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『鬼と人と』・6



「では甚太」

「御意。鬼切役、確かに承りました」


 葛野の北に広がる森林、通称いらずの森。

 その奥には鬼の言葉通り洞穴があり、確かに彼等の根城となっていた。

 報告が入ったのは明け方頃、朝一番で甚太は社に呼び出され、鬼切役が与えられた。

 白夜の声に感情の色はない。

 自然と手に力が籠った。彼女は努めて白夜であろうとしている。ならば己は巫女守として、二匹の鬼を討ちとらねばならない。

 床に拳を突き恭しく頭を下げ、社を後にしようと立ち上がった。


 御簾の近くには清正が控えている。

 あの男は白夜と結ばれる。気に食わないと思うし、嫉妬がないとは言えないが、自身が選んだ道だ。

 小さく息を吸い、社殿の静謐な空気を肺に満たす。効果があったのか思った以上に心は落ち着いてくれた。

 そうだ、これはいつも通りのこと。

 己が鬼切役を受け、その間の護衛を清正が担う。その形は以前から何も変わらない。だから心をざわめかせる必要はないと自分に言い聞かせる。


「清正、姫様を頼む」


 自身でもよく分からない感情が溢れそうになり、しかし一飲みにする。

 そして平静を保ち、何の裏もなくそう言った。


「……ああ、分かってるよ」


 相変わらずのにやけた面を見せるかと思ったが、どこか悔いるような声音で清正は返した。

 意外に思い、その表情を覗き見るがふいと視線を逸らされる。歯を食い縛り、引き締められた横顔からは胸中を伺い知ることは出来なかった。


「武運を祈ります」


 凛とした白夜の声が響く。

 清正の態度には不可解なものを感じたが、今は問い詰めている時でもない。微かに残った疑問を頭から追い出し甚太は社を後にした。




 ◆




「おい」


 社殿から出て鳥居を潜ろうという所で後ろから肩を掛けられる。

 振り返れば清正は親の仇でも睨むような視線を向けていた。


「なんで何も言わない」

「何がだ」

「ふざけんなっ!」


 歯軋りをして、憎々しげに睨み付けてくる。

 今までも突っかかって来ることはあったが、ここまで余裕のない清正は初めてだった。


「聞いたんだろ、白夜とのこと」

「……その話か。確かに姫様から聞いた」

「じゃあなんで何も言わない。お前だって白夜のことが好きだったんだろ」


 平然とした様子が癪に障ったようだ。清正の眼光が更に鋭くなる。

 そう言えば鈴音も似たようなことを問うていた。どうにも自分達の考え方は周りには理解されにくいらしい。表情は変えずに胸の内で苦笑する。


「姫様が決められたことだ。私も納得している」

「本当にそれでいいのかよ。お前、何考えてんだ」

「無論、姫様の安寧と葛野の平穏だ」


 この男は何が言いたいのか。

 意図の読めない詰問にいい加減苛立ちが募ってきた。

 甚太もまた視線を鋭く変えて清正を見据える。


「反対しないのだからお前には好都合だろう。何か問題があるのか」


 その一言が火に油を注ぐ形となった。

 目に濁った怒りを宿らせ、清正は乱暴に胸ぐらを掴み上げる。


「俺は白夜と結婚するぞ。いいんだな」

「だから納得していると言った」

「っ!」


 まともに取り合おうとしない甚太の態度に激昂し、拳を振り上げた清正は、殴りかかることはせずに体を震わせていた。

 溢れ出る感情を無理矢理押さえつけているように見える。


「離せ」


 結局清正は殴らなかった。

 腕を無造作に払い除けても大した反応はない。されるがままに手を離し、項垂れた様子で、どこか悔しそうに声を漏らした。


「お前、頭おかしいよ……」


 想い人を奪われて平然と認める。

 成程、傍から見ればおかしくも映るだろう。自身の想いよりも下らない意地を優先するなど、どうかしているとしか言い様がない。

 だが今更生き方を曲げることも出来ない。

 彼女の決意を美しいと思ったのならば、それを汚すような真似は死んでも許されない。

 本当に、我ながら難儀なことだ。


「だろうな。私もそう思うよ」


 自嘲するような、頼りない笑み。

 呆気に取られ、清正は何も言えなくなった。

