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『鬼と人と』・7




 あの人の手が全てだった。




 お父さんに殴られた。唾を吐きかけられて、蹴飛ばされた。

 でも頭を撫でてくれた。


「二度と帰ってくるな」 


 道端に捨てられて、冷たい雨に打たれて。

 でも手を握ってくれた。


「鈴音ちゃんは、ちっちゃいね」 


 いつまでも子供であることを選んだ私は、周りに置いて行かれた。

 此処では誰も責めないけど、人の輪には入れなくて。

 でもあの人だけが触れてくれた。

 だから私にとって、あの人の手だけが、全てで。

 それさえあれば、なにもいらなかった。

 なのに───




 ◆




『あたしが見た景色では大人の女性って感じだったけど、まだちっちゃいのねぇ』


 玄関先に鬼がいる。

 非常に違和感のある光景だが、鬼女には大して気にした様子もない。

 じろじろと鈴音の姿を見回しては、自身が<遠見>で見た姿との差異を確かめていた。


『でも安心して。あたしの<遠見>は正確よ。今に鈴音ちゃんはとても綺麗な女性になるわ。ここのお姫様なんて比べ物にならないくらいね』

「……おばさん、誰?」 


 妙に馴れ馴れしい鬼女。こちらの名前や白雪のことまで把握しているのは、つまり下調べは済んでいるということ。

 それだけでも怪しい輩だ。いきなり現れて好き勝手に振る舞う鬼を警戒し、鈴音はじりじりと後ろへ退いた。


『誰がおばさんですって、くらいは言うところでしょうけど。お嬢ちゃんから見たら百年以上生きてるあたしは十分おばさんよねぇ』


 これでも鬼の中ではまだ若い方なんだけど。

 くすくすと笑う鬼女は、人ならざる“あやかし”だというのに、奇妙なほどに邪気がない。こちらに危害を加えようとはせず、喋る調子もやけに軽かった。

 そのせいだろう。鬼を相手にしているというのに、警戒こそすれ逃げ出そうという気にはならなかった。


『ねぇ、お嬢ちゃん。あたしが何者だか分かる?』

「鬼……」

『そう、貴女と同じ。あたしたちは仲間よ』

「違う。すずは……人だもん」


 自分でも信じていないことを口にする。

 鬼だからこそ父に虐げられた。鬼だからこそ友達と一緒にいられなかった。だから人でないなんて、とうの昔に受け入れていた。

 けれど人であると思いたかった。鬼であっても、いつも傍にいてくれた。自分をいつだって守ってくれた兄の為に、そう在りたいと願った。


『そう……お兄さん、いい子なのね』


 鬼女の表情が優しげに緩む。

 馬鹿なことを言っていると鈴音自身思っている。しかし鬼女の笑みに嘲るような響きはなく、寧ろ暖かくさえあった。


「え?」

『だって、人で在りたいと願うのはお兄さんの為でしょう? 貴女がそう思えるように守ってきたのなら、それはとても凄いことよ』

「……うん!」


 鈴音は弾んだ声で返事をした。

 妖しいのは間違いなく、企みはあって然るべき。この鬼は集落にとっては敵以外の何者でもなく、けれど鈴音は笑みを浮かべる。

 鬼だとしても大好きな兄が褒められるのは嬉しかった。


『お兄さんのことが、本当に好きなのね』

「……にいちゃんはね、すずのすべてだから」


 軽やかに流れた声には、見合わぬ重さがあるように感じられた。

 いつだって、手を差し伸べてくれたのは彼だった。

 口にした言葉は比喩ではない。鈴音にとっては、本当に甚太が全てなのだ。


『ちっちゃくても女の子ね』


 そこに込められた意を察したのか、神妙な面持ちで鬼女は俯く。

 それも一瞬、顔を上げた時には先程の暗さは微塵もなかった。

 胸中を隠すように浮かべた笑み、鬼女は軽い調子で言葉を続ける。


『でもね、そんなお兄さんを傷付ける人がいるの。お兄さんのために、貴女の力を貸してくれないかしら?』

「すずの、力?」

『ええ、少し付いて来てくれるだけでいいの。大丈夫、鬼は嘘を吐かない。決して貴女に危害は加えないわ』


