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余談『林檎飴天女抄』・6(了)



 狐の鏡。

 製鉄の村に生まれた青年は天女と結ばれた。

 始まりこそ歪ではあったが、歳月を重ね二人は想い合い、いつしか本当の夫婦となった。

 しかし天女は病に倒れ、青年は彼女を空へ帰したいと願う。

 それを叶えたのが、狐の死骸を燃やしその灰を練り込んで造られた鉄鏡、“狐の鏡”である。

 羽衣を失い地に囚われた天女は、狐の鏡によって天へ帰ったという。




 ◆




 八月十五日。

 炎天の下、荒城稲荷神社は大変な盛況であった。

 縁日の当日、大勢の人が挙って押し寄せる境内は、夏の暑さにも負けないほどの熱気に満ちている。

 目当ては勿論夏祭り。御多分に漏れず甚夜達も揃って荒城神社へ訪れた。


「よっしゃ、平吉。取り敢えず屋台全部まわろか!」

「お師匠お願いです声を小さくしてください恥ずかしいです」


 祭りの雰囲気に当てられ、着いた途端走り出す恥ずかしい師弟。彼等を尻目に甚夜はやおら雑踏を見回す。

 団子屋に天麩羅屋、飴細工師。騒がしさと共に様々な香りがあちらこちらから漂ってくる。

 紙切りや曲駒などの大道芸にも人だかりができ、聞こえてくる祭囃子に大人も子供も関係なく浮かれていた。


「すっごい人!」


 初めて見る祭りに野茉莉もはしゃいでいる。

 こんなに喜んでくれるならもっと早く連れてきてやればよかった。堪えきれず駆け出す姿に思わず目尻が下がった。


「ああ、野茉莉さん、あまり走ってはいけません」


 縁日であっても刀を腰に差したままの兼臣は、今にも走り出そうとする野茉莉のお目付け役だ。

 本来なら甚夜も一緒に回るつもりだったのだが、少しばかり用があった為しばらくの間は彼女に任せた。


「騒がしいことだ」

「それが祭りの醍醐味というものでしょう」


 甚夜の呟きに答えたのは荒城稲荷神社の神主、国枝航大である。

 二人は休憩場所として設置された長椅子に腰を下ろし、祭りの喧噪を眺めている。

 無事に朝顔は空へと帰った。しかし分からないままのことは多く、詳しい話を聞いておきたかった。


「結局、狐の鏡とはなんだったのか」


 天女を空へ帰した鏡。

 目の前で見せつけられたのだ、その力を疑うことはない。とはいえどこか釈然としないものを感じて甚夜はぼやいた。


「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」


 返ってきたのは以前も聞いた言葉だ。

 おだやかに笑うばかり、僅かも動揺はない。なにより彼は天女の存在を「二度目」と表現していた。

 つまり国枝航大は、初めからこの騒動の全貌を把握しており、結末も粗方見当をつけていたのだ。


「狐の鏡は大方が真実だった。では国枝殿、嘘とは?」

「簡単なことですよ、そもそもこれは京都の説話はとしておかしいのです」


 それを証明するかのように彼は淀みなく語る。

 おそらくは今回の件の根幹に位置する、荒城稲荷神社に伝わる天女の物語である。


「おかしい?」

「ええ、狐の鏡は京都三条に伝わる天女譚。ですが考えてもみてください。京の説話だというのに、なぜ青年の生まれが“鍛冶の村”なのでしょうか?」


 今更ながら違和感に気付かされる。

 狐の鏡の主人公は『鍛冶の村に生まれた、子狐と共に暮らす青年』だ。確かに京都の説話にしては設定がおかしい。


「そもそも狐の鏡と羽衣伝説は別の説話。それが習合し現在のような形になったのです」

「だとすれば、祭器としての“狐の鏡”も京で造られた物ではない?」

「その通りです」


 だから初めから間違えている。

 狐の鏡は別の土地で造られた。であれば、天女が降りたとされたという話は?