 着物を整え、社を背に今度こそ鳥居を潜る。立ち尽くす清正にかける言葉は見つからなかった。




 ◆




「にいちゃん、どっか行くの?」


 一度自宅に戻り、軽く身支度を整える。

 後ろ鉢巻襷十字に綾なして、という訳でもないが、戦いに臨むのならそれなりの準備は必要だ。


「ああ。鬼切役を承った」


 刀、鞘、装束に草履。一通り不具合がないか確認する。

 そうして最後に刀を腰に差し、表情を引き締めれば、反対に鈴音は沈んだ面持ちで甚太を見た。

 不満なのではない、そこには純粋な不安が見て取れる。


「……また?」

「直ぐに帰ってくる」

「そう言っていっつも何日も帰ってこないもん」


 言葉に詰まってしまう。

 済まなく思い、だからといって鬼切役を断れる訳ではない。頬を膨らませる鈴音には申し訳ないが、「済まん」と小さく返し玄関へと向かう。


「悪いが留守は頼んだ」

「うん……気を付けてね」


 文句を言いながらも玄関までは見送ってくれるらしい。

 やはりというか表情は暗い。困ったように苦笑しながら甚太は頬を掻いた。


「そう心配そうな顔をしないでくれ」 

「するよ。……心配くらい、させてよ」


 揺らめく瞳。縋るような色。

 思えば、何度こうやって鈴音を独りにしただろう。

 大切だと言いながら、巫女守だから鬼切役だからと、いつも留守番をさせていたような気がする。

 鬼の血を引くが故に人の輪に入ることが出来なかった妹。

 この娘はいつも寂しい思いをしていたのに、いつだって我儘など言わずちゃんと自分を送り出してくれた。寂しいだなんて、一度だって言わなかった。

 それが誰の為の強がりだったかなど、考えるまでもないことだ。


「大丈夫だ」


 だからだろう。

気が付けば片膝をつき、目線を同じにして、鈴音の頭を撫でていた。


「に、にいちゃん?」


 照れているのか、頬を赤く染めた鈴音はわたわたと体を動かす。

 自分の都合で大切なものを置き去りにする身勝手な男だ。撫でる手は罪滅ぼしにもならないだろう。

 それでも、大切な妹が少しでも安心できるよう、精一杯の強がりを見せる。


「安心しろ。ちゃんと帰ってくるから」

「……本当?」 

「ああ、にいちゃんのことを信じてくれ」


 きっぱりと言い切れば、鈴音の体が少しだけ強張った。

 流石に恥ずかしくなって手を離し立ち上がる。鈴音は体を固めたまま、何か逡巡するように俯き、顔を上げゆっくりと頬を綻ばせた。


「うん、待ってる。私は妹だから。いつだってにいちゃんの帰りを待ってるよ」


 ふわりと柔らかい、包み込むような笑みだった。

 なのに、諦観を感じさせるような。無邪気で幼げな笑みが、何故か大人びて見える。


「鈴音……?」


 その笑顔がひどく遠く感じられて、気が付けば名を呼んでいた。


「どしたの?」


 返ってきたのは不思議そうな声。呼ばれた理由も分かっていないようだ。

 気のせいだ。

 事実、あの娘はもういつも通りの笑顔を見せている。やはり思い違いなのだと自分に言い聞かせ、甚太は鈴音に背を向けた。


「いや、何でもない……では行ってくる」

「うんっ、いってらっしゃい!」


 そうして短い言葉を残し、いらずの森へ向かう。

 背中に投げ掛けられた声は無邪気な妹のもので、なのにほんの小さな違和感が消えない。

 喉の奥に小骨が刺さったような、何かを取り違えたような、名状しがたい奇妙な気分だった。




 ◆




 重なり合う木々が天幕となった森は、むせ返るほど濃い緑の匂いで満ち満ちている。

 初夏の柔らかな陽射の中、尚も閑寂たる様相を崩さない『いらずの森』は一種独特の空間だ。

 時折響く鳥の声と、それに応えるように唄う木々のざわめきが一層静けさを引き立てている。

 踏み締める土は直接日が当たらないせいか微かに湿っており少し歩き難い。

 だが足を止める程でもない。甚太は一人黙々と小路を歩き続けていた。

 時間はまだ正午に差し掛かったところ。昼のうちに勝負を決めようと鬼の下へと向かっている最中である。


 懸念はあった。

 今回は鬼が二体いる。この状況で態々鬼が自身の居場所を晒したのは、呼び寄せ二体掛かりで仕留める気か、或いは一方が足止めをしてもう一方が葛野を襲う為か。可能性としてはどちらも在り得る。

