<< 前へ次へ >>  更新
67/216

余談『林檎飴天女抄』・3




・八月九日




 ふと奇妙な違和感に目を覚ます。


「ん……」


 寝ぼけ眼をこすり、辺りを見回せば、そこは見慣れない畳敷きの部屋。

 隣で眠っている幼い女の子。もう一つあった布団は綺麗に整え片付けられている。

 此処は何処だろうと考え、昨日のことを思い出す。

 昨日は、確か。

 脳裏に浮かぶ、自身の身に起こった荒唐無稽な出来事。


 そうだった。

 私はなんだかよく分からないけど、明治時代に来てしまったんだ。


 少女は溜息を吐いた。

 ここに来た原因は分からない。つまり今の所自分が元いた場所へ帰る手段はないということ。

 しかしまあ、偶然知り合いに会えて寝床を確保できたのは不幸中の幸いだろう。


「明治時代でクラスの男の子に会いました、なんて誰も信じてくれないよねー……」


 思わずくすりと笑う。

 少女が甚夜と自分の知っている“彼”を繋げて考えられたのは、以前本人から正体は鬼で、百歳を超えているのだと聞いていたからだ。

 そして腰に差した、夜来と呼ばれる刀。

 夜来は愛刀で、集落の長に託されてからずっと使い続けた。

 他人に預けたのは後にも先にも一度しかないと彼は言っていた。

 だから葛野甚夜と名乗った男が同姓同名の他人の空似でもご先祖様でもなく、彼本人なのだと理解できた。


 でも、これからどうしようか。

 彼の厚意で取り敢えずは助かった。

 だけどいつまでもこのままという訳にもいかない。

 思い悩んでいると物音が聞こえた。誘われるように寝床を抜け出し、襖を開けてみる。

 其処には黒の羽織と灰の袴を纏う、見知った男性がいた。


「起きたのか」


 この家の主、甚夜は店舗の厨房で何か作業をしている。

 見れば竈には火が入っており、ことことと鍋が音を立てていた。どうやら朝食の準備をしているようだ。


「え、と。葛野くん、おはよう」


 挨拶をしてから自分が起き抜けだったことを思い出し、少女───朝顔は頬を赤く染めた。

 流石に起きたばかりの姿を男の子、しかもクラスメイトに見られるのは、初めてではなくとも恥ずかしかった。


「顔を洗いたいんだけど、どうすればいい?」

「裏の庭に小さな井戸がある。使え」

「あはは、井戸、ね……」


 苦笑いを浮かべる朝顔。何かおかしなことを言っただろうか、と甚夜は疑問を抱いた。

 しかし問うよりも先にぱたぱたと庭の方へ向かっていく。


「兼臣といい、最近の若い娘はよく分からん」


 そんな愚痴を零しながら、小さく溜息を吐いた。




 ◆




「いらっしゃいませー!」


 いつも通り昼時を少し過ぎ、店が落ち着いた頃を見計らって秋津染吾郎は『鬼そば』へ訪れた。

 暖簾をくぐれば元気な声に迎えられる。

 声の主は可愛らしい少女で、普通ならば気分がよくなるところだろうに、染吾郎は違和感に目を白黒させた。