 問いを重ねようとしたが、神主は徐に視線を外す。その先を追えば騒がしい祭りの中、楚々とした歩みを乱さない女性の姿があった。


「どうぞ、甚夜様」


 神主の妻、ちよは小さく会釈をして、そっと長椅子の上にお盆を置いた。

 そこには二つの湯飲みと、またも小皿に置かれた磯部餅。タタラ場では滅多に食えなかった為、偶に義父が焼いてくれると大喜びをした。今でも好物はと聞かれれば蕎麦よりも磯部餅を挙げる。


「お好きでしたよね? 磯辺餅」


 けれどそれをちよに伝えたことはない。勿論、国枝航大にも。

 淑やかな笑み、だというのに引っ掛かってしまうのはそのせいだ。

 彼女は名乗る前に甚夜の名を呼び、好物が磯部餅だと当たり前のように知っていた。正直なところ天から降りた朝顔よりもちよの方が余程奇妙と感じてしまう。

 訝しげに眉を顰めるが慎ましやかな振る舞いは崩れない。微妙な空気が流れる中、不意に神主はすくりと立ち上がった。


「ここからは妻と変わりましょう。狐の鏡については彼女の方が詳しい。何せ鏡が造られたのはちよの故郷ですから」

「いや、しかし」

「ではこれで。私は祭りを見て回ります。林檎飴が無いのは少々寂しいですがね」


 おどけるようにそう言って、呼び止めようにもそそくさと歩いて行ってしまう。

 残された甚夜はどうしたものかとちよを見た。無茶を押し付けられた形だったが彼女はその気らしく、「お隣失礼します」と隣に腰を下ろす。

 突然の成り行きに今一つ付いていけず戸惑いもあるが、詳しいというのなら文句はない。


「ああ……では、ちよ殿」

「ええ。狐の鏡について、ですね」


 一呼吸おいて、ちよは表情を引き締めた。

 彼女が語るのは説話ではなく、現実の、力を有した祭器としての狐の鏡だ。


「かつて狐の鏡を作った鍛冶師は、未来を見る<力>を持った鬼女、彼女が持っていた槍と残された鬼の血を混ぜて鏡を打ちました。

 鍛冶師は未来を映す鏡が出来れば、と思っていたそうなのですが、何の因果か過去と未来を繋ぐ、途方もない代物になってしまった。

 故に神社の御神体として安置し、一般の者が触れられないようにしたのです。それが羽衣伝説と混じり、天と地を繋ぐ鏡と呼ばれるようになりました。いえ、“しました”と言った方が正しいですね」