 力を貸してくれと鬼女は言う。

 差し出された手。鬼ではあるが女性のもの、ほっそりとした綺麗な指だ。

 今までの態度で削がれた警戒心が蘇る。鈴音が鬼女の手を取ることはなく、疑わしげに見詰めていた。


「行かない」

『なぜ?』

「すずに危害を加えなくても、にいちゃんには分からないから」


 敵意を向ける訳でもなく、ただ当たり前のことのように鈴音は言った。それ以外のことなど初めから考えていなかった。

 もっとも、鬼女にとっては、拒否されることは織り込み済み。どうすれば信じてもらえるのかも、ちゃんと考えて準備してきた。


『そう……じゃあ、これでどう?』


 目を細めて、鬼女は微かに笑う。

 言いながら差し出した方とは反対の手、伸ばした人差し指の先で鈴音の額にそっと触れる。

 咄嗟のことに鈴音は反応できない。

 一体何を、考える暇もなかった。

 触れた指先から伝わる熱。

 同時に、流れ込んでくる何か。

 それは鈴音の中で形を作り、一つの映像となって網膜に焼き付けられる。

 あまりに非現実的なその光景に、鈴音は驚きの声を上げることさえできない。





 脳裏に映ったのは、兄以外の男の前で、自ら着物を脱ぐ白夜の姿。





 弾かれたように鬼女から離れる。

 しかし思考は、鮮明に映し出された、よく知る女性の信じられない行為に絡め取られていた。

 彼女は確かに自分から、何処かで見た男に体を開こうとしていた。

 わなわなと震えながら鈴音は声を絞り出す。


「なに……今の」

『私の<力>は<遠見>。今のはその応用よ。自分の見た景色を、ほんの一瞬だけど他の誰かに見せることが出来る』

「そんなこと聞いてない! あれは、あれ、は……」

『勿論、幻覚なんかじゃないわ』


 鬼女は言う。

 お前が見た景色は、兄の想い人が他の男と不義を交わそうとする姿は、掛け値のない真実なのだと。


「嘘……」

『信じられない? なら確かめに行きましょう』


 再び鬼女は手を差し出した。

 鈴音は迷った。迷ってしまった。鬼女は嘘を吐いているのかもしれない。白夜が、幼い頃を共に過ごした白雪が、そんなことをするとは思えない。

 けれど、もしかしたら。

 刻み込まれた僅かな疑念。兄に関わることだからこそ、不安や焦燥は火傷のように、じくじくとした痛みをもって鈴音を掻き立てる。

 結局のところ彼女にとっては、


『お兄さんの為よ』


 それだけが全てで。


「にいちゃんの……」


 戸惑いはある。だが鈴音が迷っている間、鬼は一度もその手を引っ込めることはなかった。

 だから迷いながらも自然と鈴音はその手を取っていた。

 今まで自分と手を繋いでくれたのは、兄だけだった。





 迷いながらも兄の為に手を取る鈴音。

 その様を見て、鬼女は少しだけ後悔した。


『もし人と鬼が、みんな甚夜くんと鈴音ちゃんみたいに成れたなら。あたし達もこんなことせずに済んだのかもね』




 ◆ 




 社の本殿、御簾の奥にただ白夜はただ立ち竦んでいた。

 既に辺りは夜の帳が下りて、社殿に置かれた行燈の光だけが座敷を照らしている。

 日が落ちて随分経つ。しかし甚太はまだ帰ってこなかった。


「甚太……」


 幾ら彼の強さを知っているとはいえ不安が拭える訳ではない。

 もしかしたら鬼に不覚を取ったのでは。動けない状態にいるのではないか。

 そう思うと居ても立ってもいられず、出来ることなどある訳もなく、ただ呆然と立ち尽くし視線をさ迷わせる。

 不意に目に映ったのは、御神刀である夜来。

 白夜は意識もせず手を伸ばす。

 そして通常の刀よりも重量のあるそれをゆっくりと鞘から引き抜いた。

 肉厚の刀身。鈍い光を放つ刃が行燈の光を映している。意味のない行為ではあったが、何故だか心が少しだけ落ち着いたような気もする。


 夜来は、そもそも古い刀匠が初代のいつきひめの為に造ったものだとされている。

 刀匠はいつきひめの夫であり、自身の打った最高の刀を巫女へ贈ろうとした。

