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『母神まんじゅう噺』・2(了)



 確か声をかけてきたのは彼女の方からだった。

 その時どんな対応をしたかはあんまり覚えていない。ただお師匠は「野茉莉ちゃんは礼儀正しいなぁ」と褒めていたような気がするから、多分こちらは褒められた態度ではなかったのだろう。


『はじめまして、えと』

『……へいきち。宇津木、平吉』

『平吉さん、よろしくおねがいします』


 最初は、かわいい女の子だなと思った。

 次はなんだか嫌な気分になった。

 だって鬼に育てられた鬼の娘だ。とても普通の目では見られなかった。


『甚夜、きつね蕎麦な』

『少し待ってろ』


 でもお師匠はここのきつね蕎麦がお気に入りらしくよく食べにくる。

 連れられてこれば当然あの娘とも顔を合わせる回数は増えた。


『いらっしゃいませー、秋津さん、平吉さん』

『おー、野茉莉ちゃん。邪魔すんで』

『……ども』


 昔は尋常小学校に通っていて、店にいるのは休みの時だけだったから、そんなに手伝いはできていなかったと思う。

 それでも記憶を辿れば「父様父様」と付いて回っている光景が一番に浮かぶくらい、あの娘はとても父親に懐いていた。 

 大嫌いな鬼の店、鬼の手作りの蕎麦。味は、まあまあだったけど。

 それを知られるのは癪で、視線をそらして。そういう時は、父様のお手伝いと言って店内にいる彼女をなんとなく見ていたことが多かったような。


 鬼が嫌いだった。

 だから鬼を慕う彼女も、初めは好きではなかった。

 鬼は人を踏み躙る。それが当然のことで。

 なのにあの鬼は間違いなく娘を大切にしていて、そんな父親があの娘は大好きで。

 その事実に天地がひっくり返るくらいの衝撃を受けて、当たり前の筈の図式とは真逆の父娘を、気付けば目で追って観察していたのだろう。

 だから、鬼が嫌いなのは変わらないけれど。

 それでもあいつがどんだけ娘のことを気にかけているか知っているし、彼女がどんだけ父親の為にと考えてきたかも知っている。


 それで、まあ。

 ずっと見つめていたから、彼女の純粋さや可愛らしさもたくさん知って。

 ふとした瞬間はたと目が合って。


『どうしたの、平吉さん?』


 あまりにも彼女が優しく微笑むものだから、あまりにも容易く心は溶かされて。

 生意気な小僧っ子にも分け隔てなく接する可愛らしい女の子に。

 幼い宇津木平吉は、非常に単純かつ速攻で、恋に落ちてしまったのだ。




 ◆


「あぁ、葛野さんいらっしゃい! おや、そちらのお連れさんは?」


 三橋屋の暖簾をくぐると快活な声が迎えてくれる。

 豊繁の妻、さくは夫とは正反対の強気な女性だ。“朔なのに陰ったところを見たことがない”とは夫の言で、実際いつ店を訪ねても彼女は明るくはきはきと接客をしている。

 めんどくさいが口癖で呑気な豊繁とは真逆だが案外と相性はよいらしく、夫が尻に敷かれているようで互いに惚れ合った仲の良い夫婦だった。


「どうも、お朔さん。こっちは、まあ常連の客で」

