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『徒花』・4(了)




 取り敢えずの政体を整えた頃、明治新政府の討幕派は公議政体派を抑え、徳川慶喜に辞官納地を命じた。

 慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱工作にのり、江戸薩摩藩邸を焼打ちした。更に旧幕府勢力は、慶応四年・一月二日、会津・桑名両藩兵ら一万五千人を北上させた。

 新政府も薩摩・長州両藩兵ら四千五百人で応対し、一月三日、両軍は京都郊外の鳥羽と伏見で衝突した。

 後に言う、鳥羽伏見の戦いである。


 この戦いは数では劣るものの、装備と士気に勝る新政府軍が旧幕府勢力を一日で退却させ、僅か六日で戦いは終わりを迎える。

 これにより新政府内での討幕派の主導権が確定し、江戸へ逃れた慶喜を討つ為に追討軍が編成される。

 正しく新しい時代を切り開いた一戦と言えるだろう。


 しかし忘れてはいけない。


 犠牲の出ない戦争などない。

 例え勝利しても、その過程で零れる命はある。

 被害を少なくすることは出来たとしても、どうしようもなく失われる命というものは存在するのだ。


「はぁ…はぁ……」


 三浦直次在衛もまた、鳥羽・伏見の戦いに参戦していた。

 戦いに勝利できたとしても、局地的な趨勢は別。彼の当たっていた戦場は旧幕府勢力の猛攻に甚大な被害を受けていた。


「しっかり、してください。もうすぐ、本隊に」


 それでも辛くも勝利し、直次は志を同じくした同胞を背負い歩いていた。

 戦いは終わったのだ。こんなところで死ぬ訳にはいかないと、何度も同胞に声を掛け、けれど返ってくる声は弱々しい


「あぁ、見たかったなぁ。新しい、時代を」

「なにを! あと少しで、我らが望んだ未来に手が届く。こんなところで死んでは……!」


 奮い立たせるように直次は怒鳴り付ける。

 自身にも傷がある。腹をやられた。だが友を見捨てるなど出来ない。

 共に命を懸けたのだ。見捨てることなど考えられない。励ましの声を掛けながらただ只管に前へと進む。


「そうだ、なあ……」


 男は嬉しそうに笑い、直次も同じように笑い。


「もうちょっとで、俺達の、おれ、た、ちの……」


 それが最後。

 背負われたまま、同胞は二度と動くことはなかった。


「あ、ああ……」


 もう、立ってはいられなかった。

 直次の傷も相当に深い。今迄歩いてこれたのが不思議なほどだ。

 血が足りない。体が冷たくなっていくのが分かる。

 私もここで終わりか。

 見たかった、未来を。

 皆が当たり前に笑える平穏を。

 でも、それもここまで。

 直次はゆっくりと、まるで眠るように目を閉じようとして、




「直次様、しっかりしてください」




 まだ幼げな声に目を見開いた。


「あなた、は」


 そこにいたのは、戦場には似合わぬ、美しい少女だった。

 異人の血が入っているのか、栗色の髪をしていた少女。肩までかかった髪は柔らかく波打っている。年齢は見た所八つか九つといったところだろう。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。