「あれ、僕、店間違えた……?」

「お師匠、間違ってないです」


 この店にいる女は旧知である兼臣だけだと思っていたので、染吾郎の驚きは大きかった。

 彼の弟子である平吉は普段通りむすっとした顔である。とはいえ見慣れない店員に興味があるようでちらちらと目の端で追っていた。


「染吾郎か」

「なあ、甚夜? あー、兼臣は?」

「殿方と逢瀬、だそうだ。何にする」

「あー、うん、そやね。きつね蕎麦もらおかな。平吉は?」

「……天ぷら蕎麦で」


 歯切れの悪い二人、しかし応対する甚夜は至っていつも通りだ。

 そうまで普通にされると間違っているのは自分達の方ではないかと思ってしまう。ぎこちない動きで二人は近くの席に腰を下ろす。

 すると先程の少女──朝顔が、お盆に湯呑を乗せて近付いてきた。


「はい、どうぞっ」


 朗らかな、実に少女らしい笑顔だった。

 小柄で、顔立ちは幼げ。後頭部の下の方で髪を纏めた、見慣れない赤い飾り布。朝顔の浴衣で店内をちょこまかと動く姿は、小動物的な可愛らしさがある。

 しかし普段の鬼そばを知っているだけに、どうにも朝顔の存在を奇異なものと感じてしまう。


「あ、ありが、とう?」

「……ども」


 詰まりながら礼を口にするも、表情は軽く引き攣っていた。






「はあ、天女なぁ」


 取り敢えず今までの経緯を説明すると、染吾郎は大きく溜息を吐いた。


「世の中には不思議なことがあるもんやね」

「お前が言えたことではないだろう」

「そらごもっとも」


 荒城稲荷の鎮守の杜、光と共に現れた天女。

 いかにも眉唾ではあるが、よくよく考えてみれば付喪神使いも相当だ。確かに天女をどうこう言える立場ではない。

 だからといって鵜呑みにするほど浅慮でもなく、染吾郎は作り笑いを張り付けたまま朝顔と向き合う。

 単なる騙りかあやかしの一種か、或いは怪異に巻き込まれただけの一般人。斜めに見れば幾らでも理屈はつけられる。

 だが甚夜は、その真意はどうあれ、此処にいる間は少女を天女として扱うと決めたようだ。


「あ、あの?」

「ああ、すまんなぁ。嬢ちゃんがかいらしからつい見入ってもた」

「え、あ、えへへ。ありがとうございます」


 いい加減付き合いも長くなり、甚夜には相応の信頼を置いている。彼がそう判断したならば否応もない。

 それに褒められてはにかむ様はこの少女がいかに純朴かをよく表している。悪意害意どころか騙すつもりも飾り気もない、朝顔は本当にごく普通の幼気な娘だ。


「と、自己紹介がまだやったね。僕は秋津染吾郎、こいつの親友や」

「だから誰が親友か」

「あはは、君は照れ屋やなぁ」


 だからこれ以上嫌疑の視線は向けず、今度は作り笑いを外して朝顔に挨拶する。

 甚夜との気安いやり取りが面白かったらしく、少女はくすくすと口元を緩ませながら「あ、朝顔です、よろしくお願いします!」と多少たどたどしくはあったが元気良く返してくれた。


