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『妖刀夜話~御影~』・4




「ここで、いいかしら」


 辿り着いたのは堀川にかかる一条戻橋いちじょうもどりばしである。

 夜の闇は深く喧騒は遠く。抜ける風の生温さにぞわりと肌が粟立つ。

 そう言えば以前は五条大橋の上で対峙した。

 橋の真中で佇む鬼女、突き付けた刀。

 あの時と同じ、いや、同じではない。

 前回は甚夜が矢面に立ってくれたが今は己のみ。

 状況は更に不利。それでも兼臣は敵意を隠そうとはしない。


「私は、貴女を許せない。和紗様を奪った貴女を」


『平家物語』剣巻には次のような話がある。

 摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に一条戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。

 渡辺綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、彼の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行ったが、鬼の腕を太刀で切り落とすことにより、どうにか逃げられたという。


 ここはかつて剣豪が鬼の腕を切り落とした橋だ。

 あやかろう、などと考えるのは勝手が過ぎるだろうか。

 伝説に語られる剣豪には遠く及ばぬが、せめて腕の一本も奪わなければ、かつての主に申し訳が立たない。

 しかし実力では相手が勝る。腕一本どころか傷一つ付けられるかも分からない。

 自ら飛び込んだ窮地に唾を飲み込み、兼臣は憎むべき仇敵を睨み付ける。


「あらあら、でも、守れなかったのは貴女でしょう?」


 ああ、そうだ。そんなことは分かっている。

 命のやり取りをしているのだ。返り討ちにあったからといって、相手を憎む方がおかしい。

 今更恨みつらみを口にするならば、そもそもしっかりと守ればよかったのだ。

 けれど、できなかった。

 彼女の刀だった。そう在りたいと願っていた。なのに守れず、仇を討つこともままならず。無為に歳月は流れ、刀も復讐も認められない時代になった。

 今となっては間違っているのは兼臣だ。

 復讐を語る彼女こそが罪深いのだと、訪れた明治の世が語る。


「ええ、その通りです。だからこそ今此処で、和紗様の魂を取り戻す」


 それでも、曲げられないものがあった。

 地縛に奪われた主の魂。そのままにしておくなど認められなかった。

 奪われたものを取り返す。その為に振るう刀さえ明治の世では罪でしかなく、だとしても今更生き方を曲げられる筈がない。


「出来ると、思うの?」


 嘲りを含んだ瞳の色に神経を逆なでされる。

 激高しそうになり、どうにかそれを抑え、正眼に構える。


「その為の刀です」


 つまり、兼臣は刀であった。

 鞘はとうの昔に失くしてしまった。




 ◆




「叔父様、か。父と呼ばれ、叔父と呼ばれ……私も歳を取ったものだ」


 蒸し暑い夏の夜だというのに心の何処かが凍る。

 表情は変わらない。突き付けられた真実は確かに予想外だったが、動揺し狼狽するには歳を取り過ぎた。

 彼は大鬼の肩に座る向日葵を見据え、普段となんら変わらぬ平坦な声で言う。


「だが間違えるな。私の名は甚夜だ」


 夜来を託され、『夜」の名を継いだ。

 間違えた生き方に拘った無様な男の名だ。だとしても道行きの途中で拾ってきたものは、決して間違いではなかった。

 だから甚夜として在れたことには誇りもあった。


「でも、母は甚太と言っていましたよ?」


 しかし鈴音にとってはまだ甚太なのだろう。

