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余談『林檎飴天女抄』・4

・八月十日


「そう言えば、兼臣さんは?」


 居候として家主が働いているのに寝ているのは居心地悪いようで、朝顔は甚夜の時間に合わせて起きてくる。

 ただ早起きが得意という訳でもなく、まだ寝ぼけ眼といった様子だ。

 しばらく朝食の準備をする甚夜と話せばようやく目が覚めてきて、兼臣の姿がないことに気付いた朝顔はきょろきょろと店内を見回していた。


「もう出かけた。また殿方との逢瀬らしい」

「そっかぁ。ところで、あの刀って兼臣だよね?」

「ああ。夜刀守兼臣……妖刀だ。よく知っていたな」

「本物をね、見たことあるんだ」


 言いながら朝顔はにんまりと口元を緩めている。

 件の妖刀は四口、そういう機会もあるだろう。ただ天女である彼女が知っていたのは意外だった。

 何処で見たのか軽く聞いてみれば「友達の家が神社でその子のお父さんが持ってた」とのこと。ちらりと彼女を見れば何故か楽しそうにしていた。


「昨日はよく眠れたか」

「うん、おかげさまで。本当に、葛野君にはお世話になりっぱなしだね」

「泊めたくらいでそう言われても返答に困る。それにこちらも店を手伝ってもらった」

「それくらいするよー、結構楽かったよ。案外ウェイトレスとか似合うかも私!」

「うえいとれす?」


 知らない単語が出てきたので聞き返せば、やはり彼女はくすくすと笑っていた。

 馬鹿にされているでもなし、だが何故そうも楽しそうなのか。本当に、近頃の若い娘はよく分からない。


「気にしない気にしない。それにしても、野茉莉ちゃんすっごく懐いてるよねー。見るからにお父さん大好きって感じ」

「ん、ああ。まだまだ甘えたい年頃なのだろう」


 突っ込んで聞いてもよかったが、こうやって誤魔化そうとするならばあまり意味はないだろう。

 元より大して興味もない、切り替えて甚夜も新しい話題に付き合う。

 朝顔の目にも親娘の仲は良く見えるらしく、それは素直に嬉しい。微かに目じりが下がってしまう辺り、親馬鹿だという自覚はあった。


「それに、お父さんの方も野茉莉ちゃんのこと大好きみたいだし」

「否定はせんが、あまりからかうな」

「あはは、分かってるって」


 鬼そばで暮らし始めてから二日目、朝顔も幾らか慣れて随分肩の力が抜けてきた。

 見知らぬ土地で不安を抱えているかと思えばそうでもないようだ。初対面の男、しかも六尺近い強面の偉丈夫に対しても気安く話しかけられる彼女は、外見に似合わず案外と図太い。