「あら羨ましい。うちにも葛野さんとこみたく沢山の常連さんができるといいんだけど」

「なにを。まだまだこれからでしょう」


 軽く言葉を交わせば朔は朗らかに笑う。

 平吉は気安い遣り取りを甚夜の背後で見ているのだが、鬼が普通にご近所付き合いしているというのは、なんとも居心地の悪い奇妙さを感じさせる。

 夕暮れに現れる幽霊。依頼の調査についていっていいかと頼めば、甚夜は多少の迷いこそあれど特に苦言を呈するでもなく受け入れてくれた。

 それが不思議といえば不思議だ。鬼が嫌いと明言して憚らない。そういう平吉の普段の態度を顧みれば断られてもおかしくないと思っていた。

 にも拘らず、いつも反抗的で生意気な小僧の同道を許したのは何故だろうか。

 いくら考えてもわからないまま。しかし直接聞くのも気が引けて、平吉は彼のやりようを後ろから眺めていた。


「饅頭を四つ、いや五つ包んでもらえますか?」

「はい、毎度あり! 二銭ですね」

「五厘足りないのでは?」

「おまけですよ。また今度、野茉莉ちゃんとうちに来てもらおうって魂胆です」

「なら、有り難く」


 子供のいない豊繁、朔の夫婦は野茉莉のことを大層気に入っており、普段からよくしてくれている。

 こういう時は遠慮しても問答になり、結局は押し切られるのが目に見えている。だからその心遣いに小さく頭を下げた。


「うんうん。野茉莉ちゃんみたいないい子なかなかいないんですから、優しくしてあげてくださいね」

「ええ。それは、勿論」


 手渡しされた饅頭の包みと共に窘めるような物言いもしっかり受け取る。

 今はぎこちなくなってしまったけれど、野茉莉が父想いのいい子であることは変わらない。

 そういう娘を大切にしたいという気持ちも本当で、口元に自然と笑みは滲んだ。


「なぁ、なんで饅頭?」


 会計を済ませ朔から離れると今迄黙って見ていた平吉が疑問顔で言う。

 これから怪異の調査に向かう。だというのに甚夜は饅頭を買い、そもそも腰に刀を差してもいない。少しばかり想像とは違い、若干戸惑ってしまう。

 ただ甚夜の方は大して表情も変えず、寧ろ当然のような振る舞いだ。


「それに、刀も持っとらんし」

「今回は必要ないからな。饅頭があれば事足りる」

「は?」


 それはどういう意味か。

 更に問い詰めようとして、しかし店の奥から出てきた豊繁に機を奪われる。そろそろ夕方、店を閉める頃合いになった。


「おー、葛野さん。来てくれたんだな」

「約束ですから」

「はは、助かるよ。んじゃ俺は店の片づけをするから、後は頼むわ」


 件の幽霊はいつも三橋屋には入らず、片付け途中の豊繁に声をかける。おそらく今日も同じような形で姿を現すだろう。

 甚夜らは通りの隅で豊繁を注視する。店から離れる時に「ねえ、あんた。約束ってどういうこと?」「いや、まあなんだ。ちょっとな」「はっきりしないね」といった具合の会話が聞こえてきた。幽霊の調査を依頼したことは妻に言っていなかったらしい。まあ妻がいる身では”金を払ってでも”という依頼を知られたらまずいのだろう。