 全ての人を滅ぼす災厄になろうとするあの娘は、それでもまだ甚太を兄だと思っている。

 その事実を知り、なのに湧き上がった感情は憎悪だった。

 最早それは感情ではなく機能。

 鈴音を憎み鬼へと堕ちた彼は、憎しみから逃れることは出来ない。

 おそらくは全てを滅ぼすとほざいたあの娘も同じ。

 鬼とは、そういう生き物なのだ。


「まあいい、問答をしている時間もない。悪いが押し通らせて貰うぞ」


 浮かんだ感傷を斬って捨て、甚夜は僅かに腰を落した。

 兼臣では地縛には勝てない。急がなければ後味の悪い結末になる。

 とはいえ鬼の群れは往く手を阻むように犇めいていおり、後を追う為には立ち塞がる大鬼を斬り伏せねばなるまい。


「でも、この子は結構手強いですよ? 成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきましたから」

「ほな、僕が相手しよか?」


 僅かな緊張さえ感じ取れない気の抜けた物言いで、甚夜を庇うように染吾郎は前へ出た。

 懐から以前も見た短剣を取り出し、にやりと不敵に口の端を吊り上げる。

 侮りではない。軽い語調とは裏腹に彼の背中からは息を飲むほどの気迫が感じられた。


「染吾郎」

「こっちは僕がやるから、雑魚の方任せるわ」

「しかし」

「正直、大勢相手すんのは苦手やしね。代わりに、一対一なら切り札が切れる」


 九尺を超える大鬼と正対し、気負いなく自然体。染吾郎の態度には随分と余裕がある。

 年老いたとて秋津の三代目。無謀な突撃を仕掛けるほど浅慮ではなく、実力を読み違えるような愚鈍でもない

 その彼が言葉にせずとも語っている。

 まかり間違っても敗北など在り得ない。

 其処には絶対の自信があった。


「堪え性のない馬鹿を追わなあかんし、あんま時間もないやろ。体術に優れた君が多勢を、僕がこいつをやる。多分、それが一番早く済む」


 口にした理由は嘘でも誤魔化しでもない。

 兼臣では地縛に届かない。此処で時間をかければ後味に悪い結末になる。

 染吾郎が多勢に向かないのは事実。周囲の雑魚も甚夜ならば容易に片付けられるだろう。

 戦略的にはなにも間違ってはいない。しかし彼が大鬼との戦いを買って出たのは、戦略的に有利というだけでもなかった。

 彼の振る舞いは、甚夜の心を慮ってのものだろう。

 できるなら姪である向日葵とは戦わせたくない、それこそが根本。

 甚夜の正体が鬼だと分かっていながら、人間的な気遣いを忘れない。秋津染吾郎はそういう男だ。

 その心根を理解できる程度には付き合いも長くなった。


「それでは、貴方がお相手をしてくださるのですか?」


 向日葵は意外そうな顔をしていた。

 立ちはだかる男は五十近い。先程までの戦いを見ても燕だの犬だのを使い援護するのが精々。とてもではないが、一対一で大鬼と戦えるようには見えなかった。

 だとしても相手が戦うと言っている以上止める必要もない。

 向日葵の役目は足止め。どちらにしても彼等を阻まねばならないのだから、そもそも選択肢などなかった。


「そやね。すまんな? 大好きなおじさまやなくて」

「大好きって……否定はしませんけど、そう言い方をされると照れますね」

「いや、否定せんのかい」


 冗談の掛け合いに見えて、互いに間合いを調節している。

 既に戦いは始まっていた。止めることはもうできない。

 それに兼臣のこともある。染吾郎の言う通り、大鬼は任せた方がいいのかもしれない。 


「……済まない」


 甚夜は僅かに目を伏せた。

 染吾郎の気遣いは有り難いが、同時に申し訳なくもある。あまり無茶をさせたくないとも思う。

 それでもこの友人は、当たり前のように体を張ろうとしてくれた。その心を無駄にはしたくなかった。


「気にせんでええて。周りは頼むで?」