 纏う着物は薄い青に紋様は宝相華、金糸まであしらっている。庶民が着るには些か上等すぎる。

 何処かの令嬢かとも思ったが、このようなところにいるという事実。

 そして瞳の色に、彼女が人ではないと容易に知れた。

 赤い。

 その瞳は紅玉だった。


「向日葵と申します。実は私、貴方を救うことができます、人の体を捨てることにはなってしまいますけど、どうでしょうか」


 ふんわりと、と鬼女が笑う。


「鬼になれば、まだ生きることが出来ますよ」

「何故、そんなことを」


 何故名前を知っているかなど、疑問にさえ思わない。

 ただ急に現れ命を救うなどとのたまう女の目的が分からなかった。

 直次の問いに鬼女は微笑む。ほっそりとした美しい外見に反し、無邪気な、可愛らしいと思えるような笑みだった。


「母様の命令ですから。多分、悪戯か暇潰し。遊びの一巻だと思います。それで、どうします? ……やっぱり、その身を鬼へと変えるのは嫌ですか?」


 何を言っているかは分からないが、嫌だなどと思うことはなかった。

 直次の友には鬼がいる。それも二人もだ。

 彼は鬼が異形であっても邪ではないと知っている。

 だから鬼になるという選択を怖いとは思わなかった。

 ただ人を捨てることに躊躇いはあり。

 それでも、鬼と為れば、これからも戦い続け新時代の礎となれるだろうか。


「決まったみたいですね。……さあ、これを呑んでください」


 一瞬、揺らいだ心を見透かされた。

 そうして鬼女は懐から小瓶を取り出し、入っている液体を無理矢理に呑まされた。


「ぐっ、あ、がぁあああっ……』


 直次の意識はそこで消えた。













 再び目を覚ました時、直次は既に人ではなかった。

 一回りは大きくなった体躯。血のように赤黒い皮膚。いつか見た友人の姿とは多少違うが、彼もまた異形となっていた。


『感謝はいらぬ。どうせ、ただの悪戯、暇潰しにもならぬ』


 向日葵の母であるマガツメはそう言った。

 だが直次は感謝した。

 彼女のおかげでまだ戦える。

 そして、新時代を見ることが出来るのだから。


 直次は異形に身を落としてからも只管に戦った。

 鬼の身体能力は高い。今迄のように苦戦することはなく、勝利に貢献しているという実感があった。

 しかし彼の喜びは長く続かない。

 慶応四年・五月十五日。

 江戸上野において彰義隊ら旧幕府勢力と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で戦闘が起こる。

 その戦いにおいて、刀が重要視されることはなかった。

 新式のスナイドル銃、四斤山砲……そしてアームストロング砲。

 近代兵器は瞬く間に旧幕府勢力を蹴散らし、圧倒的な勝利を治めることになる。


 よかった、余計な被害が出なくて。


 そう思いつつも、自身の手にある刀が頼りなく思えた。




 こうして戊辰戦争は新政府軍の圧勝で終わりを迎えた。

 近代兵器によってもたらされた勝利だったが、皆それを心から喜んだ。

 ようやく平穏が訪れる。

 もはや夷敵に怯えることもない

 彼等が願った、新時代の幕開けだった。


 しかし版籍奉還の直後、明治二年六月二十五日。

 明治新政府は旧武士階級のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた。

 戦って、戦って、その果てに。

 いとも容易く、誰に惜しまれるでもなく、武士は歴史からその姿を消した。



 ───構わない。ようやく平穏が訪れたのだから。



 それでもまだ士族は特別な階級ではあり、けれど彼等は尚も追い詰められていく。

 明治三年には庶民の帯刀が禁止され、明治四年には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発布される。

 髪を切るのは自由だし、刀を差さなくてもいいと。

 もう刀はお前たちの魂ではないのだと、文面にして提示した。


 勿論従うものは少なかった。

 武士でなくなっても捨てられない。

 刀は凶器だと知っている。けれど明治の世を切り開いた誇りでもあった。

 だから彼らは刀に拘り。


 なのに新時代はそれを認めようとしない。

 当然だ。江戸幕府を排したからには、江戸の名残を認める訳にはいかない。

 明治新政府は次々と古い時代を思わせるものを駆逐していく


 明治六年二月七日。

 明治政府は「復讐ヲ嚴禁ス」、俗に言う「敵討禁止令」を発布。

 仇討は禁止された。

 そして明治九年。

 大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止──即ち、「廃刀令」が発布される。

 廃刀令は大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁じるもので、これにより明治政府に属する特権階級以外は刀を取り上げられた。