 夫婦の言い合いが一頻り終われば片付けも進み、ようやく暖簾を下すところまできた。

 すると、どこから現れたのか。

 注視していたにもかかわらず、いつの間に少年が現れ、豊繁の袖をくいくいと引っ張っていた。


「……幽霊」


 平吉の呟きには反応は示さず、甚夜はただじっと彼らの遣り取りを観察している。

 ただ視線には訝しみや敵意の類はない。本当にただ見ているだけだ。 


“おまんじゅう、買いに来た”。


 少年は豊繁に話しかける。

 お金を払って、饅頭を買って。暖簾を下す時刻になって買い求めるという点以外は別段普通、特に気になるようなところはない。

 だが去っていく少年の姿に平吉は目を見開く。

 饅頭の包みを抱え、小走りに通りを行く少年は瞬く間にいなくなった。僅かも意識は逸らさなかったのに、足取りは追えなかった。

 あの少年は、幽霊は。

 確かに、ふっと、煙のように跡形もなく消えてしまったのだ。


「さて、行くか」


 それを見ていた筈の甚夜は、やはり大して動揺はしていなかった。

 消えてしまった幽霊の足取りを追う方法など平吉には思いつかず、しかしこの鬼の歩みには一切の迷いがない。それでいて急ぐでもなく、まるで散歩に出かけるような気楽さだ。


「ちょ、待てや。行くって、どこに」

「無論、あの幽霊の処へ」

「は?」

「染吾郎に相談をかけ、昼間のうちに当たりはつけてある」


 事も無げに言ってのけるものだから、平吉はあんぐりと大口を開けた。

 ああ、そうか。それが足手纏いにしかならない我儘な小僧っ子の同道を許した理由かと今更ながらに気付いた。


「やはりこの手の話ではあいつが誰より頼れるな」

「あー、もしかせんでも、やることなんも残っとらん?」

「そうでなければ流石に連れてはいかない。後は、こいつで終いだ」


 言いながら無造作に饅頭の包みを示してみせる。

 刀を差していないのは危険など微塵もない証拠。必要なことは全て調べ終え、解決策も準備済み。

 つまり下手を打っても平吉には危害が及ばないと踏んでいたからこそ、彼はついていくことを認めたのだろう。


「……初めに言っておいてほしかったわ」

「そいつは済まない」


 完全に子供扱い、しかもいつも突っ掛かっている相手に気遣われる始末。

 口をついて出た文句は悪びれない態度に流されて、平吉は不貞腐れたように顔を背ける。それが自分でも余計に子供っぽく感じられてしまう。


「やっぱり俺、あんたのこと嫌いや」

「知っているさ。で、用件はなんだ?」

「へ?」

「嫌いな鬼に態々付いてくるのだ。まさか物見遊山ではあるまい」


 ぐっ、と言葉を詰まらせてしまう。

 確かに付いていきたいといったのは平吉だし、勿論遊びのつもりではない。

 しかし今回の行動は殆ど衝動的なもので、明確な考えに基づいていた訳でもない。改めて理由を聞かれると答えに窮してしまう。

 野茉莉との関係に一言いってやりたかった、悩んでいる彼女の力になりたかった。

 鬼を討つ鬼の依頼に純粋な興味があった。自身の考える鬼とはかけ離れたこいつのことを見定めたかった。

 そこに至る要素はいくつもあるがどれも決め手に欠けて理由というには弱い。苦し紛れの返事はひどく曖昧なものになってしまった。


「あー、それは、やな……なんや、俺もよう分からん」

「そうか」


 けれど甚夜は然して気にした風でもなく通りを歩く。

 はっきりとしない物言いを追及されるかと思えばそんなこともない。あまりにも軽すぎる対応に平吉の方が困惑してしまうほどだった。


「なんで……」

「一から十まで理屈をつけて動けるほど明瞭な生き方は中々できないな」


 まるで自分がそうだと言うように、彼は頼りなく笑みを落とす。

 その表情は人を踏み躙り暴虐の限りを尽くす鬼のものとはかけ離れすぎていて、困惑は更に強くなる。

 本当に、変な鬼だ。

 平吉は前を行く背中に奇妙さと、ほんの少しの、僅かばかりの感謝を覚えた。



 ◆




 京都の東の玄関口、粟田口。

「京の七口」の中でも東海道・中山道を通じて東国へ繋がるとりわけ重要な出入口である。

 繋がる三条の通りは大層な賑わいを見せるが、甚夜らは喧噪から離れるように歩みを進める。

 裏に分け入れば華やかな通りとは打って変わった、静けさの漂う細道へ。そこを通り抜け、更にかなりの距離を行けばひっそりとした夜の京の町の姿がある。

 裏通りの、粟田口に程近い辺りであろうか。

 彼らは小さな影を見つけた。

 虚ろな、独特の気配をまとう少年───件の幽霊であった。


「あいつ……!」


 しかし平吉が視線を強めればその瞬間に消えてしまう。

 それでも甚夜は少しも慌てず、幽霊のいた方へ。もしかして自分が反応を示したせいで消えた? そう思った平吉も今度は黙って後ろについていった。

 辿り着けば足を止め、甚夜はじっと奥の建物を眺める。

 そこには住宅と住宅の隙間にかろうじて収まるような、朱色の禿げた小さな社があった。


「……ここは?」

「塞の神を祀った社だ。廃れて誰にも管理されず、さりとて壊すのも気が引けて放置されてはいるがな」


 社には結構な大きさの、歪な細長い石が安置されている。

 塞の神は道の神。集落や家に不吉なものが入り込むのを邪魔する、通り道を塞ぐ神だ。故に集落などの玄関口に祀られることが多い。この社もそういう粟田口を守護する神であった。