「ああ、余計な手出しはさせん」


 二人は頷き合い、それぞれの敵と相対する。

 甚夜は迷いなく鬼の群れへと向かい、染吾郎は一呼吸おいて大鬼を見据え、手にした短剣を突き付ける。


「もしかして、その短剣で戦うつもりなのですか?」


 向日葵は不思議そうにきょとんとしている。

 染吾郎の体格を見れば武術を扱う人種ではないのは分かる。それが剣を取り出して鬼に立ち向かおうというのだ。

 舐められると思ったのだろうか、僅かに頬を膨らませていた。


「うん、そや。そんな木偶の坊には勿体無いけどな」

「木偶の坊、ですか。さっきも言いましたけど、この子結構強いですよ? それに貴方が剣で戦えるとも思えませんし」

「あはは、アホなこといいなや。付喪神使いが剣で戦う訳ないやろ?」 


 舐めてなどいない。寧ろこれから見せるのは彼の全力だ。

 以前は甚夜の目があるところでは“これ”を見せなかった。

 今は慣れ合っていても相手は鬼。いずれは争うことになるかもしれない。そう思えば自身の切り札を晒す気にはなれなかった。

 しかしそれなりに付き合いも長くなった。今更甚夜を警戒する必要は感じない。

 だから堂々と切り札を切れる。

 武器としては役に立たない短剣。

 これが染吾郎の持ち得る最高の戦力である。


「ほないこか、お嬢ちゃん」


 かつて唐の九代皇帝玄宗は瘧かかり床に伏せた。

 玄宗は高熱の中で夢を見る。

 自身を苛む悪鬼、そしてそれを駆逐する大鬼。

 玄宗は自身を救ってくれた大鬼を神として定め、疫病除けの神として祀った。

 この話は日本へと伝わり、鬼を払うという逸話から端午の節句に彼を模した人形を飾る風習が生まれたという。

 染吾郎が持つ短剣は五月人形の付属品。

 そして件の大鬼を模った人形から具象化される付喪神は───



「おいでやす、鍾馗しょうき様」



 ───鍾馗。厄病を払い、鬼を討つ鬼神である。



「あれは」


 甚夜は鬼の群れを相手取りながらも、現れた髭面の大鬼に息を呑んだ。

 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手には染吾郎の持つ短剣と同じ意匠の剣がある。

 尋常でない気配を放つ付喪神・鍾馗。

 これが自信の正体、三代目秋津染吾郎の切り札。


「……すごいです」


 零れた素直な賞賛。幼げな向日葵にも正気の放つ圧倒的な力は感じられたようだ。

 その反応に気を良くした染吾郎はからからと笑い、一転表情を引き締め静かに構える。


「そやろ? さて、さっさと終わらせよか」

「ええ、それはこちらも同じ気持ちですね」


 向日葵に動揺はない。

 だが警戒はしたのだろう。軽やかに大鬼の肩から飛び降り、その足が地面に着くと同時に大鬼が突進する。

 土埃が舞う。地響きを連想させる咆哮と共に大鬼は迫り来る。

 無造作な進軍に空気が唸りを上げる。重量と筋力に裏打ちされた突撃。繰り出される拳もまた相応の威力を秘めているのだろう。

 人の身なぞ容易く貫くであろう拳を前に染吾郎は逃げもしない。

 既に五十近い老体。優れた体術もない。しかし彼は泰然と鬼を待ち構える。


「鍾馗様に特殊な能力はない。その代り」


 巨体に有るまじき高速の挙動。

 一瞬で間合いは詰まり、突如として鬼の腕が霞んだ。そう思わせるほどに突き出された拳もまた尋常ではない速度を誇る。

 風を裂き、中空を抉りとるような一撃が鍾馗を正確に捉えた。

 地面を陥没させるほど膂力に優れた鬼が全霊を叩き込む。

 振るわれた剛腕の威力は推して知るべし、響く轟音に夜が軋んだ。


「桁外れに強いで?」


 鍾馗は微動だにしない。

 剣を盾に鬼の拳撃を軽く防ぎ、そのまま上にかちあげる。

 単純な膂力だった。