 説話は真実を語らないがまったくの嘘という訳ではない。

 狐の鏡は天と地を繋ぐ祭器ではなかったが、代わりに過去と未来を繋ぐという力を有していたと彼女は言う。

 荒城稲荷神社に伝わる説話は、それらの真実を隠す為の嘘に過ぎなかった。

 流石に甚夜も驚きを隠せない。

 特殊な能力を持つ器物は幾つか知っていたが、今回はあまりに途方もない話だ。時間移動を可能とする鏡など下手しないでも国がひっくり返る。


「ですがその力は年々弱くなっています。おそらく、いずれは狐の鏡はただの鉄鏡になるのでしょう」

「ならば朝顔は」

「多分彼女は、未来から訪れたのだと思います」

「そう、ですか」


 つまり天女とは未来からの来訪者であり、何の偶然か過去へ辿り着いただけで、朝顔自身は普通の少女だったのだろう。

 彼女がどれくらい後の時代からやってきたのか、そこでどのような暮らしをしていたのかは甚夜には分からない。

 息苦しいと言った彼女の日々は遥か先で、想像するさえできなかった。

 しかし本当は、そんな曖昧なものなどどうでもよかったのかもしれない。

 形のない未来は見通せなくとも、朝顔は自分の意思で戻ることを選んだ。ちゃんと帰るべき場所に帰ることができた。

 彼にとっては、その事実だけで十分だった。 


「ありがとうございました」

「いえ。お力になれたようで何よりです」


 話を聞き終え、甚夜はゆっくりと息を吐いた。

 国枝夫妻の正体など疑問はいくつか残っているが、粗方納得はできた。本人を問い詰めたところで答えが返るとも思えないし、ここいらが潮時だろう。

 後は野茉莉と合流して縁日を見て回るか。徐に立ち上がろうとすれば、おずおずと、引き止めるようにちよが声をかけた。


「……あの、甚夜様。やはり敬語は止めて頂けないでしょうか」

「いえ、ですが」

「どうか、お願いします」


 以前も畏まらず呼び捨てしてほしいと願われた。

 その時は殆ど初対面、人の妻ということもあり気後れして断った。

 しかし再び同じことを願う彼女の目は真剣で、どこか縋るような色さえある。

 抵抗はあるがこれ以上拒否するのも酷に思えて、甚夜は仕方ないと小さく頷く。


「分かった。代わりにちよ殿……ちよも楽にしてくれ」


 がしがしと頭を掻きつつ雑に呼び捨てる。

 適当な態度だったが、何故かちよは本当に嬉しそうな顔をしていた。

 名や好物を知っていたことといい、本当によく分からない女性だ。


「そうですね、でしたら……」


 けれど甚夜の反応も織り込み済みだったのかもしれない。

 ちよは怪訝な面持ちの彼を見て、普段の淑やかな振る舞いにはそぐわず、悪戯を成功させた子供のように目を輝かせる。

 そして彼女は“してやったり”とでも言わんばかりに、にっこりと微笑む。




「甚太にい、とお呼びしてよろしいでしょうか?」




 一瞬、頭が真っ白になった。

 がつんと意識の外から殴りつけられたような衝撃が走る。

 随分と懐かしい呼び名だ。甚太にい、そう呼んでくれたのは、彼の知る限り一人しかいない。

 それを皮切りに次々と思い出される遠い過去。

 そうすれば絡まった糸が解けるように色々なことが分かってくる。

 彼女が、名乗る前から自分の名を知っていた理由、『夜』の名を冠したと知れた理由。

 磯辺餅が好きだと知っている理由。

 隠された真実。未来を見る鬼女。

 荒城稲荷に伝わる狐の鏡の説話。

 鉄鏡。産鉄の土地。稲荷神。説話において語られる火の神性。

 そして“狐”の意味。 


 曰く、マヒルさまは火処に絶えることのない火を灯す神。

 もともとは“いらずの森”に住んでいた狐だったという。


 其処まで考えて、ようやく合点がいった。


「……お前、ちとせか!?」


 柄にもなく大声で聞き返す。

 その動揺こそが面白かったのか、くすくすとちよ───ちとせは笑っていた。


「やぁっと気付いてくれましたね。甚太にい」


 故郷の集落、葛野に住んでいた茶屋の娘ちとせ。

 妹の数少ない友人で、昔は甚夜のことを“甚太にい”と呼び慕ってくれていた。

 甚夜は言われるまで彼女がちとせであると気付かなかった。

 故郷を離れたのは三十二年前。別れの際はまだまだ子供だった。

 幼かった頃の印象が強すぎて、大きくなったちとせが集落を出て誰かと結婚しているなど、欠片も想像していなかった。


「なんで、こんな所に」

「ここ、葛野の神社の分社なんですよ。姫様が亡くなられた後、私がいつきひめを務めました。その流れで私たち夫婦に任されたんです」


