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『妖刀夜話~御影~』・5




 地縛は向日葵の妹、彼女もまたマガツメが切り捨てた一部。必要が無いと捨てた心の断片より生まれた鬼である。

 マガツメの子供は全て生まれながらにして<力>を習得している。

 鬼の<力>とは才能ではなく願望。

 心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。

 生まれながらにそれを抱けるのは、そもそもが切り捨てた心、叶わなかった願いが形になった化生故に。

 つまり<地縛>という<力>は地縛自身の想いではなく、マガツメの願いの一つだと言っていいだろう。


 同じマガツメの娘であっても彼女らには多少の差異がある。

 たとえば向日葵は誕生したその時から女童の姿をしていた。

 しかし生まれたばかりの地縛は今の姿のままではなく、顔も体ものっぺりとした、四肢を持っているだけの無貌の鬼だった。

 自我も極端に薄く外界の刺激に反応する程度。

 その為明確な目的は与えられず、ただ漠然と町中に放り出され、“人を狩れ”とだけマガツメに命じられた。


『……あなたを、討たせていただきます』


 人を狩る怪異の討伐に駆り出されたのは、南雲和紗という娘であった。

 高位の鬼は殆どが強い自我を持っている。そこから零れ落ちる強い願いが無ければ、<力>を得ることは出来ないのだ。

 だから和紗は油断した。

 自我の薄い怪異。いつも通りの、下位の鬼だ。痛みもないくらいに一瞬で終わらせてあげたい。

 そういう気持ちが彼女に隙を作ってしまった。


『……え?』


 しかし突如として現れる“七本”の鎖。

 しなり、蠢き、牙を立てる。鎖は毒蛇のように和紗へと襲い掛かる。咄嗟のことに和紗は、彼女の刀である兼臣も何もできない。


『なに、これ』


 鬼は鎖を操る<力>を持って和紗を弄ぶ。まるで猫かネズミをおもちゃにするようだ。

 縦横無尽に振るわれる鎖、これ以上はいけない。

 兼臣は和紗を助けようと……しかし遅かった。



 ずぶり



 嫌な音が聞こえ、鎖が和紗の体を貫く。

 断末魔の悲鳴さえ上がらない。

 別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。

 彼女の魂は体を離れた。



 漏れるような吐息だけを残して和紗は倒れた。

 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も焼き付いている。

 何一つ守れなかった刀。

 情けない。何が刀だ。お前に何が出来た。

 刀が斬る為に造られたのならば、斬ることの出来なかった刀に何の意味がある。

 心は苦渋に満ちている。

 そんな兼臣を余所に、一本の鎖が和紗の死体から引き抜かれ、鬼の体へと埋没していく。

 本当の悪夢は此処からだった。



『地縛…あたしは、地縛……』



 鬼は変容していく。

 次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。

 出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は自分の名前を確認するように何度も呟く。

 浮かび上がった顔は、どこかの誰かにひどく似ている。

 それが兼臣を驚愕させた。

 鬼───地縛の周りで蠢く鎖の数は六本に減っていた。

 倒れた和紗はぴくりとも動かない。

 鬼の変容を目の当たりにし、兼臣は唐突に理解する。



 あの鬼は、比喩ではなく、和紗様の“魂”を奪ったのだ。



 地縛は一本の鎖を失う代わりに和紗の魂を縛り付け、“地縛”としての人格を得た。

 もっとも気付けたからと言って何かが出来た訳ではない。

 兼臣には和紗の死体を動かし逃げることしか出来なかった。

 だから兼臣は取り返したかった、奪われた主人の魂を。

 そんなことをしたところで和紗が生き返るかは分からない。

 けれど失くしたものが大きすぎて、それに縋ることしか出来なかった。




 何一つ守れなかった、一振りの刀の話である。




 ◆




 甚夜が一条戻橋に辿り着いた時、初めに耳を突いたのは夏の虫の声だった。

 あれは鈴虫だろうか。湿気を含んだ温い風に紛れて鳴く虫達、聞こえてくる音色は騒がしくも清澄だ。見上げれば満天の星。京の町にはむせ返るような盛夏の夜が横たわり、だからこそ甚夜は僅かに奥歯を噛み締めた。