 九尺を上回る大鬼、体格では明らかに鍾馗よりも優れている。

 だというのに、技巧ではなく特殊な能力ではなく、ごく単純な膂力によって大鬼の腕を払い除けたのだ。

 髭面の付喪神は体を捻り、力を溜めるように一度ぴたりと止める。


「終いや」


 鍾馗は引き絞られた弦だった。それが染吾郎の呟きによって放たれる。

 反動で打ち出されたのは矢ではなく剣、命を穿つ紫電の刺突だ。

 音はなかった。 


 ただ、鬼の腹に文字通り風穴を空けた。


 肉を削ぎ、臓物を抉り取る。

 音が響いたのはそれからだった。

 そのまま力なく両膝をつく大鬼。

 ほんの一瞬で、勝敗は決していた。


「どや、お嬢ちゃん、僕も結構やるやろ?」


 大鬼を討ちとり、左手で肩をとんとんと叩く。

 大した疲れもない。飛んでくる小蝿を払った、染吾郎の感覚はその程度のものだった。

 しかし向日葵には、やはり動揺が無かった。

 倒れた鬼をじっと見つめる。目に感情の色はなく、失望も敵に対する恐怖も感じさせない。

 そうしてゆるゆると、静かに女童は語り始める。


「初めに、母は人を鬼に変えるお酒を造りました」


 浮かんだのは、幼い容姿にはそぐわぬ柔らかい微笑みだった。

 向日葵は怪訝そうに眉を顰める染吾郎は無視し、淡々と見当外れとしか思えない話を進めていく。


「憎しみを植え付け煽り淀ませる。それに相応しい死骸を使って造ったお酒です。でも馴染みやすい人難い人がいましたし、おじさまが死骸を片付けてしまったから続けられませんでした」


 ゆきのなごり。染吾郎もかかわった事件だ。

 甚夜はあの事件の際、話の中に出てきた“金髪の鬼女”に異常なほどの敵意を向けていた。

 向日葵は甚夜の妹の娘。その母はマガツメ。ならば甚夜の妹がマガツメであると容易に想像がつく。


「次は人を攫って、直接体を弄って鬼に変えました。作ってる途中で死んでしまうことも多くて方法としては今一でしたけど」


 甚夜と初めて会った時、向日葵は鬼を引き連れていた。

 地縛はマガツメの命で人を狩っていたことを考えるに、その鬼こそが直接体を弄った個体なのだろう。


「だから今度は死体を使うことにしました。正確には死者の魂……想念と言った方が分かり易いかもしれません。負の感情を寄せ集めて、無から生ずる鬼を人工的に……あれ、鬼工、的? とにかく、肉体に寄らない鬼の生成ですね。結果は良好、こんなにたくさんの鬼が出来ました」


 次いで百鬼夜行へと至る。

 鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。

 中には無から生ずる場合も存在する。

 想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。

 憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる。

 無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念。

 マガツメとやらは、人を鬼に変え、魂すらも鬼に変える術を得た。


「んで? 鬼を沢山造ってどないすんの? “それなりに上手くいった”鬼がこの程度やったら作るだけ無駄やろ」

「いいえ。そもそも、鬼を造ることが目的ではありません。それはあくまで過程ですから」


 緩やかな微笑み。

 綺麗だと素直に染吾郎は思った。

 敵意も邪気も感じさせない。向日葵の微笑みには一点の濁りもなかった。


「人が鬼に堕ちるのは自分でもどうにもならない程の想い故に。だから鬼を造る術は想いを操る術です。……なら、それを突き詰めれば想いの根幹に辿り着くと思いませんか?」


 だから僅かに警戒心が緩んでいたのかも知れない。

 想いの根幹?

