余談『林檎飴天女抄』・2
幸せな日々は長らく続きました。
夫婦となった若者と天女は睦まじいもので、二人の間にわだかまりはもうありません。
言葉の通り若者は貧乏ながらも一生懸命働き、天女もまたそんな若者を日々支えます。
奇妙な始まりではありましたが、二人は本当の夫婦になれたのです。
けれど、終わりは唐突に訪れます。
ある日、天女は病に倒れてしまいます。
心配し、若者はなけなしの金で医者を呼ぼうとしますが、天女は穏やかに拒否してこう言いました。
『私は天で生まれました。ですから地上では長く生きられないのです』
天女は天の国の清浄な空気の中でしか生きられず、地上での生活は毒に浸かって生きるようなものだというのです。
『貴方と夫婦になれた。私は決して不幸ではありませんでした。けれど最後に、あの空へもう一度帰りたかった』
若者は羽衣を燃やしてしまったことを後悔しました。
何とかして天女を助けてやりたいと悩んでいる時、歳月が経ち大きく育った狐はまたも人の言葉で語りかけます。
『私の体を燃やし、その灰を鉄に練り込んで鏡を作ってください。その鏡は天と地を繋ぐ道となることでしょう』
それを伝えると舌を噛み切り、狐は死んでしまいます。
青年は言われた通り狐の死骸を燃やし、その灰を練り込んで鉄の鏡を造りました。
病床の天女に持っていくと、鉄の鏡は光を放ち、天女の体は空へと昇っていきます。
『これで貴女は天の国へと帰れます』
若者の妻として死のうと決めていた天女。
しかし若者は天に帰って生きて欲しいと懇願しました。
『ありがとう。けれど忘れないでください。例え天と地に分かれたとしても、私達は夫婦のままです』
そうして天女は天へと戻りました。
残された若者は神社に鉄の鏡を奉納し、以前の生活に戻りました。
ただ、奉納された後も時折鉄の鏡は光るそうです。きっとそれは、天女が地上へ遊びに来ていたのでしょう。
これが京は三条、荒城稲荷神社に伝わる『狐の鏡』と呼ばれるお話です。
◆
「と、これが“狐の鏡”。京都三条に伝わる羽衣伝説ですね」
語り終えた兼臣は咽喉を潤す為に茶を一口啜った。
神社から帰ってきた甚夜は『鬼そば』の店内で兼臣の話に耳を傾けていた。
一度帰ってから荒城稲荷神社に伝わる羽衣伝説を調べに出かけようと思ったのだが、兼臣が「それなら私が知っています」と語って聞かせてくれたのだ。
「すまない。しかし、よく知っていたな」
「いえ、貸本屋でこの本を借りていたものですから」
そう言って手に取った本には『大和流魂記』と書かれている。
懐かしさに、少しだけ鼓動が高鳴った。
「大和流魂記……」
「『天邪鬼と瓜子姫』、『姫と青鬼』、『狐の鏡』、『産女の幽霊』『寺町の隠行鬼』『幽霊小路』。他にも有名無名にかかわらず様々な怪異譚を集めた説話集です。他の説話集では取り上げていないような話も載っていますし、編纂者の後書きも興味深いもので……どうかしましたか?」
「……何でもない」
本当に何でもない。ただ、実在の書物だったのか、という驚きがあった。
なにせ甚夜が大和流魂記の名を聞いたのは、野茉莉の母である夕凪と過ごした虚構の一日の中である。だからその書物も夢の一部で、実際には存在しないものだと思っていた。
しかし現実として大和流魂記は目の前にある。その事実に困惑し、同時にあの一日の全てが虚構ではなかったのだと言われたような気がして、ほんの少し嬉しかった。
「それならいいのですが。すみません、話が逸れましたね。葛野様が知りたかった天女譚はこの“狐の鏡”で間違いないかと。……ところで、そちらは?」
ちらりと横目で見た先には、店内に入ってから一度も声を上げていない少女がいる。
薄水色に朝顔をあしらった浴衣。黒髪に結ばれた赤い飾り布。まだ顔立ちには幼さが残る、小柄な少女だ。
「……ど、どうもー」
急に視線を向けられた少女は戸惑いながらも少し硬い愛想笑いを浮かべた。
甚夜に連れられて鬼そばを訪れたはいいが、兼臣には何の説明もされず、少女も今の今まで何も喋らず座っていただけ。甚夜が紹介しなかったのだから当然彼女が誰なのか兼臣には分からなかった。
「初めまして。兼臣とお呼びください。お名前を頂戴しても宜しいですか?」
「私は、えーと。あれ、こういう時って普通に答えていいのかなぁ……」
曖昧な表情でぶつぶつと呟いている少女は、何やら考え込んでいるらしくそれ以上何も言わなかった。
その様を傍観していた甚夜に兼臣が視線を送る。「どういうことですか?」彼女の目が問うていた。