 武士の世、その完全なる終焉であった。


「あ…ああ……」


 ここまで来て、直次はようやく自身の過ちに気付く。

 道行けば笑う人々。

 誰もが廃刀令を喜んでいる。


「何故、何故だ……」


 刀こそがこの時代を切り開いたのだろう。

 言葉にならぬ嘆きが届くことはない。

 争う以上殺戮を是とせねばならず、同胞を討たれようとも非と断じることは出来ない。

 けれどそこには苦悩があった。

 肉を斬る感触は気持ちが悪い、誰かを殺せば心が軋む。

 同じ未来を語った友が殺されて、悲しいと思わない訳がない

 それでも立ち止まらなかったのは、目指したものがあったから。

 正しいと信じた未来があればこそ、痛みも嘆きも呑みこむことが出来た。

 なのに、訪れた新時代こそが武士の戦いを否定する。


「直次様?」


 乗り越えてきた苦難を認めようともしない明治に絶望し、直次は体を震わせる。

 私達は、何故。

 全身の力が抜け動けない。そんな彼の前に、いつかのように、向日葵は姿を現した。


「実は、手伝ってほしいことがあるのですけど」


 鬼女の願いを、断ることは出来なかった。

 もはや刀は、武士は人の世に必要ないのだから。




 ◆





『向日葵嬢に救われ、“マガツメ”なる鬼に会いました。消えゆく命を救ってもらった。感謝はしています』


 眼前の鬼───三浦直次在衛は、遠くを眺めている。

 かつてとは違う赤く濁った瞳が何を映しているのかは分からない。

 弱きの為に新時代の為に刀を振るった男が、何故辻斬りに。

 何故異形に身を落としたのか、甚夜にはどうしても理解できなかった。


『……ですが今では、生き永らえたのは間違いだったと思える。人を捨ててまで、見たくないものを見て。私は、なんの為に命を繋いだのか』


 鬼の表情が歪む。

 それが自嘲だと読み取れたのは、曲がりなりにも友人として過ごした年月があったからだろう。

 今も思い出せる。蕎麦屋『喜兵衛』で過ごした日々は、甚夜にとって掛け替えのないものだった。

 だからこそもう一度、絞り出すように甚夜は問いを投げかける。


「直次、お前は、何故こんなことをしている」

『何故? 質問の意味が分かりませんね』


 返ってきたのは親しみなどまるで感じさせない冷たい声。赤黒い皮膚の異形は鼻で笑い平然と答える。

 甚夜はわなわなと肩を震わせていた。以前は逆だった。冷静で無表情なのは彼であり、直次の方が動揺を現すことが多かった。

 入れ替わってしまった構図が、過ぎた歳月を意識させる。

 あの頃とは違うのだと、まざまざと見せつけられていた。


「辻斬りに身を落とし、何人斬った。お前は、無為な殺戮の為に刀を握ったのか」

『甚殿、間違えています。私が斬ったのは与えられた平和に肥えた豚だ。豚は何人ではなく何匹と数えるのです』

「お前は……!」


 何故、お前がそんな言葉を吐くのか。

 まだ覚えている。

 武士が刀を持つのは、力なきものを守る為だと言った。

 徳川に縋りつき、多くの人々が苦しんでいるのを見て見ぬ振りするような生き方は出来ないと。だから直次は倒幕を志した筈だ。

 なのに、何故。


『何故怒るのですか、貴方とて同じ筈でしょう』


 直次は寧ろこちらの方こそ分からないといった様子だ。

 否定はできない。確かに甚夜も直次と同じだ。新しい時代に刀を、今まで拘ってきたものを奪われようとしている。

 向けられる視線には侮蔑と憐憫が同居していた。明治の世に刀を奪われようとしながら何もできない無様な男が、彼にはひどく醜く情けなく見えているのだろう。


『不愉快ではないですか。この平穏を作り出したのは我ら武士。刀を振るい戦った者だ。だというのに我らが虐げられ、何もしなかった者が安穏と生きる。不愉快だ……いっそ、こんな世など』