 向日葵の言葉に疑問を抱き、少しだけ思索に耽り。


「染吾郎っ!」


 その瞬間、鬼共を斬り伏せながら叫ぶ甚夜の声が聞こえた。

 なんだ、と思う暇はない。


『オォォォォォォォォっ!』


 先程討ちとった筈の鬼が再度襲い来る。

 致命傷を与えた。なのに、鍾馗が空けた風穴がない。

 傷一つない大鬼が、再び染吾郎を叩き潰そうと剛腕を振るう。 


「なんやっ……!」


 言い切るより早く鍾馗を操り、繰り出された拳、伸びきった腕を剣で斬り落とす。

 次は確実に葬る。狙うは心臓。一瞬で穿ち抉り取る。

 刺突で貫き、そのまま斬り上げる。血が、肉片が飛び散る。手応えはあった。

 為す術もなく大鬼は伏した。しかし警戒を緩めずに染吾郎は死骸を睨む。

 そう、それは死骸であった。

 心臓を穿ったのだ。無事で済む訳がない。

 なのに、鬼の体から白い蒸気が立ち昇ることはなかった。


「って、なんやこれ……」


 引き攣った笑みを浮かべる。

 鬼の傷が塞がっていく。

 草木のように生える血管、血が肉が蠢き増殖し、穿った心臓さえも復元される。

 腕も繋がり、びくんびくんと震えるだけだった鬼の体は動きを止め、顔を上げて光が灯った赤の目で染吾郎を射抜く。

 僅か数十秒で、大鬼は何事もなかったように立ちあがって見せた。


「<治癒>…<回復>……<再生>? うーん、面白くないです。何かいい名前が無いでしょうか?」


 人差し指を唇に当て、小首を傾げ向日葵が悩んでいる。

 その態度が妙に子供っぽく、やけに可愛らしく、それが逆に恐ろしく感じられる、

 鬼とはいえ、短時間であれだけの傷が完治するなど在り得ない。

 だとすればこの回復力こそが大鬼の<力>。

 蘇生と見紛うほどの強力な再生能力。

 向日葵は大鬼を「成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきました」と評した。

 つまり、これこそがマガツメの望みの一端。

 求めたのは自由に<力>を生み出す術だ。


「鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望み、それでもなお叶えられなかった願いへの執着が<力>となる……成程なぁ。君の母親が作りたかったんは、鬼やなくて<力>の方か」