 ただ粟田口には厄除け・病除けの神であるスサノオノミコト・オオナムチノミコトの鎮座する粟田神社がある。

 石をご神体とする小さな塞の神は然程重要視されず、次第に追いやられ、今では住宅の隙間にひっそりと姿を残すのみだ。


「必要とされなくなった道の神。ただ塞の神は“塞ぐ”ことから良縁や妊娠、出産を祈る神でもある。おそらくこの社は子宝の祈願が主な役割だったのだろう」

「お、おう?」


 十七になったが平吉はまだまだ奥手な青年。“塞ぐ”の意味がぴんと来ないらしく、今一つ理解しきれていないようだ。

 とはいえ友人の弟子にあまり妙なことも言えない。その辺りは別に本筋でもなし、さらりと流して話を続けていく。


「しかしそれもいつしか忘れ去られ、こうしてひっそりと街の片隅にあるばかり。だから子供が母の世話をしていた、というところか」

「……子供って、あの幽霊?」

「あれは幽霊ではなく、想念が凝固して生まれたあやかしの一種だ」


 鬼の生まれ方は様々だ。

 鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。

 そして、無から生ずる鬼というものも、存在する。

 人の想いには力がある。それが昏ければ猶更だろう。

 憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる。

 無から生ずる鬼とは、即ち肉を持った想念。

 そもそも大抵の怪異は人の負の情念が集約、凝固して生まれるものである。


「子供がほしい、だけど生まれない。せめてもの救いを求め神仏に縋る。些細な不満も積もり積もれば力を持ち形となる。つまりあれは、子を望む母の想いが形となった、塞の神の子供だよ」


 だから刀は必要なかった。

 あやかし、怪異の類であることは間違いなく、けれど危険は微塵もない。あれは“子供がほしい”という想いの具象。単体で何かを為せるほどの力はなく、そもそも何かに危害を加えようという発想がない。

 できることも、したいことも。子供として母を大切にしたい、くらいのものだ。


「ほんなら、饅頭って」

「言葉の通り母の為に買ってきていただけ。人でも、あやかしでも。自分を生んでくれたものに感謝くらいはするさ」


 見れば社には饅頭が供えられている。 

 甚夜が持ってきたものと同じ、三橋屋の品。少年の幽霊は塞の神の供え物として毎夜饅頭を買い求めていたのだ。


「見たところあやかしとしての力は薄い。時が流れればいずれは霧散するだろう」

「そう、なんか……?」

「ああ。なにより母の為に夜毎饅頭を買ってくるいい子だ。放って置いたところで危険はない」


 甚夜は饅頭の包みを広げ塞の神に供える。

 三つは母親に、二つは子供に。折角だから親子仲良く食べてくれればいいと思う。

 平吉は奇妙な視線を感じ、ふと辺りを見回す。

 物陰にはこちらを覗く幽霊の少年。いや、塞の神の息子だったか。

 彼は甚夜にぺこりと頭を下げ、初めてにっこりと笑い。


“ありがとう”