 それは、言わせない。

 言葉を邪魔するように甚夜は踏み込み、袈裟掛けに斬り下す。

 軽く赤い大太刀で防がれた。鬼となったからか、以前よりも身体能力も反応速度も上がっている。


「言わせん、明治は、お前が願った未来だろう」

『私が、願った?』

「武士の刀は力なきものの為に……それをお前が否定するのか」


 甚夜の言葉に鬼は目を見開く。

 ほんの僅か動揺し、苦悶の表情を浮かべた。


『五月蠅い……!』


 だがそれも一瞬、火のような激情が彼を突き動かす。

 型も何もない。直次は乱雑に振るうだけの横薙ぎで邪魔者を払い除ける。斬るよりも殴るが相応しい力任せの一刀を甚夜は夜来で受け、同時に後方へ退き距離を取った。

 間合いを開けて構え直せば、直次は怒り冷めやらぬといった風情でこちらを睨む。彼が初めて見せた、明確な敵意だった。


『貴方には分からないっ! 曲げられぬものがあると語りながら時代と共に変節し、刀を奪われた今を是とする貴方にはっ!』


 甚夜はぐっと奥歯を強く噛み締める。

強くなりたくて、それだけが全てで。そういう己を変えらないままに生きて死ぬのだと思っていた。

 けれどいつの間にか余分は増える。

 甚夜は弱くなった。もはやただ力を求め、憎悪の為だけに生きることは叶わないだろう。

 その是非は、今は分からない。しかし重ねた歳月に僅かながら変われた、変わった自分を悪くないと感じられるようになったのだ。

 それはおふうの、店主の、野茉莉の染吾郎の。今はもう会えない二人の、そして間違いなく直次のおかげだ。

 なのに、変えてくれたお前が否定するのか。

 ぶつけられた言葉は剣戟よりも苛烈だ。心が軋み、だが表には出さなかった。言った直次自身が、甚夜以上に悲痛な面持ちをしていた。


「ああ、お前のいう通りだ。私は廃刀令に従った。守るべきものが出来たからだ。直次……お前にだって守る者はある筈だろう。その為に一時の屈辱を受け入れることは出来ないのか」


 彼は廃刀令に憤りこんな真似をした、それくらいは分かる。

 しかし甚夜に野茉莉がいるように、直次にも妻が、子がいる。

 ならば彼だって変われる筈だろう。縋るような想いで問い掛け、しかし直次は頑なだった。


『五月蠅い…五月蠅い……っ! 刀を奪われ、それを受け入れろ……? 出来る、訳が、ないだろうっ!!』


 身を震わせて拒絶し、激昂のままに叫び異形は駆け出す。

 赤い大太刀を上段に、まるで感情をそのままぶつけるように、全霊をもって振り下す。そんな時でさえ、教科書通りの綺麗な太刀筋だ。その軌道に、直次がどれだけ真摯に剣と向き合ってきたのかが分かる。


「刀を捨てられぬ。それは私も同じだ。だが辻斬りに身を落とし、次は私を殺すか? それに何の意味がある! お前はそんなことの為に剣を握ったのか!?」


 応じる甚夜もまた感情のままに剣を振るう。

 斬り合いの中で感情を見せれば隙になる。理解しながらも、抑えることはしなかった。


『違う! 私は、守る為に!』

「ならば!」

『でも死んだんですっ!』


 繰り広げられる剣戟。

 甚夜は反撃することが出来ない。

 違う、反撃する気になれない。

 只管に受けに回り、刀を防ぎいなしていく、


『大勢死んだ……未来を夢見た者がいた、誰かを守りたいと言った者がいた』


 刀も言葉も共に鋭く、放つ度に両者を傷付けていく。 

 それでも止まらない。止まれない。お互いにそういう道を歩いてきた。刀を奪われ、憎しみを否定されて。だとしても、だからこそ、今更立ち止まれる筈がなかった。


『戦うことが怖いと、殺すのは嫌だと嘆いた者いた。それでも自分達の命が未来の礎になれればと、私達は戦った! 今は、新しい時代は、我らの振るった刀が切り開いた!』


 その誇りこそを支えに、彼等はただ美しい未来を願った。

 彼等武士は、確かにそれを実現させたのだ。


『なのに……なのに武士は刀を、誇りを奪われた! それを守られた筈の者達が嘲笑う!』 


 しかし明治の世において武士はその存在を認められなかった。

 官軍の一部が新政府に属すのみ、多くの武士は戦いの果てに庶民と変わらぬ地位へと落された。


『何故ですか!? 戦いの果て死ぬのはいい。罵倒も愚弄も構わない。賞賛など元より求めてはいなかった。私達が嘲笑われる程度で平穏が齎されるなら喜んで受け入れよう。それでも、それでも刀を、誇りを奪われることだけは我慢ならない! その誇りこそが我らの全て、我らそのものだった!』