 しかしながら夜来を打つよりも早く巫女は逝去してしまった。結果担い手を失くした夜来は御神刀として社に奉納されることとなったという。

 その真偽は定かではないが、いつの時代にも悲恋というものは存在するのだと思えば、ほんの少しの慰めにはなるかもしれない。

 下らないことを考えるものだ。白夜は自嘲の笑みを零した。

 格好つけて彼と決別したくせになんて未練がましいのだろう。

 未だにざわめく自身の心を抑え、刀を再び元の場所に戻す。後には溜息しか出てこなかった。


「よう」


 しばらく何をするでもなく時を過ごしていると、乱雑に御簾が開けられた。

 そこにいたのは甚太よりも少し小柄な、整った顔立ちの男だった。白夜の巫女守にして、いずれ夫となる相手である。


「清正……どうしたの?」

「いや、護衛っつっても今日は集落の男が総出で社についてるから暇なんだ。退屈だから相手をしてもらおうと思ってよ」


 胸の痛みを誤魔化し、普段通りの自分を演じる。

 どうやらうまくできたらしい。彼も特に気付いた様子はなく、普段通りの飄々とした態度だった。

 白夜は少しだけ口元を綻ばせた。

 清正は巫女守だが、いつもこうやって砕けた調子で話しかけてくれる。甚太に対しての態度は何とかしてほしいと思うが、こういう所はそんなに嫌いではなかった。


「相変わらずだね、清正は。今日は何? 新しい本?」


 気遣ってくれているのだろう。

 そう思った白夜は胸中の不安を隠し笑ったが、清正の反応は想像したものとは違った。

 唇を噛み、表情を歪ませたかと思えば、暗い目で白夜を見る。


「そうじゃねぇよ」


 そして乱雑な言葉と共に肩を掴み、力任せに壁際まで押し込んだ。

 一瞬何をされたのか分からなかった。しかし清正は白夜の動揺などお構いなしに体を寄せる。

 吐息がかかるほど近くなった距離。その意味に気付かぬ筈がない。


「やっ、やめ」


 逃げようともがくが、両の手首を清正の片手にしっかりと握り掴まれ、上方で固定されてしまった。

 清正は にやりと、いやらしい笑みを浮かべる。


「未来の夫が『相手をしてもらう』って言ったら、当然こういうことに決まってんだろ?」


 自由になっている方の手で肢体を弄られる。

 清正のことは決して嫌いではない。なのに気持ち悪いと思った。

 触れてほしくない。ああ、違う。あの人にだけ触れてほしかったから、心を踏みにじるような清正の無遠慮な手つきが、ひどく不快だった。


「な……こんな時に何を!」

「こんな時だからだよ。甚太がそこいらの鬼に負ける訳ねぇだろ。心配するだけ無駄だ。あいつはあいつの役目を果たすんだから、俺は俺の、そんでお前はお前の役目を果たさねぇとな」


 役目。その言葉にびくりと体が震えた。

 それは子を成すことを指しているのだろう。確かに清正との婚姻は次代のいつきひめを生むための政略。だから『こういうこと』も織り込み済み、覚悟はしていた。


「それ、は」

「最初っからお前だって分かってたんだろ?」


 清正の言う通り、最初から分かっていた。

 分かっていて白夜はこの婚姻に同意したのだ。

 だけど何故、今なのか。

 彼のことを想う時間さえ私には許されないのか。そう思ってしまった。

 分かっている。初めに彼を裏切ったのは自分だ。或いは彼を想うなど、罪深いことなのかもしれない。

 そうだとしても、彼が命懸けで戦っている最中に他の男と肌を重ねる、そんなはしたない女ではいたくなかった。


「やめてよ……お願い。せめて甚太の無事が分かるまでは」

「俺はむしろあいつのために言ってんだけどな」


 白夜の懇願を清正は鼻で嗤う。

 何を言っているのか分からない。しかし彼を匂わせる言葉に動きが止まった。


「じゃあ聞くが、いいのか? 子をつくるのは決定事項。だがお前はいつきひめ。何をするにも護衛が傍に仕える。当然、俺とお前が夫婦になって、正式に同衾する時も護衛はいる訳だが、その時は誰が護衛に付くんだろうなぁ?」