「何回も聞くけど、葛野君の娘さんなんだよね?」

「ああ」

「お父さんみたいだとは思ってたけど……うん、やっぱりちょっと不思議だなぁ」

「よく言われる」


 本当に図太い。そうやって無遠慮に踏み込めてしまうのだから相当だ。

 甚夜の外見は十八の頃のまま。九つになる野茉莉と並んでも親娘に見えないことは重々理解していた。

 その事実が、次第に親子と思われなくなってきている現実が少しだけ痛い。


「さて、と。そろそろ朝食にしよう。野茉莉を起こしてくる」


 しかし平静を装い、何事もなかったように会話を切り上げる。

 野茉莉を起こす為に寝床へ向かい、途中で足を止め甚夜は首だけで振り返った。


「ああ、そうだ。私は野茉莉を送り出してから出かけるが、お前はどうする」

「え、何処に行くの?」

「荒城神社だ」

「それって……」


 きょとんとしている朝顔に、甚夜はいつも通りの無表情で言う。


「“狐の鏡”は天女を空へ還したという。調べない手はないだろう」




 ◆




 野茉莉を小学校へ送り出した後、甚夜達は三条通にある荒城神社へと向かった。

 再び訪れた神社は昨日よりも縁日の準備が進んでいる。それに比例して人の数もかなり増えていた。

 境内には既に多くの屋台が建てられており、神社特有の静謐な空気はない。喧噪は止まず、祭りが近付いているのだと肌で実感できる。


 喧噪に紛れ、甚夜と朝顔は神社を見て回っていた。

 その理由は勿論縁日の下見などではない。

 秋津染吾郎が語った謎の光。現実として存在する、この地ではない何処かから降り立った少女。

 朝顔が本当に天女なのかは分からない。しかし何らかの怪異に巻き込まれたことだけは間違いない。


 そしてその中核にあるのは“狐の鏡”。天と地を繋ぐという祭器なのだろう。

 現状、全くと言っていいほど情報がない。神社を観覧するだけで得られる情報などたかが知れているが、彼女を空へと返す手段、その糸口でも掴めればと藁にも縋る思いで足を運んだのだ。


 稲荷神社だけあって、鳥居を潜れば狐の石像が出迎えてくれる。

 石畳の両脇に狐の石像が設置されているのだが、何故か二つとも左目の部分が潰されていた。それ以外には特に気になるところはない、普通の神社といった風情だ。

 さて、外観を見ているだけでは意味がない。

 狐の鏡を調べる為、本殿に忍び込んでみるべきか。そう思った矢先、見知った顔が声をかけてきた。


「あら、甚夜様?」


 荒城稲荷神社の神主、国枝航大。その妻で、名前は確かちよと言ったか。

 初老の女は柔和な笑みを浮かべ近付いてくる。流石に無視して本殿へ忍び込む訳にもいかず、甚夜は軽く一礼をした。

 それに対しちよも会釈で返す。若い頃は折り目の付いた美人だったのだろう、静々とした丁寧な所作にそう思わされる。顔を上げた後、一つ頷いてから見せた微笑みも堂に入ったものだ。


