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『母神まんじゅう噺』・1

 明治十一年(1878年)・三月


 三橋屋は京都三条通に店を構える、明治四年創業したばかりの真新しい和菓子屋である。 

 店主の三橋みはし豊繁とよしげは商売っ気がないというか、どうにも呑気な性格で、客足は今一つ伸びない。

 ただ桜の季節になれば花見の菓子を求める客が流れてきて、三橋屋もそれなりに忙しくなる。


「あぁ、流石にこの時期は疲れるなぁ」


 豊繁はぐっと背筋の筋肉を伸ばし、ゆっくりと息を吐く。

 花見の客のおかげで菓子はよく売れた。日も落ちてきたことだし、そろそろ店仕舞いの時間となった。

 久しぶりによく働いたせいかひどく疲れた。本来はいつもこれくらいの客でなければいけないのだろうがそこは彼のこと、寝床と飯があるならそれで充分。できればほどほどに仕事して後はのんびりしていたいというのが本音である。

 本人が積極的に売り込まない為に店は有名ではないが、これでも豊繁の菓子作りの腕は確か。固定客も多少はおり、おかげでぎりぎりながらも生活はできている。

 だから今の状態を維持できればそれでいい、というのが彼の考えだ。勿論それを嫁さんに言うと叱られるので口にはしないのだが。


「うっし、さっさと片づけるか」


 まあいい、手早く店を閉めて嫁さんの飯で晩酌を楽しもう。

 妻は厳しいことも言うが嫌な女ではなく、夫婦仲は決して悪くない。なにより彼女の作る食事は絶品で豊繁はそれを肴に一杯やるのが何よりの楽しみだった。

 今日は確か菜の花のからし和えがあった筈。これは酒が進むと鼻歌混じりで表に出て、いそいそと暖簾を片付ける。

 その途中、豊繁はぞくりと妙な寒気に襲われた。

 三月の夜はまだまだ寒い、少しばかり体を冷やしたか。熱を出しても困る、早く店を閉めてしまおうと思い、しかしふと感じた視線に手が止まる。

 気付けばいつの間にか傍らに童の姿。十かそこらくらいの、妙に色の白い男の子がじっと豊繁を見つめていた。


「どうした坊主」


 じきに日が暮れる。周囲に親らしき人物はおらず、さては迷子かと声をかける。

 自然と屈んで視線を合わせる辺りに豊繁の人柄がよく表れている。だが肝心の相手は無表情、反応はあまりよろしくない。

 無言のままの状態がどれくらい続いたか。どうしたものかと戸惑っていると、ようやく少年は口を開いた。


「……おまんじゅう」

「お、おう?」

「おまんじゅう。買いにきたの」

「お使いか? お金は」


 差し出された掌にはいくらか小銭が乗っていた。三橋では饅頭一つ五厘で売っているのでこれなら三つは買える。


「おう、十分だ。坊主一人で食うのか?」

「おかあさんと」

「そかそか。ならちょっと待ってろ」


 店内へ戻った豊繁は饅頭を五つ紙に包む。

 どうせ売れ残り、多少のおまけはいいだろう。その辺り彼の妻は子供には優しい、寧ろもっと持たせようとする筈だ。


「おいよ、一銭五厘な。おまけしといたぞ」

「これ」


 お金の計算はできないのか、少年はぐいともう一度手を差し出したので、掌からちょうどの銭を数えて受け取る。

 代わりに饅頭を渡すと、やはり表情は変わらないがぺこりと頭を下げて走り去っていく。

 あまり喋らないし妙な子だったが、折角おまけしたのだ。母親と一緒に仲良く食べてくれればいいなんて考えながら、楽しげな気分で豊繁は店へと戻っていった。 

 少なくとも、この時は。






 鬼人幻燈抄『母神まんじゅう噺』






「すまねえ、葛野さんいるかい?」

「三橋殿?」


 三日後のことである。

 閉店時を狙って豊繁は鬼そばを訪ねた。二人とも大体同じ時間に朝の掃除を始める為毎日顔は合わせているが、こうして店に顔を出すのは珍しい。