 完治し終えた大鬼は更に攻め立てる。

 風を切る一撃。染吾郎は繰り出される拳を鍾馗で防ぎ、鬼の右側へと廻り込む。

 それがちゃんと理解できているのか、大鬼は薙ぎ払うように腕を振るってきた。


「お、っとぉ!」


 その程度では攻撃にさえならない。逆風、上から下へ斬り上げる。鍾馗の一刀に鬼の腕はいとも容易く切断される。

 しかし大鬼が腕を拾い上げ傷口を重ね合わせれば、同じように容易く傷は塞がり腕は元通り。かかった時間はわずか三秒。斬るのは容易、治るのも容易。同じことの繰り返しだ。


「ちょっと、違いますね」


 向日葵が口にしたのは否定の言葉だった。

 決して強くない相手だ

 殴る、突進する、腕を振り回す。大鬼は、その程度の単純な攻撃しかしてこない。

 だから戦いながらも余裕はある。染吾郎は視線を鬼に固定したまま、向日葵の声に耳を傾けた。


「母が造りたかったのは鬼ではなく<力>……もっと言えば、“心そのもの”です」

「心ぉ?」


 その答えに若干戸惑ってしまう。

 人を狩り死体を集めて百鬼夜行を生んだ鬼女の言葉にしてはなんとも意外だった。


「心、ねえ。分からんなぁ。そんなもん造ってなんになる?」

「さあ、それは母に聞いてみないと」


 とぼけたような調子は本当に知らないようにも隠しているようにも聞こえた。

 誤魔化しておいてにっこりとこちらに微笑んでみせる辺り、意外と食えない。染吾郎はこの少女の評価を若干引き上げる。


「なら君は、訳も分からんことに手ぇ貸しとんの?」

「分からなくても、母の望みです。叶えたいと思うのは変でしょうか?」

「はは、それもそやな。いい娘さんもってマガツメも幸せやね」


 褒められたのは存外嬉しかったのだろう、向日葵は綺麗な笑顔で「ありがとうございます」と返した。

 無邪気なようで頭は回るし、本音で接するが肝心なところは上手に隠す。見た目は幼いがなかなかにやり辛い。

 それに、大鬼の方も想定以上に厄介だ。

 ぐぉん、と空気が唸る。

 がむしゃらに攻め立てる大鬼。邪魔だ、その懐に潜り込み、鍾馗の拳で殴り飛ばし、無理矢理間合いを作る。

 しかしすぐさま立ち上がり、傷も一瞬で完治してしまう。

 速く力強く多少の傷などものともしない。

 特殊な怪異ではないが、単純にこの鬼は強い。もしも百鬼夜行のように、これの頭数を揃えられるのだとしたら。自分で思い浮かべておいてなんだが、正直あまり想像したくはなかった。