 地位などどうでもよかった。

 ただ誇りがあった。

 太平の世を支えてきた武士、その末裔としての誇りが。

 だから刀を振るった。太平の世を支え、そして腐らせたのが武士ならば、幕を引くのは武士でなければならぬと身命を賭した。

 その果てに、願った幸福があると信じていた。

 なのに全てを奪われた。

 新時代は武士が築いたものを壊し、武士を士族に変え、価値観を貶め。

 ついには誇りさえ奪い去ろうとしている。

 それを、どうして認めることが出来るのか。


『これが新時代だというのなら、こんなものを守る為に同胞は死んだのか!? 私達の命は何の為に在った!? ……私は、私達はこんな未来の為に戦った訳じゃない!』


 止まらない。息継ぎの暇もないほどに攻め立てる。

 苛烈すぎる剣戟。直次の剣は彼の想いそのものだ。刀を、誇りを奪われた男の嘆き。それは甚夜が感じていた鬱屈とした感情とよく似ていた。


「だから人を殺すのか? お前はそうやって犠牲になる弱き者をこそ守りたかった筈だろう!」


 言葉程度では止まってくれないと知っている。

 十分に理解しながら、それでも言葉を叩き付ける。


『ならば耐えろと!? 誇りを奪われ、価値を認められず、屈辱に甘んじ……それでも戦わぬ者の為に刀を振るえと言うのか!? ふざけるな! 振るうべき刀を奪ったのは奴らだろう!』

「だとしても、この戦いに何の意味がある! 何故……なんで、お前に剣を向けなければならない……っ!」

『意味ならある……寧ろ、未来をと願った戦いにこそ意味がなかった。だけどこの戦いには意味がある!』


 やはり彼には届かない。

 返答は下から掬い上げるように放たれた逆袈裟。避けることは出来なかった。刀で防いでもあまりの力に吹き飛ばされる。

 その流れに逆らわず、体勢を崩すことなく甚夜は後ろへ下がり、しかし直次の追撃はなかった。ただ怒りの表情で甚夜を睨み付けている。

 それは真面な反撃をしようともしない、戦う気のない無様な男への苛立ちだった。


『私は、“マガツメ”なる鬼に命を救われました。だからその恩に報いる為、人を殺す。そしてそれを邪魔する貴方を斬る。どうです、意味ならあるでしょう』

「ならば闇討ちでも仕掛ければいいだろう」

『武士としてそんな真似は出来なかった。だから果し合いを選んだだけのこと』


 幾ら弁舌を積み重ねても直次は揺らがない。

 己が為に在り続けることこそ鬼の性。鬼は鬼であることから逃げられない。

 此処で意思を曲げられるのならば、そもそも彼は鬼に為らなかった。


『戦ってください。……それに貴方にとっても意味はある。私を止められねば野茉莉嬢は死にますよ』


 だから彼は、残酷なくらい悲しくなるくらいに我を張り通す。

 甚夜の表情が歪む。

 なんでそんなことが言える。野茉莉はお前によく懐いていた。お前だって、息子の嫁に、などと言っていただろう。


「……何故だ、何故お前は刀を振るう」


 いつか突き付けられ、出せなかった問いだ。

 しかし直次は少しの動揺も見せずに答えた。


『知れたこと。明治の世に、刀の意味を知らしめる。辻斬りでも死体集めでもいい。刀に為せることがあると示さなければならない。マガツメとやらが斬り捨てた死体で何をする気かは知りませんが、世が覆るならそれも一興でしょう』

