余談『林檎飴天女抄』・5
・八月十一日。
「ありがとうございましたー」
騒がしい店内に元気な少女の声が響く。
朝顔が『鬼そば』に寝泊まりしてから三日経った。
その間何もしないのは申し訳ないと、朝顔は店員の真似事や皿洗いなどをして手伝ってくれている。
日も傾き、最後の客を送り出したところで今日は店仕舞い。暖簾を片付け、ようやく晩の食事となった。
「兼臣さん全然帰ってこないね」
夕食はかき揚げに味噌田楽、きゅうりとわかめの酢和え。葱と油揚げの味噌汁。
若干店の残り物が混じっていが、それなりに豊かな食卓である。
箸を伸ばすのは親娘に居候の天女。もう一人の居候の姿はなかった。
「放っておいてやれ。あいつにも理由があるのだろう」
「うーん、でも」
「あれで中々の使い手だ。滅多なことはないさ」
「じゃあ、大丈夫、かな?」
父の言葉に少しは安心できたようだ。女の身でこうも帰りが遅いのは、と気に掛けていた野茉莉もほっとして微笑んだ。
ここ数日兼臣はよく出かけており、一緒に食卓を囲むことは少なくなった。
しかし甚夜はあまり心配しておらず殆ど放置している。
本人は「殿方と逢瀬に」などと言っていたが、そんな艶っぽい理由でないことくらいは分かる。
だとしても問い詰める必要もない。実際彼女の剣の腕はかなりのもの、手を引いてやらねばならぬような子供でもなし。助力を乞われれば手は貸すが、それまでは静観するつもりでいた。
「美味しいねー、これ」
「うん、おいしーね」
憂いが晴れた野茉莉は朝顔と一緒に笑顔で食事をしている。
初日の顔合わせでは固い雰囲気だったが、二人とも随分打ち解けた。
美味しそうにかき揚げを頬張る朝顔は、年齢では若干上だろうが野茉莉と同い年くらいに見える。楽しそうに触れ合う姿は、姉妹のようで実に微笑ましかった。
「葛野くん、ほんとに料理できたんだ?」
「当然だ。野茉莉に下手なものを食わせる訳にはいかん。まあ、かき揚げは店の残りだが」
「なんか完全にパパさんだ……」
「ぱぱ……?」
いちいち問うのも面倒なので流しているが、相変わらず朝顔は時折意味の分からないことを言う。
“うえいとれす”に“ちょこばなな”。“ふらんく”、それに“ぱぱ”。
どう考えても日本では使われていない響きだ。やはり彼女は此処とは違う文化圏で過ごしたのだろう。
「どうかした?」
どうやら意識せず見入っていたらしい。朝顔はこてんと小首を傾げる。
目を奪われたのは艶っぽい理由ではない。
彼女は本当に楽しそうだ。しかしその笑顔にどうしようもなく違和を感じる。
「いや……」
故郷を離れ異邦の地へ訪れ、帰る術を失った。
だからこそ彼女の態度に疑問が浮かぶ。
天から地へと降り立った天女。
空へ帰る羽衣を見つけながら、しかし朝顔は決して昨日のことには触れようとしなかった。
◆
成績はあんまりよくなくて、運動も得意じゃない。
特別可愛いわけでも、胸がおっきかったりもしない。
江戸時代から続く神社の巫女さんでも、何代目なになにとか名乗る特別な家柄でもないし、不思議な力なんかも持っていない。
つまり私はふつーの、どこにでもいる一般人。何処にでもいる高校生で。
毎日楽しいけれど、そういう自分を駄目だなって、そんなことを考える時だってあった。
「朝顔?」
葛野くんが不思議そうに声をかける。
お蕎麦を運ぶ途中で立ち止まったから心配してるんだろう。おしごと中なのにちょっと考え事をしてしまった。
いけないいけない。ごめんね、と謝ってお手伝いを続ける。
「ああ」
短くそう答えて葛野くんはまた調理の方に戻った。
明治時代にタイムスリップしたけれど、彼に会えて本当によかった。こうやって泊めてくれてご飯とかも作ってくれて。いつもお世話になりっ放しだ。
それに“朝顔”の意味も分かって嬉しい。
ただ私の知ってる葛野くんではないんだな、とも思う。
こういう言い方は何だけど、あんまり優しくない。私の知ってる彼はお爺ちゃんみたいな人だから、ちょっとだけ変な感じがする。