 怪訝な目で彼を見ればなにやら困惑の面持ち。めんどくさいが口癖の呑気な男にしてはこれまた珍しい雰囲気だ。


「どうかしましたか?」

「ああ、いや。なんというか……まあ、相談だな」

「はあ」


 相談があるという割には随分と歯切れが悪い。

 言い出そうとして引っ込めてを何度か繰り返した後、ようやく意を決したらしく、豊重はおずおずと問いかける。


「いやな、葛野さん。ちょっと噂を聞いたんだが、葛野さんが色々怪しげな事件を解決してるとかなんとか。そら、本当か?」


 成程、どうやら彼は「刀一本で鬼を打つ剣豪」の噂を聞きつけて此処へ来たらしい。

 ただ眉唾な噂だ、本当かどうか分からず話を切り出しにくかったというところだろう。

 そこまで迷って尚も問うのは、のっぴきならない状況に追い込まれているから。

 甚夜が問いに黙って頷けば、言い出しにくそうに、しかしぽつりぽつりと用件を語り始めた。


「子供の幽霊?」

「ああ。うちにだな、来るんだよ」


 豊繁の相談は、饅頭を買いに三橋屋へ来る少年のこと。なんでもここ数日、閉店間際になると顔を出す奇妙な童がいるという。

 あまり喋らず表情も殆ど変わらない少年はいつも饅頭を買っていく。金はちゃんと払うし問題ないといえば問題ない。実際豊繁も当初は然程気にしてはいなかった。

 ただ彼の細君はそうでなかったらしく、毎夕訪れるこの小さな客を怪しんでいたそうだ。


 といっても彼女が怪しんだのはどちらかと言えば母親の方。

 母の為に少年は饅頭を買いに来るが、一度も親の顔を見たことがない。それに一度も笑ったところを見たことがないし、体には所々傷がある。つまり豊繁の妻が訝しんだのは、もしやこの少年は母に酷い目にあわされているのでは、ということだ。


「随分と、気に掛けるのですね」

「あー、うちはよ。昔嫁さんが熱病にかかっちまって、子供ができないんだわ。だからだろうなぁ、嫁さんは子供には特に優しい。俺も、そういうとこあるしな」


 強気で多少厳しいところもあるが妻は基本的に優しい。相手が子供であれば尚更だ。

 彼女が顔を曇らせているのはあまり嬉しくないし、あの少年のことが気になったのは豊繁も同じ。

 だからだろう、昨日は少年の背中が見えなくなるまで眺めていた。

 故に彼は驚いた。

 少年の背中は確かに見えなくなった。ただし角を曲がったのではなく、人混みに紛れたでも遠く離れたからでもなく。

 本当に、まるで煙のように、視界から忽然と消えたのだ。


「見間違いなんかじゃない。確かに、消えた。なのにだ。今日もまたその子供はうちに来たんだ。饅頭を買って、帰って。やっぱり、ふっと消えたんだよ」


 口調には恐怖よりも戸惑いが混じっている。

 特に危害を加えられた訳ではない。金が後で木の葉になってしまった、みたいなオチもない。

 ただ饅頭を買って、帰りに消えた。言ってみればそれだけだが、目の前で怪異を見たせいで豊繁は随分と混乱している様子だ。

 果たして、あの子供は何なのか。


「勿論、ただ働きさせるつもりはない。あんまり多くは払えないが、礼金くらいはなんとかするぞ」

「多少探りを入れるくらいは構いませんが。礼金は結果如何の後払いで結構です」

「そうか、そいつは助かる!」


 本音を言えば金は貰えれば儲けもの程度、どちらかといえば甚夜の目的は怪異の方にある。

 子供の幽霊。細やかではあるが怪異には違いなく、興味もなくはない。

 報酬のほうは期待できないが。これもご近所付き合いの一環と思い、甚夜は豊繁からの依頼を受けることにした。







 確か八歳を過ぎたくらいの頃だったか。

 暗い夜道、きれいな月。親子三人仲良く歩いて。

 他に覚えているのは赤かったこと。

 頭の中も目の前も真っ赤に染まる。

 宇津木平吉の幸せは一瞬にして、それこそ父母の頭蓋くらい簡単に潰れてしまった。




 ────なぁ、君。僕んとこ来ぃひんか?