 夏の夜があってはいけなかった。

 鬼がおり、刀があり、憎む者が憎まれるべき者がいる。

 ならば其処が平穏で在ってはいけない。

 それなのに、虫の音が響き渡る夜。夏の重苦しい静寂が辺りを包んでいる。


「あら、おじさま? 遅かったわね」


 橋の真中には影が在る。

 マガツメの娘。

 気負いのない涼やかな様子で、地縛は静寂の中心にいた。


 ゆらゆらと揺れる鎖、そのうちの一本が地縛の傍らにいる女から生えている。

 左胸から生えた鎖が夜の色に濡れている。

 今宵の色は、黒よりも赤に近い。

 女は、地縛によく似ている。それとも地縛が彼女に似ているのか。


「鬼の血を練り込んで造り上げた妖刀。中でもこの夜刀守兼臣は特別。マガツメ様も気に入ってくれると思うの」


 兼臣は、地縛を捕えたいと願った刀は、その望みを為せなかった。

 立っているのではなく鎖に吊られて立たされている。

 心臓を貫かれ、僅かにも動かない。物言わぬ死体がただそこにあるだけ。

 夜の闇の中で尚赤々と濡れた鎖から滴がぽたりと落ちる。それが地面を叩いた時、甚夜はようやく言葉を絞り出した。


「地縛……」


 年甲斐もなく声が震えた。どのような感情に起因するかは気付きたくなかった。

 地縛はこちらに一度視線を向け、緩やかに、まるで「今日はいい天気ね」とでも話すような軽い調子で言う。


「でも体の方はいらないわね」


 動かない兼臣の四肢に鎖が巻き付き、鈍い音が響く。腕の骨、足の骨がへし折れ、それでも兼臣は刀を手放さない。崩れ落ち、地に伏そうとする瞬間、更なる鎖が彼女の体を貫く。

 広背筋を破り、背骨を砕き、臓器を食い破る。鎖は容易く兼臣を持ち上げ、まるでゴミのように、真実ゴミとして動かなくなった体を後方に投げ捨てた。

 一度後ろを振り返り、無様に転がる兼臣を見てにたりと地縛は哂う。

 向き直りこちらを眺めるその眼には勝者の自負があった。


 甚夜は何も言わなかった。

 目の前で知己の死体を弄られたのだ。眼前の下衆を憎み、怒りを露わにするところだろう。

 しかし彼はその光景を見つめながら、誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。


「歳を取るというのは悲しいな」


 以前ならばおそらく激昂した。

 兼臣が傷つけられたことに激昂して、形振り構わず斬り掛かった。斬り掛かってやることが出来た。

 そういった青臭い年頃から数十年が過ぎた。

 今はもう感情の昂ぶりに身を任せられる程若くない。

 ふつふつと怒りを感じながらも、眼前の怪異を討つ為に激情を飲み込めてしまう自分が、あまりにも薄情に思える。

 だが勘違いしてはいけない。

 分かりやすく表に出ず冷静を維持しているとはいえ、怒りを感じない訳ではないのだ。


「済まない兼臣。約束を破ることになりそうだ」


 溜息交じりの重く寂しげな呟きが零れる。

 地縛は、兼臣と瓜二つの端正な顔を僅かに歪めた。


「どういう意味?」

「兼臣はお前に大切なものを奪われたから取り返したいと言っていた。その為に捕えたいのだと。此処で、彼女の代わりに願いを果たせればいいのだろうが、どうやら私には出来そうもない」