「そちらの方は」

「あっ、初めまして、朝顔です」

「はい、初めまして。ちよと、申します」


 もう名乗りにも慣れたのか、朝顔は淀みなく偽名を口にし、二人してお辞儀し合う。

 一見すれば穏やかな遣り取りだが、少しばかり引っ掛かる。

 初めて顔を合わせた時、ちよは名乗るより先に『甚夜様』と呼んだ。当然ながら京に来てから彼女と交流を持ったことはなかった。


「ちよ殿。私は、まだ名乗っていなかったと思いますが」


 怪訝な面持ちで問いかける。腹をさぐるというには直接的だが、彼女は僅かも動揺をみせなかった。

「ええ、ですが名は聞き及んでおりますので」と雑談をするような軽さで返す。

 単に夫から聞いただけと彼女は言う。では、初対面の時は? 疑念は晴れず、しかし当の本人の穏やかさは崩れない。


「……そうですか、失礼しました」

「いいえ、こちらこそ」


 結局引いたのは甚夜の方。これ以上の問答は無駄と悟り追及はしなかった。

 ちよはゆったりとお辞儀して、今度は朝顔に視線を向ける。


「そちらは……奥方様ですか?」

「ち、違いますっ!?」


 喧噪に満ちた境内でも朝顔の大きな声はよく響く。

 余程恥ずかしかったらしく、わたわたと慌て頬も真っ赤に染まっていた。


「あら、そうでしたか。夫婦連れ立って縁日の下見に来られたのかと思いました」

「だ、だからっ」

「ふふ、可愛らしい方ですね」


 天女といってもやはり子供だ。少女の初心な振る舞いにちよは嫌味のなく口元を綻ばせた。

 微笑ましい光景と言えなくもないが、いつまでも益体のない話をしていても仕方がない。 

 目配せをすればちよの方も頷き、これでようやく本題となった。


「今日はどのようなご用向きで?」

「国枝殿に少し話を聞かせて頂こうと思い訪ねました。呼んでいただけますか?」

「はい、ただ今。……ところで、甚夜様」


 申し出には間を置かず応じ、けれどちよはじっと甚夜の目を見る。

 淑やかな雰囲気は変わらない。ただ彼女の視線には訴えかけるような、ほんの少しだけ不満げな色があった。


「なにか」

「いえ、大したことではないのですが……どうか、敬語を使わず普段通り喋って頂けないでしょうか」

「は?」


 意外な願いに間の抜けた声を発してしまう。

 ちよと顔を合わせたのは二度、真面に会話したのは今回が初めてだ。にも拘らずそんな提案をしてくるとは思っていなかった。

 しかし彼女の方は当然だとでも言いたげ、至って平然としている。


「甚夜様に敬語を使われるのは、なにか奇妙に思えまして。出来れば畏まらず、呼び捨てて頂きたいのです」

「いえ、流石にそれは」


 本人の希望ではあるが殆ど初対面の女、それも人の妻を呼び捨てるのはどうにも抵抗がある。

 言葉を濁しつつ否定の意を示せば、ちよは自身の頬に手を当て、どこか寂しげに面を伏した。


「……残念です。では今、航大を呼んで参ります。そちらで少々お待ちください」


 指し示したのは境内の一角に並べられた長椅子だ。おそらくは縁日では休憩所代わりに使われるのだろう。

 名残惜しそうに小さく微笑み、ちよは丁寧にお辞儀をして拝殿の方へと歩いていった。

 すげなく断ったのは悪い気もするがそこは諦めてもらい、甚夜らは並んで椅子に腰を下ろす。