「うん、よろしくな。ほれ、平吉も」


 歳をとるとこういう純真な子供は殊更眩しく見える。

 染吾郎は機嫌良さそうに一つ頷き、次は弟子に挨拶させようと促す。

 しかし平吉は名乗らない。朝顔にじっとりとした目を向けていた。


「光と現れた……? なんやそれ。こいつも鬼なんちゃうか」


 彼は師とは違い簡単には割り切れないようだ。

 光と共に現れた女。付喪神使いを志す平吉にとっては、天女よりも鬼女の方がまだ説得力があるのだろう。視線には嫌疑ではなく若干の敵意が見て取れる。


「あ、あの、ええっと」


 先程までの和やかな空気は一気に冷えて、朝顔は気圧されるように一歩二歩後退った。

 尚も平吉は剣呑とした態度を引っ込めることはせず睨み続けている。


「こら、平吉。すまんなぁ、朝顔ちゃん。こいつあほやから」

「いてえ!?」


 流石にそれは見過ごせなかったらしく、染吾郎は笑顔のまま、思い切り弟子の頭にげんこつを振り下ろす。

 ごん、という音が店内に響いた。結構な力を込めたようで、平吉は頭を押さえて蹲り涙目である。


「なにするんですかお師匠?」

「殴られた意味が分からんのやったら黙っとき」


 にべもなく切って捨てられ平吉は押し黙ってしまう。

 慌てたのは他でもない朝顔だ。自分のせいで喧嘩になってしまうのではないかと、不穏当な空気に狼狽えきょろきょろ視線をさ迷わせる。


「えと、秋津さん? 私は別に怒ってないですから、あの、その」

「あはは、朝顔ちゃんはええ娘やね。でも僕が怒ったんは別に、君を鬼やゆうたからちゃうよ?」

「え?」


 途端硬質な雰囲気は和らぎ、染吾郎はからからと楽しそうに笑っている。

 不機嫌になったのかと思えば別段そうでもないらしい。読めない初老の男性の振る舞いに朝顔はきょとんとしていた。


「この子はいずれ付喪神使い。いや、四代目秋津染吾郎になるかも知らん」


 それを優しげな眼で眺め、ゆったりと息を吐く。

 染吾郎の意外な返しに子供達は固まる。言った本人は実に堂々とした、父性を感じさせる穏やかさだ。


「そやから正体が分からん程度であからさまな敵意を見せるような、そんな器のちっさい男やったら困るんや。清濁を飲み干すくらいの器量が無いと“秋津染吾郎”は譲れんよって」


 朝顔の正体が天女だろうと鬼だろうと笑って向き合う、そういう男でなければならない。

 逆に言えばそうあれたなら“秋津染吾郎”の名を譲ってもいい。

 それは、まぎれもなく師として弟子を認めてのこと。

 またも平吉の目が潤む。今度はげんこつの痛みではなく、暖かな言葉に涙腺が緩んだ。


「お、お師匠」

「それはそれとして平吉。鬼を好きになれとは言わん。ほんでも付喪神使いは付喪神を使う。取りも直さず鬼を使役するのが僕らや。せめて受け入れな、力に為ってくれんよ?」

「……はい」


 ただそこはどうしても認め切れないらしい。

 この子の鬼嫌いも相当だ。とはいえ納得こそしていないが、言いかえす程の反発もない。

 ほんなら飯にしようと染吾郎が促せば、平吉は黙って蕎麦を食べ始める。意固地な弟子の態度に師匠は仕方ないやっちゃなと肩を竦めていた。


「すまんな、変なとこ見せて」

「いえっ、そんな」


 自分よりも大分年上の男性に頭を下げられ、朝顔は恐縮しわたわたと手を振っている。

 一段落つけば今度は無邪気に笑う。ころころ変わる表情、言動は素直。いかにも子供らしく見ていて微笑ましい。


「そういや朝顔ちゃん、こいつんとこに泊まっとんの?」

「そうなんです。おかげで野宿せずに済みました。ほんと助かったー」

「ほうほう」


 敬語は苦手なのか、ところどころ言葉は崩れる。 

 勿論その程度のことは気にしない。なにせ彼女の存在は非常に面白い。先ほどの師匠の顔から一転染吾郎はいやらしく口の端を釣り上げた。


「甚夜、えらいお盛んやなぁ」


 兼臣に続き朝顔。

 娘を持つ身で女二人家に連れ込む。字面だけ見れば中々だ。

 考えてみれば甚夜にはそういう浮いた話がない。これはからかう絶好の機会であった。


「なにがだ」

「いやいや、娘おるくせに二人も女連れ込むとか。やるなぁ。よっしゃ、ちょい待ちぃ。今から東京行って来るから。そんでおふうちゃんに現状伝えてくるわ」

「ほう、その首要らんと見える」

「冗談、じょーだんやって。本気で睨むとかやめてえな」


 こういう時、染吾郎は本当に楽しそうだ。

 勿論いつもの軽口だと分かってはいる。だが放っておくと何処までも行くのがこの男。早めに止めておくのが身の為である。

 実際謝りながらもにやついたまま、甚夜が睨みつけてもあまり効果はなかった。


「おふうさんって?」


 そうこうしているうちに朝顔が興味を持ってしまった。

 ただその対象は話に出てきた知らない人物に向けられている。連れ込むどうこうの下りを大して気にしていないのは幸い、誤魔化しも兼ねて甚夜は少女の問いに間を置かず答える。