 血の気が引いていく音を聞いた。

 白夜が清正と閨を共にして子を孕む。それは既に集落の総意である。

 そして清正の言う通り、行為の際も護衛は必要であり、その時に控えているのは、



 ───ああ。なら、やっぱり俺は巫女守としてお前を守るよ。



 間違いなく、彼なのだ。


「あ…ああ……」


 決意はあった、覚悟もあった。しかし想像力が欠けていた。

 彼以外の誰かと結ばれることは想像していても、彼の前で誰かに抱かれるなど考えてもいなかった。

 そこを指摘され、白夜の顔は蒼白に変わった。

 いつきひめとしての振る舞いなどできず、ただの白雪になってしまっていた。


「ま、お前があいつに声を聞かせたいってんなら別にいいけどな。もしかしてそっちの方が興奮する性質(たち)か?」

「っ、貴方は……!」

「だから言ったろ? こんな時だから、なんだよ。あいつがいなくて、護衛の必要がない今がいいんだ……うまくいきゃ、一回で済む」


 溜息にも似た、力のない声。

 表情からはいつの間にか好色そうなにやつきが消えている。代わりに浮かぶのは、痛みに耐えるような苦渋の表情だった。


「清、正?」

「お前だって、そっちの方がいいだろ。でもま、決めんのはお前だ。好きにしろよ」


 意味が分からなかった。

 無理矢理襲いかかってきたかと思えば、彼はむしろこの行為を不愉快だと考えているようにも見える。

 白夜とて鈍くはない。

 おそらく自惚れでなければ、清正は自分に対して好意を持っている。

 少なくとも憎しとは思っていない筈だ。だから彼は甚太に対して棘のある態度を取ってきた。

 好意を持っているからこそ、今回の婚約を推し進めてきたのだろう。

 だというのに、彼の態度は寧ろ白夜と『そういう関係になる』ことを忌避しているようにさえ思えた。

 白夜には、清正が何を考えているのか分からない。

 心を覗こうと目を見詰めても、瞳の奥は靄がかかっているようで、何も読み取れない。

 だが一つだけ分かっていることがある。

 粗雑な言葉で弄られ、行動に嫌悪感を覚えもしたが、彼の言っていることはすべて真実だった。

 先延ばしにした所で清正と肌を重ねなければならないことも。

 甚太が、自分達が閨を共にする時の護衛となることも。

 ……それに、自分が耐えられないことも。

 すべて、真実だった。


「……離して」

「……おう」


 逃れようともがいていた体からはすっかり力が抜けていた。

 もう抵抗する気はないと悟ったのだろう、清正は素直に手を放す。


「悔しいけど、貴方の言う通りだね」


 白夜の声には感情がなかった。


「私は葛野の為に、この道を選んだ。だったらそこから逃げちゃいけなかった。……それなら清正の言う通り、今日は丁度よかったのかも」


 葛野の為。

 敢えてその言葉を口にする。

 これは私が選んだ道なのだと、自分に言い聞かせる。なのに、どれだけ自分に言い聞かせても、あのぶっきらぼうな声がまだ聞こえている。


(済まなかった、白雪。もう少し気遣うべきだった)


 淡々と、けれどいつも自分のことを大事に想ってくれていたあの人の声。


(……お前の強引さには敵わん)


 いつだって我儘を受け入れてくれた、呆れたような表情。


(なら、俺がそれを守るよ)