 縁日の準備で境内は随分騒がしい。行き交う人々を眺める朝顔の表情は好奇心に満ち満ちていた。


「お祭りはまだなのにすごい人だねー」

「荒城の縁日は結構な規模らしい。色々と準備もあるのだろう」

「へぇー。でもこういうのって、なんだかわくわくしてくるよね!」


 ぐっと両の手を握りしめてそう言う彼女は本当に楽しそうだ。

 確かに祭りの準備というのは独特の活気がある。忙しさに荒っぽく言い争いもするが働く男衆は皆明るく、中には準備も祭りの内だと酒を酌み交わしている者までいる。

 忙しなさと和やかさが一緒くたになったこの風情ばかりは当日では味わえない。


「屋台もたくさんある! えーと、あれは……なんとか天?」


 細工飴師、唐辛子屋、団子屋。屋台や見世物の準備も着々と進んでいる。

 彼女が見ている屋台には「羅麩天」と書かれていた。漢字が分からず、しかも何故か左から右に読んでいるらしい。何の店か全く想像できず、朝顔はしきりに小首を傾げていた。


「“てんぷら”だ」

「へぇー、てんぷら……てんぷら? なんでお祭りにてんぷらの屋台?」

「なんでもなにも天ぷらは屋台で食うものだろう。祭りでもよく見かけるが」


 見かねて助け舟を出したが、それはそれで納得できない様子、朝顔は先程よりも不思議そうにしていた。

 天ぷらの屋台など普通のことだと思うのだが、彼女の感性はどうにもよく分からない。


「えー、祭りって言ったらチョコバナナとかフランクフルトとか、あと焼きそばにたこ焼きとかじゃないの?」

「……ちょこ、ばなな? ふら、ふらんく」

「あ、そっか明治だと……じゃあ林檎飴! 私ね、りんご大好きなんだー」

「ああ、林檎は分かる」


 ようやく覚えのある単語が出てきた。

 りんごは平安の頃に大陸から伝わった観賞用の植物で、小さな実を菓子代わりに食べたりもする。

“林檎飴”というのは知らないが、彼女の居たところでは林檎を使った飴が祭りの定番だったのだろうか。


「お前の住んでいる場所とは祭り一つとっても随分違うんだな」

「え? そ、そうみたいだね。これだけ違うと逆に気になるかも」


 曖昧な朝顔の笑みに甚夜は、ふむ、と一つ頷く。 

 折角この時期にいるのだ、興味があるというのなら息抜きがてら祭りを冷かすのも悪くないかもしれない。


「当日は娘と屋台を見て回るつもりだ。なんならお前も来るといい」

「え、いいの?」

「ああ。野茉莉を優先するから然して相手は出来んが」

「あはは、葛野くん、なんというか本気で野茉莉ちゃん大好きだよね。でも、うん。私もお祭り行きたい!」


 思い付きのままの誘いだったが案外乗り気のようだ。朝顔は嬉しそうに何度も頷いている。

 その後は親馬鹿ぶりを笑われつつ祭りの話に花を咲かせ、しばらくするとこちらへ歩いてくる人影を見つけた。


「どうも、葛野さん」


 荒城稲荷神社神主、国枝航大。

 突然の来訪にも気分を害した様子はなく、彼は柔和な笑みで挨拶をしてくれる。

 甚夜達も雑談を中断して立ち上がる。こちらもしっかりとお辞儀をし、朝顔に自己紹介をしてもらってから軽く世間話。頃合いを見計らって「今、お時間はよろしいですか?」と本題を切り出す。