ああ、でも。なんだかんだで助けてくれるのだから、根っこのところは変わってないのかも。
「いらっしゃいませ……なんだ、染吾郎か」
「なんだってご挨拶やなぁ。きつね蕎麦な」
「少し待ってろ。今準備する」
秋津さんはお昼によくここへ来る。
お蕎麦を食べに来てるのか葛野くんに会いに来てるのか、どっちだろう。ううん、多分どっちもだ。
やっぱり彼と“秋津染吾郎”は仲がいい。それがちょっと面白いような不思議なような、もにょもにょした気持ちになる。
「お? 朝顔ちゃん、なんか楽しそやなぁ」
自分でも気付かないうちに笑っていたみたい。
秋津さんもにこにこしている。平吉くんの方は怖いけど、このお爺さんは色々と気に掛けてくれる優しい人だ。
「甚夜になんやされたら僕に言うてな? 力になるよって」
「……そういうのはやめろ。頼むから」
秋津さん相手だと葛野くんはいつもより気を抜いている。
本人は否定してたけど、親友っていうのはやっぱり間違っていないと思う。
「いやいや変な意味やのうて。君みたいな強面やと女の子は怖いんちゃうかな思てな。純粋に心配してのことや」
「む。確かに……」
なんだか葛野くんは真剣に悩んでる。別に怖くなんてないのに。
その後も二人は仲良く軽口を叩き合う。聞いているだけで楽しくて、私は堪えきれずまた笑った。
……本当に、ここでの暮らしは楽しい。
それ以上に楽だった。
だからたぶん私は。
帰るのが、少しだけ怖くなったのだ。
◆
京の夏は暑い。
四方を山に囲まれた盆地である為空気が流れ辛く、夜になっても日中の蒸し暑さは残っている。
もっとも盆地特有の寒暖の激しさが四季の美しさをくっきりと映し出すのだから、決して悪いことばかりでもない。
夜は深まり、野茉莉を寝かしつけた甚夜は店舗へと戻り酒を呑む。
玄関の隙間から見える夏の京と、揺れる行燈の灯りだけが肴。いい風情だ。喉を流れる熱さはそれなりに心地よかった。
「……葛野くん?」
一人静かに杯を傾けていると、かたり、小さく音が鳴った。
ついと視線を動かせば、遠慮がちに顔を覗かせる少女。甚夜の用意した寝間着代わりの浴衣のまま、朝顔がこちらの様子を伺っている。
「起こしたか」
「ううん、ちょっと眠れなくて」
はにかんだような笑みを少し寂しげだと思ったのは、夜の暗がりのせいばかりではないだろう。
天女は、楽しそうに笑う朝顔は此処にはいない。まるで迷子のような、頼りない少女がいるだけだった。
「お前も呑むか?」
「ううん、お酒、呑めないから」
「なら茶を淹れよう。座っていろ」
既に竈は落してしまったが、一度朝顔とはしっかりと話をしてみたかった。それを考えればもう一度火を起こすことも然程手間ではない。
雑な促しでも素直に従い、用意する間も嫌な顔一つせず待ってくれている。
六尺近い強面の偉丈夫相手だというのに、この子供は初対面の時から僅かも怯まず、寧ろ親しげでさえあった。
真実天女かどうかは置いておいて、不思議な少女ではあると思う。
「ごめんね」
「いや、考えてみればゆっくり話していなかった。これもいい機会だ」
夏の夜、茶と酒を供にささやかな語らい。
向かい合わせに座った朝顔は微かな笑みを漏らす。普段快活さは鳴りを潜め、帯びる色はどこか気怠げだ。
「本当、葛野くんにはお世話になりっぱなしだね」
「気にするな。ここでの生活は慣れたか?」
「うん。最初は戸惑ったけど、慣れると楽しいよ?」
「そいつはよかった」
時間はゆっくりと流れる。
ぽつりぽつりと言葉を交わし、杯を傾け。朝顔もまた手の中で湯呑を遊ばせ、時折口を付けては、どちらからともなくまた一言二言。微かに目が合えば照れたように口元を緩めた。
そこに不安はない。見知らぬ土地に戸惑いこそすれ、彼女の態度に不安や警戒の類は見えず、いつだって楽しそうにしていた。
唯一、怯えを見せたのは、帰る手段が見つかった時だけだった。