「彼女は天女だ」
「はい?」
少女達の声が重なる。
兼臣は何を言っているのだという訝しげな表情。天女と呼ばれた少女は顔を真っ赤にして、二人とも甚夜の方をまじまじと見ている。
しかし訝しげな視線を向けられても他に言いようがない。
「だから、彼女は天女だ」
甚夜はでもう一度、きっぱりとそう言った。
◆
時間は戻り半刻程前。
鬼に次いで現れた少女は目を白黒させて甚夜を見ている。
「え、と。あの、え? なんで?」
困惑から視線が中空でさ迷う。あからさまな挙動不審だ。しかもこの女は先程の鬼……マガツメの配下と同じ方向から来た。警戒はしておいた方がいい。
そう思ったのも一瞬だけ、この少女は明らかに人で、武技を収めたようにも見えない。
それでも不測の事態に備え、左手は夜来に掛かったまま、いつでも抜刀できる状態を維持し問いかける。
「なんで、と言われてもな」
「え、でも。え、えぇ?」
要領を得ない反応だ。少女が何を言っているのか甚夜には分からない。しかし向こうも同じようで、しきりに首を傾げている。
このままでは話が進まない。まずは自己紹介でもして、少しでも情報を聞き出すとしよう。
「さて……と。取り敢えずは名乗っておこう。私は葛野甚夜だ」
「えっ、どうしていまさら自己紹介?」
「今更?」
「え?」
どうにも話がかみ合わない。
甚夜は眉を顰め、少女は小首を傾げ、どうにも要領を得ない。訳が分からないまま顔を突き合わせて困惑している様は傍から見ればひどく滑稽だろう。
仕切り直しに一つ咳払いし、甚夜はとにかく会話を続ける。
「よく分からんが、まあいい。済まないが、少し話を聞かせて貰いたい」
「う、うん……あ。でもその前に私も聞かせてほしいことがあるんだけど、いい?」
少女は無防備を晒していた。先程の歩き方を見た時点で、戦う術を持たないただの娘だということも分かっている。
若干警戒を解き頷いて見せると、少女はおずおずと遠慮がちに問い掛けた。
「なんで、そんな格好してるの?」
言われて甚夜は自分の衣服に目をやった。
黒の羽織に灰の袴。糊はきいているし、着崩れた様子もない。
帯刀はしているが、明治に時代が移った今でも時折そういう武士崩れは見かける。別段おかしな所はない、普通の格好である。
「なにか、おかしいか?」
「え、えと。似合ってるとは、思うんだけど……」
何とも微妙な表情で乾いた笑みを零す。
かと思えば、少女は急に大きく目を見開いた。
「あっ!? もしかして……ねぇ。えーっと、ここって何処、ですか?」
「荒城稲荷神社だ」
「それって、何処……土地の名前というか、なんていう場所? ですか?」
「京都、三条通だな。後、話しにくいのなら敬語はいらん」
窮屈そうな敬語を使いだした少女にそう言えば、「あはは、ありがと」とはにかんだ笑顔を見せる。そして「京都……」と反芻しながら何度も頷いていた。
その姿に敵意は感じられない。少しだけ肩の力を抜き少女の言葉に耳を傾ける。
「あともう一つ。今って、何年?」
「……? 明治に入って五年だな」
それで合点が言ったのか、少女はあからさまな溜息を吐いた。
「あの、ありがと。なんとなくだけど分かったよ……百歳とか冗談だと思ってたけど、ほんとだったんだ。ふふ……もうこれくらいのこと簡単に受け入れられちゃう自分が悲しいよ……」
力なく首を縦に振り肯定の意を示す。
少女は何故か異様に疲れた顔をしていた。
「ではこちらからも。何故、こんな所にいた?」
「え?」
ここは荒城稲荷神社の本殿、その裏手にある茂み。普通ならば踏み入るような場所ではない。
こんな所にいる人間など本殿へ盗みに入ろうとしている泥棒くらいしか思い当たらなかった。
「えーと、ね。なんで…いるんだろうね……?」
甚夜の問いに少女はがっくりと肩を落し項垂れる。
「それが、いきなりバァーって光ったと思ったらいつの間にかここにいて、私もなんでこんなところにいるのか分かんないんだ……」
「……一応聞いておくが、家は?」
「……何処にあるのかなぁ。少し見て回ってみたけど、うちの近所じゃないみたい。帰り方も分かんないや」
乾いた笑いを浮かべる少女をじっと見つめる。
潤んだ瞳、沈んだ表情。彼女が何者かは分からないが、少なくとも騙そうとしているようには思えない。
今の発言を鵜呑みにするならば、彼女は全く違う場所から光に包まれて此処へ降り立った、ということになる。
だとすれば、少女は此処ではない何処か──通常の手段では帰ることのできない場所から訪れた?