 抑揚のない、淡々とした語り口からは感情を読み取ることは出来ない。

 それが地縛には意外だった。知己がやられたのだ、もう少し怒りや悲しみを露わにすると思っていた。

 しかし甚夜は怒りに体を震わせることも、涙どころか嘆き悲しむ仕草さえ見せない。あまりにも冷静な態度は、まるで兼臣などどうでもいいと言っているかのようだ。


「あら、早々に敗北宣言?」


 せせら笑う地縛を見る目は薄く細められ、やはり抑揚のない口調で甚夜は告げる。


「笑わせるな小娘」


 鉄のような表情に、鉄のような声。

 あまりにも硬すぎて、ぞっとするくらいに冷たかった。


「捕える必要がなくなったと言っている。鬼を討ち、その身を喰らい尽くす。やることは今迄となんら変わらない。己が目的の為にお前を斬るだけだ」


 甚夜は抜刀し無造作に構える。

 ごく自然な所作。なのに夏の夜は少しだけ寒くなったような気がする。

 きっと気温が下がったのだろう。だから地縛の肩は微かに振るえた。


「だが……兼臣がいないのに、その小奇麗な顔があるのは正直気に入らなくてな」


 ひくり。氷柱を背中へ突っ込まれたような冷たさに笑みが引き攣る。

 戦いの際の振る舞い。向日葵との接し方や兼臣を懐に迎え入れる点。地縛らが仇敵の娘だと聞いても動揺せず激情をぶつけることもしなかった。

 今迄のやり取りを経て地縛は、葛野甚夜という男は冷静で、激情に身を任せるような真似はしないのだと判断していた。

 しかし此処にきてようやく読み違えていたのだと気付く。

 地縛は知りようもないが、そもそも甚夜の冷静な態度や固い口調は巫女守として相応しい在り方を考え作ったもの。本質的に彼は感情の起伏が激しい男だ。

 長い年月をかけて“冷静な自分”もまた彼の一部となり、老成し若さのままに動くようなことも少なくなった。

 それでも本質とは容易く変わるようなものではない。


「悪いが、八つ当たりに付き合ってもらおう」


 吐き出した言葉と共に全身の筋肉は肥大化し、体躯は変容していく。

 左右非対称の異形。鬼としての姿が其処には在る。

 冷静ではあるのだ。激情にかられ軽率な真似をしないのも間違いなく。

 けれどそれは怒りを感じないのと同義ではない。

 その小奇麗な顔があるのは気に入らない。つまり彼は、地縛の顔が二度と判別の付かないよう吹き飛ばすと告げた。

 怒りなぞとうに振り切れている。 

 有体に言えば、甚夜はこの上なく冷静に激昂していた。


「……っ!」


 地縛は全身が粟立つのを感じた。

 純粋すぎる敵意は痛いほどにざらついていて、まるで目の粗いやすりのようだ。睨まれただけで皮膚を削られたのではないかと錯覚してしまう。

 身構え、眼前の異形を見据える。

 彼の正体を知っていたというのに、地縛はこれを剣豪と鬼女の戦い、人と人ならざるものの争いだと捉えていた。 

 この身はマガツメから生まれた鬼、一方的に他者を狩る化生。

 前回は<力>を上手く扱えなかったから、経験が少なかったからこそ押された。

 ならば相応の研鑽を積んだ今、正しく剣豪と鬼女の戦いになった。もはや相手は狩られるだけの獲物だと、地縛はそう思っていた。


 ────左右非対称の異形は、冷徹過ぎる、殺すことしか考えていない瞳で。

    この身を砕き、喰らい尽くそうとしている。


 だが違った。

 敵は彼女と同じ狩る側。相手もまた人の枠を食み出た化け物なのだ。

 それを否応なく理解させられ、此処に油断も慢心も消え去った。


「<地縛>……っ」


 じゃらじゃらと音を立てながら襲い掛かる二本の鎖。

 叩き付けるように狙った肩口。動きを止める為に足を絡め取る。

 同時に地縛は後ろへと下がる。自身の<力>は距離を取って初めて有効。六本の鎖のうち二本は<疾駆>、<飛刃>を抑えるのに使っている。四本であの敵を捌くのは至難、まかり間違っても間合いに踏み込むような真似はしてはならない。

 対する甚夜は<飛刃>を封じられ遠距離での決め手に乏しく、<疾駆>で間合いを一気に詰めることも出来ない。

 まずは様子見、左腕を翳し<地縛>を迎え撃つ。 


「来い、<犬神>」


 この身を砕こうと牙を剥く蛇、迎え撃つは三匹の黒い犬。しなやかに跳躍する<犬神>と空気を裂きながら蠢く不気味な鎖がぶつかり合う。

 ぱん、と軽くはじけるような音。地縛は五年前よりも力をつけているようだ、<犬神>はいとも簡単にはじけ飛んだ。代わりに鎖も大きくたわみ、狙いとは見当外れの場所へ向かう。