 荒城稲荷神社が祀るのは稲荷神、“お狐さま”だ。そして狐の鏡の説話は“鍛冶の村”を舞台にしている。

 ならば京の説話としてはおかしくても、産鉄の集落である葛野の説話としては辻褄が合う。 

 この神社は最初から産鉄の集落にて崇められる狐、マヒルさまの分け御霊を祀る社として造営されたのだろう。


「お前が、いつきひめ」

「今はもう夜来はありませんし、形だけの巫女ですけど」

「そうか、ちよ……千歳ちとせだから千夜ちよか」


 ちよという名前にもちゃんと意味があった。

 白雪が白夜と名乗り、甚太が甚夜と名乗ったように、ちとせもまた夜の名を継いだ。

 彼女は、無様な男が途切れさせてしまったものを、その手で繋ぎ合わせてくれていたのだ。


「葛野の方はどうなっている?」

「娘に任せてきました。ちゃんと、巫女が途絶えないように言伝を残して」

「では、今代のいつきひめは」

「私の娘が。今は社から出ずに暮らすなんてことはないんです。いつきひめの社も、普通の神社ですよ。名前は、ふふっ、とても素敵になりましたけど」


 そうか、と感嘆の息を吐き、改めてちよを見る。

 そこにいるのは妻として夫を支える淑やかな女。

 あの幼い娘がこんなに大きくなるのだから、歳月というのはなんとも不思議だ。


「葛野も随分変わったのだな」

「はい。……それにしても残念です。もう少し早くいつきひめになれれば、甚太にいに守ってもらえたのに」

「なんだそれは」

「だって、もう巫女守はいませんから」


 思いがけない再会はどこかくすぐったく、けれど絹のように柔らかい手触りをしていた。

 そう感じるのはお互い年を取ったのだろう。からかい混じりの冗談に、離れていた時間や些細な変化も忘れて二人は笑い合う。


「でも、これでちゃんと約束は守れましたね」


 一瞬意味が分からず返答に窮する。

 しかしすぐに思い至り、甚夜は笑みを落した。


「甚太にいが言ったんでしょう?」

「……ああ、そうか。そうだったな」


 旅発つ際に、彼は確かに言った。



 ───また今度、磯辺餅でも食わせてくれ。



 帰ってくるなんて言えなかった。誤魔化す為の言葉だった。

 なのに、ちとせはずっと覚えてくれた。

 約束が果たされるというのは、こんなにも暖かいことなのだと教えてくれた。


「では、どうぞ」

「遠慮なく頂こう」


 彼女が準備してくれた小皿に手を伸ばす。

 香ばしい醤油の香り。まだほんのりと暖かい餅を頬張る。

 美味しいと素直に思う。ちとせが焼いてくれた磯辺餅は、いつか義父が焼いてくれたものと同じくらいに旨い。


「旨いな」

「当然です」


 ゆるやかに微笑む、四十をとうに越えた女。

 淑やかな佇まいに幼い“ちとせ”の姿が重なる。それは郷愁が見せた単なる幻に過ぎないのだろう。

 けれど嬉しかった。

 失くしてしまった遠い日々に、もう一度出会えたような気がした。


「父様ー!」


 思い出に揺蕩う心が現実に引き戻される。

 声の方に目を向ければ、人混みの中で野茉莉が手を振っていた。

 傍らにいる兼臣は明らかに疲れた顔をしている。かなり振り回されたのだろう。


「行ってきてください」

「そう、だな」


 名残惜しいものはあるが、娘を無視することも出来ない。

 ちとせに促され、茶を一口啜ってから甚夜は立ち上がる。


「では……いや、またな。ちとせ」

「はい、いってらっしゃい。甚太にい」


 短い別れの言葉。それでよかった。

 いつだって会えるのだ、別れを惜しむ必要はない。


「父様、お話終わった?」

「ああ」


 炎天の下、祭囃子。

 甚夜は野茉莉の傍へ行き手を繋ぐ。

 愛娘は溢れんばかりの笑顔、「葛野様、助かりました……」と疲れたように溜息を吐く兼臣には思わず苦笑いが零れた。


「何か食べたい!」

「そうだな。林檎飴なんてどうだ」

「じゃあそれっ! ……でも、林檎飴って、なに?」

「……私も知らん」


 娘に勧めたのは林檎飴、朝顔はりんごが好物だと言っていた。

 ただ咄嗟に勧めたはいいが、林檎飴とはいったいどんなものなのだろうか。

 林檎の形をした飴細工なのか。それとも林檎味の飴なのか。

 実のところ甚夜はその詳細を知らず、そもそも見回しても林檎飴屋など一つもない。


「すまん、忘れてくれ。取り敢えず、色々回ってみようか」

「うんっ」


 気を取り直し、野茉莉と一緒に祭りを見て回る。