其処まで考えて、昨日光ったという鉄の鏡の話を思い出す。
もしかして。
甚夜は、湧き上がる突飛な考えに疑いを抱かなかった。
「……本当に、天女なのか?」
◆
「それで連れてきたという訳ですか」
「ああ」
結局、明確な答えを得ることは出来なかった。
ただ帰る場所がないという少女を放っておくのも気が引けて、甚夜は自宅まで連れ帰ったのだ。
説明を聞き終えて兼臣は小さく溜息を吐いた。
「どう言えばよいのでしょうか……私といい彼女といい、葛野様は女性を連れ込むのがお好きなのですね」
失礼な話だ。
一応言っておくが兼臣は無理矢理ここに転がり込んだだけで、決して連れ込んでなどいない。
「それよりも葛野様は本当に彼女が天女だと?」
「さて、な。だが異郷から訪れたというのは事実だろう」
『鬼そば』への道すがら、少女は物珍しそうに町並みを見ていた。
服装に関しても違和を感じているようだった。異国から来たのか、或いは全く別の異界から来たのか。
詳細は分からないが、日の本の文化とはかけ離れた場所にいたのではないか、というのが甚夜の推測である。
「で、だ。天女殿」
話を振ると、顔を真っ赤にしたまま少女は言った。
「あの、葛野くーん? お願いだからその天女っていうのやめて欲しいんだけど……」
あうあうとよく分からないうめきを上げながら、必死に天女という呼び方を否定する。
しかし、他の呼び名がない。
少女は未だ名を名乗ろうとしない。ならば仮の名でもいいから呼称がないと話を進めにくいのだが。
「名は名乗りたくないのだろう?」
「うん、それは……なんか変なことになりそうだし」
何故とは問わない。
彼女にも理由があるのだろうし、他人の秘密を詮索するような趣味はなかった。
「そうだな……ならば、朝顔というのはどうだ」
「朝顔?」
「ここにいる間の、お前の名だ」
少女の浴衣の朝顔が鮮やかだった、それだけの理由で付けた名だ。
我ながら安直だと思うが、あくまでも一時的な呼称。別にかまわないだろう。
「安直な名前ですね」
甚夜自身思っていたことを兼臣に指摘される。
事実だがそうも直接的に言われると流石に引っ掛かり、憮然とした態度になってしまった。
「そうだな。だが、“兼臣”に言われたくはない」
「私は偽名という訳ではありませんが」
「ぬかせ……で、それで構わないか?」
話を戻せば、少女は「朝顔……そっか、だから」となにやら合点がいったような様子で呟いている。
数瞬遅れて声をかけられたことに気付き、慌てて何度も頷く。
「あ、う、うん!」
戸惑いながらも少女──朝顔は、子供らしい無邪気な笑顔を見せてくれた。
「行くところがないならば、しばらくここにいればいい」
「……いいの?」
「別に構わん。他に当てはないのだろう」
自分でも予想外の、如何にもお人好しな科白だった。
それでいいな、と兼臣に視線で確認を取る。
「私は居候の身、否応もありません」
元より彼女も似たような身の上。否定する気は最初からなかったらしく、殆ど間を置かずにそう答えた。
そして話は終わったとばかりに席を立ち、出口の方へ向かう。
「何処に行く」
「話は終わりのようですから、出かけさせて頂きます。約束があるもので」
「約束……?」
「ええ、殿方との逢瀬が」
随分と艶っぽい理由だ。
彼女の言葉が意外過ぎて、うまく言葉を返せない。黙りこくる甚夜が面白かったのか、兼臣は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「相手は葛野様に勝るとも劣らない男前ですよ」
そんな言葉を残し、涼やかな立ち振る舞いで店を後にする。
何が言いたかったのかは全く理解が出来ず、その後ろ姿を見送るしかなかった。
「あいつは、読めん」
男と逢瀬は単なる冗談、地縛を探しに行ったのかもしれない。
言葉の通り、のような気もする。
どちらかは判別がつかない。本当に読み難い女だ、心底そう思った。
「と、済まない、話が逸れた。それでどうする。無理には引き止めないが」
「あ、ええと」
朝顔は俯き、しばらくの間逡巡する。
少女は今一つ決めかねているようだった。今日出会ったばかりの男が泊まっていけと誘う。考えてみれば怪しいことこの上ない。彼女が迷うのも分かる。