 そんな少年を拾ってくれたのが三代目秋津染吾郎という男だ。

 両親を殺した鬼が怖くて、平吉は只管に走った。けれど子供の足では逃げ切れる筈もない。

 幸福は理不尽に奪い去られ、逃げた彼もすぐに追い詰められ。


 ああ、ここで死んでまうんか。


 浮かぶ無残な最期、しかしそれはあまりにも容易く覆る。

 染吾郎は颯爽と現れ、ただの一撃で鬼を葬り去った。

 その光景を今でも覚えている。

 何故もっと早く来てくれなかったのか、両親を助けてくれなかったのか。見当はずれの恨み言なんて出てこない。

 それほどまでに秋津染吾郎は見事だった。

 災厄を振りまく鬼、それを祓うあまりにも堂々とした姿は、子供心に憧れを抱いた。

 以来染吾郎の弟子となり世話になっている平吉は、今も師のことを心から尊敬している。


 同時に、自身の幸福を踏み躙った鬼は、心から憎いと思っていた。

 鬼は嫌いだ。

 あれは存在しているだけで人間に害を及ぼす。生きている価値自体がない。

 あんなものを放置していてはまた誰かが不幸になってしまう。

 自身の経験から平吉は心底あやかしの類を嫌悪し。


「てんぷら蕎麦、おまち」


 だというのに鬼が手ずから作った蕎麦を食べているのだから、自分でも訳が分からない。

 平吉が通い詰める三条通の蕎麦屋『鬼そば』の主は店名の通り人に化けた鬼で、名を葛野甚夜という。

 師の古い友人らしいこの男はどういう成り行きか京の町で蕎麦屋を営み、裏では怪異関連の依頼を受け解決している。

 憎むべき鬼には違いないが、こいつは人に仇為す鬼を討つ。しかも鬼嫌いを明言して憚らぬ平吉に対しても悪感情は向けず平然と接してくる。

 小さな頃から師に連れられて店へ通っていたこともあり、悲しいかな今では会話するのもそこそこ慣れてしまった。鬼相手に何をやっているのかと、我ながら呆れてくる。


「平吉さん、お茶のおかわりどうぞ」

「え、あっ。いや、すんません野茉莉さん!」


 にへらと頬が緩んでしまう。

 平吉が嫌いな鬼の店へ通う理由の大半は、ふうわりとした微笑みでお茶のおかわりを準備してくれる彼女にある。

 桜色のリボンがよく似合う少女。野茉莉は鬼そばの看板娘で、平吉の初恋の相手で、何の因果か大嫌いな鬼の養女であった。


「最近よく来るね?」

「はは、まあ俺もお師匠も料理作れんから、どうしてもなぁ」


 普段通り喋ったが、声が上ずってないか心配になってくる。

 小さな頃から面識があるので野茉莉とは一応幼馴染の間柄になるのか。平吉は長らくこの少女に懸想しているのだが、あと一歩が踏み出せず、仲のいい友人関係のままで止まっている。