「縁日の準備を監督せねばなりませんが、少しなら」

「でしたら、話を聞かせて欲しいのですが」

「構いませんよ」

「有難う御座います。では“狐の鏡”という話をご存知でしょうか」

「勿論、これでも神主ですから。当社に祭られている御神体の説話くらいは」


 ここの神主は本当に大らかだ。

 不躾な質問にも笑顔で応じ、彼は淀みなく“狐の鏡”について語り始めた。







 鍛冶の村で生活する若者と言葉を喋る子狐。

 地に降りてきた天女の羽衣を焼く若者。

 天へ帰れなくなった天女は若者の妻となる。

 長らく続いた幸福な日々。

 病に倒れる天女。

 狐を焼き、その灰を練り込んで造り上げた鉄鏡。

 鉄鏡は天女を空へと還す。

 離れ離れになっても互いは夫婦だと約束を交わし、物語は終わりを告げる。


「と、このような話になっています」


 彼が語った“狐の鏡”の説話は兼臣のそれと差異はない。

 やはりこの神社の御神体には天女を空へ還したという伝説が残っているようだ。

 僅かに目を伏せ甚夜が考え込んでいると、神主は「どうです。おかしな話でしょう」と面白がるような調子で言う。


「この京の町には古くから多くの天女譚が残されています。ですが狐の鏡の説話だけは、少しおかしいのです」

「そういえば、天女を空へ還すってお話は珍しいよねー」

「確かにそこもですね。ですがそれ以上に、この話は根本的に間違えて作られているのです」


 聞いた印象では在り来たりな話にしか思えないが、“間違えて作られている”とは随分妙な言い回しをする。

 今一つ理解し切れず問い返そうとするも神主は遮るように声を被せた。


「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」

「つまり狐の鏡には嘘があると?」

「はい。そして同時に掛け値のない真実が含まれている」


 説話とはそういうものなのだと彼は言う。

 やけにはっきりとした口調には、単なる雑談とは思えない、まるでこちらの胸中を見透かすかのような響きがあった。

 それが意味するところは甚夜にはうまく掴めない。朝顔も同じような心地らしく、むむぅ、と難しい顔で考え込んでいる。


「朝顔さん、でしたか」

「は、はい!?」


 考え事の最中に話を振られたせいだろう、朝顔は大げさに驚き目をぱちくりとさせていた。

 けれど神主はやはりおおらかで、慌てて向き直る彼女を落ち着かせるようにゆったりと語り掛ける。


「お祭りはお好きですか」

「へ? あ、えーと」

「はは、すみません。五日後の八月十五日、この神社で縁日が行われるのです。もしよろしければ葛野さんとご一緒に来られてはいかがですか」

「あ、はい、えと。実はさっきまでその話をしてて」


 難しい話題でなくてほっとしたのか、緊張は一気に解れ少女には微笑みが浮かぶ。

 空気は和らぎ、そうすれば自然と口は滑らかになる。朝顔の物怖じしない性格もあって会話はそれなりに弾んでいた。


「当日は屋台が並び、実に賑やかな祭りとなります。朝顔さんは何か好きなものはありますか?」

「えーと、いっぱいあるけど、やっぱりお祭りだと林檎飴かなぁ。甘いの好きなんです」


 一瞬驚きに唖然とした神主は息を飲み込み、まじまじと朝顔の顔を見つめる。

 そうして重々しく頷いて、ほうと暖かな息とともに言葉を漏らす。


「……いいですね、林檎飴。私も好きですよ」


 彼はひどく懐かしそうに、満足げに目を細めていた


「あ、そうなんですか?」

「はい。あれを食べるとお祭りに来たという気がします。大きすぎて食べにくいのだけはどうにかしてほしいですが」

「あはは、分かります。それに、一個でお腹いっぱいになっちゃいますよねー」

「まったくです」


 甚夜は知らなかったが、どうやら林檎飴というのはそれほど珍しいものではないらしい。

 二人して林檎飴談議で盛り上がり、一段落すれば気をよくした神主が次々と縁日の話を語って聞かせる。朝顔の方もそれに乗っかり、まだまだ会話は途切れそうにない。

 長くなりそうだ。甚夜は気付かれない程度に眉を顰めた。

 そもそも今日は狐の鏡を調べる為に訪れただけ。縁日の当日には娘と共に来るつもりではあるものの、ここで足止めを食うのはあまりうれしくない。出来れば早々に切り上げたいのだが。


「あなた、そのくらいに」


 そう思った矢先、淑やかな声が喋り続ける神主を止めた。

 嫋やかに微笑む女性。国枝航大の妻、ちよである。


「ああ、ちよ」

「失礼します、お茶をお持ちしました」


 言いながら手にしたお盆を長椅子の上に静々と置く。

 お盆には湯呑が二つと、茶請けを乗せた小皿が二つ。

 こちらもどうぞ、と差し出された小皿には磯辺餅が乗せられている。茶を出すまでに時間がかかったのはこれを準備していた為らしい。


「あ、磯辺餅だ。葛野くん、よかったね」


 朝顔はにっこりと笑う。

 裏のない、素直な笑みだ。だから余計に分からなくなる。

 何故会って数日の筈の少女は、磯部餅が出てきて「よかったね」などと言うのか。 


「お好きかと思ったのですが、違いましたか?」

「……いえ、好物です」

「よかった、どうぞ召し上がってください」


 ちよもまた、ゆるやかに安堵の息を吐く。

 しかし胸中には再び疑念が生まれた。朝顔も、ちよも。甚夜の好物が磯辺餅だと知っているかのような口振りだ。

 名前の時とは違う。気のせいと切って捨てるには違和感が大き過ぎた。


「すみません、夫は話し始めると長いものですから」


 けれど彼女は相変わらず緩やかに微笑む。

 ちよは心からもてなそうとしてくれている。怪しいのは間違いないが、少なくとも悪意や敵意の類は感じられなかった


「いえ、寧ろ引き留めたのは当方です。申し訳ない」

「そんな。それこそお気になさらず」

「では、お相子としていただければ」


 今のところ実害は出ておらず、現状を顧みればここで問い詰めて関係を悪くすることは避けたい。多少の打算故の判断ではあるが、取り敢えずは追及せずにこちらからも謝罪する。