 やはり煙のように姿を消した。


「さて、これで終いだ。帰るぞ」

「……ん、おお」


 少年の笑みを受け、僅かにこの鬼の顔も和らいだような。

 気のせいだったのか瞬きの後には普段通りの表情で、やるべきことは終えたと社を後にする。

 平吉も慌ててそれを追う。行きも見た背中は何故か先程よりも優しい、父親を思わせる風情だった。


「俺、な」


 しばらく二人は無言で歩いていた。

 人気の少ない裏通り、音が聞こえない分沈黙はやけに重く感じる。

 それでも耐えられなくなったという訳ではない。ただ自然と言葉が出てきて、気づけば平吉の方から話しかけていた。


「ん?」

「あんたは鬼を討つって聞いとったから。もっと乱暴な真似しとると思っとった」


 だから今回も本当は、少年の幽霊を斬り伏せるものだと思っていた。

 だが実際は饅頭を置いて帰っただけ。母を想う子供、危険がない相手だったとはいえ、平吉の想像する鬼の振る舞いではなかった。


「幽霊も、斬って終わらせるもんやとばかり」

「実際そういう場合も多い。ただ必要であれば誰でも斬るが、そうでなければ誰も斬りたくない。余計な荷物を背負い込めるほどの余裕はないんだ」


 付け加えた言葉は奪った命を重いと考えている証拠だ。

 幼い頃、鬼は父母の頭蓋をいとも容易く潰した。平吉にとって鬼はそういう、災厄を撒き散らし人に害為すだけの化け物でしかなかった。

 母を想う子供。その心を慮り見逃すなんて有り得ないことだ。

 なのにこの鬼は、どうして。


「それに本音を言えば、必要があったとしても子供を斬るのは苦手だ。……昔はもう少し冷徹になれた筈なのに、な」


 頼りなく零れ呟きの理由を本当は知っている。

 自身の変化に戸惑いながら、けれどそう在れる今が嬉しくもあると。言葉面とは裏腹に彼の笑みは柔らかい。

 甚夜の過去など聞いたこともない平吉でさえ理解できる。

 彼が子供を斬るのが苦手な理由なんて今更口に出すのも野暮。二人は再び押し黙り夜道を歩く。

 沈黙がほんの少し軽くなったのはたぶん気のせいではなかった。



 家族を想う心は人も鬼も変わらないのか。

 結局幽霊の依頼は大した騒動もなく終わった。

 強いて何が起こったかを語るならば。

 付喪神使いの弟子が、鬼の弱さを知ったくらいのものだろう。




 ◆




「……そうか。いや済まないなぁ、葛野さん。すっかり世話になって」

「別段大したことはしていませんので、依頼料は結構です。ただこれからも時折来るでしょうから」

「ああ、その時はちゃんと迎えてやるさ」


 桜の季節も過ぎ、相変わらず三橋屋の客足はよろしくない。

 ただ常連客が一人増えた。今迄のように毎日現れることはなくなったが、時折閉店間際に母の為饅頭を買い求める少年がいるそうだ。

 塞の神の社にはよく饅頭が供えられるようになった。

 いつの頃からか社は“饅頭を供えると子宝に恵まれる”と語られ、妙齢の女性には人気の場所となる。何故か六尺近い偉丈夫や十七歳ほどの青年の姿も偶にだが見られるらしい。

 こうして三橋屋の幽霊の話は一段落が付き、多少の変化はあれど騒動は問題なく収まった。


「てんぷら蕎麦、おまち」


 だからと言って日常は何も変わらない。

 平吉は野茉莉を目当てに蕎麦屋へ通い、鬼のことは相変わらず憎いまま。父母の仇を易々と許す気にはなれない。

 頼む蕎麦はいつもと同じてんぷら蕎麦だ。


「なんやすまんかったなぁ、甚夜。平吉がお世話になったみたいで」

「なに、お前には普段助けられている。ここら多少は借りを返しておかないとな」

「そない気にするようなことやない思うけどなぁ。ま、ほんなら素直に受け取らせてもらっとくわ」

「そうしてくれ。しかしお前も相当だな」

「あらら、お見通し?」


 師匠である染吾郎は大抵きつね蕎麦。

 店主と雑談を交わしながら、いつものように蕎麦を啜る。

 仲がいいからか、言葉を省いてでも二人の会話は成立してしまう。そのせいで聞いていても理解できないことが多い。

 言外の意味に気付くにはまだまだ平吉は経験が足らなかった。


「かけ一丁。野茉莉、これを頼む」

「うん」


 まだ親娘の遣り取りはぎこちない。

 最近では見慣れてしまって、その光景も日常といえなくもない。

 それをちらりと見てしまうのは、野茉莉に肩入れしているか、あいつの父親としての顔に触れたからか。


「あ、平吉さん。お茶のおかわりどうぞ」

「お、おう。なんやいつも気ぃ遣ってもらってすまんな」

「今更でしょ?」


 くすくすと微笑む彼女にどぎまぎしてしまうのも同じ。

 一応幼馴染なのにこの笑顔にはいつだって負けてしまう。


「あ、そういや昨日。あいつの……野茉莉さんの親父の依頼についてったんやけど」

「えっ!?」


 驚きに野茉莉は目を見開く。

 普段の平吉を知っていれば当然といえば当然だろう。

 彼の鬼嫌いは筋金入り。幼馴染ではあるが、父親への態度を娘としてはあまり気分のいいものではないほどのものだ。


「ど、どうだった?」

「なんやろ、まあ特にもなんもなかったわ」

「そっ、か」

「そやけど、あれやな」


 つまり多少の変化はあれど宇津木平吉は何一つ変わらず、好きな人の前では緊張するし、嫌いな奴には悪態をついてしまう。

 何を経験したとして人間早々変われるものではないのだ。

 ただ、それでも。


「あいつ、ほんまに娘大好きの親馬鹿なんやな、ってのは実感できたわ」


 母に供えた饅頭の分くらいは優しくなれたかもしれない。




『母神まんじゅう噺』・(了)




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