「……ね、聞きたかったんだ」
「ん?」
「前から思ってたんだけど。なんで、私のこと泊めてくれたの? あの時も……普通はいくら困ってるからって、見ず知らずの人を泊めたりなんかしないよ?」
朝顔の言う“あの時”がいつを指しているのかは分からない。
けれど重箱の隅をつつくような真似は野暮。静かな夜が壊れてしまわないよう、彼女が見せた弱さにそっと触れる。
「昔、な。当てもなく家を出た私を拾ってくれた人がいた」
答えと呼べる程大層なものは返せない。強いて言うなら遠い過去を思い出したた、くらいか。
鈴音と共に江戸を離れた雨の夜。
冷たい雨に打たれて、前に進めなくて、でも帰る場所なんて何処にもなくて。
このまま死んでいくんだろうな、なんて思った。
だけど手を差し伸べてくれた人がいた。
「多分それをずっと覚えていた。だから、柄にもないことをする気になったのかもしれん」
彼女はよく分からないといった顔をしている。甚夜の背景を知らないのだから理解できなくて当然だ。
しかしこれ以上話そうとも思えなかった。どうせただの感傷だし、言葉を重ねれば重ねる程に嘘くさくなるような気がした。
「私も聞かせてほしいことがある」
「うん? なに?」
おざなりな返答にも気を悪くすることはない。
お茶を一口啜り、朝顔はやはり微かな笑みで応じる。
「元いた所は、つまらないか?」
けれど、突き付けられた問いに、天女は凍り付いたように息を止めた。
「……なんで?」
たっぷり十秒は沈黙した後、どうにか声を絞り出す。
表情はぎこちなく、指先は震える。それを指摘すれば彼女は傷つく。
だから甚夜は静かに酒を呑みながら、どうでもいいことのように続けた。
「今のお前を見ていると、なんとなく、な。納得できなければ年の功とでもしておけ」
無造作な物言いに力なく項垂れた朝顔は、そのまま机に突っ伏す。
顔を上げようともしないが、声をかけるのは躊躇われた。それくらい彼女は疲れて見えた。
「別に、つまらない訳じゃないんだー。友達もいるし……でもね、時々なんか疲れる」
年齢は野茉莉より少し上。甚夜にとって朝顔は天女とはいえただの子供でしかなかった。
けれど纏う憂いにそうではないのだと気付かされる。
「学校に行って、勉強して、友達と一緒に帰って。帰りにはいろんなところに遊びに行くの……毎日すっごく楽しいよ」
見上げれば晴れ渡る空。
映し出した在りし日の幸福に嘘はない。
なのに羽衣を天女は帰りたいとは言わなかった。
羽衣を奪われ、地に縛られ。それでも朝顔はいつも楽しそうに笑っていた。
「でも時々ね、同じくらい、すごく息苦しくなるの。みや……友達の女の子は神社の巫女さんで、私と同い年なのにすっごく大人なんだ。見た目が、じゃなくてね。やりたいことをもう見つけて、勉強だって私よりもできて」
強がり? 心配をかけまいと? 単に図太かった?
多分どれも違う。きっと彼女は本当に地上での暮らしを楽しんでいた。
……僅かに一瞬、天にいた自分を忘れられるほど、楽しかったのだ。
「クラスで隣に座ってる男の子もね。すっごいの。強くって、優しくって。自分が痛い思いをしても目的の為に頑張ってる。そういうのを見てると、毎日楽しいだけの私は、なにやってるんだろって思っちゃうんだー……」
朝顔が、天女が地に堕ちた原因をいくつか考えていた。
鬼の<力>、狐の鏡。しかしその想像が今では空虚に思える。
本当は、ただ逃げ出したかったのかもしれない。
当たり前に過ぎる毎日が息苦しくて、少しだけゆっくりと呼吸がしたかった。
幸か不幸か、それは叶えられた。
天女はそうして地に堕ち、空を忘れようとした。
「楽しいのはいけないことか?」
「ううん、そんなことないよ。でも、苦しんで頑張ってる人の方がすごいと思うから」
だから帰り道が見つかって戸惑った。
楽な呼吸が出来るようになったから、窒息しそうな“当たり前の日常”に戻るのが怖くなった。