「恩人だ」

「恩人?」

「おふうには様々なことを教えて貰った。今の私があるのは間違いなく彼女のおかげだろう」

「へー、恋人とか?」

「その手の艶っぽさはなかった。友人であり、姉のような。どうにも上手く言い表せないな」


 懐かしい人のことを話せば自然口元が綻んだ。

 落とすような笑み。優しさに満ちた目。朝顔はそんな彼を見て、にこにこと楽しそうにしている。

 まるで我がことのように喜ぶ彼女が不思議で、甚夜は微かながら眉を顰めた。


「どうした」

「え、なんか意外だなぁって。それに親友もいるし」

「だから違うと言っている」

「またまたぁ」


 初めの説明では昨日会ったばかりという話だがそれにしては親しげである。

 特に朝顔の方はあの強面相手にも物怖じせず随分と気安い態度だ。

 見た目はただの子供にしか見えないが、なかなかどうして度胸がある。

 まあ仲が良くて困ることはない。まるで友人のよう二人のじゃれ合いを、染吾郎は生暖かく見守っていた。




 ◆




「父様、早く早く!」


 午後、小学校から帰ってきた野茉莉と共に、甚夜は三条通にある呉服屋へと出かけた。

 兼臣は朝早くから「殿方と逢瀬に」出かけたまま帰ってきておらず、家では朝顔が留守番をしてくれている。

 おかげで今日は親娘水入らず、野茉莉は久々に父と出かけられるのが嬉しいようで、見るからにはしゃいでいた。


「そう引っ張るな」


 手を繋いだまま野茉莉が走るものだから、甚夜も引っ張られる形になり自然早足となる。

 嗜める言葉を口にしながらも表情は優しい。心地好い陽気、すれ違う人々もどこか楽しげに見える。数年前の京は動乱の最中にあり、こうやって遊山に出ることさえ危ぶまれた。

 今では穏やかに午後の時間を楽しむことが出来る。本当に時代は変わったのだ、改めて甚夜は実感した。

 すれ違う人々の中には、携えた太刀に奇異の視線を向ける者もいる。

 時代は最早刀を必要としていない。

 その事実をまざまざと見せつけられたような気がした。


「いらっしゃいませ」


 辿り着いた呉服屋には所狭しと反物が並べられていた。

 とはいえ、陳列されている商品から上物を選べるほど着物には詳しくない。下手に自分で選ぶよりも聞いた方が確実だろう。甚夜は店主らしき恰幅の良い男に声をかけた。


「浴衣を見せて欲しい」

「浴衣ですか。それならば長板本藍染のものはどうでしょう。この藍染は、絹に染めるのと同じ様な細かい文様を木綿に染める技法で、これを使って染めた浴衣は絹の着物に負けないほど優雅で美しくなります」