 いつきひめになる。

 自分の想いを捨てて、巫女として生きると決めた。そんな幼い愚かな誓いを彼だけが尊いと、美しいと言ってくれた。



 ───選ぶから。甚太は、いつか私のことを───



 そして自分が口にした、叶わなかった約束。


「やだなぁ……私って、こんなに」


 彼のことが好きだったんだ。

 今更ながらに思い知る。何を想い出しても、そこには彼がいる。それくらいに、彼は、白夜の全てだったのだ。

 けれどもう戻れない。

 彼を大切に想っている。出来ればこれからも共に在りたいと願う。

 でも生き方は曲げられなかった。

 そこに後悔などある筈もなく、しかし白夜は自身の選択にこの上無く責め立てられていた。 


「だけど」


 するり。寒々しいまでに静かな本殿に衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。

 すとんと緋袴が落ちて、次いで白衣に手をかける。奇麗にたたむのは億劫だった。そのまま畳敷きの座敷に無造作に捨てる。

 順々に脱ぎ捨て、身に着けているものは襦袢のみとなった。

 年頃の少女にしては若干肉付きの足りない体だが、それでも間違いなく美しいと称されるであろう華奢で繊細な肢体が襦袢越しに薄らと透けている。


「私は、いつきひめだから」


 巫女であることからは逃げられない。

 巫女であることを尊いと言ってくれた、彼の想いを裏切るような真似だけは、何があっても出来ない。


「ありがと、清正。気を使ってくれたんだよね? お礼って訳じゃないけど、心はもう彼に渡しちゃったから。残った体は貴方にあげる」


 私は葛野の為に彼を切り捨ててきた。

 ならば結局、これは受け入れなければならないこと。むしろこういう状況を作った清正には感謝せねばならばなるまい。

 白夜は笑みを浮かべた。ごく自然な笑顔。優しく、揺らぎのない。後悔なぞ微塵もない、悲壮なまでに強すぎる瞳だった。


「なんで、お前らは……」


 彼女の表情に、誰かの面影が重なって、清正は泣きそうになった。

 大嫌いな男と惚れた女。どこも似ていない、それどころか正反対に見えた。

 結局は似た者同士だったのだろう。

 二人の間には、彼らにしか分からない何かがあって。

 今もこうして繋がっている。


「違う、違うんだ、俺は……俺はただ」


 それをお前は踏み躙ったのだと、突き付けられたような気がした。

 清正は今にも泣きだしそうに顔を歪める。こんなつもりじゃなかった、俺が望んだのは、もっと違う形だったのに。

 胸にある感情は言葉にならない。何かに縋るような、許しを請うような必死さで絞り出す清正の呻きは、


『ああ、よかった。ぐっどたいみんぐってヤツ?』


 突如、響いた声にかき消された。

 背筋が冷たくなる。声の方へ振り向けば、薄暗い社に浮かび上がる影。

 気付かなかった、いつの間に侵入したのか。社の隅に女が一人、くだらないものを見るような眼で白夜らを眺めている。


『実際あれよねぇ、あの子も報われないわ。命懸けで戦ってるのにその裏で想い人が他の男とよろしくやってるんじゃね』


 泣き崩れそうになっていた清正は一度目元をこすり表情を引き締める。

 迂闊にも刀を置いて来てしまった為、座敷に在った宝刀、夜来を手にして白夜をかばうように前へ出た。


「何者ですか」


 多少衣服を直し、白夜は気丈な態度を作って目の前の女を睨み付けた。

 それが滑稽だと女はせせら笑う。想い人以外の男に股を開こうとしていた“あばずれ”が何を格好つけているのか。


『見ればわかるでしょう、お姫様』


 返す言葉も自然と冷たくなる。

 三つ又の槍を支えにして立つ、雪輪をあしらった藍の着物を纏った女。その肌は青白く、目は鉄錆の赤をしていた。


「鬼……やっぱ白夜が狙いって訳かよ」


 懸念は的中していた。

 甚太を葛野から引き離し、その隙にもう一体の鬼がいつきひめを襲う。おそらくは端からそれが目的だったのだろう。


『ちょっと違うわね。お姫様は此処で死ぬ、でもそれはあくまでおまけよ』


 しかし白夜の考えはすぐさま否定されてしまう。

 鬼女は軽薄な態度を崩さない。表情こそ笑っているが、赤い目には侮蔑がありありと映し出されていた。


『にしてもコトに及ぶ前でよかったわ。流石にそこまでいくとこの娘に見せる訳にはいかないものね』

「この娘……?」


 白夜は鬼女の要領を得ない言葉に戸惑い、僅かに顔を顰めた。

 いったい、何を言いたいのか。先程から訳の分からないことばかりだ。

 けれど“この娘”とやらが誰を指しているのかだけは、すぐに分かった。

 問おうと思ったその時には、鬼の影から幼子がゆっくりと姿を現していたからだ。

 右目を包帯で隠した四、五歳くらいの赤茶の髪をした幼げな娘。

“この娘”は、白夜にとって見慣れた容貌していた。 


「すず、ちゃん……?」


 がん、と頭を殴りつけられたような気がした。

 鈴音の登場は、白夜にとってそれほどの衝撃だった。

 なんでこの娘が、ここにいるのか。

 何故鬼と一緒に。もしかして鈴音が鬼をここまで手引きしたのだろうか。

 確かにこの娘は鬼の血を持っているが、まさか、そんなこと。ぐるぐると思考が巡る。


「ねぇ、ひめさま。なんで?」


 浮かんだ疑問をぶつけようとして、それよりも早く鈴音が口を開いた。