 後者ならば恐らく足止めは大型の鬼の方だろう。

 あの鬼は確かに強大だろうが、一対一ならば易々と遅れは取らない。

 そして鬼女は然程強くはなさそうだった。あれならば数で攻めれば集落の衛兵でも何とかなる。

 前者ならばちとまずくはある。易々と負けるつもりもないが、確実に勝てるとも言い難い。


「さて、どうなることか」


 正直考えた所で分からないし、どの道自分に出来ることは目の前の鬼を斬るのみ。

 下手の考え休むに似たりとも言う。余計な事に気を回すくらいならば意識を戦いに集中した方がいいだろう。

 そう思い、神経を研ぎ澄ませながら深い森を歩く。

 その先、岩肌があらわになった場所に辿り着く。

 件の洞穴であった。

 慎重に奥まで歩みを進め、踏み入った場所は洞穴内の大きな空洞。

 光源は鬼が用意したであろう数本の松明しかない、薄暗い広間だった。

 鼻を突いた臭いは松明に使った硫黄だろうか、それとも鬼が殺した人の残り香か。焦げたような、卵の腐ったような奇妙な匂いが漂っている。

 そして空洞の中心には、


『来たか、人よ』


 一匹の鬼がいた。


「……お前だけか」

『あやつは葛野の地へ行った』


 そうか、と小さく呟き左手は腰のものに。

 鯉口を切り、一挙手一投足も見逃さぬと鬼を睨め付ける。

 問いながらも意識は目前の戦いのみ注がれる。

 他事に気を取られたまま渡り合える相手ではなかった。


『いやに冷静だな?』

「予測はしていた。だが葛野の民をあまり舐めるな。あの程度の鬼に後れをとるほど軟ではない」


 ゆっくりと刀を抜き脇構えを取る。

 それに呼応して鬼も両の拳を握り、右腕を突きだし半身になった。


『ふむ、それは困るな。ならばすぐ加勢に行くとしよう』

「舐めるな、と言っている。この命、貴様如きにくれてやる程安くはないぞ」


 余計な言葉はいらない。

 両者は示し合わせたように飛び出し、それが殺し合いの合図となった。




 ◆



 低く落とした腰は大地に根を張ったように安定している。

 地を踏み締め足から膝を通り腰へ、捻じった体を戻す反動を加え腰から肩へ、全身の連動によって生み出された力が肩から腕へ。

 あくまで小さく、しかし鋭く放たれた袈裟懸けの斬撃へと変わる。

 葛野の太刀と実践で鍛え上げた剣技は容易に鬼の皮膚を切り裂き、だが敵も然る者、怯むことなく反撃を繰り出す。

 空気を裂くでは生温い、空気をえぐり取るような音をたてて拳が突き出される。この体勢では後ろに下がることは出来ない。

 故に振り降ろされた刀はそのままに、右足で地を蹴り間合を零にする。拳が頬の横を通る。それだけで、触れてもいないというのに頬が裂けた。

 だが止まらない、そして体を鬼の鳩尾辺りに捻じ込む。

 突き出された左肩を中心に体ごとぶつかる、全霊の当て身である。


『ぐぅ……!』


 苦悶に声が漏れ、僅かに数歩ではあるが鬼は後退する。

 一瞬の好機。

 鉄の如き鬼の体躯に加減なしでぶつかりに行ったのだ、弱い人の体が衝撃に軋んでいる。

 だとしても、この機を逃す訳にはいかない。

 半身の状態から刀が半円を描くように大きく振り上げられる。

 右足を一歩踏み込み、上段に構えられた刀を裂帛の気合いと共に放つ。それはちょうど鍛冶師が振り下ろす槌のようだった。