「成程、如何やら一筋縄ではいかないらしい」

「鎖だけに?」

「下らん冗談だ」


 甚夜は無表情に、落ち着きを取り戻した地縛は何処か楽しげに言葉を交わす。

 たわんだ鎖が再度甚夜へ狙いを定めた。重心を倒し、前傾姿勢になりながら、地を這うように甚夜は駈け出す。距離は八間。<犬神>では鎖を砕くことが出来ない以上、これを零にしなければ話にならない。


 身を翻し、鎖をやり過ごす。次いで<隠行>を発動し、姿を消す。そのまま懐に入り込もうとするが、地縛も以前のままではない。

 即座に鎖を自身の周りへ戻し構える。しかし見えていないことには変わらない。甚夜は左足で橋を蹴り、速度を上げる。


「残念、見えてるわよ」 


 その瞬間地縛は乱雑に、縦横無尽に、四本全てを振り回す。

 何処にいるかは分からない。ならば薙ぎ払おう。その程度の考えかとも思ったが違った。鎖は縦横無尽に見えてよく計算されている。甚夜の逃げ場所を誘導し、少しずつ追い詰めていく。

 空気を裂きながら、一本の鎖が鞭のように振るわれた。

 全身の筋肉を躍動させ、横薙ぎの一太刀で迎え撃つ。

 金属と金属がぶつかり合う。甲高い衝突音、鎖を払い除ける。後ろに退き、甚夜は再度構える。地縛は余裕の表情でそれを眺めていた。


「姿を消しても自分の<力>が何処にあるかくらいは分かるわ」


 甚夜の腕と足には鎖の刺青がある。これが消えない限り地縛はその位置を把握でき、消す為には地縛を討つしかない。

 <飛刃>、<疾駆>は封じられた。位置が分かるなら<隠行>、<空言>も意味がない。<犬神>では決定打にはならない。

 僅か五年で地縛は厄介な相手になった。しかし退くという選択肢はない。

 ここで逃がせば地縛は更に強くなるだろう。マガツメによる被害も拡散してしまう。

 それ以上に、奴は兼臣を弄った。見逃せるはずがない。表には出さないが、甚夜は地縛を斬り伏せること以外考えてはいなかった。


「……随分と、強くなった」

「これでも、少しはね。おじさまにそう言われると何だか嬉しいわ。お礼に、鎖で雁字搦めに縛り付けて甚振ってあげる」


 口角を釣り上げ、見下したような視線を送る。

 性格の方はあまり変わってないようだが、彼女は成長し挙動の隙も少なくなった

 自身の周囲には二本を残し、他の鎖で甚夜を攻める。空気が唸りを上げた。鉄球が正確に急所を目掛けて飛来する。


「趣味ではないな」


 それを丁寧に捌きながら甚夜が答える。

 地縛は確かに強くなったが、今回は誰かを守りながら戦わなくてもいい。その分精神的にも肉体的にもいくらか余裕があった。


「そう。でも、やめないわよ?」

「構わんさ。どのみち為すことに変わりはない。お前は、私が喰らおう」

「あらまあ、私が食べたいの? 向日葵姉さんに嫉妬されちゃうわね」


 ふざけたことを言いながらも地縛の攻め手は苛烈だ。

 鎖の操作技術、その威力、共に五年前とは比べ物にならない。

 地縛が攻め、甚夜が防ぐ。戦局は硬直状態に陥っていた。 