「にいちゃんは命がけで戦ってるよ? 葛野の皆のために、すずのために。でも本当は……一番、ひめさまのために。なのに、なんで?」


 瞳は、いまだ四、五歳の外見を保っている鈴音には見合わないほど蔑みに満ちていた。

 冷たい、汚物を見るような濁った視線。

 だから分かる。

 この娘は、白夜のことを心底下劣な女だと軽蔑し切っている。

 何か言わないと。出来るだけ普段通りの語り口に聞こえるよう、精一杯自分を取り繕う。


「私は、いつきひめだから。役割を果たすために、彼と。清正と結婚するの」


 情けない台詞だった。

 馬鹿らしい、自分でも意味の無い言葉だと分かる。そんな戯言が一体何なんの言い訳になるというのだろう。

 事実、意味はなかった。

 愕然と目を見開き、鈴音の視線は清正に移る。

 瞬間瞳に昏い光が灯り、もう一度白夜を見た時には、宿る感情は侮蔑を越えて憎悪へと変貌していた。


「なに……それ。にいちゃんが命懸けで戦ってるのに、他の男の人と寝ることが、そんなに大切なの?」

「ちがっ……」


 否定しようとして、口を噤む。

 鈴音から放たれる圧力が大きくなった。未だ幼子の域を出ない女童に、この場にいる誰もが気圧されている。


「ひめさまは、にいちゃんのことが好きなんだと思ってた。でも本当は男の人なら誰でもよかったんだね」

「違うっ!」


 それだけは絶対に違う。

 彼を裏切ってしまった。でも想いだけは否定させないと、戦きながらも白夜は必死に喉を震わせる。


「じゃあなんでっ!」


 鈴音もまた感情を抑えることなく吐き出す。

 叫びは引き裂くように苛烈で、なのに何処か頼りない。

 憎悪に目を濁らせながら、痛苦に表情は歪む。鈴音は今にも泣き出しそうだ。


「なんで、ひめさまは。私は、何の為に……」


 溢れ出す、隠していた本音。

 大好きな兄が幸せなら、それでよかった。そう思えばこそ、あの人の手が、他の誰かに触れたって耐えられた。


「あの人が、幸せならって、そう思ってたのにっ」 


 どれだけ辛くても、苦しくても。

 兄と貴女が結ばれたのなら、心から祝福したのに。

 なのに、なんで。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、言葉はうまく出てこなくて。

 振るえる肩に、声に、鈴音の想いが滲んでいた。


「すずちゃん……」


 白夜は、ようやく理解する。

 同じ女なのに、同じ人を見ていたのに、ずっと気付けなかった。

 この娘は多分、最初から。私と同じ気持ちだったんだ。 

 でも鈴音はそんな素振りを見せなかった。妹として兄に甘えることはあったが、男女のそれを匂わせるような甘さは決して見せなかった。

 無邪気な振る舞いの裏にある意味。気付けなかった自分が許せない。


「そっか。すずちゃんはずっと、甚太の妹でいてくれたんだね」


 鈴音が、鬼の血を引いていることは分かっていた。

 成長しないのは鬼だからなのだと分かったつもりになっていた。 

 しかしその考えは間違いだった。

 鈴音は鬼だから成長しなかったのではない。多分この娘は、鈴音だからこそ成長しなかったのだろう。

 外見が昔のままでも鈴音は白夜と同い年の少女だ。中身まで幼い訳ではない。なのにこの娘は「幼い妹」で在り続けた。

 おそらく鈴音は、自分のことを「すず」と呼び、殊更に幼く振るまい、成長を止めてまで甚太の妹という立ち位置に甘んじた。

 今ならその意味が分かる。


 彼女は本当に彼のことが好きだったのだ。


 だから鈴音は妹でいることを選んだ。

 自身の想いを押し込めて、兄妹という枠から食み出ないように気遣い、甚太と白雪が結ばれる未来を願っていてくれた。

 他ならぬ彼がそれを望んでいたから。

 嫉妬だってあっただろう。でも白雪が相手ならば、兄は幸せになれる。そう思えばこそ兄の為に、彼の願いを邪魔しないように。女ではなく妹として無邪気に笑い続けてきた。


「貴女なら、まだ我慢できると、思って、なのに……っ!」


 なのに裏切ってしまった。

 少女の願いを、愛しい人の想いを、全て捨て去って白夜は此処に立っている。

 そして引き返す道なんて何処にもない。


「ごめんね。何て言われても、この生き方だけは曲げられないの」


 母が守り抜いた、彼を受け入れ育ててくれ葛野の地を、今度は私が守る為に。

 想い人を裏切り、幼馴染の気遣いを踏み躙り、一体何をしているのか分からなくなってくる。

 けれど此処で生き方を曲げてしまえば、それを尊いと言ってくれた彼の想いを汚してしまう。

 だから生き方は曲げられない。

 何もかも駄目にしまったが、彼のことだけは捨て切れなかった。


「私はいつきひめ。もう、他の何者にも為れない」


 彼は愚かな誓いを掲げた私を美しいと言った。

 ならばたとえ結ばれることはないとしても、せめて最後まで彼が好きになってくれた私で在りたい。

 それだけが、彼に示せる唯一だと信じている。


「火女として葛野の為に生きる。それだけが、彼の想いに報いる道だと思うから」


 紡いだ言葉には揺らがぬ決意がある。

 そして、それがいけなかった。

 葛野の為に。その一言を聞いた瞬間、鈴音の顔付きが変わった。


「じゃあ、ひめさまは」


 声が震える。我慢していた何かが暴発してしまそうだ。

 この女は今何と言った? 

