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『妖刀夜話~御影~』・2



 つまり、兼臣は刀であった。




『娘はいずれ南雲を継ぐ。しかし剣の腕が無くてな。少しばかり指南をしてやってくれ』


 退魔の家系として名高い、“妖刀使い”の南雲。

 当主の娘、南雲なぐも和紗かずさは退魔の家に生まれだが、その容姿は刀など似合わぬ優しげな少女で、一見すれば良家の令嬢としか思えぬ線の細さである。


『よろしくお願いします』


 和紗の父に引き合わされたのが初めての出会い。

 その時、和紗はまだ十二の女童だった。

 外見に反してタコの出来たごつごつとした手、だというのに剣の腕はあまりに拙い。

 それもその筈、和紗は鬼が相手でも斬ることを躊躇い、刃が触れる直前で止めてしまう。いくら技術があっても、鍛錬を真面目にこなしても、その心根の優しさが全てを無駄にしていた。

 兼臣は彼女が退魔に向いていないと思っていた。

 優し過ぎて、誰かを傷付けることに傷付けられるような娘だ。鬼を討つ家の当主には相応しくない。



 ────貴女は、刀を振るうのには向いていない。



 辛辣な物言いは兼臣なりの優しさでもある。

 彼女の父の考えは兎も角、別に当主は和紗でなくてもいい。このような優しい娘が退魔の家を継ぐ必要はない筈だ。


『ええ、私もそう思います。でも、だからこそ父は私を望んでくださったのです』


 不躾な言葉に怒りもせず、和紗は柔らかに微笑む。

 本当に、刀の似合わない。なのに少女は案外と頑なで、兼臣の諫言を受け入れることはなかった。


『貴女は躊躇い鬼を斬れぬ私が妖刀使いに相応しくないと言う……けれど本当は、傷付けることを躊躇えない人こそ相応しくないのです。妖刀は心をもてど何を斬るかは選べない。ならば、使い手はそれを選べる者でなければなりません』