「そんなものを証明してどうなる……!」

『ですがっ! 刀に意味が無いのなら……私達は武士、何のために生まれたのですか?』


 異形の鬼の目に涙はない。しかし泣いていると思った。

 大それたことを望んだ訳ではない。ただ彼は武士で在りたかっただけ。

 なのに明治の世はそれさえも認めず。

 直次は、どうしようもない現実に押しつぶされようとしている。 


『甚殿、貴方がまだ私を友と呼んでくれるなら、戦ってください。意味のない刀だった。けれどあなたと立ち合えるなら、それだけでも意味がある』


 誰かの為に刀を振るった。

 でも望んだ未来は得られなかった。

 振るった意味さえ奪われ、自分が信じたものを無価値だと言われ。


『だからどうか、何一つ為せなかった私の刀に、振るうに足る意味を』


 その果てに彼は、そんなことしか望めなくなった。

 彼は時代の徒花だ。

 咲いても実を結ばずに、何一つ残すことなく、新時代という風の前に散っていこうとしている。


「他に道はないのか。全てを忘れ、新時代を生きることは」

『くどい! 自分にさえ出来ぬことを押し付けるな!』


 はっきりとした拒絶に思い知る。

 もはや甚夜にはなにもできない。

 彼を変えることも、止めることも、何一つ。

 なにかしてやれるとすれば精々。


『ああ……ありがとう、ございます』


 彼の望みを叶えてやるくらいのものだ。


『やはり、貴方は私の友です』


 甚夜もまた、異形の鬼と化した。

 直次の腕は高くない。おそらくは人のままでも斬れただろう。

 しかし鬼と化して戦うことを選んだ。この戦いが彼への手向けならば、全力を出さねば失礼だと、彼の友を名乗る資格がないと思った。


「私もそう思っている」


 夜来を一度鞘に納め、腰を落し、右肩を突き出し半身。

 対する直次はお手本通りの正眼だった。


「だから、終わらせてやる」


 吐いた言葉に責め立てられる。

 友だと思った。今でもそう思っている。

 なのに、なんで。

 湧き上がる弱音を必死に押し殺す。

 もう一度甚夜は抜刀し、それきり言葉はなくなった。

 もはや語る必要はない。

 直次の真意を理解してしまった。本当の願いは果し合いではなく、全力の果たし合いの果て命を落とすという、武士らしい死に方だ。

 それを理解したからこそ手は抜かない。そんなものを求めて人を殺した彼には、何処にも居場所はないのだ。

 だからこの場で、きっちりと終わらせてやろう。



 彼が、武士でいられる内に。



「……行くぞ」

『ええ』


 先に動いたのは甚夜の方だった。

 地を這うように駆け出す、左手は鞘に、右手は夜来を握り、全身に力が籠っていると分かる。

 一挙手一投足の間合いに入り込む。ただしそれは直次の、だ。彼の大太刀の方が長い。自身の間合いに入り込んだ敵を両断しようと全霊で刀を振るう。


『おおおおおおおおおお!』


 裂帛の気合と共に放たれる斬撃。

 しかし読まれた。掠める程に狭い間隔で直次の剣をやり過ごし、左に一歩踏み込み、一太刀で首を落さんと夜来が振るわれる。

 それに反応し無理矢理上体を逸らす。白刃が一寸にも満たぬ距離を取りすぎる。本当にぎりぎりではあったが、どうにか避けることが出来た。


 甚夜は更に攻め立てる。上段からの袈裟掛け、肩口を切り裂こうと刃が迫る。

 応じる直次は逆手で下から上へ、ちょうど甚夜の太刀とは対照に斬り上げる。

 重なり合う刃、相手の太刀を弾き飛ばし追撃に移る。

 直次の狙いはそこに在り、だが甚夜の狙いはそこになかった。


 ───重なり合った筈の太刀が、するりとすり抜ける。


 在り得ない現象に直次は驚愕する。

 刀がすり抜けた、馬鹿な、そんなことが。動揺したままに甚夜を見れば、表情も変えずぽつりと呟く。


「<空言>」


 夜来は、まだ鞘に納められたままだった。


『な……』


 騙された。

 先程見せた刀は幻影。その実甚夜はまだ抜刀さえしていなかった。

 幻影の刃を全力で打ち据え、直次の体は伸びきってしまっている。

 対する甚夜は居合抜きの構え。