それを責めることはきっと誰にもできない。
見上げれば、いつか見た、晴れ渡る空。
彼女を繋ぎ止めていたもの。
彼女が繋ぎ止められたもの。
地に縛られたのは体か。或いは、飛ぶことを忘れた心だったのか。
もしかしたら天女は、天女であることにこそ縛られていたのかもしれない。
朝顔もまた、天で“当たり前の日常”を過ごす自分に囚われていたのだろう。
「ねぇ。葛野くんは今、幸せ?」
ようやく少女は顔を上げて、じっと甚夜の目を見た。
問い掛けよりも縋りつくが正しい。どうすればいいのか分からなくて、不安で。親にぴったりとくっついて袖口を引っ張る幼子のような、そんな頼りなさがあった。
「……どうだろうな」
人のことは言えない。
歳月を重ね散々斬り捨て、尚も何一つ分からない無様な男だ。一拍子置いて酒を煽り、ゆっくりと返した答えもまた頼りない響きをしている。
「今の暮らしを、悪くはないと思っている。なのに幸せかと問われれば、答えを躊躇う。……自分でも分からないんだ、情けない話だが」
憎しみに身を窶す男が幸福をどの口で語るのか。
どれだけ変わり、大切な物を得たとしても、胸にある憎しみだけは消えてくれない。
甚夜にとってはそれが“当たり前の日常”で。
娘を得て穏やかな生活を送り、それを悪くないと思えた今でさえ、生き方までは変えられなかった。
「そっか」
案外二人は似た者同士だったのかもしれない
毎日は楽しい筈なのに、なにかに縛り付けられまま。息苦しいと感じるのに抜け出せなくて。
朝顔の語る息苦しさは甚夜も知っている。多分、同じものを感じていた。
今を否定する訳ではない。十二分に満足できる。けれど、自分であり続けるということは疲れる。
甚夜はそれを認めたくなくて、立ち止まると愚痴や溜息がどっと出てきそうだから、今まで必死になって進んできた。
そして彼女はほんの少し立ち止まり、“朝顔”として笑うのだろう。
「儘ならぬな。生きるということはただそれだけで難しい。だが」
「“いつまでも、立ち止まったままではいられない”?」
言葉の先を奪われて甚夜は口を噤む。ほんの少し困った顔、いつもの無表情は崩れていた。
そんな彼がおかしくて、憂いはいつの間にか消え、少女の頬は緩む。
「前にね、クラスの男の子が言ってた。だからホントは分かってるんだ、いくら居心地がいいからって、このままじゃいけないって」
そうして朝顔は、疲れたような、ではなく。
いつか彼女がいたであろう、晴れ渡る遠い空を思わせる、心地好い笑顔を見せてくれた。
「でも、もう少しだけ。もう少しだけ、ここで休ませて貰ってもいいかな?」
空への憧憬は今も胸にある。
ただ今は疲れて、見上げるのが辛くなっただけ。
「……そうだな、偶にはのんびりしようか」
だから少しだけ休憩しよう。
時には立ち止まって一息吐くのもいいかもしれない。
そう思えるようになった分、二人とも、以前より多少はマシになっただろう。
◆
・八月十二日
「済みません、一度断っておいてなんですけど、狐の鏡を使わせてもえらませんか?」
翌日、荒城稲荷神社を訪ねた朝顔は、開口一番神主にそう願った。
「……どうしたのですか、朝顔さん?」
昨日とは打って変わった態度に、少しだけ違和感を覚えながら神主は問うた。
けれどもう迷いはない。
返す言葉ははっきりと、天女は鮮やかな声で言い切った。
「やっぱり、いつまでも立ち止まったままではいられませんから!」
昼時の鬼そばは相変わらずの盛況ぶり。
初めは多少驚かれもしたが、ちょこまかと動く元気な少女の姿に常連達も慣れたようで、今では気安く声をかけてもらえるようになった。
「へぇ、朝顔ちゃんもう帰んの?」
「はい、お世話になりました」
「なんや簡単やなぁ。天て結構楽に行き来できるんやろか?」
その中でも一番気遣ってくれているのはやはり秋津染吾郎だろう。