「どうする、野茉莉」

「父様が選んで」


 にっこりと笑う野茉莉。甚夜は軽く頭を掻いた。戦いならばともかく、審美眼には自信がない。

 しかし娘は期待しているようで、上目遣いにこちらを見ている。全く、難儀なことだ。


「あー、ではその長坂、なんだ」

「長坂本愛染ですね」

「その浴衣を。着るのはこの娘だ。柄は……そうだな、夕顔はあるか」

「はい、今お持ちします」


 そう言って店主は奥へ向かった。

 待つ間は手持無沙汰になり、何気なく店内を眺める。

 なかなかに繁盛しているようで、反物を見る老淑女から年若い娘まで年齢層も幅広い。


「お母さん、ありがとー」

「はいはい」


 見れば一組の母娘が買い物をしている姿。娘は何やら布のようなものを手に取り嬉しそうに笑っている。

 母親は買ったばかりのそれを娘の髪に結ぶ。それは朝顔が髪を縛るのに使っていた飾り布に似ていた。


「あ……」

「どうかしたか?」

「ううん、何でもないっ」


 仲の良い母娘を野茉莉はじっと見ていたが、話しかければすぐさま目を逸らし笑顔で返す。

 そんな寂しそうな眼をして何でもないもないだろう。もう一度問おうとするが、その時ちょうど店主が帰ってきてしまった。

 時期を逃し、先に買い物を済ませてしまおうと店主に向き直る。


「お待たせしました。こちらになります」

「すまない。ところで、あれはなんだ?」


 視線の先には先程の娘。髪に結んだ飾り布は朝顔のものとよく似ている。

 元々装飾の類には詳しくないし、今まで知り合った中にあのような布で髪を纏めていた女性はいない。あれがなんなのか純粋に疑問だった。


「ああ、あれはリボンですね」

「りぼん?」


 聞き慣れぬ言葉に眉を顰めれば、店主はすかさず解説を入れる。


「リボンと言うのは、西洋から入って来た髪を結ぶための飾り布のことですよ。外国の女性はこれで髪を纏めるのだとか。まだまだ入って来たばかりで一般には浸透しておりませんが、流行に敏感な御婦人方は目を付けているようです」

「ふむ……」


 洒落た女性の髪形といえば髷を結うか纏めるかくらいだと思っていた。

 本当に時代は変わっているようだ。これからも新しい文化が日の本には沢山入ってくるのだろう。

 ならばそれに触れるのも一興か。


「ではそのりぼん……リボンも貰おう」

「ありがとうございます。色はどうしましょう」

「白粉花……は流石にないな。桜色はあるか?」

「はい、では包ませていただきます」


 従業員に指示し、紙で浴衣とリボンを包む。

 それを見た甚夜はどうも奇妙な気分になった。

 紙で品物を包む行為は古く『折形』と呼ばれ、紙が広く普及した江戸では贈りものなどを包む様式として普及していた。和紙を選び、包み方に工夫を凝らし、そこには贈る側の遊び心と気遣いがあった。

 しかし印刷物が大量生産され始めた明治、簡易な包みが出回り、今ではこの折形はあまり見られない。


 古い時代、貴重だった紙を折る行為は儀礼と祈りの象徴だった。

 紙を折るのは心を込める行為に等しい。贈りものは一過性のものだが、そこには贈る側の心遣いがある。その心遣いを表すのが折形である。

 なのに今は大量生産の紙で作業として包装が行われる。


『諸外国が齎した技術により日の本は発展し、代わりに大切な何かを失っていく』


 畠山泰秀が残した予言は真実となる。

 新しい文化を否定する気はない。だが新しいものの陰には失われていく何かが確かにあるのだと、一抹の寂寞を覚えた。




 ◆




 夕焼け空の帰り道、手を繋いで歩く二人。 

 橙色に染まる町並み、はしゃぎ疲れたのか愛娘は何も喋らず俯いている。

 沈黙が続く。しばらくの後、野茉莉は上目遣いに甚夜の顔を覗き込んだ。


「ねぇ、父様」

「ん?」

「……私の母様ってどんな人だった?」


 躊躇いがちに問う。

 沈黙の理由は疲れではなく、どうやら先程の母娘を見て、自身の母のことを考えたかららしい。

 野茉莉はまだまだ幼い。やはり母がという存在が恋しいのかもしれない。


「そうだな……」


 甚夜は少しばかり返答に迷った。

 大切な愛娘と心から想う。けれど野茉莉は元々捨て子であり、彼自身本当の両親など知らない。だからその問いに明確な答えは返してやれないのだ。


『大丈夫だよ。あなたになら、この娘を託せる』


 しかし例え血は繋がっていなくとも、野茉莉の母と呼ぶに相応しい女を知っている。


「お前の母の名は、夕凪と言う」


 いつか見た夕焼けを思い出してしまったからだろう。

 懐かしい幻聴に、自然とそう口にしていた。


「夕凪は、嘘吐きだった」

「嘘吐き?」

「ああ。例えば、夕凪は子供が嫌いだと言っていた」


 思い出す悪戯っぽい笑み。虚ろな場所で見た妻の所作が今も胸に残っている。

 嘘吐きで、捉えどころがなくて。けれど母であった彼女をちゃんと思い出せることが嬉しかった。


「だが、お前を抱く手つきは優しかった。子供は嫌いだと言いながら、お前の行く末を心配していた。どれだけ嘘を吐いても、お前への愛情にだけは嘘を吐けない。そういう、不器用な女だった」


