名前を」


 何度も雑音に掻き消された。でも今なら名前を受け取れるような気がした。

 しかし彼女は首を横に振って、静かに降る雪を背景に、あまりにも晴れやかな表情を浮かべる。


「私はずっと雀だったの」


 気付けば雪は弱まり、ふわりふわりと、名残だけが夜空に揺れている。

 冬の終わりを告げるように、染まった白い景色も滲んでいく。

 目の前に落ちてくる雪の一かけら。

 野茉莉は意識せずに手を伸ばし、それを掬い取る。

 掌に在る小さな雪を、失くさないように強く握りしめる。

 そして溶け往く雪を思わせる微笑みに、野茉莉は静かに理解した。





「でも……ようやく、蛤に為れた気がするわ」






 随分と遠回りをしたけれど。

 名も知らぬ彼女の初恋は───今、終わったのだ。






 そこで夢もまた、終わりを告げた。






 * * *






 近く、遠く、誰かが名前を呼んでいるような。

 頭がぼんやりとしていて、体もなんだか重い。

 ああ、そうか。

 私眠っていたんだっけ。

 それを思い出し、しばらくしてからようやく意識がはっきりしてきた。


「野茉莉っ」


 そうして瞼を開いた時、最初に映ったのは。

 今まで見たこともないくらいに慌てている父の顔だった。


「とう、さま?」


 まだ眠りから覚めきっていないのか、頭がしっかり動かない。

 だから上手く反応が出来なくて、しかし父は心底安堵したような笑みを浮かべ、野茉莉の両肩に手を触れた。


「よかった……体調はどうだ」


 感極まったように息を吐く。

 いったいなにがどうなっているんだろう。

 父がこうも感情を露わにするのは初めてで、起き抜けということもあり、頭の方がついてこない。


「え、別に。寝てただけだし」

「だとしても、丸二日も起きなかったんだ。おかしなところはないか」

「え!?」


 随分長い夢だとは思ってはいたが、まさかそんなに眠っていたとは。

 感覚的には寝て起きただけの為驚きは強く、思わず声を上げる。同時に初めて見る父の動揺ぶりにも驚いてしまった。


「もしかして、心配、した?」

「当たり前だろう」


 そうだ。

 父は普段無表情だけど優しい人だから、心配するのも当然で。




「娘の心配をしない親がいるものか」




 そう思っていたから。

 するりと零れた言葉に心をひどく揺さぶられた。


「娘……? だから、私の心配してくれた?」


 たどたどしい問いに頷きを返しながらも、父は随分と困惑している。

 意図が今一つ読み取れないのか、眉間に皺を寄せ、どう返せばいいのか頭を悩ませていた。

 その態度に、頭の中が真っ白になる。


 ああ、本当に、馬鹿だった。


 所詮は拾われた子供だ。

 明確な繋がりなどある筈もない。

 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。

 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。

 結局のところ野茉莉は怖かったのだ。



 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。



 だからいい子になりたくて。でも出来ないことはあまりに多すぎて。

 父に失望されるのも怖くて、自然と距離は離れて。

 そのまま時間だけが過ぎて、いつの間にか、普通に喋るのも儘ならなくなった。


「ごめん、なさい」


 でも初めから間違っていた。 

 上半身を起こし、そのまま抱き付く。

 いきなりのことに父は反応できていない。鬼からの奇襲を容易に躱す父が、反応できない筈がないのに。

 それでもこうやって無防備を晒してくれるのは、家族だから、娘だと思っていてくれるからに他ならない。 

 なんで気付けなかったのか。

 知っていた筈だ。

 店を開いたのは、周りから見ても恥ずかしくないように。

 料理を覚えた理由は、ちゃんとしたものを食べさせるため。

 累が及ばないようにと、あんなに大切にしていた刀だって腰に差さなくなった。

 それが誰の為の無理だったかなんて、考える必要もなかった。

 いつだって父は自分を想ってくれていた。

 いつだって父で在ろうと、努力を重ねてきてくれたのに。


「ごめんなさい、父様。ごめん、なさい……」

「野茉莉、どうした」


 縋りついて涙を流す。父は優しく、本当に優しく頭を撫でてくれた。

 まるで子供みたいだと思って、野茉莉は嬉しくなった。

 まるでも何も自分はこの人の子共なんだから、これでいい。

 そう思えた今がたまらなく嬉しかった。


「怖い夢でも見たのか」


 気遣うような声。

 父の腕の中で、野茉莉はふるふると首を横に振った。


「ううん、いい夢を、見たの」


 泣き笑い、思い出す、夢の中の雪景色。

 視線を落すと、枕元に何かが置いてある。


 よく見ればそれは、平吉に貰った小物の一つだ。


 でっぶりとした、愛嬌のある根付。

 木彫りの福良雀が、何故か笑ったような気がした。




 ◆




 福良ふくら雀は寒雀の異称で、“寒い冬に全身の羽毛をふくらませて丸くなっている雀”の意を示す。

 まん丸い愛嬌のある姿は根付や張り子の題材としても人気が高い。

 寒雀は羽毛を体いっぱいにふくらませて空気の層をつくり、厳しい寒さをしのぐ。

 そうして冬が過ぎれば、春の陽気に誘われて、再び無邪気に空を飛び回るのだ。





「平吉さん、あのお土産って何処で買ってきたの?」


 目覚めた翌日、染吾郎に連れられて平吉が鬼そばへ訪れると、いの一番に野茉莉はそう聞いた。

 福良雀の根付を枕元に置いた覚えはない。

 なのに何故と疑問が過り、しかしよくよく考えれば平吉は付喪神使いの弟子。ならばあの根付が多少不思議な力を持っていたとて驚くような話でもない。

 けれど“彼女”の夢は、きっとあれが見せたのだと思うから。

 できるならその由来を知りたかった。


「あー、いや。あれ、貰い物やからなぁ。納品に須賀屋ゆう店に行って、しばらく話しとったらなんや鬼そばの話になって。そんで店主の話しとったらいつのまにか野茉莉さんの話になって。そしたら、店の女の人がお土産にてくれた」

「じゃあ、特別な由来とかは」

「うーん、ごめん。俺も知らん」


 須賀屋。

 店の名前は記憶にはない。平吉もそれ以上は知らないようで、結局あの福良雀はなんだったのか、真相は分からず仕舞いだ。

 難しそうな顔で野茉莉は考え込み、それを見ていた平吉は「ああ、そう言えば」と思い出したように言葉を付け加える。


「店の女の人、“これを贈る相手に頑張ってって伝えてね”てゆうとった。なんやったんやろな、俺に頑張って言うんならともかく……って別に頑張るようなことないけどな!」


 慌てて誤魔化すも、最後の方は野茉莉の耳には届いていなかった。

 頑張って。簡素な激励に頬が綻ぶ。

 福良雀の根付が何だったのかはいくら考えても分からない。

 でもきっと、これを平吉に渡してくれた人は“御嬢さん”なんだろう。

 そう思えば自然と暖かい気持ちになった。


「平吉さん、ありがとう。これ、大切にするね!」


 野茉莉は愛おしそうに福良雀を胸に抱く。

 可愛らしい仕草と鮮やか微笑みに平吉の心臓が高鳴った。

 これは結構いい雰囲気なのではないか?