いつものようにきつね蕎麦を食べに来た染吾郎は、朝顔の帰郷を聞かされて、少し疑問顔になりつつも祝福してくれた。
帰るのは十四日に決めた。だからそれまでは、しっかりと鬼そばで働いて甚夜に恩返しをするつもりだ。
「ちなみになんで? もしかして甚夜がなんかした……訳ないな。そんな甲斐性ある訳ないし。というか野茉莉ちゃん至上主義やし」
「……否定できんところが辛いな」
その遣り取りの朝顔は思わず吹き出す。
やっぱり甚夜と秋津染吾郎は仲がいい。今も昔も、これからも。きっと二人は親友なのだろう。
「そうですか、それは残念ですね。折角会えたというのにもう別れとは」
今日は珍しく兼臣も店にいた。
と言っても仕事の手伝いはせず、きつね蕎麦を楚々とした仕種で啜っているだけだ。
考えてみれば同じく居候の身だというのに彼女とはあまり接点がなかった。それは少し勿体なかったかなとも思う。
「……兼臣、確か初めの時、仕事を手伝うと聞いた気がするが?」
甚夜の視線は冷たい。
女の子にこんな視線を向ける彼は初めてで、朝顔は少しだけ驚いた。
しかし当の兼臣は平然としており、暖簾に腕押しと表現がぴったりの態度である。
「しかし葛野様、考えてみれば帯刀したまま店で動き回れば逆に迷惑になりましょう」
「その時ぐらいは刀を置け」
「何を仰るのですか。これは私の魂、貴方は私に死ねと?」
明治になっても帯刀している辺り、兼臣の刀に対する執着は相当のものだ。
とは言えこの状況でそう返されても、働きたくないが為の言い訳にしか聞こえなかった。
「あはは、葛野くんも大変だねー」
「ああ……まったくだ」
彼の口から溜息が漏れる。
呆れて物も言えないといったところだろうか。
けれど口元が僅かに緩んでいたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
* * *
『朝顔さん、帰っちゃうの?』
『うん、野茉莉ちゃんにもお世話になりました』
『そっかぁ』
当初こそぎこちなかったが野茉莉とも随分打ち解け、帰郷の旨を伝えれば残念そうな顔をしていた。
なら帰るまではいっぱい楽しもう。一緒に夕暮れの街を散歩したり、甚夜の料理を手伝ったり、二人はまるで姉妹のようだった。
『残念やなぁ、甚夜』
『なにがだ』
『いやいや野茉莉ちゃんに母親ができたかもしれんのに』
『……お前な』
秋津染吾郎は相変わらずで、甚夜と朝顔の関係をからかっている。
彼が来るといつも大騒ぎ。文句を言いつつも誰かさんの口数が少しだけ多くなるのは知っていた。
『寂しくなりますね』
『あはは、ありがとうございます』
兼臣とはあまり話せなかったが、それでも食卓を共にした。
機会があれば居候同士もう少し仲良くなれたかもしれない。
『朝顔、頼む』
『はーい!』
甚夜が蕎麦を作り、それを朝顔が運んで。
役割分担も慣れて最後の方は二人の息もかなり合っていたように思う。
店の手伝いは初めてだがいい経験になった。
偶然訪れた地上は、色々なことを抜きにしても居心地がいい。
楽しいと、心から思えた。
けれど、楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎる。
気付けば二日が過ぎ、別れの日はすぐそこまで来ていた。
* * *
「はぁ、いよいよ明日かぁ」
以前と同じように、野茉莉が寝静まってから二人は向かい合う。
夏の夜の細やかな語らい。蒸し暑さはあの時と変わらず、けれどいつかより空気は柔らかい。
「大丈夫か」
「ん。ちょっと、寂しいとは思うけどね」
憂いを感じさせない穏やかな笑みだ。
酒を呑み、朝顔は茶を啜り、ゆっくりと時間を過ごす。これも最後になると思えば多少の感慨はある。
それは朝顔の方も同じ。試すような、いかにも冗談といった調子で彼女は問う。
「例えば、さ。私が、ここに残りたいって言ったらどうする?」
明日になれば帰れる。帰らなければならない。
でも残りたいといったら?