 肉に食い込み、骨を断つ感触。


 狙ったのは放り出された左腕、確かな手ごたえを持って鬼の腕を切り落とす。

 ごろんと無造作に転がる腕を確認し、返す刀で首を狙うがそこまでは許してもらえなかった。

 残った右腕を頭部に向けて振り落とす。だが腕を失ったせいか、その動きはぎこちない。

 甚太は刀を途中で止め後ろに大きく距離を取る。

 そして血払い、最後に小さく一呼吸ついた。

 既に十合を超える交錯を経て、甚太は裂けた頬以外は無傷であった。

 対して鬼には幾つかの刀傷が見える。致命傷には程遠いが左腕も斬り落とした。

 取りあえずはうまくいっている、というところだ。


『こちらの攻めが一度も当たらぬとは。本当に人間離れした男だ』

「鬼の言うことか」


 悠然と甚太は構える。

 だが勘違いしてはいけない。この戦い、優勢なのはあくまで鬼だった。

 攻撃が一度も当たらぬ、とは言うがそもそも一撃でも当たれば甚太はそこで終わる。

 鬼の膂力で放たれた拳だ。直撃すれば即死、急所を外しても二度と立ち上がることは叶わない。

 無傷の勝利か無残な死か。そのどちらかしか甚太の結末は在り得ないのである。

 対してこの鬼の体躯は頑強。多少の傷では命を刈るには足らない。首か心臓か、頭を潰すか、急所を捉えねば討ち果たすことは不可能だ。

 それが分かっているからこそ、強引なまでに鬼は攻め立てる。

 傍目には有利と見えるが、その実神経をすり減らす綱渡りの如き戦いであった。


「……っ!」


 漏れる呼気。

 合図もなく、再度拳と刀が交錯する。

 袈裟掛け、振り抜く。逆手、一閃、狙うは首。

 鬼は避けきれない。が、その頑強さをもって猛然と攻める。

 放たれた一撃。躱しながら甚太は地を這うように駆ける。鬼の腕を掻い潜り逆風、下から上へと斬り上げる。

 それに合わせ、鬼もまた地面へと叩き付けるように拳を振るう。

 逃げはしない。寧ろ更に一歩を進み、鬼の懐に入り込む。拳は空振り。刀は胸元を切り裂くが、致命傷には程遠い。

 踏み込んだ右足を引き、体を捌く。

 左足を軸に体を回し鬼の腹を蹴り付け、その反動で一気に間合いを離す。

 渾身の蹴りでも鬼は怯むことさえない。

 甚太は軽く舌打ちをした。傷は与えられるがやはり決め手に欠ける。あの鬼を討つには、多少の傷を覚悟で踏み込まねばならないだろう。


『人は、やはり面白い』


 敵は尋常の勝負の最中にあって、見合わぬほどの穏やかさ。

 此方の思惑なぞ知らぬとばかりに鬼は感嘆の息を吐いた。


『鬼の寿命は千年を優に超える。俺もそれなりに長い時を生き、酒を呑み賭けにも興じてきたが、人を超える娯楽には終ぞ逢ったことがない』


 人を脆弱な者と見下し、命を餌程度にしか考えないあやかしならば以前やり合ったことがある。

 しかしこの鬼の言葉はそういった、人を軽んじたものではない。

 娯楽という表現を使ってはいるが、鬼の口調は決して馬鹿にしたようなものではなく、寧ろ真摯さを含んでいた。


『例えば武術。鬼に劣る体躯でありながら、鬼をも凌駕する技を練る。鬼より遥かに短い命、しかし人は受け継ぐことで鬼より長くを生きる。人は当然の如く摂理に逆らう。これを面白いと言わずしてなんと言う」