 鬼は嘘を吐かない。

 その理を曲げながら、本当に隠したかった愛情にだけは嘘を吐けなかった。

 夕凪は自分自身が嘘の存在だと言った。

 それでも甚夜は、彼女こそが野茉莉の母だと思っている。

 本当の両親のことは知らない。だが鬼の生き方を覆してまで野茉莉を託してくれた彼女は、確かにこの娘の母親だった。


「野茉莉というのは“おしろいばな”のことだ。夕凪に咲く花……お前の名は、夕凪にあやかって私が付けたものだ」


 野茉莉はただ黙って耳を傾けている。その表情からは内心を窺い知れない。

 出来るだけ穏やかに語り掛けるのは、もういない夕凪の優しさを少しでも伝えられるように。

 多分それは、たとえ一日だけでも彼女の夫となった自分の役目なのだと思う。


「私には母がいなかったら、どういう人間が正しい母なのかは分からない。だが夕凪は確かにお前を愛していた。母というのは、彼女のような人を言うのだろうと思わされたよ」

「……そっか。うん」


 数多の言葉を噛み締め、ゆっくりと飲み込む。

 吸って、吐いて、息を整える。顔を上げればそこに憂いはなく、ようやく野茉莉に笑みが戻った。


「ありがとう、父様。ちょっとだけ気になってたの。私の、本当の母様がどんな人なのか」


 その言い回しに虚を突かれる。

“本当の”。そういう表現を使うのは、甚夜が“本当の”親ではないと知っているから。自分が捨て子だったと理解しているからに他ならない。


「知っていたのか?」

「分かるよ」


 驚きに目を見開けば、はにかんだような笑みが返ってきた。

 考えてみれば野茉莉は正体が鬼であると知っている。

 鬼と人。異なる種族。これで実の親子だと勘違いし続けられる程幼くはなかったということなのだろう。

 あの頃よりも大きくなった娘は瞳を逸らさず、真っ直ぐに父を見詰めている。

 嘘や誤魔化しを口にしていい雰囲気ではない。小さく頷いた甚夜は重々しく口を開く。


「お前の思う通りだ。私は、本当の父ではない」


 絞り出した本当のことがちくりと胸を刺す。

 いくら大切でもその事実は揺るがせない。この手の話題を避けてきたのは、結局のところ引け目を感じていたから。

 本当の父ではない。それがずっとしこりになっていた。


「父様は、父様だよ」


 しかし野茉莉は穏やかに頬を緩ませた。

 首を横に振る様は否定よりも大丈夫だと伝えてくれているようだ。

 野茉莉は「母はどういう人だったのか」と問うた。本当の両親は、とは聞かなかった。


「母様のことはね、ずっと知りたいって思ってたんだ。学校でもみんな自分の母様のことを話してるもん」


 手を繋いで歩きながら、娘は歌のような軽やかさでその理由を教えてくれる。

 他愛のない雑談を思わせる軽さが、この娘の精一杯の心遣いだ。


「でもね、父様はいるから。だからいいの。私にとっては父様が、“本当の”父様だよ」


 無邪気な微笑みは同時にどことなく大人びても見える。

 血が繋がっていないと知っている。しかし血の繋がった実の父などではなく、人ですらない甚夜こそが本当の父親なのだと。

 野茉莉は、そう言ってくれた。


「おしめを換えていたのが、ついこの間だと思っていたのだがな」


 虚飾のない心からの想いに気恥ずかしくなり思わず苦笑する。

 子供だとばかり思っていたが、いつの間にか大きくなったものだ。


「へへ」


 頬を赤く染めた野茉莉も同じように照れ笑い。

 まっすぐな好意を口にするのは恥ずかしくて、けれど間違いなく本当の気持ちだから、表情は喜びに満ちている。


「帰るか」

「うん。……あ」


 握り合う手はしっかりと、目が合えば微笑みを堪えきれず、父娘は正しく父娘として帰路を辿る。

 途中思い出したように野茉莉は声を上げた。


「どうかしたか?」