 社交辞令ではない、心からの喜びに綻ぶ表情を見れば、弥が上にも期待感が高まる。 


「きつね二丁、あがったぞ」

「はーい!」


 もっとも二の句を告げるより先に父親の邪魔が入ってしまう。

 野茉莉は元気よく返事をして、明るい笑顔のまま甚夜のもとへ走っていく。取り残された平吉はあうあうと意味の分からない声を漏らすしかできなかった。


「まぁ、なんや。平吉、がんばり」

「はい、お師匠……」


 涙が出そうだが本当に零したら流石に情けなすぎる。

 ただやはり不満はあり、折角の機会だったのにと歯を食い縛り、小忙しく働いている甚夜を睨み付ける。


「頼んだ。病み上がりだ、あまり無茶はするなよ」

「もう、別に病気じゃないのに。でもありがとね、父様」


 以前のぎこちなさは欠片もない。

 父は娘の体調を気遣い、娘は過保護な父の心配を照れながらも受け入れる。いかにも仲の良い親子といった空気に、常連客は生暖かい視線を送っていた。

 ただ平吉としては、蕎麦を運ぶ野茉莉が本当に嬉しそうだから、何となく複雑な心境でもあった。


「……なんで、俺が贈り物をしたのにあっちが仲良くなってるんですかね、お師匠」

「いや、それを僕に聞かれても。ただ君も大変やなぁ」

「はい……」


 勿論、野茉莉が元気になってよかったと思うし、父娘の仲が戻ったのも素直に喜ばしい。

 それは間違いないのだが、あの二人はあまりにも仲が良すぎる。入り込む余地が僅かも見えないくらいに。

 というか父親に心配されて頬を染める娘というのはどうなのだろうか。邪推する訳ではないが、ともかく父は親馬鹿すぎるし娘も父を好きすぎる。

 野茉莉と艶っぽい関係になるのは色々な意味で物凄く大変なのだと改めて思い知らされてしまった。


「今回は迷惑をかけたな、染吾郎」


 客の相手も一段落がつき、甚夜は厨房から染吾郎らに声を掛ける。

 娘を取り巻いていた怪異は払われ、わだかまりもなくなった。おかげで随分と穏やかな様子、ようやく一安心といったところだろう。


「気にせんでええて。面白いもんも見れたしな」


 そうやって余裕が戻ればこそ遠慮なくからかえるというもの。染吾郎はにやりと口の端を釣り上げた。

 今回ばかりは言われても仕方ない。

 野茉莉が心配だったからとはいえ醜態を晒してしまった。今更ながらに甚夜は苦々しく表情を歪める。


「そこは、忘れてくれると有難い」

「あはは、恥ずかしがらんでもええやろ。君がちゃんと父親やっとる証拠や」

「だとしてもな……」


 自覚があり、世話にもなった。強い反論はできず曖昧に濁せば、染吾郎はやはりにまにまと笑っている。

 どうにも居た堪れなくなり視線を外せば、今度はこちらを睨み付けたままの平吉と目が合った。


「どうした、宇津木」

「うるさいわ」


 にべもない。あからさまに不機嫌な様子で、平吉はふんと顔を横に背けてしまう。

 近頃は多少態度も軟化していただけに、こういった遣り取りは久しぶりに感じる。


「まあ、気にせんとったって。こっちはこっちで、ちゃんと男の子やっとる証拠やから」


 理由は単純、好いた女が他の男と仲良くしているのが気に入らない、ただそれだけのことである。

 まあ口に出しては流石に弟子が哀れ。ここは適当に流すのが一番だろう。


「……まあいい、何を食べる。今日は奢ろう」

「お、ええの?」

「ああ、世話になった礼だ。このくらいはさせてくれ」

「ほな遠慮なく。僕はきつね蕎麦、こっちはどうせ天ぷら蕎麦やろ」


 今回の件を解決したのは染吾郎だった。

 と言っても特に何かをした訳ではない。