「ほんでも、一匹ならどうとでもなるか」


 染吾郎は大鬼へ鍾馗の短剣を突き付ける。

 口にしたのは決して強がりなどではなく、敵の力量を知り、尚も飄々とした立ち振る舞いは崩れない。


「いろいろ聞かせてもろたね、ありがとさん。そやけど、僕らもあんま暇やなくてなぁ。そろそろ終わりにしよか」

「まだ続けるんですか? この子の<力>は理解したでしょう。人の身で打ち倒すのは難しいと思いますよ?」


 それは見下した訳ではなく、ごく素直な感想だ。

 向日葵にとってこの戦いは持久戦。

 今は優勢でも体力には限りがある。

 大鬼は傷付いても直ぐに治るが、染吾郎はそうはいかない。

 だから持久戦、相手は戦えば戦うほど不利になるのだ。果てにある結末は揺るぎないものだ。


「ま、確かに人は君ら鬼より遥かに脆い。……そやけど人はしぶといで。そう簡単に諦めてはやれんなぁ」


 対する染吾郎はやはり余裕の態度。あはは、と軽い調子で笑う。

 難敵であるのは事実、だが彼に諦めるという選択肢はない。

 違う、諦める必要が無い。

 彼の見ている結末は向日葵のそれとは違う。

 あの程度の鬼、三代目秋津染吾郎を継いだ己に打ち破れぬ筈がないのだ。


「何か策でも?」

「ある訳ないやろ? さいぜんゆうたけど鍾馗様に特殊な能力はない。当然、真正面から蹴散らすだけや」


 にやりと口元が吊り上る。

 散々繰り返したが鍾馗に特別なことはできない。

 福良雀のような防御力の向上、犬神の再生能力、合貝の蜃気楼。

 他の付喪神が皆特異な力を持つ中、鍾馗にだけはそういった付加能力はなかった。

 かみつばめほど射程距離もなく、せいぜいが一間(1,8メートル)程度。

 元も短剣でそれなりに重さがあり、正直なところ使いやすいものではない。

 それでも鍾馗は三代目秋津染吾郎の切り札。

 その意味を、まだまだ幼い鬼女に教えてやろう。


「ほないこか」


 染吾郎は駈け出す。

 既に五十を超えた老人。疾走というほどの速度はない。それでも鍾馗を使役し鬼の攻撃を払い除けつつ距離を詰め、まずは脳天、唐竹に割る。

 両断される頭蓋、内に収められていたものが飛び散り、だというのに大鬼は未だ蠢く。


「無駄です。頭を潰してもこの子は止まりませんよ」


 そうだと思った。

 染吾郎も同じく止まる気はない。潰れた頭部が再生し始め、傷が塞がるより早く剣戟を叩き込む。

 唐竹横薙ぎ袈裟掛け逆袈裟斬り上げ、粉微塵になるまで只管に斬り付け、流れるように首を落す。


「だから無駄」

「黙っとれ!」


 向日葵を一喝し、尚も手は休めない。

 鬼の腕は離れた頭部を探すように伸ばされる。拾い上げようとしているのだろう。だがさせない、触れるより早くその腕を落す。返す刀、歩こうとする足を落す。

 倒れる暇も与えない。崩れるより早く心臓を穿つ。

 胸を斬る。腹を裂く。肉を抉り骨を砕く。

 剣で斬り、拳で貫き、全身ありとあらゆる場所を切り刻み打ち据える。鮮血が舞うでは生温い、飛び散る鬼の血はまるで霧のようだ。


 向日葵にとってこの戦いは持久戦。

 染吾郎の体力が尽きるまで待つ、ただそれだけで勝利を得られる筈だった。

 しかし染吾郎にとってこの戦いは速度勝負。

 相手が再生するよりも早く、完全に殺しきる。

 だから止まらない。真正面から何の策もなく、奇をてらうような真似はせず、颶風の如く染吾郎は攻め立てる。

 鬼の体は少しずつ再生しており、だがそれを超える速度で削り取られていく。

 夜を背景に血の霧は濃くなり、少しずつ白い霧も交じっていく。


「そんな」


 向日葵の驚愕が見て取れた。

 反応はしない。そんな暇があるならばただ斬り殴る。

 白色は霧ではなく蒸気。鬼がその体を保てなくなってきているのだ。

 ここが勝機。 颶風は更に勢いを増す。


「こんで、ほんまに終いや」


 最後の一太刀ではなく、最後の幾太刀。 

 斬る断つ突く裂く削る貫く抉る穿つ。

 視認することさえ難しい速度で、数えきれぬ程の剣閃が鬼を斬り刻む。

 鬼は既に原形を保っていない。人であったのか鬼であったのかも判別が出来ない程の細切れ、地面にはただ血と肉片だけが残っていた。

 立ち昇る白い蒸気と赤い霧。

 むせ返る程の鉄錆の香。

 その中心には赤く染まる男。


「やっぱ、ただの木偶の坊やったな」


 秋津染吾郎は、血に塗れた凄惨な姿で、いつものようにからからと笑って見せる。

 一分の隙もない、完全な勝利だった。







「お、そっちも終わった?」

「ああ、所詮は雑魚だ」


 互いの敵を片付けて二人は軽く言葉を交わす。

 甚夜は五十以上いた鬼を全て斬り捨てたが、彼の腕前からすれば大したことでもない。

 寧ろ驚かされたのは染吾郎の切り札、横目で見た鍾馗は尋常ではなかった。

 その凄まじさは大鬼の末路によく表れていた。細切れの肉と辺り一帯に飛び散る血。秋津の付喪神の有用性は知っていたつもりだが、中でも鍾馗の力は図抜けている。

<力>を持った鬼だ、喰えば得られるかと思ったが、既に形がないのでは食う自体が不可能だろう。


「すまん、やり過ぎてもた」