「……っ」

「ほんと、厄介な人!」


 既に数合、致死の一撃を幾度も放ちながら甚夜は息も乱さずそれをいなす。

 強くなったと思っていた、なのにまだ届かない。地縛はその現実に焦れ、苛立っていた。

 焦れていたのは甚夜も同じ。間合いは未だに詰められない。

 鬼と化しながらも攻め込めないのは<地縛>、封じる<力>故に。

 痛みは耐えられるが“縛られる”ことはどうしようもない。

 だから無理に攻めることは出来ず、硬直状態に甘んじるしかない。


 しかしこのままではいずれ不利に傾く。


 二匹の鬼は、同時に同じことを考えた。


「ねえ、おじさま?」

「なんだ」


 攻防を交わしながら、互いに軽い調子で語り合う。


「いい加減、飽きてきたと思わない?」

「奇遇だな、私もそう思っていた」

「そう、なら……」


 鎖が全て地縛の周囲へと戻った。

 甚夜は腰を落し、左の拳を音が鳴る程に強く握り締める。


「そろそろ、終わりにしましょうか」

「良い案だ」


 そして動く、それもまた同時だった。

 地縛が攻撃を止めたのは甚夜を呼び込む為。遠距離で攻撃を繰り返しても捌かれるだけ。ならばぎりぎりまで距離を近づける。鎖の速度に甚夜自身の疾走を加え、多少の手傷は覚悟の上で、攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。

 甚夜は<剛力>を使わない。威力は随一だが手数の多い地縛相手ではあまり意味がない。鬼の身体能力と剣技に飽かせた真っ向勝負。相手の策略など正面から斬り伏せる。

 一挙手一投足の間合いへ踏み入り、二匹の鬼がやはり同時に仕掛ける。

 速度は殺さない。甚夜が狙うは咽頭、放つのは鬼の腕力を余すことなく乗せた刺突だ。


 それを地縛は待ち構えていた。

 甚夜が右腕を引いた瞬間、四本全ての鎖を用いて打ち据えにかかる。距離が近くなった。突きよりも待ち構えていた地縛の鎖の方が早い。唸りを上げる鎖は蛇、敵の命を刈り取ろうと牙を剥く。 

 だがそこまでは読めている。

 かつて岡田貴一が見せた刺突には及ばないが、甚夜は放った突きの軌道を滑らかに薙ぎへと変化させる。

 拙い業だ。それでも狙い澄ました筈なのに鎖を防がれた地縛には十分驚愕で在ったようだ。

 甚夜は止まらない。打ち払うのは目の前のものだけでいい。それがなくなれば地縛に拳が届く。<剛力>を使わずとも彼の拳は凶器、一撃で鬼女の美しい顔を退き飛ばすことが出来る。

 更に距離は狭まる。拳が届く位置、故に勝利を確信する。




「これで、私の勝ちね」




 地縛は勝利を確信して笑った。

 瞬間、防がれた四本の鎖ではなく、甚夜の体から二本の鎖が解き放たれ、彼の心臓を頭を狙う。

 攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。もとよりそれが地縛の目論見。しかしその程度で甚夜を仕留めるのは難しい。そんなことは彼女自身が一番よく分かっていた。