『特に害はないから放っておいても大丈夫や』


 そう伝えただけである。

 半信半疑だったが、彼に言われるまま眠り続ける野茉莉の世話をしていた。

 すると二日後、野茉莉は目を覚ました。

 本当に何もしないでも解決してしまったのだ。


「結局なんだったのか。野茉莉も“いい夢を見た”と言うだけ。よく分からん」


 腕を組んで考え込むが、答えは出てこない。

 結末だけを見れば上々ではあるのだが、最後まで蚊帳の外だった甚夜には何が起こっていたのか今一つ把握できていなかった。


「夢やなくて、蜃気楼やね」


 しかし付喪神使いたる三代目秋津染吾郎は、事態を正確に理解している。

 難しい顔の甚夜に、彼は茶飲み話のような軽い調子で言う。


「福良雀の根付が見せた蜃気楼。巡り合わせってのはおもろいもんやな」

「蜃気楼を見せるのははまぐりの付喪神だと言っていた筈だが」

「そやから、蛤の話。清(中国)では、雀は海ん中に入って蛤になるそうや。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わるもんなんやと」


 冬を越えた福良雀は、春の空に羽を広げ、夏を過ぎて秋の終わりに蛤となる。

 ならばきっと取り残された雀の想いも。

 季節を巡り歳月を経れば、いつかは蜃気楼のように儚げな優しさにも変わるだろう。


「そっか、じゃあ、あの福良雀は。冬には間に合わなかったけど、ちゃんと蛤になれたんだ」

「うん、勿論。ほんで、報われなかった想いも君なら大切にしてくれる。そう思ったから、君ん所に来たんちゃうかな」

「そうかな。……そうだと、嬉しいな」


 どこか嬉しそうに染吾郎は語る。

 それを傍らで聞いていた野茉莉は、優しく、たおやかに微笑む。

 二人の遣り取りは甚夜には理解できない。けれど愛娘の笑顔があまりにも晴れやかだったから、これ以上問い詰めることも出来なかった。

 結局何一つ分からないまま。

 しかし野茉莉は無事で、久しぶりに笑顔も見られた。

 それで良しにしようと無理矢理に自分を納得させ、しかしやはり眉間の皺は取れない。


「気にせんでええて。どうせ皆、夏の宵が見せた蜃気楼や」


 そんな甚夜を眺めながら、染吾郎は悪戯を成功させた子供のようにほくそ笑んだ。






 結局、“彼女”は蛤になることが出来なかった。

 雪の降りしきる冬を越えられなかった想い。

 言えなかった言葉は言えなかったまま消えてしまったけれど。

 それでも季節は巡る。

 歳月は往き、福良雀は歳月を経てようやく蛤となる。 

 伝わらなかった想いもまた季節を巡り、いつかは帰りたいと願った場所に還る。

 だから何の不思議もない。

 遠い昔言えなかった想いが、巡り巡って彼のもとへと辿り着いた。

 これは、ただそれだけの話だ。






「うん、気にしなくていいの。それより父様、今度一緒に買い物に行こう?」

「……ああ、そうするか」


 野茉莉は甘えるように父と言葉を交わす

 今まで上手く話せなかった分まで沢山お喋りをしようと思う。 

 それは“彼女”が残した、叶わなかった願いだったのかもしれない。

 不意に視線を外し、格子の窓から外を眺めた。

 夏の盛り、外を見ても雪は降っていない。

 しかし雪のように降り積もった心がくれたものはちゃんと胸に在る。

 それがどうしようもなく嬉しい。


 夏の宵が見せた蜃気楼。

 その眩しさに、野茉莉はうっすらと目を細めた。




明治編『夏宵蜃気楼』了




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