考えるまでもない。甚夜は殆ど間を置かずに返した。
「どうもせんが」
「えー、なんで?」
「言わないと分かっているからな」
朝顔は少し頬を膨らませる。
子供っぽくはあるものの、この娘にはそういう所作がしっくりとくる。
馬鹿にした訳ではない。憂いを纏うより、気怠い雰囲気より、無邪気な笑みが彼女にはよく似合う。
「それじゃあたとえ話の意味がないよー」
「なら、実際のところは?」
「……それは、言わないけど」
「だろう?」
朝顔が、笑う。
見透かされたようなことを言われて、でも悪い気はしない。
遠すぎず、近すぎず。今の距離感が心地よかった。
「休憩は、休憩だからいいんだ。長く続けば有難みも薄れる」
「うん。……神主さんが明日を指定した意味、分かっちゃった。もし私が“お祭りを楽しんでから帰ろう”なんて言うなら、きっとこれからも帰れないって思ったんだよね」
お祭りを楽しんでから帰ろう。
なら次はお月見だろうか。冬になればお正月を楽しんだら帰ろうと言い出すかもしれない。だから国枝航大はわざわざ祭りの前日を指定した。
それは間違いじゃない。
訪れたのは偶然だったけれど、この数日は楽しかった。
なら何時までも先延ばしにしては、きっと帰れなくなる。
ここで帰ると言えなければ、もう二度と帰ろうとは思えないだろうから。
「だから私、帰るね」
彼女は僅かな名残を笑顔に隠して、きっぱりと言い切った。
「ああ、それがいい」
彼は隠したなにかに気付かないふりして、静かに頷いた。
さて、俯いていた天女は再び空を見上げ、いったい何を想ったのだろう。
地に縛られた青年では知りようもないが、和やかにゆっくりと、最後の夜は更けていく。
共にした時間は短かった。けれど確かに通じるものがあって、だからお互い素直に別れを受け入れられる。
そう在れたならば些細な語らいも決して悪くはなかった筈だ。
それを証明するように、朝顔は別れを前にして、それでも晴れ渡る微笑みをたたえていた。
◆
「では、私達はこれで」
そして八月十四日、甚夜らは再び荒城稲荷神社へ訪れた。
神主は狐の鏡の使用を快く了承し、本殿へと案内した後はすぐに去って行った。最後の別れは二人でと気遣ったらしい。
その手の艶っぽい関係ではないのだが。呆れ混じりに甚夜が呟けば、朝顔はくすぐったそうに微笑む。
別れの際でも彼女は楽しそうにしている。それを考えれば国枝航大のお節介も案外間違いではなかったのかもしれない。
「それじゃあ、葛野くん。お世話になりましたっ!」
朝顔は快活に、大げさな動作でお辞儀をした。
いつも通りの少女の姿に、甚夜もまたいつも通りの態度を崩さない。
「達者でな、天女殿」
「もう、またそういうこと言うー」
湿っぽい別れにはしたくなかった。
だからはしゃいで見せて、それでも少女の瞳にはほんの少しの寂しさが滲んでいる。
別れを悲しめるくらいには、ここでの日々は楽しかった。多分それは甚夜にとっても同じだった。
「帰ったら、此処にはもう来れないんだろうなぁ」
「だろうな。もう逢うこともあるまい」
元々ここに来たのは偶然。二度も同じことが起こるとは思えない。
説話では「帰った天女は時折地へ遊びに来た」とあるが、そうそう上手くはいかないのが世の常。
残念ではあるが、これが今生の別れになるのだろう。
「ふふっ、そうだねっ」
けれど朝顔は甚夜の言葉に頬を綻ばせた。口元を手で押さえ、笑いを堪えている。
その意味を問い詰めたかったが、彼女は本当に楽しそうで、だから聞く気にはなれなかった。
折角の別れだ。どうせなら笑顔のまま帰ってほしいと思う。
「しっかり、休めたか」
「うん。向こうでも、もう少し、頑張れると思う。葛野くんは?」
「変わらんさ。変えようとも思わん」
「この頑固者ー」
「褒め言葉だな」
膨れ面の彼女をさらりと流し、甚夜は僅かに口角を釣り上げる。
別に怒っている訳ではない。朝顔の表情はころころと変わり、思い付くまま話題も転がる。
気安い掛け合いはしばらく続き、いつしかそれも途切れ、沈黙が訪れる頃には言うべきことは一つになった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
神主から借りた小刀で指先を傷付ける。
染み出た血は赤い玉になって、ほんのり鉄錆の香がした。
朝顔は本殿の奥に安置された鉄鏡の前に立ち、くるりと振り返って甚夜をまっすぐに見つめる。
「葛野くん」
ここに来たのは偶然だったが、そんなに悪くなかった。
会う人は皆優しく、毎日楽しくて。
心残りといえば、一緒にお祭りを楽しめなかったくらいのもの。
「もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!」
でも未練はない。
ありったけの笑顔で、別れを告げよう。
「ああ、そうだな。その時には何かを奢ろう」
「なら林檎飴がいいなー」
「分かった。ちゃんと覚えておく」
交わす言葉はあくまでも軽く、まるでじゃれ合っているかのようだ。
朝顔は最後にもう一度、感謝を告げるように、精一杯の微笑みを向ける。
そうして狐の鏡に触れた瞬間、
目の前が白くなり、
もう、彼女はいなくなっていた。
「……では、な。朝顔」
こうして何の未練も名残もなく、朝顔は空へ帰った。
地に囚われた心も今は軽やかに。
天女はもう一度、飛ぶことを思い出したのだろう。