 それを楚々と受け入れ、ちよはちらりと神主を横目で見た。


「お話も良いですけど、相手の都合を考えてあげないといけませんよ」

「いや、済まない。御二方も申し訳ありませんでした。つい、懐かしい気分になってしまって」


 妻に優しく窘められ、ばつが悪そうに神主は頬を掻く。

 険悪さはまるでなく如何にも仲のいい夫婦と言った遣り取りだ。実際ちよの方も苦言というには暖かい、見ているだけで微笑ましくなれるくらいに穏和な物言いである。


「なつかしい?」朝顔はぽろりと零れた神主の言葉に、きょとんとして聞き返す。

「ええ。……実はちよ、妻と出会ったのは縁日の夜なのです」


 声に滲んだのは懐古の念か郷愁か。

 ついと視線を動かした先には荒城神社の拝殿。そこに遠い情景を映し出し、彼は万感の思いを言葉と共に吐き出す。


「妻は、以前ここではない神社で巫女を務めておりまして。私はそこで彼女と出会いました。毎年夏の祭りが近づくと、妻と初めて会った夜のことを思い出します」


 国枝航大がなにを見ているのか甚夜には分からない。

 それでも妻と出会った縁日の夜が、何物にも代えられぬほど大切な瞬間であったのだと伝わってくる。


「今でも覚えています。見たこともない満天の星、祭囃子。行燈の光に揺らめいた夜の神社。そして、その中で佇む少女」


 おそらく彼にとっては祭りの夜が、そこで出会った少女こそが原初の風景なのだろう。

 何も知らないのにその心情を僅かでも理解できたのは、よく似た場所を通り過ぎたから。もはや触れられぬまほろばを見る瞳に、いつか見上げた夜空を思い出す。


「私はあの夜、確かに天女と出会ったのです」


 そういう女性と一緒になれたことが、かつての憧憬を違えずに在れた彼が少し眩しい。

 国枝航大は妻が天女であるという。

 羽衣伝説などの多くの天女譚で青年は天女を妻として迎える。それこそ“狐の鏡”の説話の通り、自分も天女を妻にしたのだと。


「天女……」

「勿論比喩ですよ? ですが夜に溶け込んだ彼女は、まるで本当の天女のようだった」


 片目を瞑り、おどけた調子でそう付け加える。

 ちよに照れた様子はなく、彼女もまた昔を思い出しているのか、柔らかく微笑んでいる。寧ろ夫婦の睦まじさに当てられた朝顔の方が、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。

 けれどゆるやかな空気の中、甚夜だけが表情を固くして俯いた。

 狐の鏡の嘘と真実。天女を妻にした男。  

 それらが何を意味しているかはまだ判別がつかない。ただ、なにか重要なことを聞いたような気が。


「そうだ、葛野さん、朝顔さん。もしよろしければ狐の鏡をお見せしましょう」


 考えが纏まるより早く、いやに楽しそうな調子で言う。

 顔を上げれば、神主は含み笑いに口元を緩ませていた。




 ◆




 拝殿の更に奥、普段は人の寄り付かない筈の本殿に足を踏み入れても埃っぽさはなく、そこが丁寧に管理されているのだと分かる。

 それでも踏み締めた板張りの床は微かに軋み、この神社が相応の年月を重ねてきたのだと如実に示していた。


「これが、狐の鏡」


 御扉の奥にはしめ縄で囲われた八脚の檜の台。そこに安置されていたのは錆一つない鉄鏡であった。

 神主に案内されるままに本殿へ足を踏み入れた甚夜達は、荒城の御神体である“狐の鏡”をしげしげと見つめる。

 御神体は神そのものではないにしろ信仰の対象であり、易々とひけらかしていい代物ではない。

 それ故、本殿の御扉の奥に蔵すが常。こうやって目にすることが出来るのは偏に神主の厚意である。


「はい。天と地を繋ぐと言われる祭器です」


 趣があると言えば聞こえはいいが、鉄鏡はくすんだ色をしていて、厳かというよりは何処か野暮ったい印象を受ける。

 確かに古ぼけた鏡ではあるものの、説話に語られるという割には金属の劣化は殆どない。造られてから百年、いや五十年にも満たぬといったところか。正直少しばかり肩透かしを食らったような気分だった。