「構わんさ」


 そこまで固執していた訳でもない。話は早々に切り上げ周囲を警戒する。

 鬼はもう見当たらない。百鬼夜行は一晩のうちに壊滅し、残されたのは向日葵……そして、地縛のみ。


「って、お嬢ちゃんは……あらま、完全に逃げる気やな」


 気づけば鬼と共にいつの間にか向日葵の姿もなくなっていた。

 といっても見回せばすぐに見つかる。彼女は遠く離れてこちらの様子を伺っている。

 甚夜らから十分に距離を取り、染吾郎の言う通りいつでも逃げ出せるよう退路は確保済み。幼げななりをして案外と抜け目ない。


「まさか、ここまで一方的にやられるなんて。流石おじさまです。それに、秋津さんも」

「で、君は逃げんの?」

「はい。時間は十分に稼げましたから」


 向日葵は凄惨な光景を目にしても無邪気なままで微笑む。

 そういう少女を男二人で睨み付けているのだ、これではどちらが悪役か分かったものではない。

 しかし奴は鈴音の、マガツメの娘。確保して多少痛めつけてでも居場所を吐かせるべきか。


「やめときぃ」


 物騒な気配から内心を察したのか、染吾郎が小さく首を横に振った。

 甚夜は掛けられた冷静な声に自身を諫める。

 もしもこの友人が止めてくれなければ向日葵の後を追っていたかもしれない。それだけ彼にとって鈴音の存在は重かった。

 だが百鬼夜行にかなり手間取った。兼臣のことを考えればこれ以上時間を無駄にする訳にもいかない。


「向日葵……鈴音は、マガツメは今何処にいる」


 それでも最後の未練か、甚夜は向日葵に問いを投げかける。

 鈴音を止める為に生きてきた。置かれた状況は理解しているが、気にならない筈がなかった。


「それは答えられません」


 答えは返ってこない。

 当然と言えば当然だ。向日葵は鈴音の娘。ならばある程度事情は知っているのだろう。母を憎む男などに情報など与えはしなかった


「あ、でも。一つだけ言っておかないといけないことが」


 ただ思い出したように向日葵は呟き、その容姿からは考えられない程穏やかに、優しく甚夜を見詰める。


「母は確かに私を生んでくださいました。でも父はいないんです」

「……何を言っている」

「私も、地縛も。私たち姉妹は全て母の“切り捨てた一部”が鬼になった存在です。だから母に夫はいません。そこのところ、おじさまにもちゃんと伝えておこうと思って」


 意図が全く掴めない。

 戸惑いを余所に向日葵は軽い足取りでくるりと背中を向けた。

 そして首だけで振り返り、親愛に満ちた微笑みを贈る。


「それではおじさま、また会いましょう。今度はゆっくりお喋りがしたいです」


 鮮やかな夏の花のような笑顔だけ残して、向日葵は今度こそ去っていく。 

 少女の想いに偽りは欠片もなく、だからこそ違和感は強い。何故鈴音の娘がああもまっすぐに愛情を示すのか。


「……ようわからん娘やなぁ」


 先程まで敵対していた。だというのに、分かり易い親愛を露わにする。

 染吾郎も向日葵という鬼女を測り兼ねているようで、腕を組んで考え込んでいた。


「ま、今はどうでもええか。甚夜、兼臣を追わんと」


 とはいえそうのんびりともしていられない。

 答えの出ない思索は切って捨て、現実の問題へ向き直る。

 今頃は地縛とやり合っている筈だ。急がねば取り返しのつかないことになってしまう。


「悪いけど先に行ってくれるか? 僕じゃ君の足にはついていけん」

「ならば行かせて貰う」

「うん、頼んだで」


 付喪神使いは術を扱うことはできるが鬼程の身体能力はない。

 それに染吾郎は随分と疲れている。申し訳ないがこの場において行った方がいいだろう。

 目指すは一条通の先、堀川にかかる一条戻橋。

 胸の不安には気付かないふりをして、甚夜は暗い通りを走り始めた。




 ◆




 一条戻橋での決闘は既に終わっていた。

 勝負は時の運だという。

 実力差があったとしても、偶然が重なり合い、運をものにした弱い者が勝つこともある。

 しかし勘違いしてはいけない。

 運を手繰り寄せるには、それ相応の積み重ねが必要だ。 

 鍛錬を繰り返し、周到に策を巡らし。その上で運を手にしてこそ、実力差を覆せるのだ。 

 だというのに、兼臣はいままで積み重ねてきたものを自分から捨ててしまった。


「やっぱり、こうなったわね」


 だから、この結末は初めから分かっていた。


「あ、ああぅ……」


 呻く兼臣。地縛はつまらないとでも言いたげに鼻で嗤う。

 元より兼臣は地縛に敵わないと知っていた。だから甚夜に助力を願った。

 単独で戦いを挑んでしまった時点で勝敗は決定している。

 故にこれは至極当然の流れだ。

 刀を握り締めたまま、兼臣はぴくりとも動かない。



 ───鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も焼き付いている。



 主と同じように。

 あの時と同じように、鎖は兼臣の体を貫いていた。




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