 弱々しい、線の細い娘としか見ていなかった。

 けれど兼臣が見抜けなかっただけで、彼女はその胸に相応の決意というものを宿していた。

 南雲和紗は迷いなく、あまりにも穏やかに言ってのける。


『斬るべきものを選べる心こそ、南雲の誇りなのです』


 なんとも、お人好しな退魔の家系があったものだ。

 呆れながらも妖刀の心さえ慮る彼女等のことを兼臣は気に入った。

 目の前で嫋やかに笑う和紗の力に為ってやりたいと思ってしまったのだ。


 つまり、兼臣は刀であった。

 この優しい娘が傷付かぬよう、優しいままでいられるように。

 彼女を助け、立ち塞がるものを斬って捨て、進むべき道を切り開く。

 そういう刀で在りたかった。

 心からそう思って。

 なのに────






 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も焼き付いている。






 私は大切な者を奪われた。

 それを取り返せるのならば、いかな屈辱でも耐えよう。

 兼臣の道行きはただその為だけにあった。


 つまり、兼臣は刀であった。

 鞘はとうの昔に失くしてしまった。




 ◆




「そこの女、止まれ!」


 兼臣は三条通を小走りに抜けていく。

 廃刀令が施行されても帯刀を止めない彼女は警官隊によく追われており、要注意人物としてあげられる程。

 しかしながら刀を手放すことは出来ず、追走は既に日常的な光景となってしまっていた。


「ふぅ……」


 いい加減このやり取りも面倒くさくはなってくる。兼臣にとって、明治という時代はひどく生きにくい。

 取り敢えずは警官隊をやり過ごし、再び通りを歩く。しばらくすると、三条通に店を構える小物屋の店先でなにやら唸っている平吉と出くわした、


「宇津木様?」

「あ、兼臣さん」


 えらく真剣に悩んでいる様子だったが、兼臣の姿を確認すると平吉は一応軽く頭を下げる。

 知り合いに会って無視するのも決まりが悪い。彼女も楚々と挨拶を返した。 


「どうしはったんですか、こんなとこで」

「いえ少し。宇津木様は?」


 女物の櫛や装飾具などを扱った店で体格のいい十七の青年が唸りを上げている様は中々に奇異だ。

 思わず問うてみれば平吉は僅かに顔を赤くした。


「いや、俺も、少し」

「はあ」


 答えたくないらしく、平吉は適当に誤魔化す。突っ込んで聞くほどの興味もなく、結局話はそのまま立ち消えた。

 平吉にとって兼臣は師匠の知り合いであり行きつけの蕎麦屋の居候。

 兼臣にとって平吉は居候先の蕎麦屋によく来る客。

 お互い顔は知っているもののそこまで親しくもない。話が途切れると何となく居た堪れない心地になってしまい、気まずさから逃れるように兼臣は当たり障りのない話題を振った。