 精一杯体を捻る、いや間に合わない。

 既に相手は刀を抜き始めている。居合には向かない鉄鞘であるが、それでも直次が避けるよりは速い。

 放たれる白刃。

 直次はその鈍い輝きをしっかりと見ていた。

 なのに動けない。

 霞むほどの速度の斬撃が身に食い込み、


「以前も言ったぞ。実直なのはお前の美徳だが同時に急所だと」


 直次は、一太刀の下に地へと伏した。


















『あぁ、やはり、甚殿には勝てませんね』


 虚ろな目は何も映していない。

 勝敗は決し、仰向けに倒れた異形の体からは白い蒸気が立ち昇る。見上げた夕暮れの空は高く遠く。死の際にあって、直次はどこか懐かしいその色をぼんやりと眺めていた。


「悪いな。私は武士ではない。正々堂々などという言葉に興味はなし、卑怯な手も使う」


 貴方は嘘が下手ですね。

 そう思ったが、口にはしなかった。

 彼がああいう騙し討ちのような戦いをしたのは直次の為だ。

 剣に拘った直次だからこそ、剣で負けたのではなく、<力>と策に負けたような形にしようとした。

 何とも回りくどく不器用な気遣い。それが自分の良く知る友人らしくて、小さく笑みが零れる。


『いえ、これが勝負。私は全霊で戦い、負けた。それだけのことです。少なくとも……意味のない戦いではなかった』


 清々しい、というほどではない。

 それでも立ち合いの果てに息絶えるのならまだマシだ。そんなことを考えながら直次はただ空を見上げる。

 ああ、段々と、眠くなってきた。


『それに、醜い明治の世をもう見なくても済む。私は結局、死に場所を間違えたのでしょう』


 死すべき時に死せぬは無様。その苦悩には甚夜も覚えがあった。

 だからだろう。傍まで近寄り、腰を屈め、左腕でそっと異形の体に触れる。

 何をするつもりなのか分からず、直次は首だけをついと動かす。視線の先にあるのはいつも通りの無表情だった。


「私は、いずれ葛野の地に現れる全てを滅ぼす災厄……鬼神を止める為に強さを求めた。その心は今も変わらぬ」


 抑揚のない口調。以前も聞いた、正確には盗み聞いた話だった。


「そしてこの左腕は鬼を喰らいその<力>を我がものとする異形の腕」


 どくん、異形の腕が鳴動した。 


「お前の<力>が欲しい。故にその<力>……私が喰らおう」


<同化>

 元々甚夜の左腕はそういうもの。

 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。


『あぁ、ぐ……』


 喰われている。

 直次は自分の中の何かが入り込んでくるのを感じた。ほとばしる激痛。それと同時に甚夜の記憶もまた少しずつ流れ込んでくる。

 白雪。鈴音。鬼神。

 人よ、何故刀を振るう。

 見捨ててしまった父、もしかしたら妹になっていたかもしれない少女。

 雪柳の下で語った夜。

 嘘吐きな妻から託された娘。

 強さを求め、けれどいつの間にか余分は増える。

 それでも、曲げることの出来なかった生き方。


『はっ、はははは……』


 気付けば直次は声を出して笑っていた。

 甚夜の記憶を垣間見て、彼がこの身を、<血刀>を喰らおうとしていると知った。

 なのに。

 いや、だからこそ彼は笑った。


『甚殿、私の<力>は、役に立ちますか……』


 甚夜はこれからも戦いに臨む。

 時代が刀を必要とせず、憎しみを否定されたとしても。

 生き方を曲げることはきっとできない。


「無論だ。血液を刀と変える。これからの時代、お前の<力>は私を支えてくれる。そしていずれは、鬼神へ届き得る刃となるだろう」


 その迷いのない答えが、嬉しかった。


『はっ、はは……そうですか。私の<力>が人に災厄を齎す鬼神と戦う時、役に。貴方のこれからを支えますか』


 激痛の中、ただ笑う。

 手に取った刀はなにも守れなかった。身命を賭し振るったその果ては、武士も刀も認められない時代だった。


 それでもいいじゃないか。

 お前が望んだ未来はここにある。

 これからは刀も武士も、いらなくなる。

 本当はその方がいいって分かっているだろう?