 それは憧憬だったのだろう。鬼は薄らと目を細めた。

 甚太の剣は元治に学び、度重なる実戦で磨いたもの。

 元治もおそらくは誰かに師事し剣を磨いたのだろう。彼の師もまた、先人に教えを乞うた筈だ。

 ただ一つに専心し、生涯をかけ磨き、朽ち果てる前に誰かに授け、人は連綿と過去を未来に繋げていく。

 武術に限った話ではない。一個の寿命には限りがある。

 しかし得たものを次代に遺し、途方もない時間を費やして、人は多くを為してきた。

 千年を超える寿命を持ち、初めから人よりも強く生まれる鬼にとっては、瞬きの間に終わる命で何かを為そうと足掻く人の営みは眩しく映るのかもしれない。


『人はまこと面白い。だからこそ聞きたいことがある』


 細められていた視線は、試すような、値踏みするような色に変わっていた。


『人よ、何故刀を振るう』


 その問いに動きが止まった。

 巫女守である甚太にとって鬼は集落に、人に仇なす外敵でしかない。こちらの意を知ろうとする鬼なぞ初めてだった。


『摂理に逆らい得た力で、お前は何を斬る』

「他が為に。守るべきものの為に振るうのみ」 


 考えるまでもなかった。間を置かずに甚太は答える。

 白夜だけではない。鈴音や葛野の民。自身が大切に想うものの為、ただ刀を振るう。

 元よりそういう生き方しかできぬ男、単純ではあるが本心だった。


『余分を背負いその重さに潰れ往く。成程、実に人らしい答えだ』


 豪快に鬼は笑う。やはりそこには侮蔑も嘲笑もなく、心底面白いといった様子だ。

 この鬼は決して人を見下さないし、何より理性的だった。

 だからだろう、甚太も鬼が何を考えているのか知りたくなった。


「ならば私も問おう。鬼よ、何故人に仇なす」

『さて、人ならぬ身では言葉で表す答えなぞ持ち合わせてはおらぬ。おらぬが……敢えて言うならば鬼故にだろう』

「鬼は人を殺すが性だと?」

『否。己が為に在り続けることこそ鬼の性よ。ただ感情のままに生き、成すべきを成すと決めたならば……その為に死ぬ。それが鬼だ』


 声音は何処か頼りない。

 先程までの力強さはなかった。自嘲めいた響き、皮肉気に吊り上がる口の端。

 無力に嘆くような表情は、屈強な鬼にはそぐわぬものだった。


『俺はこの地で成すべきを成すと決めた。故にその為に動き、故にそこから一歩も動けぬ。鬼は鬼である己から逃れられぬ。そういう生き方しかできんのだ』


 人を殺すのが鬼ではなく、結果人を殺すことになろうとも目的を果たすまで止まれないのが鬼だという。

 もしその言が事実ならば、己と鬼に何の違いがあろう。 

 一瞬の逡巡。戸惑いが胸を過り、それでも構えを解くことはない。


「止められないのか」

『出来れば鬼とは呼ばれぬ』


 ああ、そうなのだろう。

 この鬼が……この男が、自らの歩みを易々と曲げるとは思えない。

 自身もまたそういう男だから分かる。

 生き方なぞ、そうそう変えられるものではない。

 結局、選べる道は一つしかないのだ。


「……そうか。ならば遠慮はせん」

『必要ない』


 短い言葉。重く冷たく、洞穴内の空気が揺らぐ。

 この交錯で終わる。訳もなく理解した。


『往くぞ』


 瞬間、鬼の残された右腕、その筋肉が隆起する。

 残った力を全て集めているのか。ぼこぼこと沸騰する液体のような音を立てながら躍動する腕は次第に膨張していく。

 その急激な変化は右腕が一回りほど巨大になったところで止まる。

 鬼は右腕だけが異常に発達した、左右非対称の異形となっていた。


「面白い大道芸だ」


 肌に感じる圧力は、今まで対峙してきた鬼の遥か上をいく。

 内心の焦りを悟られぬよう、甚太は敢えて挑発めいた言葉を放つ。


『言いおるわ。成程、確かに大道芸よ』


 彼の物言いが気に入ったのか、鬼は心底おかしそうに笑った。

 そして勝ち誇るように口の端を釣り上げ、肥大化した右腕を見せつけた。


『我ら鬼は通常百年を経ると固有の<力>に目覚める。中には生まれた時から<力>を持っている者もいるし、十年やそこらで目覚めることもあるがな。ともかく、高位の鬼は一様にして特殊な能力を持ち合わせているものだ』

「それがお前の<力>という訳か」

『正確には違う。俺の<力>は<同化>。他の生物を己が内に取り込む、戦いには然程役に立たん。……が、これには別の使い方があってな。同じ鬼と<同化>すればその<力>を喰える』


 もう一つ別の使い方もあるが、それは今語ることでもあるまい。

 最後に鬼はそう付け加え、無造作に腕を振るった。唸りを上げる空気、何気ない動きからもあれが尋常ではないと知れる。

 つぅ、と冷や汗が頬を伝った。

 成程、高位の鬼と称するだけのことはある。勝つにしろ負けるにしろ、無事では済まないだろう。


「つまり、それは」

『本来は別の鬼の<力>……<剛力>という。短時間だが骨格すらも変える程に膂力を増すことが出来る。単純だが効果的だ。もっとも、俺が喰った<力>はこれだけだが」


 今までにない難敵。それだけの脅威と認めたからこそ、違和感があった。

 この鬼は初めから饒舌ではあったが、自身の戦力を語ることに意味があるとは思えない。

 騙そうとしているのか、否、鬼は嘘を吐かないとこいつは言った。何より虚言を弄するような痴れ者には見えない。


「よく回る舌だ。何故態々手札を晒す?」

『言っただろう。成すべきを成すために死ぬのが鬼だと。これも必要なこと……いや、餞別と言ったところか』


 説明するのが必要? 餞別?