「今日は、秋津様は?」

「いつも通り蕎麦食いに行ってます。まあ、ほんまはあいつに会いに行ってるんでしょうけど」


 あいつ、というのは店主のことを指しているのだろう。

 理由は分からないが平吉はやけに鬼を嫌っている。付き合いが長くなったとはいえ、鬼である甚夜を完全に受け入れることはできないようだ。


「相変わらずですね」

「今回は変な話仕入れてきたみたいですし、それ関係やと思います」

「変な話、ですか」


 こくんと頷いてから平吉は言った。


「はい、鎖を操る鬼女が、夜な夜な鬼を引き連れ練り歩いとるらしいんです」


 その言葉が兼臣にとってどういう意味を持つのか、彼は知らなかった。




 ◆




 夜になり、野茉莉が寝静まってから甚夜は自室へ戻り腰に夜来を差した。

 廃刀令が施行され日中の帯刀は難しくなった。しかし鬼を討つのに無手という訳にもいくまい。形だけは法に従ったとしても、どこまでいっても彼は刀を捨てられなかった。

 もう一度店舗へ戻り、心を落ち着けるようにゆっくりと呼吸をする。

 すると時期を計ったかのように、部屋から出てきた兼臣が顔を覗かせた。 


「葛野様」


 朝出かける前は普通だったが、今の兼臣はいやに昏い顔をしている。

 その理由は甚夜にも想像がつく。


「どうした」

「……地縛が、現れました」


 呟く声は震えている。

 やはり彼女も百鬼夜行の噂を聞きつけたらしい。

 五年ぶりに姿を現した仇敵。冷静でいられる方がおかしいというものだ。

 それでも感情に任せた行動をとらない辺り、彼女は現実というものを知っている。見ているこちらが苦しくなる程に、だ。

 兼臣の腕では地縛を倒せない。

 彼女は、それを誰よりも理解していた。


「どうやらそのようだ。百鬼夜行を引き連れるとは、しばらく見ぬうちに随分と出世したらしい」

「では、貴方も」

「ああ。染吾郎から場所も聞いた。今夜向かうつもりだが、お前はどうする」

「答えなど、聞く必要もないでしょうに」

「そうだったな」


 確かに意味のない問いだった。

 断るなど在り得ない。その為に刀を振るってきた。今更尻込みする理由が何処にある。

 悲壮なまでの決意を纏い、兼臣は真摯に頭を下げた。


「……どうか、御助力を」


 微動だにせず、只管に願う。

 刀を振るう者が、己が刀の弱さを曝け出す。それは耐えようもない屈辱だろう。

 甚夜もまた刀に生きた男。憎むべきものを前にして力が足りない、その悔しさには覚えがあった。


「私はな、お前を高く評価している」


 声の調子から僅かな自嘲が感じられる。

 返す答えは紛れもない本音、だからこそ兼臣の意表を突いた。


「地縛の動きを知ったお前は、考えもなく動くと思った。だが違ったな。地縛を仇と憎みながら、激情に駆られ無謀な行動をとるような真似はしなかった」

「褒められたことではありません。私では勝てない、だから貴方に縋っただけです」


 兼臣は歯噛みし、口惜しいと端正な顔を歪めている。

 それも当然、彼女は刀だった。敬愛する主を守る刀で在りたかった。

 なのに主を守れなかった。敵を討つことも叶わず、ただ力を貸してくれと縋るしかできない。その無念は如何ほどのものか。

 彼女には斬るべきを斬れぬ自身がさぞ無様に思えていることだろう。


「弱さを認めるのは、強く在るより遥かに難儀だ。お前の気質では誇れはしないだろうが、卑下することでもない。憎しみを飲み込むだけの度量は、素直に見事だと思うよ」


 けれど甚夜には、無様に耐え忍ぶ兼臣の姿が眩しく映る。

 自然左手が夜来にかかり、素直に、落とすような小さな笑みが零れた。


「私には出来なかったことだ。正直、嫉妬さえ感じるな」


 ほんの少しだけ垣間見えた、頼りない表情。

 もしも彼女のような強さがあったなら、遠い夜、妹を傷つけずに済んだのだろうか。

 心の片隅でそう思いながらも、どろりとした憎悪が過る。所詮はその程度の男だ、あの幕引きも結局は似合いの終わりだったのかもしれない。


「済まない。……何故か、お前には愚痴を言ってしまう」

「ふふ、それが信頼の証なら、甘んじて受け入れましょう」


 ようやく、小さくだが兼臣は笑ってくれた。

 それだけでも愚かさを晒した甲斐があったというもの。幾分か肩の力を抜いた彼女は、甚夜の目をまっすぐに見詰めた。


「あの、葛野様。代わりと言ってはなんですが、私の話を聞いてもらってよろしいでしょうか?」


 淀みのない瞳には彼女の決意のほどが表れている。

 思えばこのように、本当の意味で向かい合う初めてだ。

 甚夜から聞きはしなかったし、兼臣が胸襟を開くこともなかった。

 脛に疵持てば茅原走らぬ。過去に追い立てられ生き急いできた身だ、隠した傷を根掘り葉掘りは気が引けた