 いつか朝顔との約束も果たせればいいと思う。

 彼女が未来から訪れたというのなら、いずれそういう機会もあるかもしれない

 その時までには林檎飴が何なのか、調べておこうと思った。


「父様、こっちこっち!」

「分かった分かった」


 けれど今は目の前の喧噪を楽しむことにしよう。

 天高く、抜けるような青空。

 夏の祭りはまだ始まったばかりだった。










 林檎飴の発祥は諸説あるが、アメリカの西海岸で生まれたという説が有力とされている。

 世界で初めて林檎飴が作られたのは今から三十六年後の1908年。

 日本の縁日で売られるようになるのは、更に後の話である。






 ◆






 気が付けば、神社の本殿で私は寝転がっていた。


「あ、れ?」


 聞こえてくる祭囃子。体を起こしきょろきょろ見回す。

 明るい方へ誘われるように歩き、周りを気にしながら本殿の外へ足を踏み出せば、辺りはお祭りの真っ最中。

 ここは甚太神社の境内。

 たこ焼き、フランクフルト、金魚すくい、林檎飴、射的、チョコバナナ。

 私の知っている出店がたくさん並んでいた。


「戻って、これたんだ」


 ちゃんと、現代に。

 見慣れたお祭りの風景に安堵して、私───梓屋あずさやかおるは大きく息を吐いた。

 クラスメイトの“彼”のおかげで不思議な体験は沢山してきたけど、今回のは飛びきりだ。まさか明治時代に行くなんて思ってもみなかった。

 でもまあ、いっか。楽しかったし。


「あれ、薫?」


 安心して気を抜いていると、後ろから声をかけられた。

 振り返ってみればそこにいたのは中学の頃からの親友、みやかちゃんが巫女さんの服装で立っていた。


「あ、みやかちゃん。こんばんは」

「うん、今晩は。お祭り、来てたんだ?」

「あははー、うん、ちょっとね」


 答えは曖昧になってしまった。

 だって「ちょっと明治時代に行ってきましたー」、なんて言っても信じて貰えないだろうから仕方がない。

 あ、でもみやかちゃんも色々オカルトな話に詳しくなってるから、案外似たような話知ってるかも。


「ねぇねぇみやかちゃん。今年って何年だっけ?」

「なに、いきなり?」

「あはは、度忘れしちゃって。ごめんね」

「別にいいけど。平成二十一年ね」


 なら西暦だと2009年。夏祭りの夜だから8月15日で間違いない。

 私が光に包まれてから半日くらいしか経っていないみたいだった。


「その朝顔の浴衣、可愛いね」

「ありがと。みやかちゃんもとってもかわいいよ?」

「私の格好には触れないでくれると嬉しい」


 みやかちゃんは巫女さんの格好をしていた。

 背が高くてすらっとしてて、こういう服を着ても似合うんだから、みやかちゃんはずるいと思う。


「あ、浴衣と言えば」


 そう言うと、みやかちゃんはほんのちょっとだけ不機嫌な顔になった。

 いつもはあんまり表情が変わらないんだけど、今は拗ねたように唇を突き出している。


「どうしたの?」

「さっき、石段の下であいつに会った」


 あいつ。みやかちゃんがそんなふうに呼ぶ相手は一人しかいない。私がさっきまで一緒にいた彼だろう。

 明治から現代に戻ってきたのに彼がいる。百年を生きる鬼、というのは聞いていたけど、やっぱりなんか不思議な気分になる。


「あ、そうなんだ」

「なんか、着流し? を着て、デートみたい。待ち合わせかな、相手はまだ来てないみたいだったけど」

「でーと?」


 みやかちゃんはすっごく微妙な顔で小さく頷いた。

 そういえば「お祭りに行こう」と葛野君を誘ったけど、「先約がある」って断られたんだっけ。それがデートの約束だったんだろう。


「うん、そう。ずっと前からの約束だって」

「へー、誰とだろう。私達の知ってる人かな?」


 肩を竦めて、ちょっとだけ不満そうにみやかちゃんが言う。


「さあ? 相手は天女だとか言ってたから。もしかしたら、薫に似てるっていう女の人なのかも」


 天女。

 ああ、そう言えば、葛野くんはいつも私のことを「天女」と呼んでいた。

 理由は古い知人によく似ているから。

 その人は本当にそっくりらしく、彼は時々私の名前を間違えて。


“朝顔”と呼ぶのだ。


 遠い昔のお話が今に繋がった。

 祭囃子に重なって幻聴が聞こえてくる。






 ────もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!