 だからこそ使える四本の鎖を囮にした。<力>を封じている二本の鎖を開放し、真正面から不意を打つ。

 避けられない。

 鉄球が唸りを上げる。それは正確に甚夜の心臓と頭に直撃し、


「その程度では、壊せんぞ」


 がきん、と鉄の音が響く。

<不抜>。壊れない体の前では鎖など涼風にも劣る。

 読んだ訳ではない。地縛の笑みに不吉なものを感じた瞬間、甚夜は<力>を発動していた。

 殆ど勘ではあったが、その判断が功を奏した。

 彼では土浦程早く壊れない体を構築できない。直撃より一瞬遅かった為、完全に防ぎきることは出来ず血が垂れている。

 それでもどうにか間に合った。


 地縛は歯噛みする。目論見通りだった。策を張り、不意を打って……尚も命には届かない。

 驚かされたのは甚夜も同じだ。今のは綱渡りで命を繋いだに過ぎない。

戦いはまだ終わっていない。

 互いに全て手札を切り、二匹の鬼は硬直している。

 甚夜はまだ<不抜>が解けていない。壊れない体を得られるが、使用中は動くことが出来ない。動けない状態で縛られれば終わり、急ぎ反撃に転じようと<力>を解く。

 地縛も六本の鎖を防がれ、攻撃に移るまで少しばかり時間がかかる。

 先に動いた方が勝つ。

 そういう状況で、しかし<不抜>が解けるよりも、たわんだ鎖が元に戻る方が早かった。


「……っ」


 甚夜は演技ではなく、心底の焦りから顔を歪めた。

 まだ動けない。打てる手はもうない。地縛は既に鎖を操り始めた。今度こそ、防ぐことは出来ないだろう。

 にいっと、地縛が口の端を釣り上げる。


「ようやっと、これで終わりね」


 勝ち誇り地縛は左腕を翳した。

 蠢く鎖が甚夜に咢を向け。

 放たれた一撃が、体を貫いた。






「ええ。これで終わりです。終わるのは、貴女ですが」






 一振りの刀が。

 背後から、地縛の心臓を貫いたのだ。


「……………え?」


 ずぶり、と気色の悪い音が聞こえる。

 遅れて吐血し、地縛は目を見開く。

 おかしい。

 これで勝ちの筈だった。なのに痛い。おかしい、おかしい。

 なんで自分の体から、刀が生えているんだろう?

 地縛はいきなりの事態に頭が回っていなかった。それは甚夜も同じ。彼にしては珍しく、驚愕に呆けたような顔をしている。

 くるりと、地縛は首だけで後ろに振り返る。

 そこには見知った女がいる。

 自分と同じ顔をした女が。


「まだ、動けるのっ……!?」


 心臓を貫き、背骨を砕き、四肢をへし折った。

 なのに兼臣は、確かに心臓から血を流しているというのに、立ち上がっていた。

 夜刀守兼臣が地縛の心臓を貫いている。痛みを感じてもいないのか、淡々と兼臣は語った。


「四口の夜刀守兼臣は、全てが妖刀。それぞれ異なる<力>を有しています。この刀の<力>は<御影>。骨が折れようが腱が切れようが、物理的に動かない状況であろうが。“自分自身”を傀儡と化し、無理矢理に動かすことが出来る……!」


 その<力>は知っている。だから念入りに彼女の体を壊した。

 なのに、まさか背骨を砕かれても動けるなんて。

 動揺し叫び声をあげそうになり、しかし声は出なかった。言うより早く、首を鷲掴みにされた。

 ぎしり、骨が折れそうになる程の力で締め付けられ、そのまま高々と持ち上げられる。

 息が出来ない。見下ろせば、何の感慨もなくこちらを見る赤い目が。

 そこには左右非対称の異形の鬼がいた。


「兼臣……無事、なのか?」


 異形の左腕で鬼女の首を絞めて吊り上げたまま、甚夜は視線を向けずに兼臣へ問いかける。

 相手は手負い、縊り殺すなど赤子の手をひねるより容易い。寧ろ気になるのは心臓を貫かれ骨を砕かれ、尚も立ち上がる彼女の方だ。


「見ての通りです」


 満身創痍、とても無事とは言えない。

 けれど既に死んでいる筈の兼臣は何の問題もないと微笑んでみせる。

 ならばいい。優先すべきは地縛の後始末だろうと追及はしなかった。それが合理からの判断か言い訳なのかはよく分からなかった。


「……そうか。こいつはどうする」


 もともとは地縛と兼臣の私闘、甚夜は横槍を入れたに過ぎない。

 行く末を決める権利は斬った彼女にある。どのような選択であれ従うつもりでいた。


「葛野様の、お好きに」


 しかし兼臣は目を伏せ、感情の乗らない声を零す。

 仇を追い詰めながらそこには怒りも憎しみもない。強いて言うならば諦めか。もはやどうでもいいことだと弱弱しく目を伏せる。


「いいのか」

「ええ。……私は信じていたんです。地縛を捕えれば、和紗様の魂が取り戻せるのだと。そんなことある筈がないのに。失ったものが戻るなどと、ありもしない希望に縋ってしまった」