しかし甚夜に他意はなかった。
ただ帰る場所を失くした彼女が、遠い昔、行くあてもなく江戸を去り葛野に流れ着いた頃の自分を思い起こさせて、思わず呼び止めてしまっただけだ。泊まれというのは少女を心配した訳ではなく、単なる感傷に過ぎなかった。
「本当に、いいの? 私お金なんて持ってないし」
「これでもそれなりに稼ぎはある」
「自分で言うのもなんだけど、私、怪しいよ?」
「侮るな。寝首をかけるつもりならやってみろ」
いつもの無表情を少し歪めて不敵に笑う。
その様子を見て、少女はどこか懐かしそうな眼をした。
「あはは、やっぱり、葛野君は優しいね」
やっぱり、といった意味は分からない。
けれど問う気になれなかったのは、少女の表情が底抜けに明るかったから。
「それじゃ、甘えさせてもらおうかな」
朝顔は先程までの戸惑うような硬い笑みではなく、ふうわりとした柔らかな笑顔を見せてくれた。
◆
「また……?」
夕方。
野茉莉が小学校から帰宅し、朝顔がこの家に居候する旨を伝えると、あからさまに表情が曇った。
「あの、初めまして野茉莉ちゃん。えーと、朝顔、です」
その名に慣れていないのだろう、自己紹介もぎこちない。
朝顔がぺこりとお辞儀をしても、野茉莉は不満げに頬を膨らませている。
「野茉莉」
「野茉莉……です」
甚夜に促され、ようやくほんの少しだけ頭を下げる。それでも目には寂しそうな色が残っていた。
野茉莉はまだまだ幼い。甘えたい盛り、父が他の者に構うのを嫌がっているのだろう。
「済まない、勝手に決めてしまって」
「……うん、でも父様がそう決めたなら」
この子は、そういうことが言えてしまう。
結局は物分かりのいい野茉莉に甘えていたのだ。
考えてみれば最近は鬼の討伐にかまけてあまり遊んでやれていない。もう少し気遣ってやるべきだった。
「……そうか。では代わりと言ってはなんだが、今度一緒に出掛けるか」
「……本当?」
「ああ。一週間後、荒城で縁日……お祭りがあるらしい。偶には屋台を冷かすのも良いだろう」
「お祭り?」
途端沈んだ顔が明るくなった。
目を大きくして、先程とは打って変わった明るさで甚夜を見上げる。
一緒にお祭り。野茉莉はもう一度咀嚼するように呟き、溢れ出る感情を堪えきれずにっこりと笑顔。どうやら機嫌を直してくれたらしい。
その様子に安堵し、愛娘の頭を撫でながら穏やかに語り掛ける。
「そうだな、折角だ。明日はその時に着る浴衣でも見に行くか」
「うんっ。父様、約束だよ?」
憂いは欠片も残っておらず、無邪気に野茉莉は抱き付いてくる。
まったく現金なものだ。
呆れながらもそんな娘が可愛らしく思えて、甚夜は小さく笑みを落とす。
「……葛野君って、本当にお父さんだったんだね」
親娘の何気なくも暖かい戯れも、傍からすれば反応に困るものらしい。
蚊帳の外だった朝顔はなんとも微妙な顔でそれを眺めている。
『私には娘がいる。帰ってきたら紹介しよう』
『むす、め?』
『ああ』
『冗談、だよね?』
『本当のことだが』
『でも、え? からかってるの?』
『そんなつもりはない』
野茉莉が帰ってくる前に、一応娘がいることは伝えておいた。
しかし朝顔は、甚夜の外見を顧みれば当然かもしれないが、頑なに娘の存在を信じようとしなかった。
それが蓋を開けてみればこの親馬鹿ぶり。呆れるのも仕方ない部分はある。
「だから本当だと言っただろう」
「そうだけど、普通に考えて嘘か冗談だって思うよ」
少女は納得いかないと唇を尖らせていた。
それもそうだ。あまりにも平然と甚夜が同意すれば、今度はむふーと勝ち誇ったように胸を張った。
天女とはいっても彼女の表情は子供らしくころころ変わる。
「でも葛野くん。なんというか……意外と親馬鹿だよね?」
「よく言われる」
「あはは、よく言われてるんだ」
大真面目な返しに朝顔はにっこりと曇りのない笑顔、堪えきれず声を出して笑う。
見知らぬ男の家に泊まるのだ、なんだかんだと緊張していたのかもしれない。
けれど今はもう硬さは残っていない。
朝顔は楽しそうに、憂いなど少しも感じさせず朗らかに笑い続けた。
こうして、天女は地に囚われた。
縛られたのは体か。
それとも、飛ぶことを忘れた心だったのか。