 だけど、そう思うには、失くしたものが多すぎた。

 刀に生涯を掛けた者達が切り開いた未来だ。自分だけが刀を捨て安穏と生きるなど、出来る訳がなかった。

 だから刀に拘った。

 この嘆きは私だけのもの。

 でもみんな見ていないだけで、“私”は沢山いるのだと。

 新時代は数多の屍の上に成り立っているのだと。

 貴方達の幸せの為に散って行った名もなき命があるのだと、忘れて欲しくなかった。


『よかった……何も守れなかったけど』


 だから得体の知れぬ鬼に従い、辻斬りとなった。

 思えば馬鹿なことをしたものだ。

 本当はこの果し合いも、止めて欲しかったからなのかもしれない。

 自分を止めるものは、時代でも、民衆でもなく。

 散々拘った刀であってほしかった。

 本当に馬鹿なことをした。

 しかし最後の最後に救いがあった。


『私の戦いには、確かに意味があった……』


 間違えた想いが生んだ<力>。

 けれど私の刀は彼の助けになれる。

 それで充分。

 ありがとう、甚殿。

 こんな救いを与えてくれた友人に限りない感謝を。 


 ああ、眠くなってきた。


 直次は痛みの中、確かに安堵と幸福を感じていた。

 もうそろそろ、眠ろうか。

 死に場所を間違えたと思った。

 だが友に看取られて死ねるならそんなに悪くないと思える。

 だからゆっくりと、微睡みに身を委ね、そっと瞼を閉じた。

 自然と笑みが漏れる。

 彼の目が最後に映したのは、見上げた夕暮れの空ではなく。


 いつか笑い合った、蕎麦屋での一幕だった。










 ◆








 夕暮れが過ぎ、夜が訪れ、しかし甚夜は未だ動けずにいた。

 また姿が変わった。

 右腕。肌は浅黒いままだが、若干太さを増し爪が鋭くなっている。自分の肌を傷つけやすくするための変化だった。


「<血刀>……血液を媒介に刀剣を生成する<力>」


 声に力はない。

 自身の腕を眺めながら、甚夜はその<力>の意味を想う。

 鬼の<力>は才能ではなく願望。

 心から望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。

 だから直次の<力>は<血刀>。 


『義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。

 己が矜持に身を費やし、それを侵されたならば、その一切を斬る“刀”とならん。

 ただ己が信じたものの為に身命を賭すのが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である』


 そういう男だからこそ、<血刀>を得た。

 かつての直次を思い出しながら、絞り出すような声で甚夜は呟く。


「お前は、最後まで。血の一滴までも刀で在りたかったのだな……」


 結局、そう在ることは、できなかったけれど。




 新しいものはいつだって眩しく見えて、時折目が眩んで、失われていくものを見失ってしまう。

 例えば、道の端に咲く花。

 早すぎる時代に押し流され、咲いて儚く散り往きて。

 いずれ訪れる春の日に、芽吹くことなく忘らるる。

 巡り来る時に咲く場所を奪われた花は、実を結ぶことなく枯れていく。

 そこに籠められた想いを、誰に知られることもなく。 


「では、な。直次……最後は上手くいかなかった。だがお前に会えてよかったと思うよ」


 甚夜は踵を返し、山科川を後にした。

 いつか、直次と善二と、三人呑んだ夜があった。

 けれど今は一人。

 それが無性に寂しく思えた。


 訪れた夜に空を見上げる。

 映るのは、優しげに光を落す月。

 春の夜空に浮かぶ月は、輪郭も朧に滲んでいる。

 月夜の小路を一人歩く。

 ふと触れれば、知らないうちに頬が湿っていた。

 どうやら春夜の露に濡れたらしい。





 それでお終い。

 花一つ散り、けれど咲くことは止められず。

 時代の片隅で、今も徒花はひっそりと咲いている。





『徒花』・了




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