 冥途の土産という意味なのだろうか。答えは返ってきたが理解は出来ない。

 甚太は思わず眉を顰める。鬼は疑問に目核な答えは返さず、ただ薄く笑った。


『なに、気にすることはない。詮無きことだ』

「……確かに。どうせやることは変わらんか」


 ───どのような理由があったとしても、後に待つのは殺し合い。


 成すべきことは何も変わらぬ。

 互いの視線がそう語っている。ならば余計な考えは必要ない。今はただ眼前の敵、その絶殺に専心する。

 思索に耽り濁っていた意識が透明になっていく。

 透き通る水の如き純粋な殺気。刃を構える。息使いにまで神経が通う。




 一つ、息を吐く──半歩前に出る。


 二つ、息を吸う──全身に力が籠る。


 三つ、息を止める──それが合図になった。




 爆発したかと思う程の轟音を響かせ、突進する鬼。

 突き出されるのは相変わらず技術の無い一撃だ。

 無造作で、幼稚な、ただの拳。

 だというのそれは唸るほどに力強く、なにより速かった。

 今まで全ての攻撃を避け切っていた甚太をして、回避が間に合わぬほどに。

 あれは、止められない。

 瞬時に悟る。どうすればいい。後ろに退く? 否、意味がない。体を捌く? 否、避けられない。刀で防ぐ? 否、受け切れない。

 鬼の放った一撃から逃れられる未来が全く想像できなかった。

 どうすればいい。

 知れたこと。

 元より己に成せるはただ斬ることのみ。

 ならば出来ることなぞ前に進む以外に在りはしない。

 刹那の間に覚悟を決め、甚太は踏み込んだ。腰を落し、突きだされる拳撃を横から払う為に左腕を振るう。


「い、があああああああ!」


 一瞬、僅かに一瞬だった。

 防御など出来る訳もなく、左腕はへし折れ、千切れ、宙に舞う。遅れて傷口から鮮血が舞う。走る激痛。苦悶に歪む表情。

 しかし甚太は平静だった。この程度の傷は端から折り込み済み。痛みに構っている暇などない。

 重要なのは鬼の拳撃を僅かにだが逸らせたこと。そしてまだ生きているということ。

 尚も鬼は止まらない。放たれた拳は拳を逸らしたとはいえ止めるには至らなかった。

 拳を逸らし、僅かに隙間ができた。

 その空白に潜り込む。拳がすぐ近くを通り、掠めた左肩が裂けた。

 傷は深い、だが問題はない。左腕一本を犠牲にして、どうにか命を繋いだ。

 次は此方の番だ。

 刀を掲げ、片手上段。

 全身の筋肉を躍動させ、一気に振り下す。

 鬼は必死の形相で体を後ろに反らし、肥大化した右腕を体に引き付け守りに入る。

 斬るのが速いか防御が先か。考えている時間もない。

 今此処で全霊をもって斬り伏せる。


 刀身が、砕けた。


 放った剣戟は間違いなく全力にして最速。鬼はそれを上回った。

 渾身の一刀が鬼の体躯を裂くよりも速く、異形の腕が割り込み防いだ。

 長年連れ添った愛刀は鬼の腕を断ちきることが出来ず砕け、無惨に金属片が飛び散る。

 もはやこの手には鬼の命を奪う武器も次の一撃を防ぐ手段もない。

 鬼がにたりと嗤う。

 それでも尚、甚太の目は死んでいなかった。

 砕け散った刀身、折れた刃先がまだ中空に浮いている。

 咄嗟に柄を捨て手を伸ばし、地に落ちるよりも早くものうち、つまり刀の先端部分を掴む。

 ものうちを小刀のように見立て握り締める。痛み。強く握りしめれば刃が食い込み掌から血が流れる。

 代わりに、この手にはもう一度攻撃の手立てが与えられた。

 鬼は全力を持って拳を繰り出し、無防備を晒している。