「見た目には古い鏡でしかありません。しかしこれは、確かに説話と同じ力があります」


 驚きはない。特異な力を有する器物は今迄にも見てきた。だから狐の鏡が説話通りの力を持っているとしても騒ぎ立てるようなことではない。

 しかし違和感はあった。何故、彼はそれを断言できるのか。


「それは、どういう」

「以前、この鏡は過去に説話と同じ力を、即ち天と地を繋いで見せたのです」


 天女を妻にした男はきっぱりとそう言い切った。

 そこには聞き及んでいる、という曖昧さではなく、まるで実際に体験したかのような確信がある。

 盗み見た横顔は真剣、嘘でも冗談でもないのだと信じさせるだけの熱が込められていた。


「だから歳月を越え(・・・・・) 、天女を遥かな空へ帰すことも出来るでしょう」


 振り返り、朝顔をまっすぐに見据える。

 先程からの物言い。間違いなく、神主───国枝航大は、狐の鏡の力も、朝顔が天女であることも理解している。

 理解しているからこそ本殿まで案内したのだ。


「なん、で?」


 何故話してもいないのに、こちらの事情を知っているのか。

 信じられない。そんな言葉が出てくるなんて有り得ないと、朝顔はひどく動揺し、目を大きく見開いている。 


「二度目ですから。貴女も此処ではない、遠い遠い場所から来た。そうですよね?」


 だから以前は入ることを拒んだ本殿へと案内をした。

 神主の言葉に裏はない。おそらくはかつて本当に地へ降りた天女と出会い、同じ境遇である朝顔に助力しようとしてくれている。疑いようもない、全くの善意だった。

 実際彼の態度に怪しいところはなく、神職に携わるものらしくおおらかさ、懐の深さを感じさせる。

 だというのに、何故だろう。

 朝顔はまるで怯えるように後ろへ一歩退き、小刻みに肩を震わせていた。


「発動の条件は血液。さあ、狐の鏡に血を。そして触れてみてください。そうすれば貴女が願う場所へ、望む時へ、帰ることが出来ます」


 恐れに縮こまる少女を見詰めながら、けれど穏やかな態度は崩さず、神主は懐から小刀を取り出す。

 荒唐無稽なことを真顔で言う彼には僅かな迷いも疑いもない。常識を伝えるような明確さだけがそこにはある。


「え、あの。でも」

「どうしました、貴女は、これで帰れるのですよ。喜ばしいことでしょう?」


 さあ、と目の前に小刀が差し出された。

 薄暗い本殿で刃は鈍く光る。朝顔は固まったように動かない。いや、動けなかったのかもしれない。多分怖かったのは刃物ではなかった。

 表情には驚きと、僅かな恐怖と、あからさまな戸惑い。

 神主は手を引っ込めることはせず、朝顔は受け取らず。本殿に冷え切った沈黙が座し、ただ時間だけが流れる。

 数刻にも思える数秒の後、ようやく朝顔は緩慢にだが動き始めた。


「ご、ごめんなさい! やっぱりもうちょっと心の準備をしたいかなー、なんて。あはは……」


 出てきたのは力のない、誤魔化すような乾いた笑い声。

 結局どれだけ時間が経っても朝顔は小刀を受け取らなかった。

 天女は差し出された羽衣を、空へ帰る手段を自ら振り払ったのだ。

 ゆっくりと頷いた神主は「……そうですか」と残念そうに呟き、じっと朝顔を見据えた。


「ならもしも必要になったら、声を掛けてください。八月十四日。縁日の前日までなら構いません」


 言葉は返ってこない。親に怒られた子供のように少女は俯いてしまっている。

 縁日の前日。決められた期限を疑問に思い、代わりに甚夜が問うた。


「縁日の前日、というのは何か理由があるのですか? 例えば、それを越えれば帰れないというような」

「いいえ、そんなことは。ただ、祭りの日まで残るようであれば、きっと帰れはしないでしょうから」


 それが何を意味するかはやはり分からず。

 ただ彼は、遠い何処かを眺めるような、透明な目をしていた。



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