「あのね、父様。母様が欲しいんじゃないからね?」


 唐突な娘の言に戸惑い、上手く返せなかった。

 しかし愛娘は畳みかけるような勢いで、背伸びしてずいと顔を寄せた。


「だから、母様のこと知りたかっただけで、欲しくないの」

「待て、なんの話だ」

「……兼臣さんとか、朝顔さんとか。うちに泊めてるし」


 不貞腐れた顔に、言わんとすることをようやく理解する。

 つまり野茉莉は、甚夜が誰かと結婚し、新しい母が出来るのではないかと危惧しているのだろう。

 裏を返せばまだまだ父に甘えたいということ。やはりこういうところはまだまだ子供。幼い愛情がくすぐったくて、ぽんと優しく娘の頭を撫でる。


「安心しろ、今のところそのつもりはない」

「……本当?」

「嘘は吐かん。そもそも私も今の生活で手一杯だ。今更妻を娶ろうとは思わんよ」

「そっか、へへー」


 嬉しそうに体を揺らし、小さな手にぎゅっと力を籠めまた歩く。

 見上げれば夕凪の空が広がって、それがいつか、一日だけ妻になってくれた女の悪戯っぽい笑みを思い起こさせた。

 甘ったるい感傷に揺らめく夕日。毎日のように見ている筈の夕焼けの景色が、今日は妙に美しい。


「ねぇ父様」

「ん」

「父様にも、母様がいなかったの?」

「ああ」


 物心ついた時には既に亡くなっていた。

 葛野に移り住んでからも、育ててくれたのは白雪の父。母性というものを感じたことはない。

 短く答えた甚夜に向かって、野茉莉は微笑みをたたえて言う。


「じゃあね、私が父様の母様になってあげる」

「なんだそれは」


 お父さんのお嫁さんになる、ならばよく聞くが、母親になるというのは初めてだ。

 不思議な言い回しに思わず口元が緩む。野茉莉の方は疑問には思っていないようで、楽しそうに、けれど大真面目に将来を語る。


「父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの」


 妙なことを言うものだ。

 そう思いながらもにやけてしまう。馬鹿にしているのではない。嬉しくて止められない。

 野茉莉は、母がいないと言った甚夜を慮ってくれている。

 こんな小さな手で、今度は自分が守ると言ったのだ。

 本当に大きく、優しく育ってくれた。

 正直に言えば、自分が父親という役割を果たせているのか、今一つ自信がなかった。

 だが野茉莉は誰かを慈しむことのできる娘に育ってくれた。

 ならばその優しさの分くらいは誇ってもいいだろう。


「そうか、では楽しみにしている」

「うんっ」


 夕日に映し出された影は長く、重なり合って一つになる。

 帰り道、我が家はそろそろ見えてくる。この穏やかな時間も終わりが近づいていた。

 しかし、もう少しだけこうやって歩いていたい。

 いずれ訪れる終わりを予見している。

 だからこそ、揺らめき滲む夕日にそんなことを思った。








「あ、おかえりー」


 鬼そばへ戻ると小さく手を振りながら朝顔が出迎えてくれた。


「ただいまー!」

「えっ!?」


 野茉莉が元気よく挨拶したことに驚き、思わず声を上げる。

 昨日は明らかに歓迎していない様子だったが、一日経って態度が百八十度変わっている。そのあまりの変化に思考が付いていかない。


「あ、うん、おかえ、り? えっと、いいの買えた?」

「うんっ、朝顔さんにも後で見せてあげるね!」


 戸惑いながらも声を掛ければ、返ってくるのはやはり笑顔。

 言いながら買ったばかりの包みを抱え、店の奥へとぱたぱたと小走りに向かう。


「……どうしたの、あれ?」

「いや、まあ、な」


 甚夜も曖昧な言葉で濁すのみ。

 結局野茉莉の変化の理由は分からないまま、朝顔は微妙な顔をしていた。




<< 前へ次へ >>目次  更新