 もうここ以外に好機はない。


 限界まで体を捻り、一歩を進むと同時に右腕を突き出す。

 鬼の目は確かにそれを捉えていた。だが動けない。力を使い切り硬直している。

 手に力が籠り、更に鋭い痛みが増した。握りの弱さを補助するために痛みは無視して肉を骨を刃に食い込ませる。

 狙うは一点鬼の心臓、この一撃を持って終わらせる。


『あ…がぁ……っ!』


 ずぶりと気色の悪い音が骨に伝わった。刀身が鬼の左胸に突き刺さり、鮮血が甚太の全身にかかる。

 その巨躯は力を失くし、崩れ落ちるように天を仰ぎ地に倒れ込んだ。

 此処に、勝敗は決したのである。 




 倒れこんだ鬼の体から白い蒸気が立ち昇る。それは鬼の命が尽きようとしている証拠だ。

 鬼は息絶える時、肉片一つ残さず消え去る。もはやあの鬼が助かることはないだろう。


「ぐぅ……」


 こちらの傷も酷い。

 左腕からは今も血が流れている。

 腕を抑え少しでも止血しようとするが然程の意味も為さない。このままでは失血死に至る。何か手立てを考えなくては。


『随分と血に塗れたな』


 仰向けに寝転がる巨体は僅かながらに体を起こし、甚太に視線を向けていた。

 今もその体からは蒸気が上がっている。空気が肺から洩れるような、かすれた声。死が目前まで近付いているのだ。だというのに鬼は呼吸こそ荒いが平然とした様子だった。


「お前よりはましだろうよ」


 肩で息をしながらも鼻で嗤う。

 無論ただの強がりに過ぎない。あまりの痛みに目の前が点滅している。気を抜けば途端に意識を失ってしまいそうだ。


『はっ、確かにな』

「……死に往く身で、良く喋る」 

『なに、俺は成すべきを成した。なれば死など瑣末なことだ』


 満ち足りた、安らかな末期だった。

 鬼は悔いなど一つもないと、静かながらも曇りのない面持ちで終わりを待っている。

 志半ばで逝く男の顔ではない。怪訝そうに眉を顰めた甚太を見て、鬼は皮肉気でありながらも、どこか落ち着いた笑みを零した。


『俺と共にいた鬼、あやつの<力>は<遠見>と言ってな、遠い景色を覗き見ることが出来るのだ』


 何のつもりかは分からないが、甚太は黙って鬼の遺言に耳を傾ける。

 死に逝く身であるし、なによりこいつが虚言を弄するとは思えない。今の今殺し合った相手だが、この鬼の言葉には、信頼に足るだけの重さを感じていた。


『<遠見>は遠く離れた景色だけでなく、例え今は形もない未来の情景でも見ることができる。あやつが今回見たのは二つの景色だ。一つは遠い未来の葛野の地に、鬼を統べる王が、鬼神が降臨する姿』


 鬼神。

 途方もない話だ。荒唐無稽ではあるが、戯言と切って捨てるには、鬼はあまりに穏やかだった。

 そして、もしも真実だというのならば看過できない。

 高位とはいえ、一匹の鬼にこの様だ。それら総べる鬼神をどうにか出来るなど、毛程にも思えなかった。


『もう一つ、百年以上未来において鬼神と呼ばれる者が現在この地に住んでいること。それを我等は<遠見>の<力>によって知った。だから我等は此処に来たのだ』


 未来で鬼の王となる存在。

 この地に住む鬼。未来がどうなるかなど神ならぬ人の身では知る由もない。

 だが葛野に住む鬼ならば心当たりがあった。

 そう言えば、女の鬼は言っていた。



 ───さあ? でもあの男の子は……確か、鈴音ちゃんだっけ?

   私達の同朋と長く一緒にいたみたいだし、案外私達に近付いているのかもね。



 今更ながら違和に気付く。何故鬼はあの場にいない鈴音のことを知っていた?