 葛野の為に。他の男に靡いたのではない。兄の想いを知り、自身も慕い、だというのに。

 葛野の為にこんなことをしていると言った。


 つまりこの女は。

 私がずっと一緒にいたいと願った人に想われながら。

 おそらくは自分が一生得ることのないであろう、彼に女として愛されるという幸福を、どうでもいい誰かの為に捨てると言ったのだ。 


 許せない。

 憎いと。ただ憎いと。殺したいほど憎いと。殺すでは温い。臓物を引きずり出し目玉を繰り抜き脳髄をぶちまけ死骸を擂り潰しその魂を焼き尽くし。

 それでも尚、飽き足らぬ程に。

 目の前にいる、この女が憎い、と。

 そう思ってしまった。


『ね、私の言った通りだったでしょう? このお姫様は悪い女なの。だからお兄さんの為に頑張りましょう』


 今迄無言だった鬼女が耳元で囁いた。

 人の心の隙間につけ込む。それはいつの世も変わらぬ、あやかしの生業だ。


「聞くな鈴音ちゃん!」

『あら、間男が何か言っているわ』

「お前っ……!」


 睨み付ける清正を無視して鬼女は続ける。

 鈴音も聞き入れることはない。あれは兄の敵、ならば鬼以下の害虫に過ぎず、視界に入れる必要もなかった。


『鈴音ちゃん、許せないわよね?』


 鬼女の言葉に耳を傾ける。

 甘く優しい語り口は、まるで毒のようだ。意識を溶かし、心の奥へと染み渡る。幼い鈴音は鬼女の思うままに誘導されていく。


『あなたの大好きなお兄さんに想われてるくせに他の男と寝ようとする売女なんて。裏切って、傷付けて。でもあの女はのうのうと守られるの。何も知らずに戦うお兄さんを陰で哂いながら』


 許せない。そんなこと、許せる筈がない。

 誘導されたとしても、抱く憎しみは紛れもなく鈴音から生まれたもの。

 幼き日を共に過ごした幼馴染が心底憎い。沸き上がる感情は、誤魔化しようがないくらいに本心だ。


『ま、お兄さんは真実を知ったとしてもお姫様を守るんでしょうけど。そこら辺は鈴音ちゃんの方がよく分かってるでしょう?』


 そうだ。

 この女は私の愛しい人を傷つける。

 けれど彼は優しくて強いからきっと彼女を受け入れ許してしまう。


『考えましょう、お兄さんの為に何が出来るのか』


 こんな糞みたいな女のために、彼が傷付くなんてあってはならない。

 ならばどうすればいい……いや、考えるまでもない。

 ああ、答えは簡単だ。




『こんな女、いなくなればいいと思わない?』




 それに気付いた時、幼子は幼子ではなくなった。


「え……」


 漏れた声は誰の驚愕だったのだろう。

 鈴音の身に起こった変化に白夜達は戸惑いを隠せないでいた。

 ほんの数秒前までは確かに幼子の姿をしていたのに、瞬きの間だけ黒い瘴気が鈴音を隠したかと思えば、次の瞬間には見知らぬ女がいた。

 女は眼を伏せたままだらりと力を抜いて立っている。

 赤茶だった髪は緩やかに波打つ眩いばかりの金紗に代わり、踵にかかるまで伸びていた。

 年の頃は十六、七といったところか。

 身長は五尺ほどになり、まだ少女と呼べる外見で在りながら豊満な体つき。まるで瘴気をそのまま衣に仕立て直したような、淀んだ黒衣を纏った鬼女は気怠げにゆっくりと顔を上げる。