 俯いてそっと触れたのは自身の胸元、穿たれた心臓。失われたものを確かめるように、傷口にしなやかな指を這わせる。

 横顔に映り込む淡々しい感傷は見間違えではなく、しかし兼臣は瞬きの間にそれを捨て去った。


「ですが叶わぬ夢と、ようやく受け入れられました。ですからどうか、貴方の手で終わらせてください」


 僅かな逡巡は決別に必要な時間だったのかもしれない。顔を上げた彼女の眼にもう迷いはなかった。

 その言葉が如何なる想いを込めて紡がれたものかは甚夜には分からない。

 しかし兼臣の眼に曇りはなく、静かな微笑みは本当に綺麗だった。問いを重ね、彼女の決意を濁らせるような真似は無粋だろう。

 だから何も返さず小さく頷き、彼女の願い通り、此処で終わらせる為に改めて地縛へ意識を傾ける。


「地縛……お前に聞きたいことがある。」


 甚夜は左腕に籠めた力を少しだけ緩めた。

 だらりと放り出された手足、生気を感じさせない虚ろな目。心臓を潰され、地縛の体からは既に白い蒸気が立ち昇っている。

 手を下すまでもなく、放っておいたところで彼女は死ぬ。

 そういう娘を脅しつけ、無理矢理に話を聞き出そうというのだ。人を狩る鬼女が相手とはいえ、これではどちらが悪役か分かったものではない。


「マガツメの目的はなんだ」

「……さ、あ?」


 だが途中で止める気もない。

 地縛がマガツメの娘であるならば下種の所業も喜んでやろう。

 憎しみに追い立てられて生きてきた。今更此処で二の足を踏む理由などある筈がなかった。


「何も知らないのか」

「ええ、興味も、ないし。でも何か為したいことがある、手伝う理由なんてそれで十分じゃない? だって、元は同じものだったんだから。……もっとも、マガツメ様は私達のことなんて気にも留めていない、でしょうけど」


 憎悪は隠そうにも隠し切れない。それが自身に向けられたものではないと知りながらも地縛は身を固くした。

 けれど滲む感情の色は恐怖より諦観、或いは自嘲。もはやどうにもならないと理解し虚飾を捨て去った女は、驚くほど素直に胸中を曝け出す。


「私達はマガツメ様が切り捨てた、心の一部。目的を果たす為に必要だったから造ったんじゃないわ。目的を果たす為に、必要ないから私達が出来た。それがたまたま使えたから使ってるに過ぎない。大切にはしてくれるけど、本当は私達のことなんて。最初から、いらなかったのよ、きっと」