「それは」


 甚太は思っていた。鬼達は白夜、或いは宝刀である夜来を狙ってこの葛野へ訪れるのだと。だが違っていたかもしれない。

 鬼達の、本当の目的は───


『人よ、餞別だ。持って往け』


 妙に重苦しい声が響く。

 瞬間、目の端で何かが動いた。咄嗟に反応し、体を捌き。


「がぁっ……!」


 一手、遅かった。

 それは斬り落とした筈の鬼の左腕だった。転がっていた筈の左腕が飛来し、まるで生きているかのように甚太の首を掴む。

 ぎしぎしと嫌な音が鳴る。

 咄嗟に掴めた鬼の手首に力を込め引き離そうとするが、人の膂力で成せるわけがない。

 迂闊だった。

 たとえ心臓を貫いたとは言え、完全に死に絶えるまで気を抜くべきではなかった。

 油断の代償がこれだ。尋常ではない力で首を絞められ、血は今も流れ続け、生命の危機に瀕している。 

 空気が入って来ない。血液が失われていく。目の前が砂嵐のように霞み、額のあたりで火花が散っている。

 喉が熱い。締め付けられた部分が溶かされているようだった。


『お前は、守るべきものの為に刀を振るうと言った』


 誰かが、何かを言っている。


『ならば今一度問おう』


『お前が守るべきと誓ったもの』


『それに守るだけの価値がなくなった時』


『お前は何に刀を向ける?』


 よく理解できない。

 意識が、もう、保てない。




『人よ、何故刀を振るう』




 最後に、なぜかその言葉だけが強く残り。


 白雪……鈴音……


 目の前が、どろりと鉄のように溶けた。




 ◆ 




 葛野では鬼の襲撃に備え厳戒態勢が敷かれていた。

 もしも鬼が襲ってきたとしてもいつきひめには手出しさせぬ。男達は社の前に集まり、それぞれが武器を取り警備にあたっていた。

 女子供は安全のため家に籠っている。鈴音もまた、普段からあまり外出はしないが、家で大人しく兄の帰りを待っていた。


「にいちゃん……」


 沈んだ声。

 大切な兄は今、白夜のために命をかけて戦っている。

 それが辛い。

 正直な事を言えば、鈴音にとって甚太以外の人間はどうでもいい存在だった。

 幼馴染と呼べる白夜の生き死にでさえ興味がない。

 鈴音が「ひめさま」と言って白夜を慕うのは、単に兄が彼女のことを大切に想っているから。

 兄と白夜が共にいることを願うのは、兄自身がそれを幸福と感じているからである。

 そうでなければ、甚太に近付く女など好意的に見られる訳がない。

 それほどまでに鈴音は甚太を慕っていた。家族として親愛の情を抱き、或いは恋慕に近い想いさえ抱いていたかのもしれない。

 遠い雨の夜、父に捨てられ、けれど彼だけが手を差し伸べてくれた。

 彼の手に、救われた。

 その時から鈴音にとっては甚太が全てだった。 

 だからこそ兄が鬼切役を受けるのは好きではない。長い間離れないといけないのは勿論嫌で、彼のことが心配なのも本当だ。

 それ以上に、あの人が他の誰かの為に命懸けで戦っていることこそが、鈴音には辛かった。


「やっぱりひめさまと結婚するのかなぁ」


 ぽつりと呟いた言葉。声は思った以上に沈んでいた。

 鈴音はまだ清正と白夜の婚約を知らない。彼女が浮かべる想像は、未だに甚太と白夜が結ばれるという結末だ。

 胸が軋む。あの人が、誰かと契りを交わし笑う姿など本当は見たくない。

 叶うならばずっとずっと一緒にいたい。

 胸にある想いが妹としてのものか女としてのものかは、鈴音自身にも分からなかった。


 ただ時折、ほんの少しだけ考える。

 もしも自分が彼の妹でなかったら、夫婦として結ばれる未来もあっただろうか。


 そんな未来を夢想し、しかしすぐさま首を振って頭から追い出す。

 何を馬鹿な。彼は妹だからこそ傍にいてくれたのだ。妹でなかったのならきっと手を差し伸べてはくれなかった。

 それなら、これでいい。  

 男女として結ばれることはなくとも、妹として一緒にいられるならば、十分に幸福だ。


 或いは、未だ鈴音が幼いままなのは、だからこそなのかもしれない。

 成長すれば何れ彼の妹ではいられなくなる。

 血縁が消えることはない。それでも大きくなった女は嫁に行き、自分の家庭を持つことになる。

 しかし成長し大人になり、誰かの嫁になる自分など想像したくもない。とはいえ後家となって兄に迷惑をかけることも出来ない。

 故に鈴音は幼子のままだった。

 自身の感情に破綻を起こさず彼の妹で在り続けるために、鈴音は無意識の内に成長を止めた。

 彼女の中にある鬼の血がそうさせたのだろう。自然の摂理に逆らう程に、鈴音の想いは強かったのだ。 


「やだな」


 いくら自分が幼子のまま在り続けようと、何れ彼は白夜と結ばれる。

 だからと言って甚太が自分を捨てる訳ではない。彼はどんなになっても自分の味方でいてくれると確信がある。

 それでも、きっと今のままではいられない。

 その未来が堪らなく苦しく、同時に仕方ないとも思う。


 ほんとうはずっといっしょにいたいけど。にいちゃんが笑ってくれるなら、それでいいや。


 声にはせず心の中で呟く。

 繰り返すが、鈴音にとって甚太以外の人間はどうでもいい存在だった。

 遠い雨の夜、一人泣くことも出来ず佇んでいた。

 父に棄てられ、帰る場所を失くした。

 そんな自分に兄は手を差し伸べてくれた。

 あの人の手が、私を救ってくれた。

 だから甚太が幸せならば、「ずっといっしょにいたい」という自身の願いさえ、どうでもよかったのだ。

 鬱屈とした感情を持て余し、することもなく畳の上を転がる。しばらくそうして時間を過ごしていると、がらり、玄関の方で引き戸が開いた。


「にいちゃん!?」


 すぐさま満面の笑顔になり、やっと帰ってきた兄を迎えようと大慌てで玄関に向かう。

 そうして鈴音が見た先には、当たり前のように、




『はじめまして、お嬢ちゃん?』




 一匹の鬼がいた。




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