 うっすらと瞳が開いた。

 赤い。

 細い眉と鋭い目付きが冷たい印象を抱かせる、刃物の鋭利さを秘めた美しい女だった。


「すずちゃん、なの?」


 答えは返ってこなかったが、彼女が鈴音であることは理解できた。

 髪の色という相違点こそあるが、顔立ちには確かに面影が残っていたからだ。

 普通に成長していたのならば、鈴音は今のような美しい娘になっていたのだろう。


「ねぇ、ひめさま」


 名の通り、鈴の音を想起させる澄んだ声。

 透明な水のような心地よさに、一瞬だが心を奪われたことに気付く。語り口は幼いまま。無邪気なまま、鈴音は軽やかに言の葉を紡ぐ。


「……死んで?」


 紅玉が、ゆらりと揺れる。

 もはや右だけではなく、両の瞳が赤く染まっていた。


「白……!」

『あーら駄目よ色男さん? 女の喧嘩に男が出ちゃ』


 白夜を守ろうと飛び出した清正は、だがそれよりも早く鬼が動く。

 舌打ちと共に宝刀、夜来を構える。いくら鬼とはいえ女に後れは取らない。鍔に手をかけ鯉口を切り、一気に抜刀し。



「え………」


 抜けない。

 刀身は鞘に収められたまま。どれだけ力を入れてもがちゃがちゃと音が鳴るだけで決して抜けることはなかった。

 致命的な隙を鬼が放っておく訳がない。茫然とする清正に向って、鬼女は左足を軸にして体を回し、脇腹に蹴りを叩きこんだ。


「ぐぁっ……!?」


 彼の体は宙を舞い、座敷から本殿の板張りの間まで簡単に吹き飛ばされる。あばらが数本いかれた。

 走る激痛、だが自分は巫女守。この程度で音をあげる訳には。


『へぇ、意外と頑張るじゃない。でもあなたでは無理よ』


 けれど心意気では覆せぬ差というものが在る。

 間合いを詰めた鬼女は清正の右腕を掴み、ありえない方向へと力を込めた。


「いあ、いぎゃああああああああああああ!?」


 ぼきり、という音と共にへし折れたのは骨か心か。

 激痛に膝が崩れ倒れ込めば、間髪入れず腹をつま先で蹴り上げられ、清正は成す術もなく無様に床へ転がされる。

 意識はまだあるが、痛みで体を動かすことが出来ない。

 何もできないでいる清正を尻目に、鬼女は無造作に転がっていた夜来を拾い上げる。

 集落の宝刀。若干の興味から刀を抜こうとするが、どれだけ力を込めても、やはり鞘が音を鳴らすだけで終わった。


『おかしいわね。確かに<遠見>で見た景色じゃこの刀抜けてたんだけど。あたしじゃ抜けないのかしら。もしかしたら選ばれた者にしか抜けないとかそういうヤツ?』


 ぶつぶつと訳の分からないことを呟きながら鬼は夜来をいじくり回している。

 しばらくして諦めたのか、それを鈴音に投げ渡した。


『はい、お嬢ちゃん』


 鈴音は無造作に掴み取る。

 表情は変わらない。ただ冷たく、意を問うように視線を鬼女へ向けた。


『折角だから、それを使ってあげなさい。私が“見た”通りなら、多分貴女は使える筈だから。自分が今まで崇めてきたモノで殺されるならお姫様も本望でしょ?』


 それじゃ、あたしはこの子外に捨ててくるわ。二人っきりにしてあげる。

 そう言って清正を担いだまま本当に何処かへ行ってしまう。

 社に残された二人。

 鈴音は鞘に収められた夜来を見ながら、小さく呟く。


「……面白そう」


 しなやかな指が武骨な太刀の柄に触れる。力を然程込めることもなく、夜来は抜き身を晒し白刃が光を放つ。

 瞬間、憎悪が膨れ上がる。

 誰かを傷つける手段を手にしたせいか、殺意が明確になった。

 憎い。ならば殺せ。自分ではない自分が語り掛ける。膨れ上がる憎悪に立ち眩みを起こし、瞳は憎悪の行方を探す。

 其処にいるのは心から憎む下衆な女。視界に入れるだけで不愉快な売女だった。


「すずちゃん……」


 白夜の声は震えていた。

 この娘は。かつては同じ屋根の下で暮らしていた幼馴染の妹は、本当に私を殺そうとしている。

 迫り来る死に恐怖を覚えることはない。いつきひめになると決めたその日から、既に命など捨てている。だから今更、死に怯えるなどということは在り得ない。

 しかし心が慄く。

 死ぬことに、ではない。本当に怖いのは鈴音が自分を殺そうとしていることだ。

 甚太と白雪と鈴音。三人はいつだって一緒で、本当の家族だった筈で。なのにあの娘は私を確かに憎んでいる。

 それが怖い。自分の信じてきた美しいものが、何の価値もなかったのだと言われたような気がして、たまらなく怖かった。


「じゃ、ひめさま」


 そのまま切っ先を白夜に突き付け、にぃっ、と。

 鬼は嗤った。






「さよなら」







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