 それをどうにかしようと足繁く店に通い、しかし十七の青年になった平吉は相変わらず彼女の前では緊張してしまうようだ。


「最近調子はどないや?」

「ん、どうだろうなぁ……なんでだろ。うまくいかないね」

「そ、そか」


 曖昧にぎこちなく野茉莉は微笑む。

 ちらりと視線は父の方に向く。寂しそうだと思ったのは気のせいではないだろう。

 近頃はうまく父様と話せない。依然彼女はそう呟いた。それは今も続いているらしく、昔はべったりだった親娘の間には微妙な距離ができている。


「おっしゃ、俺がちょっと言ったろか?」

「やめて」

「いや、そやけど」

「本当に、やめてね。心配してくれるのはうれしいけど、余計なこと言ったら怒るからね。なんていうか、どちらかというと私の方の問題なんだ。父様は、悪くないの」


 拒否は思った以上に強く、言い切った後はひどく頼りなく。

 儚げな笑みになんと返せばいいのだろう。気の利いた言葉など浮かばない。


「それにね。また依頼があったみたいだから、あんまり負担をかけないで上げてほしいの。今度は幽霊とかで、明日も夕方くらいに出かけるって」

「そっ、そか」


 そう語る姿はひどく寂しそうで、だけどどう慰めてあげればいいのか。

 まごついているうちに野茉莉は客に呼ばれ「ごめんね、平吉さん」と笑顔で元気よく離れていった。

 惚れた女を慰めてもやれないとは。一人残された平吉は情けなさに大きな溜息を吐き、ちらと視界に入った小忙しく働き続ける甚夜へ声をかける。


「なあ」

「どうした」

「……いや、なんや、幽霊の依頼を受けた聞いたけど」


 けれど本当に聞きたかったことは聞けず、誤魔化しに先程の野茉莉が言っていた話を持ち出す。

 一応は付喪神使い、三代目秋津染吾郎の弟子。周囲に気遣いつつ問えば、甚夜はこの手のことを隠したりはしない。

 勿論依頼人の名前や詳細までは望めないが、沿革ぐらいは教えてもらえる。


「ああ、夜毎現れるらしい」

「ふうん。あんたもようやるわ」

「まったくだな」


 失礼な物言いをしても怒りもしない。寧ろ自嘲するような表情を見せる。

 本当に変な鬼だ。

 今迄鬼は鬼というだけで罪深いと思っていた。なのにこいつは落ち着いていて、尊敬する師の親友で、怪異を討ち、人の親で。こういう奴だから平吉は戸惑ってしまう。


「あんたは……」


 人を殺したりしたいとは思わないのか。

 問おうとして、続きが出てこなくて押し黙る。流石に店で聞くような内容ではない。

 殺伐とした質問の代わりに平吉は甚夜の仕事ぶりをぼんやりと眺める。よく働く。鬼のくせに、しかも三代目秋津染吾郎をして「やりあったら勝敗は読めん」と言わしめる実力者でありながら、随分と真面目なことだ。

 そういう男でも娘とはうまくやるのは難しいのだろうか。

 甚夜を責めようとすれば野茉莉は怒った。今はぎくしゃくとしているが、彼女は決して父が嫌いになった訳ではないのだ。

 なのに親娘はどこかすれ違ってしまっている。

 だからといって十七になったばかりの、まだまだ経験の足らない彼では解決策が浮かばず、言えることなど何もない。

 結局平吉にできるのは、伸びてしまった蕎麦を啜るくらいのものだった。




 ◆




「野茉莉、では行ってくる」

「うん、分かってる。ちゃんと留守番してる」

「いつも済まないな」

「べ、別に。大丈夫だから」


 翌日、甚夜は早めに店を片付けた。噂の子供の幽霊は三橋屋の閉店間際に現れるという。そろそろいい頃合いの筈だ。

 見送ってくれる野茉莉との会話はやはりぎこちなく、それでも娘の目は不安げで、父のことを案じてくれているのだと分かる。ならばそれで十分だ。


『女の子は難しいですね、旦那様』


 野茉莉が部屋へ戻った途端に声をかけてくるのは腰の刀。鬼の血を練り込んで鍛え上げたという妖刀、夜刀守兼臣である。

 少しばかり特殊な経緯で甚夜の手元に舞い込んだこの喋る刀は、どういう訳か甚夜の妻を自称していた。


「それは同意するが、誰が旦那様か」

『何を言うのです。口説いたのは貴方様でしょうに』

「だからそういうつもりではないと」


 いくら言っても兼臣は少しも話を聞かない。冗談なのか本気なのか、旦那様という呼び方を改めるつもりはないようだ。

 ただ彼女にからかう気持ちはなく、根底には感謝があると知っている。だから最後には押し切られ、なし崩し的にその呼び方を認めてしまっているのが現状だった。

 甚夜は呆れたように溜息を吐く。

 とりあえず今は言い争っていても仕方がない。受けた以上はしっかりと依頼をこなさねば。


「と、流石にお前を連れていく訳にもいかんか」

『ええ、残念ですが。妻として留守を守ることにしましょう』


 廃刀令が敷かれた今、三橋屋を訪ねるのに帯刀していてはまずい。

 幸い今回は然程危険な依頼でもない。甚夜は腰の二刀を部屋に置き、気を取り直して店の外へ出る。

 すると店先に見知った顔があると気付く。

 宇津木平吉。友人である染吾郎の弟子がなんとも居心地悪そうに佇んでいた。


「宇津木か。何か用か」

「お、おお。まあ。そないなとこや」


 歯切れが悪いのはいつものこと、あまり気にはしない。

 というのもこの青年は鬼嫌いを明言しており、師の友人とはいえ鬼である甚夜に対して小さなころから敵意をむき出しにしていた。

 今では多少それも収まり、少し接するくらいはできるようになった。それでも考えを改めた訳ではない。人に紛れた化け物に引っ掛かりはあるのだろう。

 甚夜の方には別段含みはない為、普段ならば若干の敵意を感じつつも会話に付き合うのだが、流石に今日は間が悪い。


「済まないが今日はもう店を閉めた。先約もある、日を改めてもらいたい」


 どのような内容であれ依頼は依頼、約束を違えるような真似はしたくない。

 だから初めに断りを入れたのだが、それを受けた平吉はなにやら言い辛そうにもごもごと口を動かしている。


「あ、いや。どっちかゆうと、そやから来たんやけど」

「どういうことだ?」


 追求すればまた黙ってしまう。

 しかしそのままではいけないとは思ったのか。


「なあ。俺も、ついてってええか?」


 平吉は不貞腐れたようにそう言った。



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