 それはおそらく彼女も同じ。だから起居を共にしながらもお互い一線を引き、ただの同居人として接していた。

 しかし兼臣が覚悟を決めたのならば受けてやらねばなるまい。


「……ああ、聞こう」

「ありがとうございます」


 重々しく頷けば、彼女はもう一度はにかんで見せた。

 そうして緩やかに語り始める。


「貴方には聞いてほしいのです。私の始まりを。……守るべきものを守れなかった、無様な刀の話を」




 ◆




 兼臣は刀として南雲和紗に仕えた。

 しかし和紗にとって兼臣は、刀である以上に剣の師であり、教え諭してくれる姉であり、何よりも無二の友であった。

 それがくすぐったく、同時に心地よく。

 兼臣は南雲の家での暮らしに言い様のない安寧を感じていた。


『おぉ、和紗ちゃん。こんにちは』


 時折南雲の家へ遊びに来る男は、秋津染吾郎と名乗った。

 妖刀を扱う南雲と付喪神を使役する秋津。

 共にあやかしとなった器物を扱う者達、それなりに交友があるらしく、三代目の染吾郎は土産に京の菓子を持ってきては日長一日南雲の家で過ごしていくこともあった。


『いつもありがとうございます、秋津のおじ様』

『あはは、おじ様は止めてぇな。まだ三十代やで僕?』


 三十代なら十分におじ様だと思いますが。

 兼臣がぽつりと呟けば、それを耳聡く拾った和紗が面白そうに話してしまう。聞いた瞬間、染吾郎はにこにこ笑いながらどすの利いた声で兼臣を睨み付けた。


『なんかゆうてくれたらしいなぁ?』


 大人気ないことこの上ない。けれど和紗が心底楽しげに笑うから、兼臣はそれでいいと思った。

 妻も子もいない染吾郎は和紗を大層可愛がった。

 彼女が十五になり、初めて退魔を請け負った時も心配して付いてきた程だ。

 あの夜は今でも覚えている。

 訓練で鬼を斬ることはあっても実戦では未経験。だが退魔の当主になる身として、同道する秋津染吾郎の助力を断り、自らの手で一切を為すと和紗は譲らなかった



 ───大丈夫です。今の和紗様ならば、十分に倒せる相手です。



 緊張に震える手。胸中にあるのは怯えよりも躊躇いだろうか。

 兼臣は少しでも心安らかであれるよう気遣い、それを受けて和紗は固いながらも笑った。


『うん……力を貸してね?』


 当たり前のこと、私は彼女の刀なのだから。

 もっとも力を貸す必要などなかったが。

 予見通り、彼女は苦戦することなく鬼を斬り伏せた。南雲の当主になる為積んできた鍛錬が身を結んだのだ。

 けれど、つうっ、と涙が頬を伝う。


『謝りはしません。これが、私達の役目ですから』


 歯を食い縛り、尚も一筋の涙を堪えられなかったことを、和紗は嘆いていた。

 自分で討つと決めた。なのに命を奪うのが辛いと涙を流すのは、ただの逃げだと彼女は言った。

 その心が兼臣には尊く感じられる。

 和紗は歳月を経て優しく、強く育った。

 彼女に仕えたのは間違いでないと、信じさせてくれた。



 しかし終わりは唐突に訪れる。



 二年後、和紗は十七になり、鬼の討伐にも慣れてきた頃。

 最近は成長を見届けた為か、染吾郎が同道することもなくなってきた。

 その日も依頼に従い、鬼の討伐へと和紗は赴いた。

 対峙したのは無貌の鬼だった。

 顔のない、髪のない、皮膚のない。

 四肢と爪だけを持った、何もかもが足りな過ぎる鬼。

 外見は奇妙だが為すべきことは変わらない。

 和紗はいつものように傷付けることを躊躇いながらも刀を振るう。

 この程度の討伐はいつものことだった。




 鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も焼き付いている。




 いつものこと、その筈だった。

 だがその鬼は今まで対峙したどの鬼とも違った。

 鎖を操る<力>を以って弄び、最後には和紗の命を奪ったのだ。

 別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。

 彼女の魂は体を離れた。


『地縛…あたしは、地縛……』


 まだ生まれたばかりだったのだろうか。

 次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。

 そうして出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は、自らの名を確認するように何度も呟く。


 兼臣はその声を遠くに聞きながら、只管に悔いていた。

 守ることが出来なかった。

 兼臣に出来たのは、抜け殻となり動かなくなった和紗と共に逃げるくらいのもの。

 主の身を守れず、主の敵を斬ることもできない。

 何一つ為せぬ無様な刀。

 それが兼臣だった。