 それはほんのついさっき、百年以上前に交わした約束で。

 だから私は、気付けば走り出していた。


「ちょ、薫!?」


 みやかちゃんの声が聞こえたけど止まらない。

 だって“もしかしたら”って思ってしまったから、止まれなかった。

 思い切り走る。不思議な体験の余韻はまだあったけれど、だからこそ、“待ち合わせの場所”に早く行きたいと思った。

 だっていつも余裕たっぷりな彼がどんな顔をするのか見てみたい。

 顔がにやけるのが自分でも分かる。変な気持ちだ、私は彼がそこにいないなんて想像もしていない。

 浴衣は走りづらいけど、二段飛ばしで石段を駆け下りる。

 転びそうになるくらいの勢いで降りきって、きょろきょろと辺りを見回す。

 人が多い。でも、私はすぐに見つけられた。

 階段の下、道の脇辺りに彼はいた。


「遅かったな、梓屋」


 ああ、やっぱり。

 彼は天女を待っていた。


「あの、えっと、あの」


 着流し姿の彼は、私を見つけて軽く手を上げた。

 学生服よりも似合うと思う。着流しは、昔の男の人の格好だ。葛野くんは、明治の頃と全く変わらない姿で待っていてくれたのだ。


「とりあえず落ち着け」

「う、うん、ごめんね? えーっと、あの。ひ、久し……ぶり?」


 どう挨拶すればいいのか分からなくて、変なことを口走ってしまう。

 多分私の顔はすっごく赤くなっている。

 あー、馬鹿なこと言っちゃったな。

 そんなことを思っていると、彼は落すような、穏やかな笑顔で迎えてくれた。


「本当に久しぶりだ。これで気兼ねなく呼べるな……朝顔」


 顔が更に熱くなった。

 熱さの理由は嬉しかったから。すごく嬉しくて、ぶるりと肩が震える。

 だって彼は一週間しか一緒にいなかった女の子のことを、百年以上経っても忘れていなかった。

 私のことを、ずっとずっと覚えていてくれた。それを嬉しいと思わない訳がなかった。


「覚えてて、くれたんだ」

「一緒に祭りへ行こうと言ったのは君だろう」

「あはっ、あはは。それはそうだけど。まさか覚えていてくれるなんて思ってなかったんだよ」


 だって、百年以上も前のことだ。きっと、忘れていると思ってた。

 なのに、あの時と同じように、朝顔と呼んでくれる。


「なんか、不思議な感じ」

「私には懐かしい。もう思い出すことも稀になってしまったが、あの頃は本当に満ち足りていた」


 多分彼は、私の姿に重ねて懐かしい景色を見ているんだろう。

 うっすらと細められた目はとても優しい。その雰囲気はとてもではないけど高校生のものじゃなくて、本当に百年以上生きているのだと思い知らされる。

 だからこそ私は聞きたくなった。


「あの、葛野君。聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「構わんが」

「ありがと。あの、さ」


 少し口ごもり、けれど意を決して。

 あの時と同じ質問をもう一度してみる。


「……ねぇ。葛野君は今、幸せ?」


 私には一瞬前の出来事だけど、彼にとってはもうずっとずっと、百年以上も前のこと。

 当たり前だけど、野茉莉ちゃんはもういない。

 秋津さんも、平吉くんも。兼臣さんも。彼と笑い合っていた人は、もう全員死んでしまっている。

 葛野くんはきっと私じゃ想像つかないくらい多くの別れを経験してきた。

 それなのに、こんなにも穏やかに笑える彼が、今をどう思っているのか知りたかった。


「当たり前だろう?」


 鉄のように揺るぎない、でもとても優しい声だ。 


「長く生きれば失うものは増える。寂しいと思わない訳ではないが、そう悪いものでもない。失くすものが多い分、手に入れるものだってあるさ。それに、長くを生きればこそ時折降って沸いた再会に心躍らせることもある」


 嬉しかった。

 あの時は素直に幸せだと言えなかった。

 だけど、私では想像もできないようないろんなことを乗り越えて、彼はこうやって笑えるようになった。

 それが自分のことのように嬉しい。


「えーと。それって、もしかしないでも私……だよね?」

「多分、君には分からないよ。教室で会えた時、どれだけ私が嬉しかったか」

「もう、またそういうこと言うー」 


 誤魔化すように笑っても、きっと顔はすごく赤い。

 なのに向こうは全然平気な顔。ちょっとずるいと思う。

 さらりと私の不満も受け流して、彼はついとお祭りの屋台を見回す。


「さて、そろそろ行くか。約束通り、林檎飴を奢ろう」


 くるんと体を回すと、ほんの少し着流しの裾がはためく。

 一連の流れはあまりにもはまっていて、まるで時代劇の1シーンを見ているような気になる。


「やっぱり、そういう格好似合うよね」

「そうか? そちらの浴衣姿には負けると思うが」

「そ、そう、かな?」


 お祭りの為に新しく買ってもらった朝顔の浴衣。

 自分でもお気に入りだけど、思ってもみなかった返しに照れて、私は少しどもった。


「ああ。……やはり、君には朝顔の浴衣がよく似合う」


 ううん、違う。

 思ってもみなかった、じゃなかった。

 私は多分、なんて続くのかを、ずっと前から知っている。

 だから何も言わずに言葉を待つ。

 そして林檎飴を奢るなんて些細な約束を百年もの間忘れずにいてくれた彼と。


「まるで、いつか見た天女のようだ」


 今度こそ一緒にお祭りを。

 遠い約束は、此処に果たされた。






 余談『林檎飴天女抄』・了


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