 或いは、彼女が“母”ではなく“マガツメ様”と呼ぶのは、だからなのか。

 必要とされていない、その引け目が母と呼ぶことを躊躇わせる。垣間見えてしまった寂しさに甚夜は僅かながら眉を顰めた。

 人を狩る鬼女相手に同情はしない。それでも子を持つ身としては、彼女の苦悩には身につまされる部分もあった。


「……そうか。くだらないことを聞いた」


 疲れたような淡い微笑みに、幾度も留守番をさせてしまった小さな娘の面影が重なる。

 敵のままいてくれればやり易かったろうに、少しばかり踏み込みすぎたかもしれない。


「いいわ、私は負けたんだもの」

「ならばお前の<力>、私が喰らおう」


 しかしそれも多少気が重い程度、躊躇えど見逃す理由にはならない。

 力を込めた左腕が心臓のように脈打つ。

 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする。かつて葛野を襲った鬼から与えられた異形の腕だ。

 彼女の記憶も想いも、丸ごと全て喰らい尽す。


「あ、ああああ……」


 苦悶の声には聞こえないふりをする。

 繋がった左腕から存在そのものが流れ込んでくる。

 しかし普段とは勝手が違う。何故だろうか、記憶も想いも理解が出来なかった。

 靄がかかったようにはっきりしない。

 心は何一つ伝わらず、それでも少しずつ地縛の意識は溶けていく。


「では、な。地縛」


 簡素な別れの言葉はせめてもの謝罪だったのかもしれない。

 ふうわりと、微かに口元が和らいだような。

 断末魔も今際の恨み言もなく、寂しげな微笑みだけを残して、鬼女は完全に消え去った。

 りり、りり。

 虫の音響く静かな夏の夜が辺りには戻り。 

 こうして百鬼夜行は一晩のうちに終わりを迎えた。 











「ああ、よかった。和紗様の仇だけは討つことが出来た」


 呟きには万感の意が籠っている。

 時代に刀を奪われ、復讐を否定され。尚も兼臣にとってはそれが全てだった。

 守れなかった過去は変わらず戻るものもない。

 けれどかつて斬るべきを斬れなかった刀は、苦渋の歳月を経て、過去の因縁をようやく斬り捨てることが出来たのだ。

 せめてもの意地は通せたと、少しは救われたとでもいうように兼臣は柔らかく息を吐き。

 しかしそこで限界は訪れる。

 役目を果たした兼臣は、まるで糸が切れた人形のように膝から砕け力なく倒れ込んだ。


「……兼臣」


 驚きも慌てもしなかったのは多分予見していたから。甚夜は冷静に近付き、細くあまりに軽い彼女の体を抱え起こす。

 腕が足が折れ、心臓が貫かれ、尚も刀だけは手放さない。最後まで刀で在ろうとした彼女は、あまりにも穏やかな微笑みを湛えている。


「ありがとう、ございます。葛野様、貴方のおかげです」


 瞳は儚げに揺れている。

 彼女は助からない。そもそも生きていること自体がおかしい。

 取り返しがつかないほど肉は壊れ、宿願を果たし心は満たされた。復讐も未練も、摂理に逆らい生へしがみつく必要も。もはや彼女には何も残っていない。

 兼臣は、当たり前のように、命を落とす。


「待っていろ、今助けを」

「無理ですよ。元々<力>で無理矢理動かしていただけに過ぎません。もう、この体は終わっているんです」


<御影>。

 自身の体を傀儡のように操り、骨が折れようが腱が切れようが、無理矢理に動かす<力>。

 動ける訳のない彼女が動けた理由。しかしそれも終わり。

 抱えた体は冷たい。鼓動の音も聞こえない。

 信じたくなくて見ないふりをしていただけ。命を落とす、というのは正しくない。

 本当はもう、彼女はとっくの昔に終わっているのだ。


「兼臣……」


 なのに瞳はどこか晴れやかで。 

 それがまるで天寿を全うする老人のように見えて、悔恨に甚夜は奥歯を強く噛み締める。

 まただ。結局は何も守れない。

 恥を忍んで頼ってくれたこの娘に、彼は何もしてやれなかった。


「ふふ、そんな顔をしないでください。こうなることは最初から決まっていました。けれど、為すべきを為せた。私は十分満足しています。心残りと言えば、もう葛野様の作る蕎麦を食べられないくらいのものでしょう」

「蕎麦なんぞ幾らでも作ってやる」

「その言葉は、もう少し早く言ってほしかったですね」


 くすりと零れ落ちた笑みに、甚夜は表情を歪めた。

 普段は不愛想な男が死の際にこうも感情を見せてくれる。それが嬉しくて、兼臣は優しく目を細める。


「そこまで惜しんでもらえるなんて、思ってもいませんでした」

「……済まない、私は、お前に」

「そんな顔をしないでください。何も言えなかった私に手を差し伸べてくれた。あの夜、私は確かに救われたのです。何一つ為せなかった刀は、ちゃんと斬るべきを斬れた。それは紛れもなく貴方のおかげなのですから」


 だから、この終わりで十分満足している。

 最後の力だろう、兼臣はゆっくりと手を動かして、甚夜の頬にそっと触れた。


「地縛に奪われた和紗様の魂は、きっと貴方の中に。ならば今度は貴方を主人と仰ぐべきでしょうか?」


 どこか軽い調子。

 冗談めかした物言いが胸を締め付ける。


「ああ、それでいい。だから」


 だから、死ぬな。

 言いたかった。でも言えなかった。


「ふふ、そう、ですか」


 腕の中にいる兼臣は。


「なら……貴方の刀となるのも、悪く、ありませんね」


 最後に穏やかな笑みを残し。


 ────するりと、手は離れて。


 もう、動かなくなった。









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