 以後の話は甚夜も知るところである。

 旧知である染吾郎を頼り、兼臣は「刀一本で鬼を討つ剣豪」に地縛の捕縛を依頼する。


 胸中にあった感情はただ一つ。


 私は大切な者を奪われた。

 それを取り返せるのならば、いかな屈辱でも耐えよう。

 兼臣の道行きはただその為だけにあった。


 つまり、兼臣は刀であった。

 鞘はとうの昔に失くしてしまった。




 ◆




「ですから、私は、地縛を」

「もういい」


 淡々と語っているつもりでも声は震え、表情は悲哀に歪む。

 今にも開いた両目から後悔が流れ出そうで、甚夜は続く言葉を素っ気なく止めた。粗方の内容を聞ければ充分、これ以上は酷というものだろう。


「……すみません」

「謝らなくていい。お前の気持ちが分かるとは言わん。だが守るべきものを守れぬ辛さは知っているつもりだ」


 脳裏に映るのは、かつて幼き日を共に過ごした愛しい人。

 本当に大切だった。なのに、何一つ守れなかった。

 抱える苦悩は彼女にしか分からないとしても、その痛みには覚えがあった。

 それは、どういう。兼臣は零れた言の真意を問おうとして、それよりの早く店の引き戸が開く。


「おー、おまたせ、甚夜。準備は整っとる?」


 突然のことに驚き、彼女はぴんと背筋を伸ばした。

 既に店は閉まっている。この時間を見計らって訪れる客は一人しかいない。

 秋津染吾郎。鬼そばの常連であり、兼臣にとっては旧知の間柄である。

 染吾郎は付喪神使い。数える程度ではあったが、主である南雲和紗と轡を並べて戦ったこともあった。

 その縁で兼臣のことをよく知っており、今でも気にかけてくれる。そもそも刀一本で鬼を討つという夜叉を紹介してくれたのは彼だった。


「秋津様……」

「こんばんわ、今日は僕も一緒に行かせてもらうな?」

「はい?」


 染吾郎の来訪のおかげで多少なりとも重く沈んでいた空気は払拭された。

 とはいえ登場も発言も突飛すぎて思考が追い付かず、兼臣は思わず間の抜けた声を上げてしまう。

 助けを求めて甚夜へ目配せすれば、彼は腕を組んだまま苦い顔をしていた。


「すまん、押し切られた」


 当初は甚夜と兼臣の二人で百鬼夜行に挑むつもりだった。

 しかし情報提供者である染吾郎は「前、負けとるんやろ? しゃーない、僕が手伝ったるわ」などと言い出したのだという。

 何度も拒否はしたのだが聞く耳持たず、結局なし崩し的に同道を認めさせたらしい。


「そう言いなや。百鬼夜行の相手するんや、手数は多い方がええやろ?」

「だが、な」


 付いていくと決まった今でも甚夜の反応は決して良くない。

 手が欲しいのは事実。当代の付喪神使いだ、実力もある。

 気心知れた相手であり、おかげで空気が先程より和らいだのも認めよう。

 ある意味で染吾郎が自分から行くと言い出してくれたは有難いことなのかもしれない。

 もっとも、それはあくまでも“ある意味で”。甚夜にとって染吾郎が来るのは手放しに喜べる状況でもなかった。


「僕が行くの反対しとる癖に待っとる辺り君は律儀やなぁ」

「置いて行けば勝手に来るだろう」

「お、よう分かっとるね」


 いい加減付き合いも長いのだ、その程度は読める。

 指摘を軽く流して悪びれず笑うのも予想通り。暖簾に腕押しとは正にこのこと、呆れ混じりの溜息を零した。


「もう一度言おう。止めておけ」


 一転な真剣に染吾郎へ向き直る。

 甚夜は兼臣が百鬼夜行に立ち向かうのを止めない。

 本音を言えば一人で片付けたいが、そもそもこれは兼臣の我を通す為の戦い。

 地縛との初戦は兼臣を庇ったが故に敗北した。二の轍を踏む危険があろうとも、助力しているだけの甚夜に止める権利はない。

 彼女を守りながら戦うことにより勝率が下がり、二人とも危機に晒される可能性があるとしてもそこは別問題。

 自分自身が生き方を曲げられぬ男。合理の為に兼臣の矜持を曲げさせるなど出来る筈がない。

 例えその結果彼女が命を落とそうとも、それはそれで仕方のないことだ。

 だが染吾郎の場合は前提が違う。

 彼はまったくの善意で戦うと言ってくれている。結果命が脅かされるかもしれないというのなら、それを受け入れることは難しかった。


「聞けへんなぁ……君、僕が死ぬかも、とか思っとるやろ?」


 図星を刺され、ばつが悪そうに甚夜は口を噤んだ。

 以前は共に戦ったこともある。彼の実力に疑いの余地はない。

 しかし染吾郎は既に五十近い老体。齢を重ねれば技は練れるだろう。それでも肉体の衰えは誤魔化せない。今の彼がどの程度戦えるのか、今一つ判断がつかないのだ。

 善意で手伝うと言ってくれているからこそ、必要のない戦いで命を落とすような結果になってほしくないと思う。

 染吾郎を拒否するのは偏に彼の身を慮ってのことだった。


「あはは、心配してくれるんは有難いけどな。ほんでも人はしぶといで。僕もそうそう死なん」


 目の前の初老の男は、いつの間にか静かに笑うようになった。

 若い時に見せていた作り笑いではなく、心からの、父性に満ちた笑みだ。


「人は鬼ほど強くはないし、長く生きることはできん。そやけど僕らは不滅や」


 堂々とした物言いは穏やかなのに力強い。

 染吾郎は不滅だと語る。しかし彼には悪いが、どうしてもそうは思えない。

 人は脆い生き物だ。体は容易く壊れ、些細な擦れ違いで心は移ろいゆく。

 変わらないものなんてない。長くを生きる鬼にとって、人の在り方はとてもではないが不滅とは言い難かった。


「お、その顔、そうは思えんって感じやね。ならええよ。僕が人のしぶとさを証明したるから」


 その反応は予想済みとでも言いたげに染吾郎は肩を竦めた。

 賛同が得られなくとも大して気にしていないのだろう。くるりと背中を向けたかと思えば、淀みない歩みで玄関へと進む。


「ほな、さっさといこか? あんま気ぃ遣わんとって。手伝うのは善意だけってこともないしな」


 薄く目を細め、口元を歪め、どこか曖昧に苦笑して見せる。

 それも一瞬で消え、瞬きの間に友人は普段通りの飄々とした態度に戻っていた。

 変化が速すぎて甚夜はまだ少し戸惑っている。結局真意を読み取ることはできず、どうにもすっきりしないままに話は終わってしまった。


「葛野様、よいのでしょうか」

「……染吾郎にも思う所があるのだろう。どの道無理にでもついてくる。手伝ってくれるというのなら、それでよしとするしかあるまい」

「そう、ですね」


 兼臣も自身の戦いに付き合わせてしまう為か、心配そうにしている。

 とはいえ言って聞く男でもない。まだ引っ掛かりはあるが、取り敢えずは納得しておくのが無難だ。

 意識を切り替え先に出るよう促せば、彼女は一瞬目を閉じ静かに頷く。再び瞼を開いた時には僅かな戸惑いは消えていた。


「父様……?」


 これから百鬼夜行に挑もうというのだ。ぐだぐだと考え事なぞしている場合ではない。

 ゆっくりと呼吸を整えて、気を引き締め直す。意識を切り替え、甚夜も玄関を潜ろうとすれば、か細い声に呼び止められる。

 振り返るとそこには寝間着姿の野茉莉が立っていた。


「済まない、起こしたか」

「ううん……どこか、行くの?」


 不安げに声は揺れる。

 娘はずいぶん大きくなったと思う。しかし頼りない響きは少し前、まだ幼かった頃の野茉莉を思い起こさせた。


「こちらの用事だ」


 無表情のまま甚夜は夜来の柄頭をぽんと叩いて答える。

 その仕種に鬼の存在を感じ取ったのか、野茉莉はなにかを堪えるように俯いてしまう。寂寞と悲痛が綯い交ぜになったような、ひどく複雑な表情だ。


「寝ていてくれ。すぐに帰ってくる」

「分かってる。……どうせ、私が何言っても行くんだよね?」


 何気ない言葉が突き刺さるのは紛れもない事実だから。

 どれだけ娘を愛そうと、胸を焦がす憎悪は捨てられない。そういう父をこの子はどう思っているのだろうか。

 おずおずと顔を上げた野茉莉の瞳は潤んでいる。それが答えに思えて、甚夜は胸が締め付けられた。


「野茉莉……」

「ごめんなさい、私、ひどいこと言った」


 仲の良い親子だった。なのに近頃はうまく話ができない。

 それでも野茉莉は、自分の言葉に傷付いてしまうくらい優しい、父親想いのいい子なのだ。

 肩が震えている。泣きそうになっている娘を見るのは、鬼と戦い傷を負うよりも余程辛い。この子にはそんな顔をしてほしくなくて、慰めようと手を伸ばす。


「あ……」


 けれど届かない。

 頭を撫でようとしたが少しだけ野茉莉は後ろに退いてしまい、それ以上手を伸ばすことが出来なかった。


「ごめん、なさい」

「いや……」


 余計に泣きそうな娘の表情が辛くて、けれどどうすればいいのか分からず、気まずいまま二人して固まってしまう。

 しばらく沈黙が続き、それを取り払うように野茉莉はぎこちない笑顔を浮かべた。

 けれどそれは引き攣っていて、笑顔よりも泣くのを我慢しているように見えた。


「行ってらっしゃい、父様」


 押し殺した感情がそこにあると見抜けぬほど鈍くはない。

 それでも愛娘は父を送り出そうとしてくれている。

 だから甚夜は平坦な声で返した。


「ああ、行ってくる」


 互いに上滑りするような挨拶。

 胸を過る空虚。

 触れ合えぬままに、甚夜は娘に背を向けて店を出た。





 そう言えば、ずっと昔もこうやって誰かを待たせていたような気がする。

 今はもう、あの頃の気持ちは思い出せないけれど。




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